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繰り返す過去−住友原子力工業の放射化金属流出事件
2002年 藤野聡
JCO臨界事故については、科学技術庁(当時)が粗雑な安全審査に関与したり(伊東論文参照)、JCO に対して充分な巡視を行なわなかったりで、事故の原因
を作ったことが知られている。
JCOに対する保安規定遵守状況調査は 1992年11月26日を最後として それ以降
行なわれていなかったし、運転管理専門官による 3回の転換試験棟巡視も、
転換試験棟の非操業中に行なわれたものであり (『ウラン加工工場臨界事故調査
委員会報告』III-14)、科学技術庁は 自ら素地を作った JCOのいわゆる「違法操業」
の実態を見逃していた。
また、いわゆる 「裏マニュアル」として知られるようになったJCO の作業手順書 「常陽、溶液製造(混合・ボトル詰)出荷手順」を見ると、製品の「発送前検査」に
ついて「 検査は ATS,PNC,STA,日立物流が実施する 」 (『ウラン加工工場臨界
事故調査委員会報告』参考資料72) と記されている。 STAは 科学技術庁である。
科学技術庁(及び動燃= PNC)は JCO の「常陽」用ウラン製品の発送前検査を
実施していたのであるから、JCOの操業実態について知りうる立場にあり、その点
からも 事業者の責任を他人事のように批判する資格はない。
JCOは 周知のとおり住友金属鉱山の子会社であるが、調べてみたところ、
科学技術庁は 以前にも 住友グループとの間で見逃し事件を起こしていたことが
分かった。しかも その場所は 東海村石神外宿2600番地、つまり 現在 JCOのある
敷地においてであった。
「 1971年2月、住友原子力工業の臨界実験装置の解体処分が行なわれた際、 炉内構造物の一部が 『放射性でない』として売却されたりといったことが、当時の
科学技術庁の係官立ち会いのもとに行なわれていました 」( 原子力資料情報室
『西尾漠が語る放射性廃棄物のすべて』p.32 )
「 科学技術庁の係官立ち会いのもとに 」放射性の部品が そのまま民間に流出 していたというのである。関係者に被曝を与えた可能性もある。当時の新聞記事
(図1=次頁)のひとつを示す (著者の西尾氏の提供による)。
原子炉解体に" 盲点" −放射能帯びた部品放置−日立の倉庫
(東京新聞夕刊 1976/6/11)
【水戸】 茨城県東海村の住友原子力工業東海研究所(当時)が五年前に 解体処分した臨界実験装置(熱出力百ワットのミニ原子炉)のスクラップの
ステンレス棒が、自然界の約十倍の放射能を帯びたまま 払い下げ先の鉄工会社
倉庫に放置されているのが 十日 明らかとなった。
これは 同日の衆院科学技術振興対策特別委員会で瀬崎博義氏(共産)の 追及により 明らかとなったが、当時の払い下げには 科学技術庁の検査官も
立ち会っていたのに 放射能汚染を見逃していた杜撰さが改めて問題となって
いる。 また この問題は、現行の原子炉規制法(第三八条)では、今後増える
とみられる原子炉施設の解体が 単に 監督官庁への届け出だけで実施できる
という" 盲点" をも さらけ出しており、今後さらに論議を呼ぶものとみられる。
科学技術庁水戸原子力事務所によると、この ステンレス棒は、長さ 2メートル、
直径 5センチのもの 四本で、五月末ラジウム汚染騒ぎのあった日立市久慈町
の有限会社 立山精機製作所構内で 5月31日、除染作業中に見つかった。
日本原子力研究所東海研で調査をしたところ、この放射能はコバルト60 で、 表面線量率が最高一時間当たり 0.2 ミリレントゲンだった。 ステンレス棒の表面
から30センチ離れれば、自然放射能と変わらない程度で、人体への被ばくの
影響は全くないという。
1レントゲン= 8.77 mGy=8.77m㏜
0.2ミリレントゲン/h = 1.8μ㏜/h 0.4ミリレントゲン/h = 3.5μ㏜/h
住友原子力工業では「 規則通り解体作業をした。放射能を帯びたスクラップは、 日本放射性同位元素協会や原研で処分した。放射能のないものを 一般業者
