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2016年元旦にあたって
初詣を痛む
今年も 各地の神社は 初詣で盛況のようだ。
今年一年の幸せを神に祈るわけだ。
しかし、今年もまた 不幸は次々と起きるだろう。
それが、せめて 自分の身の上に起きないことを祈るのだろうか?
厄難を厭い恐れ、恙なきことを冀うのは、人皆 そうである。
しかし、この凡情に応えて、これを必ず満たせしめるモノは、
この世にはない。“ない” が故に、“この世”と言われるのだ。
しかるに、この凡情に応える神仏を唱導する者は 後を絶たず、
民衆は いつの時代も、火に入る虫のように、
これら神仏に吸い寄せられ、その前に跪拝する。
このありさまを、「生死煩悩海」と言われるのだろう。
我々人間が、道理によっては動かない代物であることを、
これは 如実に示している。
道理とは、この場合、
法然上人「和語灯録」を引用すると、
「宿業かぎりありて、受くべからん疾(やまい)は、いかなる諸の仏神に祈るとも、
それにはよるまじきことなり。祈りによって 疾もやみ 命も延びることあらば、
誰かは一人として、疾(や)み死する人あらん。」
という言葉であろう。 また、
「いわんや 仏に帰し 法に帰する人には、一切の神明、恒沙の鬼神を眷属
として、つねに この人を護りたまうと言へり。しかれば、かくのごとき諸神・
諸仏 囲繞して護りたまはん上は、また いづれの仏神ありて、悩み防ぐる
ことあるべけん。」
※ 恒沙: ガンジス川流域の砂の数ほどの 膨大な数
というものであろう。
平安末・鎌倉時代の古語ではあるが、意味は取りやすいので、これを
現代語になおすことはしない。
神社仏閣に参り、神仏に祈って わが幸福を得ようというのは、
世間では うるわしいこととされてはいても、
それは、天地の大道理に反逆し、これを私するものであろう。
道理に対する感受性を、我々の劣情が鈍麻させている・・・。
このような どうしようもない者を救おうという者は、この世に誰もいない。
神仏も、罰を与えるどころか、この者を見放すのは 当然だろう。
「神仏は ましますか」 と問う前に、
「私は、己が幸福を 神仏に乞い求める資格をもっていない」
という現実が、我々には 厳然としてあるのだ。
恥べし、痛むべし。
合掌
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2016年01月01日
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