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ルイ9世(Louis IX, 1214 〜 1270)
死後、カトリック教会より列聖され、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれる。
内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は
繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者
と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。
宗教的情熱から 2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、
自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わる。
21? ボナヴェントゥラ 生れる(〜74)
22 日蓮 生れる(〜82)
25? 南イタリアの貴族の家に トマス・アクィナス 生れる(〜74)
十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まった
ことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は
途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、
度重なる禁止令にもかかわず、これをとどめることはできなくなっていた。
また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、
イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が
堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。
1226 父ルイ8世没 → ルイ9世、12歳で即位。母ブランシュ摂政。
九条頼経、鎌倉幕府将軍に就任
29 ローマ教皇インノケンティウス3世の要請で祖父フィリップ2世の時 始まった
南仏のアルビジョワ派(カタリ派)への十字軍(アルビジョア十字軍)に勝利。
親政を始める。
※‘25年に破門に追い込んだトゥールーズ伯レーモン7世の娘 ジャンヌとルイ9世
の弟アルフォンスとの婚姻及び将来の相続を約する協定を結ぶ。
※‘29年から異端審問が始まった。アルビ派と認定されれば火刑となり、遺体が
掘り出されて火刑とされることもあった。アルビ派であることを放棄すれば命は
助かったが、当時の人間にとって 信仰は しばしば命より重要であり拒否する者
も多く、アルビ派は砦にこもり反抗する者が相次いだ。‘40 カルカソンヌ子爵の
子レーモン・トランカヴェルらが蜂起したが鎮圧され、‘44までに反乱はほとんど
終結した。
→ 独自の文化を誇った南フランスは 20年(1209- 29)に渡る戦乱で
荒廃し、フランス王の支配下に入ることにより北フランス文化の流入を
受けることになった。
41 ポワチエの反乱
西フランスの有力貴族・ラ・マルシェ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンの
への「臣従の誓い」の際、単なる臣下の妻として扱われた為、これを
侮辱だと激怒。夫と息子ヘンリー3世を扇動して反乱を起こす。
⋆ ユーグ9世の元婚約者で イングランド王ジョンの未亡人。
イングランド王ヘンリー3世の母、王太后扱いを受けていた
ルイ9世が鎮圧を始めると配下の城は次々と降伏し、これを見た
イングランド諸侯はヘンリー3世を見捨てて帰国。ユーグ10世夫妻 降服。
‘43 ヘンリー3世は 大陸に所有していたガスコーニュを占領されたが、
ガスコーニュ領有を認められるという寛大な条件で和平協定が結ばれ、
以後、ルイ9世在位中、フランス国内外は平和が続いた。
(1229年 第6回十字軍で エルサレムはキリスト教勢力の手に戻り、10年の休戦協定
が結ばれていた)
これに対する西欧の反応は、1187年の陥落と比べて遥かに少なかった。
イングランド王ヘンリー3世も シモン・ド・モンフォールらの第二次バロンの乱の対応
で忙しく、十字軍には関心を示さなかった。
また、西欧は 第1回十字軍の頃と比べて 格段に豊かになっており、命や財産を
失う危険を払ってまで聖地を取り戻そうとする宗教的情熱は人々の間から失われ
つつあった。
十字軍国家も、ある程度の共存が成立していたイスラム勢力との関係が十字軍
によって悪化することを恐れ、軍の派遣を望まなかった。
この頃、トマス・アクィナス、ドミニコ会士 アルベルトゥス・マグヌスに出会う。
47 親鸞(75歳 1173〜 1262)、『教行信証』 完成
48 第7回十字軍
当時西欧一の実力を誇り 信心深かったフランス王国の国王ルイ9世は、
エルサレム奪還に強い興味を示し⋆、母ブランシュや重臣の反対を押し切って
十字軍を起こすことを決めた。
⋆ ‘44 赤痢に罹ったルイ9世は、もし快復すれば東方遠征を行うことを
神に誓い、病から立ち直るとすぐ十字軍の準備に取りかかる。遠征の準備
には 4年の歳月が費やされ、その間 カマルグにエギュ=モルト港を建設。
ルイ9世は、弟のトゥールーズ伯アルフォンス、アンジュー伯シャルル、
アルトワ伯ロベールなど2万ばかりの軍勢を引きつれ、海路でキプロス
に到着。
ここで現地諸侯らを集めて会議を開き、目的地を討議。ラテン帝国からは
はシリアを攻めることが提案されたが、ルイ9世はエルサレムを確保した上
で これを維持するために エジプトを占領することが必要だと判断。
49 6月にエジプトに上陸し、海港ダミエッタに攻撃をしかけた。
ダミエッタの指揮官と兵は街を放棄し、十字軍は容易にここを占領したが、
ナイル川の氾濫で 6ヶ月 ここで足止めを食う。
ダミエッタ占領後、諸侯らは食料の運搬に適した港のあるアレクサンドリア
を次の目標として考えたが、弟アルトワ伯ロベールのカイロ攻撃の意見を
採って カイロへの進軍を決定。
当時 アイユーブ朝スルタンのサーリフは病床にあり、ルイ側に休戦を
打診したが、ルイは これを断り、11月にカイロに向けて進軍を開始。
11月23日にサーリフは病死し、ファフル・アッディーンが代わりに軍の指揮
を執った。
50 2月、十字軍はマンスーラに侵入、マムルーク軍の待ち伏せにあい、
壊滅的な打撃を受けた(マンスーラの戦い)。
27日にはサーリフの息子、トゥーラーン・シャーがシリアから帰国、艦隊
を率いて 十字軍の補給路を断ち、十字軍を 病や食料不足で苦しめる⋆。
⋆ 兵士の間に 赤痢と壊血病が蔓延して 多数の死者を出した。
十字軍、停戦を申し入れるも拒否されたため、3月に包囲を解いて撤退
を開始、追撃してきたエジプト勢に包囲され、全員捕虜(1万人超)となった。
解放交渉の途中 クーデターで、アイユーブ朝のスルタンが廃され、
マムルーク朝となり、マムルーク朝との交渉で、ダミエッタ等の占領地の
放棄と、40万リーブルの莫大な身代金で ルイは解放され(テンプル騎士団
が支払う)、5月に アッコンに向かった。
この身代金で開放されたのは捕虜全体の一部だけで、そのほかの捕虜
は奴隷となるか、イスラムに改宗することを余儀なくされた。
その後、ルイ9世はアッコンを根拠地にし、マムルーク朝と同盟して
シリアに勢力拡大を図った⋆が 成果は挙がらないまま、
⋆ ルイ9世は、フランスに残って統治する母后ブランシュ・ド・カスティーユ (1188