に売却したが、微量でも放射能を含んだものを流したことは、放射能測定に
ミスがあったと考えられる 」という。 コバルト60 は 5.5年で半減する物質で
問題のステンレス棒の同60 は 解体当時、現在の約2倍の放射能があった
勘定となる。
この放射性スクラップ流出事件の舞台となった「住友原子力工業東海研究所」
こそ、JCO そのものではないが、現在 JCOが立地している敷地に 以前立地して
いた、同じ住友金属鉱山の子会社であった。経緯は 以下の通りである。
住友原子力工業は 住友原子力グループの中核企業として、住友金属、住友金属
鉱山などの出資で作られた。同社は 1959年11月に 東海村石神外宿に敷地決定
した。 この東海研究所に 臨界実験装置が設けられたのは、それから間もなくの
ことである。 住友原子力工業東海研究所廃止に伴い 臨界装置は解体された
(この時に流出事件が起きた)。
次いで 同じ敷地に 住友金属鉱山(株)東海核燃料工場が完成したのは 1973年
3月である。 住友金属鉱山(株)東海核燃料工場が 住友金属鉱山から分離されて
日本核燃料コンバージョンとなり、改名して ジェー・シー・オー(JCO)となったのである
(以上、東海村議・相沢一正氏の教示による)。
ちなみに 東海研究所は 廃止されたものの、住友原子力工業自体は 現在 東京 都墨田区両国に存在する。
住友金属鉱山と科技庁、しかも 「臨界」実験装置だった、とまでは 附会しないが、
場所は同じ、親会社は 住友金属鉱山、科技庁検査官の見逃し、法の不備……
臨界事故は 歴史の繰り返しであるかのようである。
石神外宿の敷地には いくつかの住友グループの企業が 立地してきたが、
住友原子力工業の放射性スクラップ流出(1971)、日本核燃料コンバージョンの
フッ素漏洩 (1981 年5月、日本核燃料コンバージョン東海核燃料工場の廃ガス洗浄
装置が故障して フッ素ガスが複数回にわたって放出され、周辺の植物が枯れる
などの被害が出た事故。茨城新聞2000年3月20日参照) などの事故の果てに
JCO 臨界事故(1999)が起きたのであった。
臨界実験装置の設置変更許可申請書を見ると、臨界実験装置があった場所は
現在のJCO第一加工棟の付近で、のちに臨界事故の舞台となった転換試験棟が
建てられる場所とも近い(図2)。
この事件が知られるようになったのは、実際に流出が起きてから 5年も後の
1976年 6月10日、衆議院・科学技術振興対策特別委員会での瀬崎博義議員
(日本共産党)の質問によってである。本稿の最後に議事録を添付する(参考1・2)。議事録の「佐々木」は 当時の佐々木義武・科学技術庁長官、「伊原」は 当時の
伊原義徳・科学技術庁原子力安全局長(後の原子力委員会委員長代理)と思われる。
この議事録などにもとづいて 再び 経緯を整理すると、
住友原子力工業東海研究所の臨界実験装置は 1959年 4月に設置許可を得た。
64年 6月に着工、66年 9月に臨界に達したあと 研究が行なわれた。その後 70年
12月に解体届が出された。 実際に 解体作業が開始されたのは 71年 1月から
であった。
解体に際して 科学技術庁の立ち入り検査が行なわれたのは 71年1月29日〜 30日(科学技術庁職員2人による)、および 3月22日(同1人)であった。
問題の金属部品というのは 臨界実験装置の炉心の支持枠(ステンレス)であり、
長さ2メートル、直径5センチと比較的大きなものであった。6本あり、中性子照射に
より放射化していたのである。うち 4本が 解体5年後になって 日立市の立山精機
で発見されたのであった。
残りは 2本ということになるが、うち 1本は 日本冶金という会社で すでに溶解 されていた。 溶解後の行先は 不明であるが 一般用の金属材料となったことは
想像に難くない。 また 1本は 立山精機が加工して すでに 第三者(「目下調査中」
とされるのみで明らかになっていない) に製品として納入されていたのである。
コバルト60 は ステンレス中に含まれるコバルト59 が中性子照射によって放射化し、
