混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

僧伽について

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        真実(まこと)の人 ・ 真実(まこと)の国 (8)


                               ( 2006 10/8講話の 聞き書き )
                                          児玉暁洋 師



 すると、最初の 「 帰命心 」 ということの中に、今 言った 仏教 と キリスト教 と 儒教 と ギリシャの
伝統とを 全部含めて、「 絶対無限の妙有 」 という言葉で 表わされているのですね。

こういう言葉を使われることによって、阿弥陀仏の意味でもあるし、神の用(はたら)きでもあるし、天の用きでも
ある。 それは 文化が異なり 言葉が違うから、それぞれ独特の意味を持ちながら 一つに通ずるものがある、
と。 その一つに通ずるものを 「 絶対無限の妙用 」 という言葉で表現された。


 そうすると 「 絶対無限の妙用 」 の意欲 或は意志、それが 「 天意 」。
「 然れども 吾人(われら)の自覚は、避悪就善の天意を感ず 」と。 それは 22日の日記の中の 「 神の意志 」
でもある。 儒教では 「 天意 」。 

 それは 根本的には、キリスト教・儒教を そういうふうに見ていくことができる清沢先生自身の立場、
それは 仏教徒として、浄土真宗の門徒の一人として、阿弥陀仏の本願、絶対無限の妙用に乗托するという、
法の深信(じんしん)です。 如来の本願に乗托する、と。

そこから あらゆる道徳が生まれ、あらゆる人間関係が生まれてくる。こういうふうに言われているのです。


 それで、(一)の帰命心を そういうふうに了解する。 そこから (二)の満足心 というものがある、と。
明記不忘であって、忘れない。 絶対無限の妙用が 現前している、 それに 乗托する、  そこに 満足という
ことが、 どうして起こってくるか?


 一番最初に 満足ということが言われている。 これは この前も ちょっと 言いましたけれど、小泉さんと
小沢さんが 国会で討議して、教育基本法の改正案を出す話し合いの中で、二人に共通して言われたことは、
「 昔から衣食足って礼節を知る 」 と言うけれども、今 日本は 衣食足っても礼節を知らない、と。

そして 今まで考えられなかったような 犯罪が起こる。 親が 子供を殺したり 子供が 親を殺したり、
これは 一体 どうしてか? と。 分らないわけです。本当に分らないのだと思いますよ、僕は。
だから 闇くもに 規則を作って、愛国心とか 権利ばっかり主張しないで 義務を守りなさいとか、何か 外から押さえつけるような表現になっている。


                (つづき) 

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        真実(まこと)の人 ・ 真実(まこと)の国 (7)


                               ( 2006 10/8講話の 聞き書き )
                                          児玉暁洋 師



 「 すなわち 我々の 神の意志への忍従 ( この忍従――レジグネーション――は、リザインという言葉から
来るんですが、もとは 「 任せる 」という、或は 譲り渡す、任せる という意味です。清沢満之の言葉で言うと
「 乗托する 」、神の意志に乗托する、任せる。 我々の意志がなくなって 神の意志の中にとけこむ、と。
とけこむということは、そのものになる、そのものに変形する。例えは よくないかもしれぬけれども、牛乳の中に 
水を入れると、その水は 牛乳の味がする、と。だから 神の意志にとけこむと、自分の意志というものが溶解して 
神の意志と一体に変形していく、と。 内容が変えられていく、と。そういう含みをもって )  は、我々の意志が
なくなり 神の意志の中に溶けこむ時、我々が 神の意志を我々の目的とし、それ自体で 最も正しく 最も良いもの
として 神の意志の中に休らう時、完全であると言える。」(バトラー司教) と。


 そうするとこれは、キリスト教信仰で 一番典型的表現は「 神の意志 と 自己の意思 の一致 」と、こう言う。
それが 信仰ということの内容になるわけですね。 そのことが、ここに 帰命心(信仰)と出てくる。
それは 絶対無限の妙用myou/yuuに乗托して、 その絶対無限なるものの意志ですね、 それを

 「 吾人の自覚は 避悪修善の天意を感ず 」

と。 「 天 」 という言葉は 儒教の伝統ですね。 これは、『 我が信念 』 の最後に 「 死生 命あり  富貴 
天にあり 」という、「 私の信ずる如来は 天と命との根本本体である 」 と、そういう言葉の中にも出てきます。

 その背景には 儒教がある。

 これは 聖路加病院の日野原さんが 指揮者の小沢征爾さんと一緒になって 昨年広島で 世界に向って平和
を訴えられたでしょう。その時 日野原さんが 詩を書かれて、どういう気持ちで その詩を書いたか話された時、
「 今まで原爆反対 々々 と言ってきたけど、反対だけでは駄目だ 」と。そこに 愛というものがなければならない。

 愛というものの具体的な形は“ 恕 ”(ゆるす)ということだ。恕して 一緒に平和になっていかねばならない。
敵対関係のなかで アメリカは原爆を落としたから 彼らは駄目だ、と言うのではなく、恕すということがなければ
ならない。 あの人は キリスト教の流れの方ですが、 恕というのは 実は 儒教の中心の言葉なのですね。