- 1252) を補佐させるために、王弟アルフォンス・ド・ポワチエ (1220 - 71)
と シャルル・ダンジュー(1227 - 85)をフランスに帰し、自身は帰国せず、
レヴァントのラテン諸国家を現地で支援、アッコン、カイサレア、ヤッファ、シドン
の各砦の補強と防衛に携わる。
また、イスラム教に対する同盟国を見つけるため、1253年にフランシスコ会 のウィリアム・ルブルックを モンゴルへ派遣した。
54 フランスの摂政として留守を任せていた母ブランシュの死去の知らせ
を受けて フランスに帰国。
57 ルイ9世の宮廷司祭 ロベール・ド・ソルボン(1201-74)、貧しい神学部学生
のためのソルボンヌ学寮を設立。
59 ソルボンヌ学寮、教皇の許可を得る。
ソルボンヌは 後に 神学部、引いては パリ大学の代名詞となる。
‘60 秋 イルハン朝を建国。
‘62 親鸞 没
クビライ、モンゴル皇帝(大ハーン)となる。
‘65頃 トマス・アキィナス、『神学大全』の著述を始める。
第7回十字軍失敗の後、ルイ9世は内政に励んできたが、健康の不調
で 先が長くないと感じ、死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望んだ。
この間にマムルーク朝スルタンとなったバイバルスは、シリアにおける
キリスト教都市の大部分を征服しており、アッコン、トリポリ等が キリスト教側
に残るのみだった。
68 シャルル・ダンジュー⋆1、教皇ウルバヌス4世(61 - 64)の命で、シチリア王位⋆2
の正当な後継者 コンラディンを破って ナポリに連行、斬首し、
シチリア王となる。
⋆1 シャルルの妻・プロヴァンス伯の四女ベアトリス (1234 - 67) で、
このプロヴァンスは アルル・ブルグンド王国の一伯領、アルル・
ブルグンド王は 神聖ローマ皇帝の臣下だった。 つまり、シャルルは
フランス王の弟でありながら、神聖ローマ皇帝の宋主権下にあった。
⋆2 シチリアは本来 ローマ教皇領だったが、当時は 神聖ローマ帝国の 実効支配の下にあった。神聖ローマ帝国は その「イタリア政策」ゆえに、
皇帝フリードリヒ1世 (1123 - 1152 - 1190) の治世 1157年以来、教皇
と対立関係にあった。50年 皇帝フリードリヒ2世 (1194 - 1220 - 50)
が没すると、後を襲った次男コンラート(コンラート4世 1228 - 54)は
庶兄マンフレディと協力して シチリア王国を確保した。
→ コンラディンは、ホーエンシュタウフェン朝を支持するギベリン党の諸都市
によって、正当なシチリア王と認められていた。封建法は 捕虜となった君主の
処刑を禁じていたため、これは非常に問題のある措置だった。
コンラディンの処刑によって ホーエンシュタウフェン朝は断絶し、ルイ9世は
シチリアを 東方への足がかりとして確保した。
シチリア王 シャルル・ダンジューは、かつてシチリア王国に貢納していたが
付き合いがあり、キリスト教への改宗も考えているといわれており、ルイ9世は
それを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えた。
70 第8回十字軍
チュニジアに上陸すると 現地勢力の抵抗を受け、滞陣中に飲み水の
劣悪さや暑さにより 病気が蔓延。
8月 チュニス攻略戦のさなかに ルイ9世が没した他、娘婿のナバラ王
テオバルド2世が帰途 シチリアで没するなど、死亡者が相次いだ⋆。
⋆ フィリップ3世の妃イザベル ( 1247 - 71) も、フランスに帰国する途中
シチリアで、また 王弟アルフォンス・ド・ポワチエ と 妃ジャンヌ (1220 - 71)
も相次いでイタリアで没した。
ルイ9世の死体は解体され、一部がチュニジアに、別の一部がパレルモ
近郊のモンレアーレに、また 骨と心臓はサン=ドニのバシリカに埋葬された。
シャルルと王太子フィリップ(フィリップ3世 1245 - 85)は 10月まで滞陣し、
チュニジアとの貿易の回復、キリスト教徒の保護、賠償金等の条件で
スルタンと和睦。
フィリップは フランスに戻り、シャルルは 新たに到着したイングランド王太子
エドワード(エドワード1世)と共に アッコンへ向かう(第9回十字軍)。
‘71 クビライ、自らの支配する国の国号を大元と改めた。
日蓮、佐渡流罪
‘74 蒙古襲来(文永の役)
79 カラーウーン、マムルーク朝 スルタンとなる。
91 アッコン陥落 → 十字軍国家滅亡
時は移って
700年後
☟
シリア
15世紀頃 - オスマン帝国の支配下に。
1798 ナポレオン、エジプト遠征
1920 - シリア・アラブ王国が独立、ファイサル1世が初代国王に即位。
フランス・シリア戦争→ フランスが占領
セーヴル条約により フランスの委任統治領(1920-46)となる。
36 9月 - フランス・シリア独立条約交渉でフランスが批准を拒否。
46 シリア共和国として フランスより独立。
自治権を求めるアラウィー派の反乱、政府により鎮圧。
産経 2015.1.22
【ロンドン=内藤泰朗】 「イスラム国」に対抗する米英主導の有志連合に参加している
21カ国と欧州連合(EU)の閣僚級会合が22日、ロンドンで開かれた。ハモンド英外相
とケリー米国務長官がホスト役で、イラクやシリアに浸透し、パリのユダヤ系食料品店で
起きたテロでも関与が取り沙汰された組織の封じ込め戦略を協議したもようだ。
会合には、欧米諸国の他、イラクのアバディ首相ら中東諸国の閣僚も参加。有志連合が
イラクとシリアで 昨年夏以降続けているイスラム国への空爆の成否を評価し、イスラム国
への過激派流入と資金源を断つ方策などについて協議。
空爆は これまでに1000回以上行われた。
欧米諸国では、イスラム国などの過激思想に共感する若者たちが増加傾向にあることも
明らかになっており、その対策も議題となる見込みだ。
ケリー氏は 「 テロリストたちはわれわれを分断させようとしているが、反対に 結束は強化
している 」と表明。ハモンド氏は 22日、英BBCテレビに、イスラム国のイラクからの排除
と封じ込めに自信を示した。 両国とも、戦いは成果を挙げているとする一方、数年に及ぶ
との見通しを示した。 |
ブランシュ(1205 - 06)
アニェス(1207)
フィリップ(1209- 18)
アルフォンス(1213) ジャン(1213) - アルフォンスの双子の兄弟
ルイ9 (1214 - 70) - フランス王
ロベール(1216 - 50) - アルトワ伯
フィリップ(1218 - 20)
ジャン・トリスタン(1219 - 32) - アンジュー伯、メーヌ伯
アルフォンス(1220 - 71) - ポワトゥー伯、オーヴェルニュ伯、トゥールーズ伯
フィリップ・ダゴベール(1222 - 32)
イザベル(1225 - 69)
シャルル(1226 - 85)
- アンジュー伯、メーヌ伯、プロヴァンス伯、フォルカルキエ伯、シチリア王
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人物
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参考: 吉田松陰の朝鮮論
吉田松陰 - Wikipedia ( 1830 〜 59 )
文政 13 安政 6
藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争し、
天下は 万民の天下にあらず、天下は 一人の天下なり。