生成したものと考えられる。しかし 住友原子力工業の原子炉解体届には「 放射化
されていない 」と書かれていた。
衆議院・科学技術振興対策特別委員会(1976年 6月10日)の議事録には 以下
のようにある。
○瀬崎委員 そうしますと、届けそのものの「放射化されていない」という住友の
言い分について 科技庁は 結局 チェックをようしなかった、見逃した、こういう
ことなんですね。
○伊原説明員 結果的には そのとおりでございます。 住友原子力工業は特別委員会に先立つ議員の調査に対して、「 科学技術庁が
立ち会って、バックグラウンド以下、このように太鼓判を押してくれたから 私たち
は安心して処分しているのだ 」と答えた模様である。
科学技術庁は 1月の立会い検査においては アルファ線サーベイメーターによって 表面汚染を検査した。 コバルト60 は ガンマ線源であり、アルファ線サーベイメーターで
は検出できない。また 3月の立会い検査では GM サーベイメーターで検査したが、
これは 抜き取り検査であり、6本のうち 1本しか検査しなかった模様である。
いずれにおいても ステンレス支持枠の放射化が気づかれることはなく、支持枠は
他の大部分の部品と同様、管理を要さない一般廃棄物として流出したのであった。
「離れれば大丈夫」と報道されているが、毎時0.4 ミリレントゲン(流出当時)の
放射化物を立山精機などの関係者が 手で触るなどしなかった保証はない。
ちなみに 当時は 日本最初の商用原発として東海原発が 1966年に運転開始
してから まもない頃であった。 この東海原発が 1998年に廃炉となったように、
今では 大量の原発解体廃棄物の発生が現実のものとなっている。
原子力安全委員会など当局は 放射化物を含む解体廃棄物の大部分を一般廃棄
物と同様に扱うことをめざし、「クリアランス」と称して その法制化を進めようとしている。
住友原子力工業で 1971年に起きた この事件は、放射化物が検査をすり抜けて 実際に流出した実例であり、検査の有効性自体に疑問を投げかけている。
佐々木科技庁長官(当時)は 質問に対して 次のように 「 これだけで問題が
済むわけではない 」と答弁している。
「 私も 実は大変心配しておりますのは、将来、原子力発電所等が耐用命数が
済んで廃棄処分に処す場合、これは 大変危険なものがいっぱい入っている
わけで、こういうものに対して 一体どうするんだという問題は、まだはっきりした
ことはないわけでございますから、いま お指摘のような問題が、まだ軽微な段階
でございますけれども、これだけで問題が済むわけではないのでありまして、
将来のことを考えますと、そういう廃棄処分に処す場合の心がけと申しますか、
あるいは 法規の整備等は しっかりやらなければいかぬと 実は心配しておる
ところでございます 」(衆議院・科学技術振興対策特別委員会 1976年 6月10 日)。
この支持枠が発見された経緯自体、まず立山精機で「ラジウム汚染騒ぎ」が
あり、その余波で支持枠が見つかっている(上記記事)。
この「ラジウム汚染」も、放射線源 ないし汚染スクラップが同社に流入していた 可能性が高い。 そして 佐々木長官の「心配」は 今後、ますます現実味を帯びる
といえよう。
JCO 臨界事故との関連でも、後に臨界事故の現場となる場所で 科学技術庁
職員が見逃し事件を起こしていたことは、原子力事業者と管轄官庁との関係を
考える上で軽視できない事件である。
JCO と科学技術庁、原子力安全委員会との間になれ合いの関係が築かれて
いたことの いわば前奏曲、ないし 同じ構造が露呈したものと考えられるからで
ある。
以上
我々の問題は、
このような,行政官が言うところの「国」に ガマンして
このまま存続させ、自らの運命を預けるか、
それとも、
彼らを その居る場所から排除して、
「国のかたち」を 根本から変える道を模索するか
という選択をするところにある。
合掌
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