 恕というのは どういう処に出てくるか というと、『 論語 』 の中で 子貢という人が 孔子に

 「 一生涯 その一(ひと)言を守って生きて行ったら いいという、そういうことは何でしょうか? 」

と聞くのですね。  そうすると 孔子は 何と答えたかと言うと、 「 恕なり 」と。 そして、

 「 己の欲っせざる処を 人に施すなかれ 」

と。 恕とは 「 許す 」 ということですね。 ただ ふつうの意味の 許す ではなくて、その内容として
「 己の欲せざる処を 人に施すことなかれ 」と。





                 (つづく)


           

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        真実(まこと)の人 ・ 真実(まこと)の国 (6)


                               ( 2006 10/8講話の 聞き書き )
                                          児玉暁洋 師




 さらに それを構造的にとらえる為に、

 (一) 帰命kimyou心(信仰)   (二) 満足心   (三) 無欲心

・・・・ そして そこの所に (註)があって、‘22日の日記を参照してくれ’ とあるのですね。

 
 「 何ものをか 善なるや  何ものをか 悪なるや、 
   他なし 吾人(我ら)をして 絶対を忘れざらしむるもの これ善なり 」


 その「 絶対 」を忘れないということ、忘れないということは 明記不忘、はっきりと記憶して忘れることがない
という、これは 念仏の「 念 」という言葉の定義やね。 忘れないということは、ただ 頭の中に覚えている
ということではなくて、そのことが 現前している、その人の目の前に ちゃんと在るという、そういう意味です。

 「 絶対 」を忘れないというのは、「 絶対 」が 今 現に 自分の前に現れているということ。
その「 絶対 」というのは 絶対無限の妙用(アミダのはたらき)、阿弥陀仏が ちゃんと そこに現前している。
目の前にあるという、だから それに乗托するという、それが 帰命心、「 よりたのむなり 」「 よりかかるなり 」 
という。 それが 信仰心である。


 これが 帰命心であると言われるのは、「 帰命無量寿如来 」、正信偈の一番初めにある、これ帰命やね。
六字釈の一番初めにある 「 南無というは 帰命 」、 南無阿弥陀仏の南無は 帰命心である、と。

  ** 六字釈 : 南無阿弥陀仏の六字の意味を明らかにした 中国唐の善導の解釈、『観経疏』にある。

 それに( )して 信仰というのは、実は キリスト教の伝統というものを、浄土真宗の立場から キチッと清沢先生が受け止めて、帰命心(信仰心)と書いてあるわけです。

 それを左に英語で書いてあるのは、清沢先生が自分の文章を書かれたのではなく、清沢先生がエピクテタス
教訓書という本の中から 写しておられるのですね。 今村均氏の訳で そこを読みますと、

 「 エピクテタスは ソクラテスの例を挙げている。 ソクラテスは、もし 神がどこかに 我々を置いたなら、
   我々は そこを 去るべきではない、と言った。 エピクテタスの教えを 簡潔に言い表わせば こうなる。
   即ち 人間は あらゆる事柄について 神に感謝すべきであり、何が起きても 常に それに満足すべき
   である。 というのは、神が選ぶものは 人間が選ぶものより 良いからである。
   これは、バトラー司教(キリスト教聖職者)が 次のように言うのと 同じである。」


 ここに、キリスト教の立場から エピクテタスをどう読むか と、つまり ヘブライの伝統とヘレニズム(ギリシャ)
の伝統と 一つになって、バトラーのエピクテタス理解、それで神ということが出てくる。
もちろん、エピクテタスも 神ということが出てくるけれども、司教は 次のように言った、と。




                     (つづく)

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        真実(まこと)の人 ・ 真実(まこと)の国 (5)


                               ( 2006 10/8講話の 聞き書き )
                                          児玉暁洋 師




 そうすると、真実の人間 と 真実の国 を 念仏が開き、 生み出してくる、と。 えらいことが言うてある。

 それを、今 我々が どんな人間を 教育の中心に置くか、 日本を どんな国にしたいか、という課題に対して、
そういう時代社会の問いかけを この身に受け止めて、 そうして 改めて 浄土真宗の教えに聞く。

すると、そこに 念仏において 真実の人間が生まれ、真実の国が そこ(念仏)から開かれてくる、と。
しかも、それが 明治という 近代日本の中に生きた人 清沢(満之)先生の言葉bに 開示されている、と。


 そうすると 1898年に記されたお言葉の中に、 
前半は 自己の発見(真実の人間の在り方)、後半は 人間関係(展開していけば国の問題になる)、
その二つのことが 一番基本的な姿で キチッと表現されている。

そういう1つ大きな眼を見開きながら、もう一度 清沢先生の言葉に学んでいこう、ということになります。


 それで 問題は、自己の発見というところ
〜 我らは むしろ ただ 絶対無限の我らに賦与せるものを楽しまんかな 〜 から 後半ですね。
すぐ続いて、

 「 絶対 吾人(我ら)に賦与するに 善悪の観念をもってし、避悪就善の意志をもってす。
   ・・・ 、吾人は 喜んで この事に従わん。何ものか 善なるや、 何ものか 悪なるや ・・・ 
   満足を生ずるものは 善なり、不満を生ずるものは悪なり・・・ 」