※ 一人とは 天皇のこと。
『栗原良三に復する書』 ( 1852 嘉永5年 )
皇朝、武を以て 国を立つ。其(そ)の盛時は 高麗・新羅を懾服して 使を
百済・任那に駆りしこと難からざりしなり。 寛平に至りて、新羅来寇す、則ち
撃ちて 之(こ)れを却(しりぞ)けたるも、是(こ)の時は 古の雄略 復た見るべき
なし、而(しか)れども 防守は 尚(な)ほ 人ありき。 其の他は 則ち 言ふべき
ものなし。……豊関白(豊臣秀吉)起るや、三韓を鏖(皆殺し)にし、有明を圧し、
勢将に古の略に復せんとす。不幸にして 豊公 早く薨じ、大業継かざりしは
惜しむべきかな。然れども 余威 猶(な)ほ 百蛮に震ひて 数世に延ぶ、盛なり
と謂(い)ふべし。降りて 近時に及んでは、事 言ふに忍びず。
……国威の衰頽、最も 未だ曾て 有らざる所なり。
嘉永6年(1853) 黒船来航
上海でサスケハナ⋆に旗艦を移したペリー艦隊は 5月17日に出航し、同26日に
琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊。
⋆ サスケハナ川に スリーマイル原発があった。
ペリーは首里城への訪問を打診したが、琉球王国側は これを拒否。
しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進
しながら首里城まで進軍した。
琉球王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリー
は武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は 北殿で茶と菓子程度
でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに 場所を城外の大美
御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を
「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。
しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、
ペリーへの拒否(親書の返答)を示していた。友好的に振舞ったことで武力制圧
を免れたが、琉球王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。
『幽囚録』 ( 1854 安政元年 )
朝鮮と満洲とは相連なりて 神州の西北に在り、亦皆海を隔てて近きものなり。
而して 朝鮮の如きは 古時 我れに臣属せしも、今は 則ち 寖(や)や倨(おご)る、
最も 其の風 教を詳かにして 之(こ)れを復(かえ)さざるべからざるなり。・・・
「日升らざれば 則ち 昃(かたむ)き、月盈たざれば 則ち 虧(か)け、国盛んなら ざれば 則ち 替(おとろ)ふ。 故に 善く国を保つものは 徒(いたずら)に 其(そ)の
有る所を失ふことなきのみならず、又 其の無き所を増すことあり。
今急 武備を修め、艦 略(ほぼ)具(そな)はり、礟足らば、則ち 宜しく蝦夷
を開拓して、諸侯を封建し、間に乗じて 加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)
を奪ひ、琉球に諭(さと)し、朝覲会同すること 内諸侯と比(しと)しからしめ
朝鮮を責めて 質を納れ 貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は 満州の地を割き、
南は 台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし。
然る後、民を愛し士を養い 慎みて辺圉(ぎょ )を守らば、則ち 善く国を保つと
謂(い)うべし。
※ 朝覲(ちょうきん): 諸侯または属国の王などが、参内して君主に拝謁すること
(安政元年十二月十二日付書簡)
今大いに船艦を打造し 北は 蝦夷を収め 西は 朝鮮を服し、駸々然として
進取の勢を示し候はば、群夷自から手を収むべし。何となれば 縦令(たとえ)
一度 近づき少利を得るとも、又 其の本国を襲はれん事を恐るるなり。
計(はかりごと) 此(こ)れに出でずんば 永久を保するの策に非ず。
『清国咸豊乱記』( 1855 安政2年 )
朝鮮を来たし(朝貢させ)満洲を収めんと欲すれば 則ち 艦に非ずんば不可なり。 是れ余の本志なり。 今は 未だ ここに及ばず、則ち 巨艦待つべきなり。
(安政二年四月二十四日付書簡)
魯(ロシア)・墨(メキシコ) 講和一定す、決然として我れより 是れを破り 信を戎狄に
失ふべからず。 但だ 章程を厳にし 信義を厚うし、其の間を以て 国力を養ひ、
取り易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて 魯国に失ふ所は 又 土地
にて鮮満にて償ふべし
『治心気斎先生に与ふる書』(「野山雑著」)
宜(よろ)しく章程を厳にし約束を謹みて、其れをして驕悍(きょうかん)に至ら
しめざるべし。間に乗じて 満洲を収めて 魯に逼り、朝鮮を来たして 清を窺ひ、
南洲を取りて 印度を襲ふ。 三者 当に其の為し易きものを択びて 之れを為す
べし。是れ 天下万世継ぐべきの業なり。天下の勢、或は 未だ ここに至ら
ざれば 則ち退きて 吾が国を治め、武を偃し 文を修め、賢能を招き士民を養ひ、
声息を潜めて 形跡を歛むるも、猶ほ 以て 一方の安を受けて これを子孫に
伝ふるに足らん。……是れを 之れ勉めずして 船を造り砲を鋳るを是れ事とす、
是れ 僕の甚だ惑ふ所以なり。
『丙辰幽室文稿』( 1856 安政3年 )
「久坂玄瑞に復する書」 今の計たる、疆域を謹み 条約を厳にして、以て 二虜を覊縻し、間に乗じて
蝦夷を墾き 琉球を収め、朝鮮を取り 満洲を拉き、支那を圧し 印度に臨みて、
以て 進取の勢を張り、以て 退守の基を固めて、神功の未だ遂げたまはざりし
所を遂げ、豊国の未だ果さざりし所を果すに若(し)かざるなり。
神功: 神功皇后 - Wikipedia 豊国: 豊臣秀吉
「外征論」 夫れ坤輿の形勢は、合はせざる能はざる者あり、合はせざるべからざる 者あり。我が奥越の如きは、地脈接続し、合せざる能はざる者なり。
三韓・任那の諸蕃は、地脈接続せずと雖も、而も形勢対持し、吾れ往かずんば
則ち 彼れ必ず来り、吾れ攻めずんば 則ち 彼れ必ず襲ひ、将に不測の憂を
醸さんとす。是れ合はせざるべからざる者なり。
安政5年(1858)
幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒、
討幕を表明して、老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。
だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して
同調しなかったため、計画は頓挫。 さらに、松陰は 幕府が日本最大の障害
になっていると批判し、倒幕をも持ちかける。
結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。
「桂小五郎あて書簡」(二月十九日付)
此の段 幕許を得、蝦夷同様に相成り候はば、異時 明末の鄭成功 の功も 成るべくかと思はれ候。此の深意は 扠(さ)て置き、幕吏変通の議、興利の説
今日の急に候へば、竹島開墾位は 難事に非ざるべし。是れ 一御勘定の
主張にて行はれ申すべくと黙算仕り候。委細 玄瑞 存知の事に付き御運籌
