混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 5.

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其有衆生 於此論中 毀謗不信 
所獲罪報 経無量劫 受大苦悩
是故 衆生 但応仰信 不応誹謗
以深自害亦害他人 断絶一切三宝之種
以一切如来 皆依此法 得涅槃故 一切菩薩 因之修行 入仏智故

当知 過去菩薩 已依此法 得成浄信 
現在菩薩 今依此法 得成浄信 未来菩薩 当依此法 得成浄信
是故 衆生 応勧修学


(流通分)
諸仏甚深広大義    我今随分総持説
廻此功徳如法性    普利一切衆生界


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(よみかた)〜〜〜〜 遠離誹謗 / 流通分 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

それ 衆生ありて、この論の中において 毀謗して 信んぜざれば、 
獲る所の罪報は 無量劫を経て 大苦悩を受けん。
この故に、衆生 ただ 仰いで信ずべし。 誹謗すべからず。
深く 自ら害し また他人を害して、一切の三宝の種を断絶するを もっての故なり。
一切の如来は みな この法に依りて 涅槃を得るをもっての故なり。 一切の菩薩も これに因って 修行して 仏智に入るが故なり。

当に知るべし。過去の菩薩 すでに この法に依りて 浄信を成ずることを得たり。 現在の菩薩も いま この法に依りて 浄信を成ずることを得たり。 未来の菩薩も この法に依りて 浄信を成ずることを得べし。
この故に、 衆生 まさに 勤めて 修学すべし。

(流通分)
諸仏の 甚深にして 広大の義を、 我れ 今 分に随って 総じて説けり。
この功徳の 法性の如くなるを 廻して、 普く 一切の衆生界を 利せん。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 義記は、
 「 第二に 謗罪重の中に 四句あり。
  一に 謗は 罪の重きを成ず。 二に{ 是故 }の下は 誡勤して 謗を止む。 
  三に{ 以深自害 }の下は 罪の重きの意を釈す。 四に{ 以一切如来 }の下は 三宝を断ずるの義を転釈す。
  この中に 二句あり。 初に 果人 これに依りて涅槃を得るに約し、 後に 因人 これに依りて菩提を得るに約す。
  菩提と涅槃は、すなわち これ 法宝なり。 仏と僧とは 知るべし。
  毀謗は これに 背くに由るが故に、 三宝を断ずるなり。

  結勧の中に、三世の菩薩は 同じく この法を行じて さらに異路なきが故に、まさに 勤めて修学するなり。

  正宗(分)竟りぬ。


 先師は、
 「 論主は 最後に当って、この論によって 修学し 信心成就すべきことを 勧めたまう。
   当に知るべし。 過去の菩薩も すでに この法によって 浄信を成就することを得、未来の菩薩も また 
   この法によって 浄信を成就するのである。 この故に、現在の衆生も また 如実に この法によって 
   勤精進して修学すべきである。
   今や 論主は 本論を終るに当って、 一切衆生に向って 本論が ただ単なる論にあらずして、
   三世の諸仏・菩薩の 真実求道の通路なることを明かして、 一切衆生に ‘ ただ 心ずべし ’と命じ、
   ‘ 毀謗して 三宝を断絶すべからず ’ と厳戒せられる。 そこに 論主の不動の信念 切々の大悲心を
   仰ぐことができる。

   まことに 大乗の法は、唯一絶対であり、教主の教法 すなわち大乗の法なるが故に、不変常住・唯一不二
   の聖法は、論主をして かくの如く 絶対の権威の上に立って 命令し、勧誡せしめたのである。 かくの如く 
   絶対不二の法にあらずして、如何にして 生死を過度して 成仏の志願を満足することができようか!
   論主の かくの如き大悲によって 説かれたる無我の大法にあらずして、如何にして 一切衆生を救わん。

   我ら 論主の教に 合掌して 大乗無上の法を領解し、専念専意 念仏道に精進し、現生正定聚不退の位を
   やがて 涅槃の妙果に当来し、もって 本仏(弥陀)久遠の恩徳に報じ 三世十方の善知識に謝せんかな。」





        以上、一年半にわたった この「 大乗起信論 」は、やっと 本日をもって終りました。
       しかし、私としては 未だ 十分に 咀嚼できているとは言い難い お粗末な状況です。
       したがって、これを このままで終えるわけには参りません。
       そこで、 もう一度 初めから 稿を新たにして、ゆっくりと 読み返したいと思います。

