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(1)のつづき
◆2014.4.3
今中哲二・飯舘村初期被曝評価プロジェクト
岩波「科学」2014年3月号(岩波書店許諾)
(2)
初期被曝量の推定結果
行動パターン情報が得られた 1812人に対して,2011年3月15日の放射能沈着 から 7月31日までの外部被曝量を求めた。 被曝量推定に用いた主な仮定は
次の通り:
① 計算対象の外部被曝は,飯舘村内に滞在していた時のみとし,村外にいた ときの被曝はゼロとする。
② 飯舘村内では自宅に滞在していたとし,生活スタイルは 屋内16時間・屋外8時間 とし,家屋の放射線低減係数は 0.4 とする13。
③ 空気吸収線量から実効線量への換算係数(Sv/Gy)は, 10歳未満は 0.8 とし 10歳以上は 0.7とする14。
こうして得られた 1812人の初期外部被曝量推定値の分布を 図8 に示す。
平均被曝量は 7.0mSvで,最大値は 長泥地区の60歳男性の 23.5mSvであった。
福島県による県民健康管理調査15として報告されている図を元に,飯舘村3102人
の初期外部被曝量の平均を求めると 約3.6mSv になるので,我々の見積もりは
その2倍に相当している。
表3は 年齢グループ別の平均被曝量で,10歳未満の被曝が小さく,子供たちの
避難が大人に比べて早かったことを反映している。
20の行政区別の平均被曝量を表4 に示す。予想通り,汚染の大きい長泥, 比曽,蕨平地区での被曝が大きく,比較的汚染の小さい 二枚橋・須萱,大倉地区
の被曝が小さくなっている。
聞き取り調査を進める中で気がついたことは,地震や原発事故発生直後に避難
した方が、一旦 飯舘村に戻られ 再び避難されていたことだった。そこで 図9の
ように,村民が 村内に残留していた割合をプロットしてみた。
避難していた村民が 3月21日以降に 一旦 村に戻りはじめ,計画的避難区域に
指定された 4月22日以降に再び避難した という 興味深い傾向が はっきりと認め
られる。
避難した人々が一旦村に戻った理由としては,
― 避難先での生活が 様々な意味で困難になった ― 当局主催の講演会で,放射能汚染は問題ない と聞いて安心した ― 村内の職場から 帰村を要請された ことなどが聞き取りによって明らかになっている。 集団被曝量とガン死リスク評価
環境省公募研究の枠外の作業として,集団被曝量にもとづく ガン死リスク評価を 試みた。 図10 は,被曝量を推定した 1812人に対する集団被曝量が増加する
経過をプロットしたものである。集団被曝量とは,一人ひとりの被曝量を足し合わせ
たもので,単位は 人・Sv である。
つまり,1mSv の被曝を受けた人が 1000人いれば, 1000人・mSv = 1人・Sv の
集団被曝量となる。
平均 7mSv といった レベルの被曝影響として まず懸念されることは,将来に
おける ガンやガン死の増加である。被曝量と ガン・ガン死増加の関係(線量・効果
関係)については さまざまな見解があるものの, “被曝量に比例して ガン死が
増える” という LNTモデルで 飯舘村の人々の初期外部被曝にともなうリスクを
考えてみる16。 LNT モデルに従うなら,被曝集団に予測されるガン死数の増加は
集団被曝量に比例する。
図10 に示したように,7月31日までの調査対象者1812人の集団線量は 12.6
人・Sv となった。この値を 飯舘村全体(6132人)に換算すると 42.7人・Svとなる。
※ (6132÷1812)×12.6=42.6397・・・
被曝にともなう ガン死リスク係数を,ICRP(国際放射線防護委員会)勧告17に従って
1 Sv当り 0.055 とすると 2.3 件, 今中らが 翻訳した Gofman18 に従って 1Sv
当り 0.4 とすると 17件のガン死が 飯舘村の人々にもたらされる という見積もり
になる。
※ 42.7×0.055=2.349 42.7×0.4=17.08
“日本人の 2人に 一人はガンになって,3人に 一人はガンで死亡する” という
ことを考えるなら,人口 約6000人の飯舘村民のうち 約2000人の方は原発事故が
なくてもガン死することになる。 本稿でのリスク評価にもとづくと,飯舘村の初期
外部被曝は その上に 2〜17 件のガン死を上乗せさせるということになる。
昨年12月に 2013年度環境省研究事業の成果報告会が東京で開かれ,今中が
