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ルイ9世(Louis IX, 1214 〜 1270)
死後、カトリック教会より列聖され、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれる。
内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は
繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者
と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。
宗教的情熱から 2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、
自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わる。
21? ボナヴェントゥラ 生れる(〜74)
22 日蓮 生れる(〜82)
25? 南イタリアの貴族の家に トマス・アクィナス 生れる(〜74)
十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まった
ことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は
途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、
度重なる禁止令にもかかわず、これをとどめることはできなくなっていた。
また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、
イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が
堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。
1226 父ルイ8世没 → ルイ9世、12歳で即位。母ブランシュ摂政。
九条頼経、鎌倉幕府将軍に就任
29 ローマ教皇インノケンティウス3世の要請で祖父フィリップ2世の時 始まった
南仏のアルビジョワ派(カタリ派)への十字軍(アルビジョア十字軍)に勝利。
親政を始める。
※‘25年に破門に追い込んだトゥールーズ伯レーモン7世の娘 ジャンヌとルイ9世
の弟アルフォンスとの婚姻及び将来の相続を約する協定を結ぶ。
※‘29年から異端審問が始まった。アルビ派と認定されれば火刑となり、遺体が
掘り出されて火刑とされることもあった。アルビ派であることを放棄すれば命は
助かったが、当時の人間にとって 信仰は しばしば命より重要であり拒否する者
も多く、アルビ派は砦にこもり反抗する者が相次いだ。‘40 カルカソンヌ子爵の
子レーモン・トランカヴェルらが蜂起したが鎮圧され、‘44までに反乱はほとんど
終結した。
→ 独自の文化を誇った南フランスは 20年(1209- 29)に渡る戦乱で
荒廃し、フランス王の支配下に入ることにより北フランス文化の流入を
受けることになった。
41 ポワチエの反乱
西フランスの有力貴族・ラ・マルシェ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンの
への「臣従の誓い」の際、単なる臣下の妻として扱われた為、これを
侮辱だと激怒。夫と息子ヘンリー3世を扇動して反乱を起こす。
⋆ ユーグ9世の元婚約者で イングランド王ジョンの未亡人。
イングランド王ヘンリー3世の母、王太后扱いを受けていた
ルイ9世が鎮圧を始めると配下の城は次々と降伏し、これを見た
イングランド諸侯はヘンリー3世を見捨てて帰国。ユーグ10世夫妻 降服。
‘43 ヘンリー3世は 大陸に所有していたガスコーニュを占領されたが、
ガスコーニュ領有を認められるという寛大な条件で和平協定が結ばれ、
以後、ルイ9世在位中、フランス国内外は平和が続いた。
(1229年 第6回十字軍で エルサレムはキリスト教勢力の手に戻り、10年の休戦協定
が結ばれていた)
これに対する西欧の反応は、1187年の陥落と比べて遥かに少なかった。
イングランド王ヘンリー3世も シモン・ド・モンフォールらの第二次バロンの乱の対応
で忙しく、十字軍には関心を示さなかった。
また、西欧は 第1回十字軍の頃と比べて 格段に豊かになっており、命や財産を
失う危険を払ってまで聖地を取り戻そうとする宗教的情熱は人々の間から失われ
つつあった。
十字軍国家も、ある程度の共存が成立していたイスラム勢力との関係が十字軍
によって悪化することを恐れ、軍の派遣を望まなかった。
この頃、トマス・アクィナス、ドミニコ会士 アルベルトゥス・マグヌスに出会う。
47 親鸞(75歳 1173〜 1262)、『教行信証』 完成
48 第7回十字軍