                                        合掌    

已説修行信心分 次説勧修利益分
如是摩訶衍諸仏秘蔵 我已総説
若有衆生 欲於如来甚深境界 得生正信 遠離誹謗 入大乗道
当持此論 思量修習 究竟能至無上之道

若人聞是法已 不生怯弱 当知 此人定紹仏種 必為諸仏之所授記 
仮使 有人 能化三千大千世界満中衆生 令行十善 
不如 有人 於一食頃 正思此法 過前功徳 不可為喩
復次 若人 受持此論 観察修行 若一日一夜 
所有功徳無量無辺 不可得説 
仮令 十方一切諸仏 各於無量無辺阿僧祇劫 歎其功徳 亦不能尽
何以故 謂法性功徳 無有尽故 此人功徳 亦復如是 無有辺際


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(よみかた)〜〜〜 勧正信 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
すでに 修行信心分を説きたり。 次に 勧修利益分を説かん。
かくの如き摩訶衍makaenは、諸仏の秘蔵なり。 われ すでに総じて説けり。
もし 衆生ありて、如来の甚深の境界において 正信を生ずることを得て 誹謗を遠離し 大乗道に入らんと欲せば、
当に この論を持し 思量修習siryo/syuzyuuして、究竟じて よく無上の道に至るべし。

もし人 この法を聞きおわりて 怯弱konyakuを生ぜざれば、当masaに知るべし、
この人は 定んで 仏種を紹tuぎ 必ず 諸仏のために 授記せられん。
たとい 人ありて よく三千大千世界の中に満る衆生を化し 十善を行ぜしむるも、
しかず。人ありて 一食jiki頃に この法を正思syousiせんには。前の功徳に過ぐること 喩えと為すべからず。
また次に、もし人 この論を受持し 観察修行すること もしは一日一夜ならんに、
所有の功徳は 無量無辺にして 説くべからず。 
たとい 十方の一切諸仏、おのおの 無量無辺阿僧祇劫において その功徳を歎ずるも、また尽すことあたわず。
何を以moっての故に、謂く、法性hossyouの功徳は 尽くること有ることなきが故に。 この人の功徳も また復 かくの如く 辺際zaiあることなし。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 義記は、
 「 { 若有衆生 }の下は 信謗の損益を挙げ、 { 当知過去 }の下は 修学を結勧す。
  信謗の中に就いて 二あり。 初に 信受の勝福、 後に{ 其有衆生 }の下は 謗毀の罪の重きを明かす。
  
  前の中に、先に 三慧に約して 総じて その益を挙げ、後に{ 若人聞 }の下は 別して三慧の益相を顕す。

  中において 初に 聞時の益。 次に{ 仮使有人 }の下は 思時の益を明かし、 後に{ 復次若人 }の下は 
  修行の時の益を明かす。

  中において 三句あり。 
  一に 時少徳多。 二に{ 仮令 }の下は 多相を校量す。 三に{ 何以故 }の下は 多の所以を釈す。 」


  先師は、
  「 すでに 立義分・解釈分・修行信心分 を説いた。
   この大乗起信論を受持し その名義を解し 観察し修行して、正信を生ずる者の 広大なる利益を説き、
   もって その修習を勧めんとす。・・・ 」

    

復次 衆生初学是法 欲求正信 其心怯弱
以住於此娑婆世界 自畏不能常値諸仏 親承供養
懼謂信心難可成就 意欲退者 当知
如来有勝方便 摂護信心
謂以専意念仏因縁 随願得生他方仏土 常見於仏 永離悪道
如修多羅説 若人専念西方極楽世界阿弥陀仏
所修善根回向 願求生彼世界 即得往生 常見仏故 終無有退
若観彼仏真如法身 常勤修習 畢竟得生 住正定故


ーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また 次に、 衆生 初めて この法を学びて 正信syousinを欲求yokuguするに、 その心 怯弱konyakuにして、
この娑婆世界に住するをもって、 自ら 常に諸仏に値いて 親承sinsyou供養すること あたわざることを畏れ、懼osoれて 信心は成就すべきこと難gataし と謂omoいて、意 退せんと欲する者は、 当に知るべし、
如来に 勝syouの方便ありて、 信心を摂護syougoしたまう。 謂く、 専意念仏の因縁をもって、願に随いて 
他方仏土に生ずることを得て 常に 仏を見て 永く悪道を離る。
修多羅syutaraに説くが如し。 もし 人 西方極楽世界の阿弥陀仏を専念し、
修する所の善根を回向して かの世界に生ずることを願求ganguすれば、 即ち往生を得て 常に仏を見たてまつるが故に、終tuiに退することなし。
もし かの仏の真如法身を観て 常に勤めて修習すれば、畢竟じて生ずることを得て 正定syoujyouに住するが故に。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 義記は、
 「 自下は 第三に、退を防ぐ方法を明かす。 中において 二あり。
   先に 可退の人を明かし、後に{ 当知如来 }の下は 防退の法を明かす。

    前の中に 二あり。 初に 行の劣を標し、 二に{ 以住於此 }の下は 処を挙げて 釈成す。
   その内心 すでに劣りて、外に 勝縁を欠き、信行 成じ難きをもっての故に、まさに退せんとするなり。

    防退の法の中に 二あり。 初に 通じて 聖意を挙げ、 後に 別して 経を引きて証す。
   前の中に 二あり。 初に 聖の善巧を標し、二に{ 謂以専意 }の下は 顕巧の相を釈す。
   経を引きて証する中に 二あり。 先に 経を引き、 後に{ 常見仏 }の下は 経文を釈す。

    { 若観法身得畢竟往生 }等と言うは、ただ 往生の人に約するに 三位あり。
   一に 蓮華未だ開かざるの時 信行未だ満たざるの如きは、未だ不退と名づけず。ただ 処に退縁なきを
   以っての故に 不退と称す。
   二には 信位満足以去は、 華開けて 仏を見たてまつり 十住の位に入り 少分 法身を見ることを得て
   正定位に住するなり。
   三には 三賢位満じて 初地に入りて以去は、遍満法身を証して 無辺の仏土に生ず。 仏 竜樹菩薩等を
   記して 初地に住して 浄土に生ぜし等の如きなり。
   この中の 畢竟等は、これ 後の二位なり。 」



  先師は、
  「 以上によって、四信・五門の修行信心分が 説かれた。

   しかるに、今 もし 衆生 始めて この四信・五門の法を学び、正信を成就せんと欲求するも、
   内心 怯弱にして すでに劣り、また その現在 生ける世界は、五濁の娑婆世界にして、自ら 仏に値いて
   親しく 承事し 供養し 善根を増長するに由なく、業障を滅除すべきなきを 畏れ、 恐らくは 信心を
   成就して 不退位を得ることなどは 誠に 不可能ならん と、仏道修行を休廃せんとし 意 退堕せんと
   する者がある。

    如来の大悲は 無限である。
   かくの如き 怯弱の衆生を 哀れみたまう如来に、信心を成就し 摂取し 護念したまう 勝方便がある。
   曰く。 専意念仏が それである。 六度などの修行によらず、ただ 意を専らにし 仏名を念ずれば、
   衆生の願にしたがって 他方仏土に生ずることを得て、常に 仏を見て 永く悪道を離れ得るのである。
   (乃至)
    
    本論の帰結が、四信・五行にあるか 念仏にあるか? 
   論主は 大乗の通途に立って 立論するかぎり、大乗仏教を もっとも巧妙に 正しく しかも解了し易から
   しめんがために 総説するのである。
   それ故に 論主には 立論の立場がある。 あらゆる衆生を救わんとする論主の立場は、おおむね大乗仏教
   の全貌に渉って 論ずるのである。 しかして、かくの如く 自己の実機を示すことなくして、普遍の法を
   開顕する菩薩を得ざれば、 我らは 仏教の真意を領解ryougeすることはできない。

    しかし その領解は、必ず 自己自身の 法に堪忍し随順し得る 反省されたる 機の深信に立たねば
   ならない。 しからざれば、普遍の法を 法として知解することはできても、機において 妥当せしめる
   ことはできない。

    この故に、浄土門流の先輩が、本論の帰結を この { 勝方便 } の解説において見たことも、頷かれる
   ことである。   
   誰か 四信・五行の解説を 真に聞く時、魔事退堕の説の中に 自己を領解しない者があろうか!
   我らは 本論の進展とともに、いつしか 怯弱の衆生たる我を 発見せしめられておるではないか!