本節のような内容を発表したところ,専門委員から「低レベル被曝量域での科学的
に不確かなリスク係数を用いて ガン死数の見積もりを行うのはいかがなものか」
とか「ガン死リスクを数値で表す場合には,今中先生も表現に気をつけて下さい」
といったコメントをいただいた。
ここで,ICRPの低レベル被曝影響に関するスタンスを説明しておこう。
最近の ICRPは 2007年勧告で以下のように述べている。「 約100 mSvを下回る
低線量域では,がん又は遺伝性の影響の発生率が等価線量の増加に比例して
増加するであろうと仮定するのが科学的にもっともらしい,という見解を支持する。
しかし……低線量における健康影響が不確実であることから,非常に長期間に
わたり 多数の人が受けた ごく小さい線量に関係するかも知れない がん又は
遺伝性疾患について仮想的な症例数を計算することは適切でない 」。
つまり,ICRPとしては LNTモデルを認めはするものの,“低線量被曝でのリスクの 値は不確かなので,1mSvの被曝リスクを数字にして議論するようなことは慎め”
ということである。
しかし その昔,一般公衆に対し 年間 5mSv という線量限度を勧告していた頃の
1977年 ICRP勧告は 次のように述べている。「 一般公衆の構成員に関する確率
的現象についてのリスクの容認できる レベルは……公共輸送機関の利用に伴う
リスクである。……この根拠から,年当り 10^-6〜10^-5 の範囲のリスクは,公衆
の個々の構成員のだれにとっても 多分容認できるだろう 」。
当時の ICRPの認識は,被曝基準を守っていれば 公衆にもたらされるリスクは 電車やバスの利用にともなう程度で問題ないというものであった。
この 30年間に蓄積された知見で明らかになったことは,被曝に伴う 発ガンリスク
が 以前に考えられていたものより ずっと大きいということだった。
1mSvの被曝リスクを数字にすると,社会的には 無視できない大きさとなるため,
不確かさを持ち出して 具体的な数字の議論を避けるというのが 現在のICRPの
スタンスであると 今中は解釈している。
結びに
福島原発事故により 大きな被曝を受けた飯舘村民を対象に 事故当時の行動 についての聞き取り調査を行った結果,約3割の村民についての行動パターン情報
が得られた。 その情報を元に,独自の被曝量推定方法によって 飯舘村から避難
するまでの初期外部被曝量を評価したところ,村民平均で 7mSv という値が得ら
れた。被曝評価のプロセスには さまざまな仮定を採用しており,それにともなって
得られた結果には さまざまな不確かさが入り込んでいる。不確かさについては
今後より細かく分析し,不確かさを小さくする努力を続けていきたい。
我々の値と県民健康管理調査では約2倍の違いが認められたが,被曝量推定
のやり方が違っていることを考えるなら,“案外と合っていた” というのが 被曝量
推定作業を行った 今中の素直な印象である。
どちらが より正しい値に近いかについては 今後の議論の課題である。いずれに
せよ,行政から離れた立場で 独自の被曝評価ができたことの意味は大きいと
考えている。
他の汚染地域での初期外部被曝評価の可能性についても これから検討して
いきたい。また,本稿では 議論できなかった放射性ヨウ素の取り込みにともなう
甲状腺被曝といった内部被曝についても,外部被曝とは違ったアプローチでの
評価を試みたいと考えている。
最後に,この場を借りて,聞き取り調査に協力いただいた飯舘村の皆様,および
様々な場面で 本プロジェクトに対して激励をいただいた皆様に感謝の意を表したい。
*飯舘村初期被曝評価プロジェクトメンバー 今中 哲二(代表,京都大学原子炉実験所) 明石 昇二郎(ルポルタージュ研究所) 家田 修(北海道大学) 石田 喜美恵(ふぇみん) 市川 克樹(オフィス・ブレーン) 糸長 浩司(日本大学) 浦上 健司(日本大学) 遠藤 暁(広島大学) 大瀧 慈(広島大学) 小澤 祥司(エコロジー・アーキスケープ) 上澤 千尋(原子力資料情報室) 川野 徳幸(広島大学) 鬼頭 秀一(東京大学) 佐川 よう子(プロジェクト事務局) 佐久間 淳子(立教大学) 澤井 正子(原子力資料情報室) 沢野 伸浩(金沢星稜大学) 城下 英行(関西大学) 菅井 益郎(國學院大學) 那須 圭子(福島から祝島へ 子ども保養プロジェクト) 庭田 悟(ルポルタージュ研究所) 畠山 理仁(フリーランスライター) 林 剛平(東北大学) 振津 かつみ(兵庫医科大学) 渡辺 美紀子(原子力資料情報室) |