下さるべく候。天下無事ならば 幕府の一利、事あらば 遠略の下手は 吾が藩
よりは 朝鮮・満洲に臨むに若(し)くはなし。朝鮮・満洲に臨まんとならば 竹島
『対策一道』( 四月中旬)
凡(およ)そ 皇国の士民たる者、公武に拘(かかわ)らず、貴賤を問はず、 推薦抜擢して軍師舶司と為し、大鑑を打造して船軍を習練し、東北にしては
蝦夷・唐太、西南にしては流虯〔琉球〕。対馬、憧々(しょうしょう)往来して虚日
あることなく、通漕捕鯨以て操舟を習ひ 海勢を暁り、然る後 往いて 朝鮮・
満洲 及び清国を問ひ、然る後 広東・咬(カ)ル〔口偏に留〕吧(パ)〔ジャカルタ〕・
喜望峰・豪斯多辣理、皆 館を設け 将士を置き、以て 四方の事を探聴し、
且(か)つ 互市の利を征(と)る。此の事 三年を過ぎずして 略(ほ)ぼ弁ぜん。
然る後 往いて 加里蒲爾尼亜(カリフォルニア)を問ひ、以て 前年の使に酬い、以て
和親の約を締ぶ。果して 能く是(か)くの如くならば、国威奮興、材俊振起、
決して 国体を失ふに至らず。
『続愚論』( 五月下旬 )
清国・朝鮮・印度抔の近国へ出掛け候様成され候はば、数年の内 航海の 事は大いに行はれ申すべく存じ奉り候・・・
商船漸く増し、土貨漸く殖え、而して 互市漸く盛んなれば、乃ち 軍艦を造る。
軍艦には必ず砲銃を備へ、士卒を充て、商艦は以て輜重に当つ。ここに於て
欧羅・米利も、遠くして到るべからざることなし、而して 朝鮮・満洲は 之れ言ふ
に足らんや。
「久坂玄瑞あて書簡」(六月二十八日付)
英〔口偏に英〕夷 既に拠るとも苦しからず、矢張り 開墾を名とし交易をなし、 因つて 外夷の風説を聞くこと 尤も妙、英〔同上〕夷 既に拠れば 別して差捨て
難く候。左なく候ては いつ何時 長門などへ来襲も測るべからざるなり、
寸板も海に下す能はざるの陋を破るには 是れ等にしく妙策は 之れなく候。
黒龍・蝦夷は 本藩よりは迂遠、夫れよりは 竹島・朝鮮・北京辺の事こそ本藩
の急に相見え候・・・
英〔同上〕夷闢きかけたれば 尚ほ可なり。何分一寸なりと 外へ張出さねば
相捌けず候。水軍を仕向くると云ふは 尚ほ愚論なり。水軍にて行けば 彼を
備をする、商船で行けば 彼れも商をするなり。
※ 英〔口偏に英〕夷: イギリス
「桂小五郎あて書簡」(七月十一日付)
朝鮮に懸け合ひ、今に空島に相成り居り候事 無益に付き、此の方より開く なりと申し遣はし候はば 異論は 之れある間布く、若し 又洋夷ども 已に彼れ
が有と相成り候はば致方なし。開墾を名とし 渡海致し候はば、是れ 則ち
航海雄略の初めにも相成り申すべく候。
安政6年(1859) 10月27日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送され、
評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。 時移って、 1915年 (大正4)の状況は、以下の如くである。
満洲の日貨排斥熱 (奉天特信) 神戸新聞 1915.4.19(大正4)
日支交渉は 其の遷延又遷延と共に 益益(ますます) 支那の民心を動揺せしめ
各地に謡言蜚語 盛に行われ、彼の日貨排斥の如きは 支那商品本来の希望
にあらざれど、或筋よりの強制 及び 日本留学生其他の煽動に余儀なくせられ
て行いつつある姿なるが、此の日貨排斥に対し 支那の官民が表面その取締を
なすと共に 裏面 謂(い)う所の土貨振興に努め、各方面に其声を高めつつある
は注意すべき事なり。
満洲にも 此の土貨振興の勧誘をなすべく入込める支那人少からず。彼等は
日貨排斥を公然口にせざるも、土貨振興の必要急須を説きて成(な)べく 外国品
を用うる勿れ と熱心に首唱し居るは、欧洲戦乱の為に欧洲品の輸入少く、其の
外国品なるものが 殆ど日本品なるに徴して、其の土貨振興説の日貨排斥と意
を等しうするを観取するに難からず。流石(さすが)に巧妙なる支那人だけありて
日本の国産奨励を見様見真似に旨きことを考えたるものと謂うべく、日本も
国産奨励の声を大にして 支那人に好き智恵を与えたりと言わるるも致方なき
次第となりたり。
支那に於(お)ける今日の土貨振興説は、斯の如く日貨排斥の仮託言として
行われ居るも、併(しか)し乍(なが)ら 支那の政府当局者が 一面 切実に土貨
振興の必要を認め居ることは、事実にして 袁(世凱)総統の徴偶を受け 相当に
羽振を利かせる 梁士詒の如きが 其(その)商業奨励策の内に於いて 熱心
土貨振興の要を力説し居るに見るも、其の一斑を推知するに難からず。而(しか)
も 工業の 猶(なお)甚だ幼稚なる支那が 如何にして 土貨振興の実を挙ぐべきか
は 其(その)観説の盛んなると反対に、未だ 夫(それ)らしき具体的意見の聴く
べきものなし。此点は 矢張 支那人にして 思想の空疎を免れず。
尤(もっと)も 全く其の方法を説かずという訳にもあらず。彼等が其の唱うる
土貨振興の一策として 関税率増加の実現に腐心しつつあるは 対支貿易に
最も優勢の地位を占むる我日本の 須らく注意すべき一事項に属すべし。
支那政府は 昨年 関税五分の増率を 列国に要求し、列国は其の理由の是なる
を認めて、之れに賛意を表し、我日本も主義として 賛同を表したるが 支那政府
本来の希望は 自国産業の発展 並に 不如意なる財政の収入を増加せんが
為め、一種の関税保護策を行わんとするにありて、農商部を始め 各部相一致
して 之が方法を講究しつつあり。
支那の立場より云えば、是れ洵(まこと)に無理ならむ事なるも、彼のマツケー
条約なるものあり、且(か)つ 関税増率の実行に対して 釐金制度の撤廃 及び
幣制改革の実施を条件としある以上、未だ其(その)実の見るべきものなき今日、
任意に保護主義 兼 収入主義の関税増加を行わんことは 到底不可能なり。
支那政府 固(もよ)より 之を知るを以て、今遽(にわか)に其(その)実施を欲する
に非ざるも、土貨振興の首唱は 任意に為し得るが故に、先ず其声を大にし、
然る後 何等かの方法の下に 少なくとも 外国輸入品の一部に対して関税増加
を行わん、と種々研鑽講究しつつあるは 事実なるが如し。
今日の土貨振興説は 前記の如く 日貨排斥の方便として唱えられるるあるも
土貨幣振興は 右の如く 支那本来の希望なるを以て、今後も引続き首唱せらる
べく、従って 対支貿易に重要位地を占むる我国は、今より深く 此点に注意の
必要あり。況(いわ)んや 支那に向って 層一層 その経済的歩武を進めんとする
に於ておや。
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2010年3月30日
それから もう一つ申し上げたいのは、社長業を最終的に男冥利に尽きる仕事にするためには、現在の業績と将来
の業績のバランスが重要だということです。 高成長の時期には 新聞などのマスコミが、 「 なぜ 新日鉄は もっと
成長路線に走らないのか 」「 もっと 企業を買収しないのか 」「 もっと 設備投資をしないのか 」と指摘しました。
しかし、もし その時期に 過度の投資をしていたら、今頃は 「 なぜ あんな無駄な投資をやったのか 」 と叩かれて
いるに決まっています。 世間の評価や外部から聞こえてくる 色々な話は、一つの参考にしかすぎない訳であって、
好不況にかかわらず、 自分の会社として 心地いいペースを守るべきだと思っております。
短期業績と長期業績についていえば、旧来の日本の経営は長期業績至上主義でした。 しかし、これはおかしい。 短期業績が大切なのは、言うまでもありませんね。 短期業績は 大切だけれども、短期業績にウェイトを置きすぎる
