混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

地獄とは何か?

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私は 鬼じゃ

私は 鬼じゃ

この鬼を 受取って下さるのは

親さまだけだと

本当に わかった人は

世界一の智慧者である


                          住岡夜晃




** この 「 親さま 」 というのは  「 如来 」 のことですが、
   私は 若い時から この「 親さま 」 という表現に、違和感がありました。

   そして 今も また、わが国の真宗の伝統の中で使われてきた こうした表現の意義が、
   よく理解できません。


   しかしながら それにもかかわらず、この文章は 心に響く 一種の迫力があります。

                                  合掌 

   

矛盾と統一

〜〜〜〜〜
  〜〜〜〜〜
自分を変えず 動かさないで、 

このままで 真実を得よう 人生の解決を獲(え)よう と、 私はしている。

人生の矛盾、苦悩、不幸を 厭い避けようとするのです。

これを 凡夫という。


全身、 貪欲tonyoku・瞋恚sinni・愚痴の三毒の者には、

「 人生には 矛盾のあるもの。

  しかして 決して その矛盾は、 

  全て取り除いて 生きる天地があるのでなくして、


  矛盾それ自体の中にこそ、 

  人生の意義も 幸福も 見出されていくことを、 体感すべきであります。

  どこに われを殺す矛盾が あろう。 」

という言葉は 納得しがたいのであります。


むしろ、

「 矛盾に泣き 憤って、 その生きてゆく道を失い、 自暴自棄に陥り、

  或は ただ 逃避的態度をとって、 いよいよ無明の惑いを深めてゆきます。」

というのが、私の日常の 偽らざる現実であります。


これが、 私の生きている有り様であり、 私の世界であります。

しかも 愚かなことに、

このような日々を 当然のこととして、

そこに 何の問題も 感ぜられないのであります。




しかし、「 信心の智慧(=正しい認識) 」 というものは、

「 人生は 矛盾だらけである。 

  しかも その中に いつも、 はっきりとした 統一がある。 」

と 見るのである。 すなわち、


「 矛盾、統一をさまたげず。 統一、 矛盾をしりぞけず。

  いかなる境遇に 至ろうとも、 

  よく そのうちに、 この統一調和に 永遠微笑して、

  しかして 敢て 人生の矛盾相を 捨離しようとは しないのであります。」と。


摂取不捨sessyu/husyaとは 弥陀の働きであるが、

これは、善悪ともに 如何なるものも 摂め取って捨てず、

この世の矛盾すべてを 統一のうちに 肯定するということであろう。

曰く、


「 善は 悪に対立し  悪は 善に相対する 世界では、

  真実の善は 分りません。

  善悪ともに 否定されるところに、

  悪と対立しない 絶対善が生かされるのであります。」 と。


                            ** 「 」内、先師の言



                                 合掌




              ● kyomu- の アッピール ●

                  原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう! 

                  ―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい! 

                        子孫に 我らの負債を 残すまい! ―――― 

衣食か?真実か?

〜〜〜〜〜

       「 道心のうちに 衣食あり 」(最澄)
           
                   〜〜〜〜〜


財欲・色欲・飲食欲・名(誉)欲・睡眠欲 の五欲のためには、 惜しみなく 金を使うが、

仏法(真実)のためには、我々は 極めて 吝嗇rinsyokuである。  *吝嗇:ケチ、物惜しみ

私は、五欲のために 気苦労しながら 働いている と言ってよい。


この五欲を満たさなければ、 私においては、

「 道心のうちに 衣食あり 」 

という 最澄の言葉も 崩れてしまうだろう。


「 すでに 真実が欠けている以上、 

  ほんとうに生きておるとは 言えない 」(先師)

にもかかわらず ・・・。



   汝は、‘衣食は 捨てられない’ と為しながら、 一方で、 真実を求めている。

   ‘ 衣食か 真実か? ’ の選択を 強制されるような状況を、

   巧みに避け 狡猾に先延ばしして、 今日まで やってきたのである。


   何かを為さんとするとき、 その為さざるを得ない理由を、

   誰彼の所為seiにし、時代や社会の所為にし、或は 何かの所為にして、

   それを為さんとする自己を 正当化しようとする欺瞞を 繰り返してきた。


   ‘ 世の中が こうだから、 私は 奮起せねばならない ’ というのも、

   一見 大乗の利他行のようだが、

   世の悪を 踏み台にして、 自己を立てようという 卑しく さもしい根性なのだ。



衣食か 真実か? ――― この問いを 曖昧にしてはならない。

この 二者択一が、 私に 突き付けられていることを、忘れてはならない。

‘私が この問いに応えられるかどうか?’ という問いを、新たに設けるのではないのだ。


この問いに 勝利して、 真実を選択することができれば、それに越したことはない!