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2014年05月09日
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(1)のつづき
自然の中で 採集、狩猟、漁労などをして 食糧を得てきた(狩猟採集社会)。
鮮新世以来 氷床が拡大して、地球は寒冷化していき、2万〜1万8000年前に
気温は 寒冷のピークに達したとされている。
この間、人類の祖先たちは 原因は はっきりしないが、絶滅した種を出しながら、
温暖と寒冷の両気候を乗り切って、狩猟採取をもって 1万年前まで存続してきた。
しかし、
祖先たちは、ヴュルム氷期が終った 1万年前頃から 新たな生活形態を始めた⋆。
当時、急激な温暖化が起こり、それによって溶解した氷河からの冷水が海水温
を下げたことによる 一時的な寒冷化への揺り戻しが発生するなどの気候変動が、
このキッカケとなったとされる。つまり、自然環境の変化で、従来通りの狩猟採集
で食料の確保をすることが 困難になったのだとされる。
⋆ 1万年前から今日まで、1代20年とすると、たった500世代を重ねたに過ぎない!
この新たに始まった生活形態は、
農耕と牧畜、そして 定住によって、我々人類の上に引き起こされた大規模な
変革であった。 いわゆる 文明が始まったのである。
農耕は 大量の水が要り、その管理も必要となってくるため、河川周辺などに
農地ができた。 また、土器の発明によって、計画的に食物を生産、そして 貯蔵
が可能となり、ために 食料が安定的に供給され、多くの人口を養えるようになる
と、それまで 家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大、多くの人々
が定住して 社会生活を営むようになった。その結果、政治と経済、ついに 国家
というものが生れるに至ったのである。
また、農耕は、作物の管理や分配のための計算、気候の変化と農作業の日程
を知るための暦法(天文学)、農地管理のための測量などが必要となり、これらが
いわゆる「数学」の発展を促した。
農耕の始まった場所については、ハッキリとはしていないが、
稲作は、前記事のように 今から約1万年程前の長江流域で稲作とされる。
また 麦は、11050 BP(BC9050年頃) レバント (シリア周辺)の テル・アブ・フレイラ遺跡⋆
で 最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。
根菜文化圏のイモ類は、9000年前 パプアニューギニアで 農業用灌漑施設の跡が
オーストラリアの学術調査により発見されている。
農耕以前は、採集によって 野生の穀物や豆類を集めており、 ムギ類は
⋆ アブ・フレイラ1(11,500〜10,000年前頃): 集落は 少数の円形の住居から
構成され、木や小枝等で作られていたか? 人口は 最大 100〜200人。
食料は 野生動物の狩猟、魚釣り、野生植物の採集で得ていた。住居の
地下には食物が蓄えられていた。
野生の子実類があった。
一方、ライムギの耕作・栽培の証拠が 遺跡から検出された。寒冷期
(ヤンガードリアス)の始まりで、気候が乾燥化して、野生動物や野生のムギ類が
減少し、採集に依存していた人々は食糧確保のため農耕を始めたとされる。
1万年前頃、この集落は放棄される。
アブ・フレイラ2(9400〜7000年前): アブ・フレイラ1の約10倍の大きさ(15ha)で、
当時の中東でも最大級の集落。 泥レンガで長方形の住居が作られ、古い
住居が崩れた泥の上に 新住居を再建し、集落の下には大きな丘ができた。
栽培植物の種類は 飛躍的に増え、出土した当時の人々の遺骨に残って
いた変形から、農業の重労働(粉ひきなど)で 体を酷使したと推測される。
また 家畜の飼育も始まり、7300年前には 土器の使用が始まり、機織りも
その少し前に始まった。
7000年程前(BC5900〜5800年頃)、この集落は放棄された。
の類似した 2年草のイネ科イチゴツナギ亜科穀物の総称。
英語では、多くの種類を総称した日本語の「麦」に相当する表現は
なく、種類によって barley(大麦)、wheat(小麦)などと使い分ける。
小麦: 原産地は、中央アジアのコーカサス地方〜西アジアのイラン周辺?