のも良くありません。 例えば、設備投資をしなければ 減価償却は増えませんから、短期業績が上がる訳ですよね。
逆に、たくさん生産して在庫を持てば コストが下がり 短期業績が上がりますが、不良資産がある訳だから中期的な
業績が下がる。 これは ちぐはぐですね。 だから そのバランスが必要だと思います。
ただ 私が ちょっとだけ申し上げたいのは、日本の旧来の経営者は、やったことに対する説明責任を 何ら問われ ない限り、長期業績至上主義をずっとやってきた。長期業績至上主義でも結構ですけれども、一つひとつの手段が、
どうして 会社のためになるんだ ということを きちんと説明しながら、そういう手を打つべきだと思っております。
例えば、我々は 株の持ち合いをやっておりますけれども、これが 長期安定的な経営を実現すると説明する義務が
ある。 こういう手段だと思っております。
国益という視点が抜けた日本
もう一つ、日頃 考えている経営者のバランスは、企業益 と 国益 のバランスです。 「 なんだ 古臭いことを 」と
言われるかもしれませんが、ある決断を下すときには、「 これが 結局は 国の発展に役立つのかどうなのか 」という
視点を持つことは 大切だと思っています。 どんな企業も国の発展なくしては、やはり生きられない。外国に進出
しようとしまいと、最終的に 色んな法問題でも、あるいは ほかの大きな問題が起こってきても、日本に無関係では
ないわけで、国益と企業益のバランスというのは、どうしても 考えなければならない。
昔の新日鉄は、やや 国益に傾斜した態度を取りました。 当時の私は これに対しては 非常に批判的でした。 しかし、いざ経営者になってみると、大きな事業については 国益に合致しているのかどうなのか、 こういうことは
非常に大事なことであります。 私は もし 新日鉄、或は 他の企業でも、国際競争力がないような会社であれば、
日本に存在する意義が まったくないと思っております。
国益を主張すると 「 何と古臭い右翼的な考え方だ 」ということで、やや非難されてしまいます。 しかし 国益の 大部分は、国民の利益と一致します。 しばらく前までの日本では、国益というのは 辺境なナショナリズムと一緒くた
にされてきました。 軍事大国、軍国主義のようなイメージでした。 したがって、そういうイメージがあるがゆえに、
国益というものを みんなが議論するということを まったくなくして、最近のように善意に満ちたユートピア的な世界観
がのさばっています。
日本が頑張れば 他が みんな付いてくる。 国際社会が そんなに甘いものであるはずがない。例えば CO2 削減の問題にしても、中国は 実に 腹ただしい動きを取っております。 しかし 中国の動きは、 よく考えてみると
中国の国益を 100%体現したものです。 その意味からすると、地球益というものを 余りにも考えなさすぎる 国益
の発表の仕方でありますが、 それに比べて 日本の総理大臣は 国益を一切考慮しない。 言ってみれば 地球益が
すべてであるという態度です。 財界活動というのは、国益 と 財界益 と 企業益、この三つの利益のバランスを どう取るのか、そういうことを議論する場でも あるわけです。
鍛えられた現場とは
戦略と実務についても 申し上げます。 経営者は 戦略に専念するという意味で、事務は 下に任せるべきである
ということが よく言われていますけれども、私は これはとんでもない誤りだと思っています。 企業によって 性格が
違いますけれども、日々の業務 あるいは具体的な内容を知らないで、戦略なんか立てられるはずがないというのが
私の考えであります。 あるいは、一つひとつ目の前にある 色んな仕事を、真面目に前向きに、全身全霊で取り組む
こと、その繰り返しによって、自ずと 一つの筋が見えてくる。 その筋を 会社の方向性として提示し、議論して どちら
かの方向に持っていくということが、私は 非常に大切な 社長の働きではないか と思います。
私自身は、会社の事業に 重要なポイントは 二つあると思います。 その一つは、よく鍛えられた現場です。 よく鍛えられた現場というのは、日々の与えられた生産量や販売量を着実
に こなすということではありません。 現場には 様々な課題が 時々刻々と起こるわけであります。 こういう 色んな
課題もスムーズに解決しながら、 なおかつ 現場では解決できないような課題は、できるだけ早く 上司に上げる
という意味も含めた、鍛えられた現場です。 もう一つは、方向性の確かな経営層です。 この二つの組み合わせが
会社を育てる要因でしょう。 よく鍛えられた現場 と 経営層の距離を縮めることも、大切な役割です。
私の場合には、日々の 色んな課題を真剣に取り組み、その上で 経済危機から回復する中、日本に基地を持って 世界の増大する需要に対処するグローバルサプライヤーとなる。 グローバルプレイヤーに変えるということを 一つの
キャッチフレーズとして、全社が 今 動いております。 4000万トン程度の生産能力を 国内に持ちながら、2000万トン
は ブラジル あるいはアジアで生産し、競争相手と伍していくということを、一つの方向性として打ち出しています。
おそらく これは、従業員の全面的な支持を受けているはずです。
さて、最後になりますけれども、景気変動 と 経営 ということについて お話したいと思います。 私は 今でも よく
海外出張しております。 2月は 中国、シンガポール、インドネシア、オーストラリアに行ってまいりました。 去年は
ブラジルにも行っております。 その時 つくづく感じた点は、ここに いらっしゃる方々にとっては 常識かもしれません
が、日本に比べて これらの国が 何と明るいか ということです。
ブラジルでは、石油が採掘されかけています。 ありとあらゆる資源があるにもかかわらず エネルギーだけない というブラジルに 石油が発見されたものですから。今は むしろ 石油輸出国に転じようとしています。オーストラリアの経済指標では、2期連続で 対前期比マイナスになったら 不況ということになっていますが、1期だけで済んで
います。 中国は ご存知の通り、経済が活性化しています。 インドネシアは、不況を まったく体験しないですね。
ベトナムも同様です。
要するに 今 我々は 国内で 「 大変だ大変だ 」「 不況だ不況だ 」ということで、閉塞感に苛まれていますけれども、 実は 一歩外に出てみると、不況を体験していない国も 沢山ある訳です。 我々の関心事は いつ不況から脱出
できるのか というところにある訳ですけれども、 これらの国々の関心事は 新しい時代に 世界経済の中で どの
ような地位を占めるのか、そのために 何をやっておくべきなのか ということです。 つまり、他国は 必死になって
一歩先を考えている。 それが、今の状況です。
最近は 中国、韓国の攻勢がすごいと、インドネシアで聞きました。 韓国は 1997年のタイに端を発した経済不況を 経験しました。 あの時、韓国は大変だったんですね。国を挙げて 不況を乗り切ろうとして動いた。今回の金融危機
・経済危機は、韓国にとって、97年当時の不況に比べれば はるかに規模が小さく、なおかつ 期間も短かった。
私たち新日鉄も そうですけれども、本当に 大きな不況を乗り越える、その経験があるわけで、乗り切ることに自信
を持つことができる。 ということで、アジアにおいては、韓国、中国の攻勢が極めてすごい。
しかし アジアの国々は、一様に 日本に好意的です。 別に 中国を嫌っているというわけではありませんけれども、 ただ 中国のマーケットの大きさに対して これとつき合わない気はない。 しかし、どのようにつき合ったらいいのか