    もし、それ 本論にして この一項を欠くならば、 如実に仏道を成就せんとする我らは、 大悔中に立って
   飲むべき水を与えられざる渇者のごとく、法の広大に驚嘆しつつ 機の怯弱に絶望して、 仏法を遙かなる
   過去の羨ましき 夢の慶事として葬るよりほかに 道なきにいたるであろう。
    しかして、機の怯弱を知るものは、反って 凡夫に非らずして 己を知ること深き菩薩大士なることを
   知る時、 かかる感慨は ただ 我ら凡夫のみであろうか?

    我らは 今、大乗の起信を説ける本論において、大乗の信としての 念仏正定聚の世界を聞く事を得た。
   現実の大地に念仏あり。 その背景に 広大なる真如門・生滅門の開顕あり。 ここに あらゆる世界に
   普遍妥当なる大乗仏教を見る。

    すでに、修行信心分を説き終わる。」
   
   
                           以上 修行信心分   





                    

若行若住若坐若臥若起 皆応止観倶行
所謂 雖念諸法自性不生 
而復即 念因縁和合 善悪之業苦楽等報 不失不壊
雖念因縁善悪業報 而亦即 念性不可得

若修止者 対治凡夫住著世間 能捨二乗怯弱之見
若修観者 対治二乗不起大悲狭劣心過
遠離凡夫不修善根

以是義故 是止観二門 共相助成不相捨離
若止観不具 則無能入菩提之道

ーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーー止観門 観3ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もしは行 もしは住 もしは坐 もしは臥 もしは起、 皆miな 応masaに 止観 倶toもに行ずべし。
いわゆる、諸法の自性jisyouは 不生なりと念ずと雖iedoも、しかも復maた すなわち 因縁和合して 善悪の業・苦楽等の報は 失せず 壊eせずと念ず。 因縁善悪の業報を念ずと雖も、しかも亦maた すなわち 性syouは不可得なりと念ず。

もし、止を修すれば、凡夫の世間に住著するを対治し、能yoく 二乗の怯弱の見を捨てしむ。
もし、観を修すれば、二乗の 大悲を起さざる 狭劣心の過togaを対治し、凡夫の 善根を修せざるを遠離す。

この義を以moっての故に、この止観二門は 共tomoに相aい助成して 相aい捨離syariせず。
もし、止観 具せざれば、すなわち 能く菩提の道に入ること無し。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 義記は、
  「 自下は 第三に 双運を明かす とは、 上来は 始習 未だ淳からざるが故に、動静別修し、
   今は 定慧 修成するが故に、能く 双運す。 
   中において 三あり。 初に 総じて標し、 次に 別して弁じ、 後に 総結す。
   別の中に 二あり。 初に 法に約して 倶を明かし、 後に 障に対して 倶を明かす。


    前の中に 二あり。 初は 止に即するの観、 後は 観に即するの止なり。

    前の中に、{ 自性無生 }とは、非有の義に約して 以moって 止を明かすなり。
   { 業果不失 }とは、非無の義に約して 以って 観を明かすなり。 この二、不二の故に{即}と云うなり。
   これ 真際を動ぜずして 諸法を建立するに順ず。良makotoに 非有は 即ち これ非無なるを以っての故に、
   能yoく 止を捨てずして 観を修す。

    次に { 雖念因縁即性不可得 }と言うは、 観に即するの止を明かす。 これは 仮名を壊せずして
   諸法実相を説くに順ず。 非無 即ち これ非有なるを 以っての故に、能く 観を捨てずして 止を修す。
   これは、説く時 前後あり。しかるに、行心にありては 鎔融して 不二なり。不二の性は、即ち これ実性なり。
   理味 これにあり。宜yoroしく これを思うべし。



    第二に 対障の中に、初に{修止}は 二過を治す。謂く、正しく 凡夫の人法二執 世間を貪楽するを治し、
   兼ては 二乗の五陰の法に執し 苦を見て 怖を生ずるを治す。止門無生をもって これらの執を除くなり。

   次に{ 修観 }とは、また 二過を治す。謂く、正しく 二乗狭劣の心を治し 普く衆生を観じて 大悲を
   起さしめ、兼ねて 凡夫懈怠の心を治し、無常を観ぜしめて 善行を修することを策す。



    第三に 結の中に { 助成 }等と言うは、凡夫の人 世間を楽わざるに非らざるが如きは、もって善行を
   勤修することなし。 二乗の人に約すれば 生死を怖れざるには非らず。 もって大悲を起すことなし。
   この故に、二行 相い離れざるなり。