当時西欧一の実力を誇り 信心深かったフランス王国の国王ルイ9世は、
エルサレム奪還に強い興味を示し⋆、母ブランシュや重臣の反対を押し切って
十字軍を起こすことを決めた。
⋆ ‘44 赤痢に罹ったルイ9世は、もし快復すれば東方遠征を行うことを
神に誓い、病から立ち直るとすぐ十字軍の準備に取りかかる。遠征の準備
には 4年の歳月が費やされ、その間 カマルグにエギュ=モルト港を建設。
ルイ9世は、弟のトゥールーズ伯アルフォンス、アンジュー伯シャルル、
アルトワ伯ロベールなど2万ばかりの軍勢を引きつれ、海路でキプロス
に到着。
ここで現地諸侯らを集めて会議を開き、目的地を討議。ラテン帝国からは
はシリアを攻めることが提案されたが、ルイ9世はエルサレムを確保した上
で これを維持するために エジプトを占領することが必要だと判断。
49 6月にエジプトに上陸し、海港ダミエッタに攻撃をしかけた。
ダミエッタの指揮官と兵は街を放棄し、十字軍は容易にここを占領したが、
ナイル川の氾濫で 6ヶ月 ここで足止めを食う。
ダミエッタ占領後、諸侯らは食料の運搬に適した港のあるアレクサンドリア
を次の目標として考えたが、弟アルトワ伯ロベールのカイロ攻撃の意見を
採って カイロへの進軍を決定。
当時 アイユーブ朝スルタンのサーリフは病床にあり、ルイ側に休戦を
打診したが、ルイは これを断り、11月にカイロに向けて進軍を開始。
11月23日にサーリフは病死し、ファフル・アッディーンが代わりに軍の指揮
を執った。
50 2月、十字軍はマンスーラに侵入、マムルーク軍の待ち伏せにあい、
壊滅的な打撃を受けた(マンスーラの戦い)。
27日にはサーリフの息子、トゥーラーン・シャーがシリアから帰国、艦隊
を率いて 十字軍の補給路を断ち、十字軍を 病や食料不足で苦しめる⋆。
⋆ 兵士の間に 赤痢と壊血病が蔓延して 多数の死者を出した。
十字軍、停戦を申し入れるも拒否されたため、3月に包囲を解いて撤退
を開始、追撃してきたエジプト勢に包囲され、全員捕虜(1万人超)となった。
解放交渉の途中 クーデターで、アイユーブ朝のスルタンが廃され、
マムルーク朝となり、マムルーク朝との交渉で、ダミエッタ等の占領地の
放棄と、40万リーブルの莫大な身代金で ルイは解放され(テンプル騎士団
が支払う)、5月に アッコンに向かった。
この身代金で開放されたのは捕虜全体の一部だけで、そのほかの捕虜
は奴隷となるか、イスラムに改宗することを余儀なくされた。
その後、ルイ9世はアッコンを根拠地にし、マムルーク朝と同盟して
シリアに勢力拡大を図った⋆が 成果は挙がらないまま、
⋆ ルイ9世は、フランスに残って統治する母后ブランシュ・ド・カスティーユ (1188
- 1252) を補佐させるために、王弟アルフォンス・ド・ポワチエ (1220 - 71)
と シャルル・ダンジュー(1227 - 85)をフランスに帰し、自身は帰国せず、
レヴァントのラテン諸国家を現地で支援、アッコン、カイサレア、ヤッファ、シドン
の各砦の補強と防衛に携わる。
また、イスラム教に対する同盟国を見つけるため、1253年にフランシスコ会 のウィリアム・ルブルックを モンゴルへ派遣した。
54 フランスの摂政として留守を任せていた母ブランシュの死去の知らせ
を受けて フランスに帰国。
57 ルイ9世の宮廷司祭 ロベール・ド・ソルボン(1201-74)、貧しい神学部学生
のためのソルボンヌ学寮を設立。
59 ソルボンヌ学寮、教皇の許可を得る。
ソルボンヌは 後に 神学部、引いては パリ大学の代名詞となる。
‘60 秋 イルハン朝を建国。
‘62 親鸞 没
クビライ、モンゴル皇帝(大ハーン)となる。
‘65頃 トマス・アキィナス、『神学大全』の著述を始める。
第7回十字軍失敗の後、ルイ9世は内政に励んできたが、健康の不調
で 先が長くないと感じ、死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望んだ。
この間にマムルーク朝スルタンとなったバイバルスは、シリアにおける
キリスト教都市の大部分を征服しており、アッコン、トリポリ等が キリスト教側
に残るのみだった。
68 シャルル・ダンジュー⋆1、教皇ウルバヌス4世(61 - 64)の命で、シチリア王位⋆2
の正当な後継者 コンラディンを破って ナポリに連行、斬首し、
シチリア王となる。
⋆1 シャルルの妻・プロヴァンス伯の四女ベアトリス (1234 - 67) で、
このプロヴァンスは アルル・ブルグンド王国の一伯領、アルル・
ブルグンド王は 神聖ローマ皇帝の臣下だった。 つまり、シャルルは
フランス王の弟でありながら、神聖ローマ皇帝の宋主権下にあった。
⋆2 シチリアは本来 ローマ教皇領だったが、当時は 神聖ローマ帝国の 実効支配の下にあった。神聖ローマ帝国は その「イタリア政策」ゆえに、
皇帝フリードリヒ1世 (1123 - 1152 - 1190) の治世 1157年以来、教皇