ということについては、アジア諸国の経済人は 一様に疑問を持っている。「 日本は 早く自信を取り戻して、一つの
対抗勢力として きちんと機能しておく必要がある 」と何回も言われました。
こういう学習もそうですが、喜んで海外に行って、海外の経済が発展している状況を体験して、そして 何をなす べきかを考えることも大事です。 決して 世の中は 暗くありません。 海外にも どんどん営業をかけていく。
例えば シンガポール事務所は、テリトリーとなっている インドおよび中近東に、1カ月に1度はみんな出ていきます。
国内の需要は 先細りしておりますけれども、海外に出て 人々が生き生きとして仕事をしている ということを 目の当たりにして帰れば、これは 一つの経験になります。
よく考えてみれば 不況というのも 一つの役割を果たしている。 「 不況はイノベーションの母である 」と言われます。困ったからそれを切り抜けるため 色んな知恵を出すわけです。 したがって、不況があるからこそ、各々の企業、あるいは国が どうやって 次の新しい世界を生き抜くかを考え、イノベーションが社会を発展させるということです。 こういうときの経営者の態度は極めて大事です。物事にはすべて、必ずたくさんの面があります。これを明るい面と暗い面に仕分けして考えればわかりやすい訳ですね。 どんな事実にも、どんな時代にも、必ず明るい面と暗い面がある訳です。 経営者として最低なのは、深く考えないで 暗い面だけを指摘する。経営者だけでなく、マスコミも そうです。今回の大不況が来たときに、「 100年に1度の不況 」とよく言われました。 すると 「 100年に1度の大不況 なら、どうあがいてもしょうがない 」と、諦めの境地に至ってしまうじゃないですか。 100年に1度といっても、1929年
の世界恐慌のほうが 圧倒的に不況の規模が大きかった訳です。 よく考えない悲観論は 大問題だと思います。
先程申し上げましたように、どんな事象にもどんな事実にも明るい面と暗い面がある訳です。不況はイノベーション の母である とも申し上げましたが、色んな企業も 数十年に 1度は、自分の会社を 大変革せざるを得ないような
局面に陥ります。 むしろ、この不況を 大変革のためのエネルギーとして使う。 こういうことが よく考えた楽観論だ
と 私は思います。
完
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2010年3月30日
最後に一人で決断する
それから もう一つ、社長にとっての苦しみは、最終的な判断を自分が下さなければいけないという点です。
上がってくる物事の80%以上は 部下がお膳立てして、これに対して 良いか悪いかを判断すればいいわけで、
経営全般に対して 社長が 全部それを背負うことは無理だし、そんなことをする必要も まったくないと思います。
しかし、事業からの撤退、あるいは 工場の大幅な設備休止、人員カットといった類のものは 決して 部下からは 上がってきません。 最終的に 社長一人で判断を下さなければならないのです。
新規投資については、部下たちが 色々考えて、ここに投資すれば こんなに素晴らしいという案件を持ってきて、 判断を求めてくる訳です。 ただ 通常は 新規投資というものは、その会社にとっての新規投資であって、社会全体
としては 新規投資になっていないケースが 多い訳です。 これを どう評価するのか。 というのも 社長としては
難しい面であります。
最終的に 社長が決断するためには、部下からの話に対して、違う視点からの社長としての考え方を語らなければ ならない。 そのためには、良い質問ができなければならないと思っております。良い質問をするためには、部下とは
違うアンテナ、情報源、それから 人との付き合いを持たなければならない。 ただし、難しい案件を すべて抱え込む
必要はありません。 人事で コントロールするということも、社長の大切な手段です。
会社の舵をとる醍醐味とは何か
それでは、こういう苦しみがありながら、一体 どういう喜びがあるのか。 もちろん どの経営者にとっても、会社が
収益を上げることは非常に大きな喜びです。 従業員にとっても同じでしょう。 収益を上げるということは、会社が
効率的に運営されていることの一つの証です。 それから、会社が 持続的な成長を遂げることも喜びでしょう。税金を
払うことで 社会に還元し、いろいろな形での設備投資もでき、社会的な信用も得ることができる。
私が 社長を務めていた時代は、幸いにして 景気が良かったので、毎年毎年、史上最高の利益を上げました。 これは 非常に嬉しいことです。 しかし、それにも増す社長の喜びは 何かといえば、ある課題を設定し、それを部下
に心を尽くして伝え、ようやく納得してもらう。 そうやって 会社を導いていく。 あるとき ふと後ろを振り向いたら、
課題に沿って 全社が方向転換する。 こういう姿を見ることが、一番大きな喜びです。
私が 社長になって最初の スピーチ、総理大臣で言えば 施政方針演説にあたるので、練りに練ったものにしました。就任スピーチが なぜ それ程までに 大事かというと、就任当初の100日くらい、従業員は 誰も彼も社長を見ている からです。 スピーチでは 綺麗事ばかり並べて 実行しないとなれば、社長としての信用が失われてしまいます。
したがって 就任スピーチで宣言したことは、絶対実行しなければならない。そういう意味で 就任スピーチは、一つの
政権としての、一つのコミットメントです。
私が 最初に宣言したのは、「現場を大切にする会社にしたい」、「従業員が働くことに誇りを感じる会社にしたい」、「社長である私が 自身の言葉で分かりやすく喋れるようにしたい」 ということ。 これは 当たり前のように見えます けれども、わが社にとっては そうではありません。実は これに先立つ20数年前、1985年のプラザ合意後、円が
220円から 180円ぐらいに高くなって、わが社は 競争力を失い 従業員を大幅にカットするという、大合理化を断行
しました。これが 10数年続いたわけです。 以前は 6万5千人いた従業員は、1万5千人まで減りました。削減率は
何と 75%です。
こういう状況にあったから、従業員は この会社で働くことに関して 必ずしも誇りを持てない。 だから、社内教育 による留学で MBAを取得しても、帰ってくると 会社を辞めて 外に行ったしまった人がたくさんいます。 私は 会社に
残ったわけですが、辞めた人を悪く言うつもりはありません。そうさせた会社に 責任があると思っています。
私が社長になった 2003年4月からの5年間では、5回にわたる中期計画を立てましたが、その大部分が コスト ダウン計画でした。 引き続いて 合理化を重ねていったわけです。 この間、従業員は よく付いてきてくれたし、
労働組合は いろいろ注文を出してきたものの、会社が 目指す方向に向かって 協力してくれました。 ただ 一番
困ったのは、 労働組合との対話の中で 「 合理化するのは、今の世の中の流れだから やむを得ない。 しかし、
いつまで これを続けたら 会社は良くなるんでしょうか 」と言われたことです。 先が見えず、会社に誇りを持てない
状況だけは変える必要がありました。
実は 在任5年目に 従業員1万5千人に対して、コンプライアンス調査を行いました。 回答率95%だったんです けれども、30項目にわたるアンケートのうちの1項目に、「 あなたは新日鉄で働くことに誇りを感じますか? 」という