   {若止観不具不能人菩提道}と言うは、止観 相い須いること 鳥の両翼 車の二輪の如し。二輪具せざれば、
   則ち 運載の功なく、一翼 もし欠くれば 則ち 凌虚の勢いなし。故に { 不具則不能入 }と云うなり。」



 先師は、
  「● 止観の行は 別々に 単独で 行ずべきにあらず。 行住坐臥、いかなる時 いかなる所、すべて 共に
   並べ 行ぜらるべきである。 以下に その倶行双運の方法を説く。 

    まづ、止に即するの観 ( 即止之観 )を明かす。
   真如門的立場より ‘諸法の自性は 不生不滅なり’ と 止を念ずといえども、しかもまた 諸の因縁和合
   して成ぜる 善悪の業 や 苦楽の果報等は、失うなく 破壊するなく 一切衆生は みな これに纏縛せられて
   いると生滅心的立場より観を行ずるのである。

   以上は 止に即するの観であって、 現実諸法の観察は 囚われたる我見によってなされず、止における
   真如三昧の光によって 照破されて 成就するのである。

 
    次に、< 即観之止 > を明かす。 因縁和合・善悪の業報を観ずといえども、しかも かくの如き
   生滅差別の法は 自性なく 本来 不生不滅にして 不可得なりと 止を念ずるのである。


   ● 止を修して 二過を治することを 明かす。

    凡夫は、人我及び法我 の見を起して 人法無我を知らず。この故に 世間に執着するものであるが、
   止を行ずれば 真如三昧に入って 唯心無自性を 知らしむるが故に、二見の楽着を対治す。
    また、二乗は、生死を厭い これを恐れるが故に 怯劣心を生じ 灰身滅智を楽うものであるが、
   止を修すれば 真如三昧の光によって 生死の不生を悟り 生死即涅槃の理に達するが故に 生死を怖畏
   する怯弱の見を捨離することができる。
    以上、止門の無生観によって この過失の対治を説いたものである。

   ○ 次に、観を修して 二過を対治することを明かす。

     二乗は 利他心なく 大悲心なき 狭劣なるものである。 もし、観を修すれば 前に説かれたごとく
    大慈大悲の観を生ずるが故に、この二乗の狭劣心を対治することをができる。
     また、凡夫は 世間に執着するが故に、解脱の自利成就を求めるものである。 もし、観を修すれば
    無常等を観じ 懈怠心を出て 解脱を楽い、諸の善根を修するに至るが故に、観は 諸の懈怠心を対治
    するものである。


   ● 以上の義あるが故に、止観二門は ともに あい助成して あい捨離せざるものである。
    もし、止観の行が 具備せざれば、自利利他円満の 無上菩提心に入ることはできない。」と。
   
   






          

如是当念 一切衆生 従無始世来 皆因無明所薫習故
令心生滅 已受一切身心大苦 現在即有無量逼迫
未来所苦亦無分斉 難捨難離 而不覚知
衆生 如是甚為可愍
作此思惟 即応勇猛立大誓願 願令我心離分別故 
遍於十方 修行一切諸善功徳 尽其未来
以無量方便 救抜一切苦悩衆生 令得涅槃第一義楽 
以起如是願故 於一切時一切処
所有衆善 随己堪能 不捨修学 心無懈怠
唯除座時専念於止 若余一切 悉当観察応作不応作

ーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー止観門 観2ーーーーーーーーーーーーーーーーー
【 大悲観 】
かくの如く当masaに念ずべし。 一切の衆生 無始世よりこのかた、みな 無明に薫習kunzyuuせらるるに因yoるが
故に、心をして生滅せしめ、 已sudeに 一切身心の大苦を受け、 現在に 即ち無量の逼迫あり、 未来の所苦も 
分斉なし。 捨て難く 離れ難くして しかも覚知せず。 衆生は かくの如く 甚だ愍awareむべしと為す。
【 大願観 】
この思惟を作naして 即ち 勇猛にして 大誓願を立つべし。 願くは、我が心をして 分別を離れしむるが故に、
遍く 十方において 一切の諸の善功徳を修行し、その未来を尽して 無量の方便をもって 一切の苦悩の衆生を
救抜して 涅槃の第一義楽を得しめんと。
【 精進観 】 
かくの如き願を起こすをもっての故に、一切の時 一切の処において 
所有の衆善 己の堪能に随って 修学を捨てず 心 懈怠なし。