と対立関係にあった。50年 皇帝フリードリヒ2世 (1194 - 1220 - 50)
が没すると、後を襲った次男コンラート(コンラート4世 1228 - 54)は
庶兄マンフレディと協力して シチリア王国を確保した。
→ コンラディンは、ホーエンシュタウフェン朝を支持するギベリン党の諸都市
によって、正当なシチリア王と認められていた。封建法は 捕虜となった君主の
処刑を禁じていたため、これは非常に問題のある措置だった。
コンラディンの処刑によって ホーエンシュタウフェン朝は断絶し、ルイ9世は
シチリアを 東方への足がかりとして確保した。
シチリア王 シャルル・ダンジューは、かつてシチリア王国に貢納していたが
付き合いがあり、キリスト教への改宗も考えているといわれており、ルイ9世は
それを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えた。
70 第8回十字軍
チュニジアに上陸すると 現地勢力の抵抗を受け、滞陣中に飲み水の
劣悪さや暑さにより 病気が蔓延。
8月 チュニス攻略戦のさなかに ルイ9世が没した他、娘婿のナバラ王
テオバルド2世が帰途 シチリアで没するなど、死亡者が相次いだ⋆。
⋆ フィリップ3世の妃イザベル ( 1247 - 71) も、フランスに帰国する途中
シチリアで、また 王弟アルフォンス・ド・ポワチエ と 妃ジャンヌ (1220 - 71)
も相次いでイタリアで没した。
ルイ9世の死体は解体され、一部がチュニジアに、別の一部がパレルモ
近郊のモンレアーレに、また 骨と心臓はサン=ドニのバシリカに埋葬された。
シャルルと王太子フィリップ(フィリップ3世 1245 - 85)は 10月まで滞陣し、
チュニジアとの貿易の回復、キリスト教徒の保護、賠償金等の条件で
スルタンと和睦。
フィリップは フランスに戻り、シャルルは 新たに到着したイングランド王太子
エドワード(エドワード1世)と共に アッコンへ向かう(第9回十字軍)。
‘71 クビライ、自らの支配する国の国号を大元と改めた。
日蓮、佐渡流罪
‘74 蒙古襲来(文永の役)
79 カラーウーン、マムルーク朝 スルタンとなる。
91 アッコン陥落 → 十字軍国家滅亡
時は移って
700年後
☟
シリア
15世紀頃 - オスマン帝国の支配下に。
1798 ナポレオン、エジプト遠征
1920 - シリア・アラブ王国が独立、ファイサル1世が初代国王に即位。
フランス・シリア戦争→ フランスが占領
セーヴル条約により フランスの委任統治領(1920-46)となる。
36 9月 - フランス・シリア独立条約交渉でフランスが批准を拒否。
46 シリア共和国として フランスより独立。
自治権を求めるアラウィー派の反乱、政府により鎮圧。
産経 2015.1.22
【ロンドン=内藤泰朗】 「イスラム国」に対抗する米英主導の有志連合に参加している
21カ国と欧州連合(EU)の閣僚級会合が22日、ロンドンで開かれた。ハモンド英外相
とケリー米国務長官がホスト役で、イラクやシリアに浸透し、パリのユダヤ系食料品店で
起きたテロでも関与が取り沙汰された組織の封じ込め戦略を協議したもようだ。
会合には、欧米諸国の他、イラクのアバディ首相ら中東諸国の閣僚も参加。有志連合が
イラクとシリアで 昨年夏以降続けているイスラム国への空爆の成否を評価し、イスラム国
への過激派流入と資金源を断つ方策などについて協議。
空爆は これまでに1000回以上行われた。
欧米諸国では、イスラム国などの過激思想に共感する若者たちが増加傾向にあることも
明らかになっており、その対策も議題となる見込みだ。
ケリー氏は 「 テロリストたちはわれわれを分断させようとしているが、反対に 結束は強化
している 」と表明。ハモンド氏は 22日、英BBCテレビに、イスラム国のイラクからの排除
と封じ込めに自信を示した。 両国とも、戦いは成果を挙げているとする一方、数年に及ぶ
との見通しを示した。 |
ブランシュ(1205 - 06)
アニェス(1207)
フィリップ(1209- 18)
アルフォンス(1213) ジャン(1213) - アルフォンスの双子の兄弟
ルイ9 (1214 - 70) - フランス王
ロベール(1216 - 50) - アルトワ伯
フィリップ(1218 - 20)
ジャン・トリスタン(1219 - 32) - アンジュー伯、メーヌ伯
アルフォンス(1220 - 71) - ポワトゥー伯、オーヴェルニュ伯、トゥールーズ伯
フィリップ・ダゴベール(1222 - 32)
イザベル(1225 - 69)
シャルル(1226 - 85)
- アンジュー伯、メーヌ伯、プロヴァンス伯、フォルカルキエ伯、シチリア王
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2015年01月22日
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