設問がありました。 結果としては 86%の従業員が「 誇りを感じる 」と答えてくれました。
その要因は何かといえば、 一つは 先程申し上げた通り、史上最高の利益をずっと上げてきたので、給与待遇が 良くなったことです。 それから もう一つは、会社で働くことを通じて 社会に貢献できることが大きな要因として挙げ
られ、私も嬉しかったですね。 これが 社長としての喜びです。
「全社ベスト」を追求する
しかし、最終的に 男冥利に尽きる仕事に昇華するためには、努力しなければならない。 これは 個人によっても
考え方が違うと思います。 経営者が 各々の考え方にしたがって経営していく。 一般的な考え方かどうかは 自信が
持てませんが、私は CEO(最高経営責任者)の役割の一つは 全社ベストを追求することだと思います。
諸君は いろんなセクションで働いています。 会社には 各々の組織があります。 組織の各々が、それぞれの組織 のベストを願います。 あるいは 本社と工場、あるいは 営業所では、考え方が違います。 各々がベストを願います。
技術者と事務職とでも 考え方が違うかもしれません。 あるいは合併会社には、違う企業文化を持っている人がいる
かもしれません。
全社ベストというのは、言葉でいうのは易しいですけれども、これを実行するのは 本当に難しい。大方は 部分ベスト を願って日々行動しているというのが 実態だと思います。 どのようにして これを全社ベストにつなげるのか。
例えば 私の会社の場合、10の製鉄所があります。 会社としてやるべきことは、10の製鉄所に 各々技術レベルが
あるわけですから、いろんな項目にわたって 各製鉄所を評価して、その中の トップに 全社のレベルを合わせる。
いわゆる 「トップランナー方式」 です。 さらに トップランナーであるところは、範を 社外に求める。 こういう形で全体
を底上げするというのは、ごく当たり前の習性だと思っております。
ここで難しいのは、技術を比較した場合、実力で後れを取っていることを、すぐに納得しないわけですよね。 設備の
内容が違う、注文の構成が違う、したがって こういう差が出てきているというように、条件の違いを挙げて 言い訳
することに、たくさんの時間とエネルギーを注ぐものです。 私は 自社特有の現象かどうか確かめるために、社外の
アドバイザリー・メンバーに話を聞いたことがあるんですけれど、みんな異口同音に 「 それはわが社でもある 」と
言われました。 おそらく どの会社でもあるのではないか と思われます。
要するに、条件の違いを 技術の歩留や生産性の差の原因としている限りは、進歩がないわけですね。 実力が 違うということを納得しないと、進歩は なかなか望めない。 こういう意味も含めて、どのようにして 全社ベストを担保
するのかというのは、誠に 大事であるけれども 難しい課題だと思っております。
課題を いかに従業員と共有するか
それから もう一つの申し上げたい点は、会社の仕事のやり方として まず 課題設定、その次に 設定した課題を
多くの人たちが共有する というプロセスがあるということです。 これらは、特に 経営者にとって大事です。
課題認識については、例えば 従業員の大半が すでに認識している課題を 社長が設定するようでは、そもそも 経営者になる資格がないわけです。 かといって 誰も考えないような課題を設定しても、従業員は なかなか付いて
こない。 20%ぐらいの従業員か認識している課題が適度ではないでしょうか。
さて、課題を設定したら、次に これをどうやって 従業員と共有するのか。 課題を共有できないことには、絶対に 対策の策定・実行ができないわけです。 したがって、経営者の非常に難しいプロセスというのは、従業員と課題を
共有することによって やる気にさせる ということだと思っています。
この二つのプロセスを 極めて簡単に切り抜ける方法があります。 大きな事件の発生です。
例えば 今回のような金融危機・経済危機であっても、 先程申し上げた名古屋製鉄所のガスホルダーが爆発した
という事件であっても、切り抜けるきっかけになります。
あるいは ミッタル・スチールという鉄鋼会社の買収劇を、私は 身をもって体験しましたが、これも きっかけになり ます。 ミッタル・スチールは 14年間で 20の買収を繰り返しながら、最終的には アルセロールという それ以上に
素晴らしい会社を敵対的買収しました。 両社の合弁後は、アルセロール・ミッタルという世界最大の鉄鋼会社として
君臨しています。 この買収劇には、いろいろ考えさせられました。
現実のものとはなりませんでしたが、彼らの買収の最初のターゲットは 新日鉄でした。 あるいは もう一つ買収が 進行中、アルセロールが 私どもに ホワイトナイトとして名乗りを上げるように依頼してきたら、どうしたであろう など
と考えると、なかなか夜も眠れないわけです。 実際には そういうことは起こらなかったわけですけれども、そのとき
につくづく思ったのは、企業は 当然のことながら 収益を上げ、株価を上げ、設備投資なりを行い、今日の利益を
追求すると同時に、将来の利益確保にも 全力で取り組まなければならない。 これは当たり前の企業努力です。
それと同時に 自分たちが もし一つの価値観を持って、その価値観が 社会に受け入れられる良いものだという確信
があるとすれば、やはり 自分の企業を徹底的に守るべきだと思っています。 したがって、そのために 何をやったら
いいのかと、日頃から考える必要があるのではないか と思っています。 (つづく) |
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2010年3月30日
http://www.globis.jp/components/viewimage.php?id=2099&width=250&mode=custom 現・経産省総合資源エネルギー調査会基本問題委員会委員長
経営者の仕事は男冥利に尽きる
私が かつて留学したハーバード・ビジネススクールで、「 ビジネス・ステイツマン・オブ・ジ・イヤー 」を毎年選出
するんですけれども、一昨年 私が選ばれました。 卒業生としては 私が初めてだそうです。 それから もう一つ
驚かれたのは、だいたい ビジネススクールを出ると経営に携わっていくわけですが、一つの会社に また帰って
係長から課長、部長と 一つひとつの階段を上がって 社長になったというのは 私が初めてだということで、いかに
我慢強いか ということが おわかりいただけるかと思います (会場笑)。
今日は 何をテーマに講演をしようか考えたんですけれども、 2003年度〜2007年度いっぱいまで 社長を務めた 経験をもとに、「 経営者の苦悩と喜び 」というテーマを選びました。 私どもの会社に、稲山嘉寛さんという経団連の
会長を務めたことのある先輩がいるんですけれども、この先輩の伝説的な言葉として、「 私は 社長の間、会社来る
のが楽しくてしょうがなかった。 行くのが嫌だったことは 一度もない 」というものが残されています。
これは 本当かなと、私は とても信じられませんでした。 会社の経営者というのは、楽しいことも もちろん ある
けれども、悩ましいことも たくさんある。 しかし、全体としては そういう苦しみも乗り越えながら、喜びも味わえる。
したがって 今では、男冥利に尽きる仕事だと、このように思っています。
経営者にはなりたいと思って なれるものではありませんが、どうか 諸君らも 是非ともそういうことも 頭に置き ながら、目線を高く持って 柔軟に対処してもらいたいと思います。 自分の会社の中で不思議に思うことがあります。