唯だ 座時に 専ら 止を念ずるを除きて、もし 余の一切も 悉く まさに 応作と不応作を観察すべし。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  海東疏は、
  「{ 如是当念 }以下は 第二に 大悲観を明し、 { 作是思惟 }以下は 第三に 誓願観を明し、
  { 以起如是 }以下は 第四に 精進観を明す。  この四門に依って 略して修観を示すなり。
  { 唯除座時 }以下は 第三に 総じて観修を結す。 
   上来 第一に 別して 止観を明す。」


  義記は、
  「 悲観の中に、先に 衆生の三世の重苦を観じ、次に{ 難捨 }の下は 心に厭背することなし。
   故に 苦をして限りなからしむるなり。 後に{ 衆生如是 }の下は 深く 悲心を発すなり。
    大願観の中に、悲に因りて 願を立つ。 初に 即ち願体、 二に{ 遍於 }の下は 長時心を明し、
   三に{ 以無量 }の下は 広大心を明し、 四に{ 令得 }の下は 第一心を明すなり。
    精進は 見るべし。
    上の結の中、 順理は 応作、違理は 不応作の故なり。
    上来 別して 止観を修し竟んぬ。 」



  先師は、
  「【大悲観】 
    顕示正義において説かれたる流転縁起の義を、現実の衆生の上に観察して そこに大悲を起すのである。
   前に 大悲を遠離して利他行を失う「止」の修習の過失を示されたが、今は その対治する観法である。

    一切衆生は、無始より以来 無明の妄染薫習によって その心を生滅せしめ そこに生死流転の苦海を
   出現し、過去久遠より 一切の身心に大苦悩を受け、今現に無量の苦悩に逼迫せられ、未来の所苦も限り
   なきものである。
   かく衆生は、無明薫習によって 三世に苦悩しつつ、その難捨難離にもかかわらず 厭背心なく苦因を
   知らず 果を思わず 苦を防ぐべき道をも覚知せず。
   ここにおいて、衆生は かくのごとく愍むべきものであると 大悲を観するのである。

   【大願観】
    大悲観は 大悲観に止まらず、次に 大願観を生ず。
   大悲勇猛心は、如何にして 大誓願を建てるのであるか? そこに大願心の四相を発見する。

     願体 ――― 願令我心離分別故   
     長時心 ――― 遍十方修行一切諸善功徳 尽其未来
     広大心 ――― 以無量方便 救抜一切苦悩衆生 
     第一心 ――― 令得涅槃第一義楽

    長時心・広大心・第一心は、具体的な大悲の実相である。 大悲は そのまま誓願である。
   永遠に一切を 最高に救わんとする願は、< 我が心をして 分別を離れしむる >ことをもって願体とする。
   すでに 幾度も説かれたごとく、分別を離れるとは、相対差別の世界を 真如門に立って観じて 諸境の
   分別すべきでないことを知ることであり、 生滅門に立って 後得智によって諸の真相を観察することであり、
   さらに、真如法性に随順して 根本無分別智を成就することであった。
   されば、「離分別」の自利成就の世界こそ 利他成就の主体たるべきものである。

    されば、前の止の修行において 沈没して退嬰的となり、利他を失うがごときは、分別の我見を出でざる
   ものである。   されば、大悲観を生じ 大願観を生ぜしむるは、分別心の捨離なるが故に、そのまま
   法性真如の徳の顕現であり、本論の所説によれば 浄法薫習による内因と苦悩の衆生という外縁との和合
   せる力の発露に他ならない。 菩薩一般の悲願は かくして生れる。

    長時心・広大心・第一心のごときは、その囚われたる主観の我見よりは生まれない。
   しかも 生死の衆生は 暴流に押し流されつつある。 いかにして この大願に触れるか?
   これ、行者に渡された問題である。

   【精進観】
    かくの如き大願観を起こすが故に、一切の時 一切の処において 所有の衆生の善 すなわち自利利他
   の行を 自己の堪能に随って 修行し精進することを捨てず、心に ついに懈怠を起さない。

    しかし、一切時 一切処に行ずるといっても、座して 止を念じ修行する時は 除く。その他の一切において
   理に順ずるをば 為すべく、理に違するをば 為すべからず、応作・不応作を 観察して 行ずべきである。
   観を行ずる時節を限定して、修観を結ぶ。」と。


                  

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