本来 越年生で、秋に種を播いて、春に発芽し 夏に収穫する。
(発芽に ある程度の低温期間が継続する必要があり、温帯から
亜寒帯にかけ 栽培される。比較的乾燥に強く、生産限界は
1万5000年前 1粒系小麦の栽培が始まる。その後 クサビコムギ と
交雑して 2粒小麦になり、さらに BC5500年頃 野生種の タルホコムギ
と交雑し、普通コムギが生まれたという。
普通コムギの栽培は メソポタミア地方で始まり、BC3000年頃には
ヨーロッパやアフリカに伝えられた。
テル・アブ・フレイラなどの古代の野生種ムギは 元々 成熟すると麦穂が
風などで 容易に飛び散る性質を持っていて、当初のコムギも収穫には
非常に手間のかかった。このため、その貴重さと保蔵のし易さから
一種の通貨として取り扱われていたと推測されている。
シリア地方から ヨーロッパなどに広く栽培の範囲が広がるにつれ 品種淘汰
され、この種子の飛び散りやすさの特性が失われ主食穀物となった。
栽培植物化の時期は オオムギの方がやや早く、当初は オオムギ
の方が重要な作物であった。(オオムギの収量の多さや収穫時期の
早さ、粒の大きさなどによる)
また、この時期は コムギも オオムギも 粥として煮て食べるものだった
ため、調理方法の差が重要となることはなかった。しかし、製粉技術が
ことが容易な コムギが オオムギに代って最重要の作物となっていった。
@ 2006年の世界三大穀物 生産量
トウモロコシ(6億9523万t)、米(6億3461万t)、小麦(6億0595万t)
2006年の 10a当たりの反収
英・仏・独:700㎏以上、米:290㎏、豪:190㎏、エジプト:550〜600㎏
米・豪〜反収の低さを 農園の広大さで補う粗放型農業
@ 水稲10a当たり収量 2008年
日本平均 523.6kg (629〜290kg)
大麦: 原産地は 中央アジア(冬季に比較的降水量が多い地域)。
秋に発芽して冬を越し、春に大きく生長し、初夏に結実して枯れる。
現在栽培されている品種は、イラク周辺に生えている二条大麦に
似た野生種 ホルデウム・スポンタネウム が改良されたものとされる。
1万年前 すでに、シリアからユーフラテス川にかけての肥沃な三日月地帯で
栽培が開始されていた (小麦より塩害に強く、南部のバビロニアで 多く
栽培された)。
古代エジプトでは 主食のパンを焼くのに使われており、 ヨーロッパでは
粗く挽いた大麦を煮た粥状のものが食べられていた。
古代ローマでは粗挽きの大麦の粥は プルスと呼ばれ、主食として
重要なものであった。 その後 パンが普及し、15〜16世紀にかけて
寒冷地でも生産性が高く、茹でただけでも比較的美味なジャガイモが
アメリカ大陸からもたらされたため、現在では 主として飼料及び醸造用
の穀物とされるようになった。
して粉砕した粉で、茶で練るなどして食べられている。
日本はチベット文化圏と並んで 大麦を主食穀物として 多く利用した。
として適していたため、栽培は さらに拡大する。
( 製粉する必要のあるコムギに比べ、オオムギは粒のままで食べる
ために手間がかからず、コムギより 熟すのが早いため米の裏作として
適していた上、不足しがちな米の増量用としても適していたため、
この頃は コムギより重視され、栽培面積も広かった。
@ 明治時代の作付面積: 小麦 45〜47万町歩、大麦 130万町歩
ライ麦: 原産地は 小アジア か? 小麦や大麦の原産地より やや北の地域。
ライ麦は発芽温度が 1〜2℃と低く、低温に強いため冬作物として