と 展開して行って、 そこに図式があり、 満足/無欲心 ・・・ 慈悲心/仏心 と。
善というのは、仏心に生きることだ と、最終的にね。


 これは 親鸞聖人の 『 教行信証 』信の巻に、

 「 真実信心を獲得gyakutokuする者は 現生gensyouに十種の益yakuを獲uる 」 と。

その9番目に「 常行大悲の益 」とあります。 

 大悲というのは 無条件の愛ですね。アンコンディショナル・ラブUnconditional Love(鈴木大拙)
〜 仏だけが 行うことができる そういう大慈悲心を、凡夫である我らが この五濁悪世と言われる娑婆世界
の真っ只中に生きておる凡夫が、 しかもなお その真実信心の故にその仏の心を実践することができる、と。

 そういうふうに 『 教行信証 』に チャンと書いてある。
それを この善の体系の最後の所に 清沢先生は 受け止めておられるわけです。


 




 ** 「 絶対他力の大道 」(清沢満之の日記)

 自己とは他なし、絶対無限の妙用myouyuuに乗託して任運ninunに法爾houniに、此koの現前の境遇に落在
 せるもの、即ち是なり。只だ夫れ絶対無限に乗託す。 故に死生のこと憂ふるに足らず。 死生 尚naほ且kaつ
 憂ふるに足らず、如何ikaにいわんや之より而下jigeなる事項においてをや。 追放可なり。 獄牢甘んずべし。 
 誹謗擯斥許多amataの陵辱 あに意に介すべきものあらんや。 我等は 寧musiろ、只管tada 絶対無限の
 我等に賦与せるものを楽しまんかな。


 ** 人類の教師 清沢満之
 親鸞の歎異抄を深く味わい、釈迦の阿含経、ソクラテスの流れをくむ、エピクテタス語録等を究明していて、
 絶対他力の精神主義を提唱した。 結核で血を吐きつつ浜風の寺で記した臘扇記のページに、世界的統一文化
 の原造者を目指した満之の深い思索と信仰の ...
            http://www.japan-net.ne.jp/~kiyozawa/manshi/kiyosawa.html





                  (つづく)

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        真実(まこと)の人 ・ 真実(まこと)の国 (4)


                               ( 2006 10/8講話の 聞き書き )
                                          児玉暁洋 師





 で、仏のことを 「 真実者 」 と 初めて言った人は、聖徳太子なのです。

 中国の人が 真実者を ‘真実ならば’ と読んでいた経の言葉を、者(しゃ)と読みかえ(勝マン経)られた。

 それから 阿弥陀の浄土ということに関しては、天寿国繍帳に 「 世間虚仮 唯仏是真 」 という言葉が
残っており、 その言葉を受けて 歎異抄が、

 「 煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は、 よろずのこと みなもて 
   そらごと たわごと まことあることなきに、 ただ念仏のみぞ まことにておわします。」

という。 それとつながって、 天寿国というのは 阿弥陀の浄土に違いない、と言われています。
ずーっと それは、聖徳太子から親鸞聖人まで、さらに清沢先生は 真実(まこと)を生きられた。


 衆目の一致するところ、ここに 清沢先生の目覚めがある と考えられる有名な言葉が、

 「 自己とは他なし。 絶対無限の妙有に乗托して、 
   任運に 法爾に この現前の境遇に落在せるもの、すなわち これなり。」

であります。


 それで、これは 近代ヨーロッパ世界で 自我の目覚めということが起こってくる その近代の自我を乗り越えて 
真実の自己を発見するという、 ヨーロッパの文化に対しては、そういう意味を持ってくる。

 そして伝統的に蓮如上人によって、「 信心獲gyaku得 」と言われているのは、自己の発見ということだ、と。

 両方、こういうように結びついてくる。



 それで、‘ 国 ’ というのは、今日 世界と言ったら 地球とか ワールドニュースとかいうイメージが
湧いてくるのですが、 もともと 世界という言葉は 仏教の言葉で使われておりまして、 

 例えば 浄土論のなかに 「 観彼世界相 」と、阿弥陀の浄土のことを 「 彼kaの世界 」 と言ってある。

 この場合、漢文として 「 世 」 というのは、時間、 三世(過去・未来・現在)のこと。 「 界 」というのは、
一つの空間的な場所。 だから 時間・空間ですね。 人間の生活が、時間・空間として 展開している。

 これは、歴史と社会ですね。 で、歴史と社会を 一つにしたのが、「 国 」 なんです。

 こういう風に、言葉の意味を 解析しながら 統合していくと、「 国 」 ということは 歴史と社会、
単なる広がりだけではなくて、そこには 歴史がある。その 歴史と社会 を 一つにして 「 国 」 と言う。



                    (つづく)


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