しかし、たとえ この問いの前に 敗れ去って 真実を選択できなくても、それもまた大したことだ。

かの親鸞は、 後者の人であった。 曰く、


「 煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は、 よろずのこと みなもて

  そらごと たわごと まこと あること なきに 」と。

彼は、 自らの 自己と世界 を、 このように表明している。



自らの 日常的自己の全体が、

衣食を始め、五欲の満足を求めて うなりを上げ、

それを障saえられては のた打ち回っている。


とても、衣食を捨てて 真実を選ぶ 気もなく、

真実の前に 恐れ戦ononoいて、

それを選ぶ器量のない者である。



衣食か? 真実か? 

――― この問いは、求道の途上に立っている 立て札である。

この立て札があることに 気付かず、 我々は いつも 道に迷ってしまうのだ。


親鸞は、上の引用文に続いて、

「 ただ 念仏のみぞ まことにて おわします。」(歎異抄)

と、この問いに 応答したのだ。


              
                            合掌



              ● kyomu- の アッピール ●

                  原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう! 


                  ―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい! 

                        子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――







                

建立自心〜恩知らず

〜〜〜〜〜
      建立自心konryuu/jisin〜恩知らず
   〜〜〜〜〜〜

妄念に 燃え立っている 間は、 

私は それが妄念だとは 少しも思えないでいました。


なむあみだぶつ

これが わが日常の ありさま であります。 



まことに、 信外geの軽毛kyoumou であり、 井の中の蛙 であります。

これだけでも、懺悔sangeするに足ります。


多くの衆生の運命を 無視し、
   (‘見ようとしても これが見えないのだ!’というのは、何の弁解にもならない )
恐らくは 踏みにじっている 凄惨な私の現実があるからです。



この、自己保身と自己満足に 汲々としている 私は、

あってはならないものでしょう。


三世sanje十方の諸仏 及び 一切衆生から 疑問符を投げられ、

共に 同座することを 顰蹙されているでしょう。



精神性の欠損、 すなわち 魂の醜い不具者なのであります。 日常では 周りの人々に、

‘しようの無い奴だが、これが人間というものだ’ と、大目に見てもらってはいるが、


如来真実の前では、 その 大悲本願の対象でこそ あれ、 

ここに 居ることは、 永遠に 許されないことであります。



まことに 幻想 と 欲得 のうちに、起臥してきた 私は、 その悪逆のために、

一切衆生・蜎飛kenpi蠕動nendouの類 は勿論、三世jeの諸仏に 見放された者でしょう。


‘ こいつは 陶冶性のない 回心の見込みのない 奴だ。 いくら言って聞かせても

聞く耳持たず、 好き勝手をし 暴れまくって、 われらの存在は 目に入らぬ。 ’ と。



なむあみだぶつ



阿弥陀仏は その因位の昔、 この 箸にも棒にもかからぬ 恩知らずの者を、

救おうと 大誓願を 発oこされた。


この 恩知らず は、 私の存在それ自体が そうなのであります。

この存在構造が、 そのようになっているのであります。



この世の 如何なるものも、

これを 救うことはできないのであります。


そして、ただ一つ 弥陀のみが このことを問題とし、このわが現実を 自己に担おうとされる。

否、これを 担っているものを、 弥陀 と言うのである。



何から何まで 虚妄顛倒tendouの 始末におえぬヤクザな 私は、 自らが

弥陀大悲の ご恩徳の上にあることを、 挙体 気付かねばならないのであります。


                                 合掌




              ● kyomu- の アッピール ●

                  原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう! 


                  ―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい! 

                        子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――



         

〜〜〜〜〜
  〜〜〜〜〜

21C の今日、 人類は 国々に分かれててはいるが、

しかし、実質的には 一つの共同体としての形をもって、この地上に 姿を現している。


地上の各地に 割拠して、 それぞれの文明圏を営むという時代は、

20C のうちに 崩壊したのである。


このことが 善いこととは、私には 少しも思われず、かえって由々しきことだと考えるが、

今日の状況は、 かってとは 大きく違ったものとなっているのである。



歴史というものは 弁証法的発展でも 進歩するものでもなく、

無明・煩悩の 暴流(ぼる)である。

   ( 「歴史」は、我々人類のみにあるものである。 人類が絶滅すれば 歴史も消滅する。)

我々は、この暴流に 呑込まれ 流され 翻弄されて、

漂い 浮沈し 或は 溺れるほかに 為すすべはない。


太古より 我々は、 万物の霊長でも 社会的動物でもなく、

このような 悲劇的存在である。



人類は、集団を作り 或は国を作り、さらには 文明を造ることで、

この苦難を防ぎ、地上に 安全と享楽を得ようとしてきたが、


しかし、この数千年の営み自体が 結局 我々の運命を保障できず、

かえって、人類全体を より悲惨な結末に到らせる可能性が 露わとなったのが、今日である。




                                  合掌



              ● kyomu- の アッピール ●

                  原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう! 


                  ―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい! 

                        子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――

    **参考
       再処理:  http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/45182279.html               


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