栽培される。秋に蒔かれたライ麦は 冬を越し、春になると急速に
成長する。他のほとんどの穀物より貧しい土壌で生育することが
できるため、特に砂地や泥炭地などでは 特に貴重な作物である。
また、他の穀物よりも耐寒性が強いため、小麦が生育できない
寒冷地においても成長できる。一方で、粘土質の土地では生育し
にくい。丈が高いため、成長しすぎると倒伏し易くなる。
もともと小麦畑の雑草であったものが、小麦に似た姿の個体が除草
を免れ、そこから繁殖した個体の中から、さらに小麦に似た個体が除草
を逃れ・・・といったことが繰り返され、より小麦に似た姿へと進化(意図
しない人為選択)し、さらに 環境の劣悪な畑では 小麦が絶えて ライ麦
が残り、穀物として利用されるようになったとされる。
( 今日でも 小麦畑における強勢雑草で、小麦の生育条件の悪い畑では 小麦を
押しのけてライムギのほうが主となっている畑がみられる。 )
ローマ帝国では、貧困者が食べるものとしていたため、一時期栽培が激減した。
しかし、ローマ帝国の北部では 小麦の生育条件が悪く、しばしば 小麦畑をライ麦
が覆うようになり、2世紀頃には ライ麦を主目的として栽培されるようになった。
小麦より酸性土壌に強く、乾燥や寒冷な気候に耐えるため、スカンジナビア半島や
ドイツ、東ヨーロッパなどでは主要な穀物として栽培されていった。
中世には 大麦に代って 小麦に次ぐ第2の穀物としての地位を確立した。
16世紀末からは 海運の改善や都市人口の増大に伴い、バルト海沿岸のライ麦が
輸出用作物として盛んに栽培されるようになり、とくに ポーランド王国の大穀倉地帯
を後背地に持つ ダンツィヒのライ麦交易が急増した。
東アジア原産で、高さ 1〜2m。エノコログサが原種とされ、エノコログサとの
交雑もよくおこる。穂は黄色に熟し たれ下る。温暖で乾燥した風土
を好み、生育期間が3〜5ヶ月と短いために、高地や高緯度地域でも
栽培することができる。 C4植物
「米」という漢字は 本来 アワを示す文字だったとされる。 隋唐の税制・
租庸調において、「租」は 粟で納付するのが原則(本色)だった。
作った 現在、世界最古の麺が見つかった。
だが、連作や二毛作を行うと、地力を損ないやすいことや、西域から
小麦が伝わってきたこととも相まって、次第に 主食の地位から転落する。
※ 現在でも 中国では 粟粥などにして、粟を食べる機会は多い。また、「鉄絲麺」
という 最古の麺と同じような麺類を作る地方もある。
日本では 米より早く栽培が始まり、縄文時代の遺跡からも発掘される。
アワを備蓄するように定められている。
古くから、ヒエとともに、庶民にとっての重要な食料作物だった。
だが、敗戦後には生産量が激減した。
ヒエ(稗): 、イネ科ヒエ属。 アイヌ語でピヤパ。
日本列島を含む東アジアで栽培化されたとされる。
日本列島、朝鮮半島、中国東北部など東北アジアで栽培される品種群と
中国雲南省を中心に栽培される麗江ビエの2大品種群に分かれる。
日本では かつて重要な主食穀物であったが、昭和期に米の増産に成功した事
で消費と栽培が廃れた。
畑でも水田でも栽培が可能である。特に気候が冷涼で稲の栽培に適さない岩手県
の山間部で主食用として大々的に栽培されていた。下北半島では、明治の中頃
まで 水田には 稲を植えず、ヒエを栽培していた。
(つづく)
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