それは 我々の若い頃、本当に 仕事が良くできて、これは素晴らしいと思っていた人間がたくさんいました。
ところが、それが 上のレベルに行くにしたがって、急に 勢いを無くしてしまう。 逆に言えば、それまで光らなかった
人間が、上のレベルに行くにしたがって どんどん光ってくる。 こういうことがあります。 この差は何から来るのか、
私にも よくわかりません。 これも 頭に置いていただきたいと思っています。
また、経営者という言葉の定義なんですけれども、経営者は 経営陣とは違います。副社長など 経営層は たくさん いますけれども、それと 経営者は 断然違うわけです。 普通の会社には、経営者は 社長一人しかいない存在だ
と思っております。 会長という役職があるんですけれども、会長は 厄介な存在です。 私自身会長なんですが、社長
と会長が 同じ業務を行った場合には、両人にも良くないし 部下も大変なんですね。 社長とカバーする範囲が 同じ
会長であれば、いる必要がないと思っています。
自分が 社長時代に成し遂げたと自負することは そんなに多くはないんですけれども、一つ 自分で これをやり切っ たと思えるものは 「会長職の廃止」 です。 わが社には 300数十社の関連会社がありますが、私が社長になった
ときには、その多くが 社長を務め終えると、だいたい会長になるわけです。 しかし カバーする範囲が同じですから、
弊害が多い。 したがって、関連会社の会長という役職を すべて廃止しました。 最初は 色々な抵抗がありました
けれども、それが会社の方針だということで、みんな納得してくれて、5年かけて 一人も会長がいなくなりました。
唯一、新日鉄にだけ会長がいます。 会長の理想像というのは、普段は 何も口を出さず、社長が本当に困ったときに
適切なアドバイスができること。 これは 自分でやってみて、非常に大変なことだ と身に染みて感じています。
もう一つ申し上げたいのは、経営者の共通性についてです。このセミナーもそうですが、経営というものは 教え られるものかどうか というのは、永遠に尽きることのない疑問でしょう。 しかし 私は、業種や業界が異なっても、
いわゆる経営者にとって 必要とされる能力、あるいは 知識は、多くの共通性を持つものだと思っております。
例えば、私は 経団連の副会長を4年にわたって務めましたけれども、経団連副会長というのは 不思議なポジション で、その中には 自動車業界や家電業界など、私どものお客様が たくさんいますが、ここに来ると そういう感覚が
一切なくなってしまう。 何か相通ずる仕事をしている、あるいは 共通の相手と戦っている戦友のような、これが
経団連の付き合いの率直なところでした。
2003年の1月末に開いた取締役会で、4月1日から 私が社長に就任することが決定したのですが、実は この 情報を新聞にすっぱ抜かれてしまいました。 2月、3月の2カ月間、次期社長としてやったことの一つは、先輩社長
に話を聞きに行くことでした。 日本で 名経営者だと言われている約20人の経営者のところに出向いたところ、
不思議なことに みな喜んで会ってくれました。 それぞれ 30分の時間を取っていただき 一対一で話し合ったのです
が、そこで 私は 「 経営者にとって 大事なことは何でしょうか 」と質問しました。 すると 各社長は 経営者としての
悩みを滔々と語ってくれました。
これは 私が 社長になる前だからこそ できたことですから、やっておいて良かったと思います。業種も業界も違う 会社ですが、ただひたすら 経営者としての苦しみ、あるいは教訓を話してくださった方々に、心から感謝しています。
同じような立場に置かれたら、私も喜んで話します。 この中に 社長になられる方がいれば、いらしてください。
経営者の共通性は、私は 日本と欧米諸国では 話が違ってくると思います。 日本の場合は 通常、社内から最も 適切に 人材を選ぶということで、競争は ほぼ社内に限定されています。 私が付き合っている海外メーカーは、社外
から 新たな人材を引っ張ってきています。 これは 何を意味するかというと、その業務に精通している人材と経営者
としての資質を持っている人材を比べて、両方が備わっていれば ベストですが、外国企業では 多くの場合、経営者
としての資質を重く見る傾向があります。
全てに対する結果責任を負う社長という仕事
次に 経営者の苦しみについて、お話しします。 経営者の苦しみの第一は、全てに対する結果責任を取らなければ
ならないことです。 この結果責任は、例えば 今回の世界的な金融危機によって 業績が落ち込む会社が たくさん
あるわけですが、そうした事情は関係ない。 業績が悪くなったら 悪くなったなりに、社長は 責任を感じなければ
ならない。 あるいは、経営の目が行き届かない現場の失敗。 例えば 品質の問題であろうとも、あるいは 色々な
コンプライアンスの問題であろうとも、目が届かないからといって 社長が責任を逃れるわけにはいかない。結果責任
は、やはり社長がとらなければなりません。
もう一つ。 先輩社長の失敗による事業からの撤退、大幅な損失もあるわけですが、こういうものについては、 ぼやきたくもなります。 しかし 考えてみれば、私が 自分の社長時代に取った 一つひとつの経営判断が、すべて
成功するとは限らないわけです。 したがって、どんなことに対しても 結果責任を取らなければならない。 これは
苦しさの一つでしょう。
最近でも、テレビカメラの前で 「 誠に申し訳ございませんでした 」 と頭を下げるときは、3秒間静止しなければ
ならない という教えがあるらしいのですけれども、ああいう姿を見ると心が痛みます。 それぞれのこと自体は 反省
しなければならないことかもしれませんけれども、経営者として あのような場で マスコミに対して謝る必要は 通常
ないわけです。
社長在任中の5年間に いろんな事件がありましたけれども、幸いにして マスコミの前で 記者会見をして 頭を下げ
た経験は一度もありません。 これは 一つの誇りです。 唯一、私が 頭を下げた姿が新聞に出ましたが、それは
名古屋製鉄所で 調節機能を果たす ガスホルダーが爆発したときでした。 頭を下げることだけは やめようということ
で 記者会見に臨んだにもかかわらず、翌日の新聞に 頭を下げた姿が出てるわけですね。 よく考えてみたら、
最後に「 それでは皆さん、どうも有り難うございました 」と頭を下げた。 それが出てしまった訳です。 これは ちょっと
ルール違反だと思いますけれども、そういうこともあります。
最後は 責任を取らなくてはならないのですが、社長が 安易に責任を取るのは 決して良くないと思います。 ここは、よく考えなければならないポイントです。 99%の素晴らしい業績があり、1%の失敗がある。 これが 例えば
人命が損なわれたとか、そういう致命的な話なら別ですけれども、こういう時に どう身を振る舞うべきかというのは、
割合難しい問題でしょう。
(つづく)
4月20日|エネルギー基本計画見直しのデタラメ 河野太郎氏 「ごまめの歯ぎしり」
現行のエネルギー基本計画を「ゼロベースで見直し」、「原発への依存度低減のシナリオを具体化する」
はずの経産省の総合資源エネルギー調査会基本問題委員会の運営のデタラメぶりが度を超している。
この委員会の三村明夫委員長と事務局は、8名の委員が連名で提出した意見書を無視し、わずか1人の 委員が提出した原子力の依存度を高める提案を、他の多くの委員の異論を押し切って強引に取り上げよう
としている。
委員長と事務局の恣意的な運営を改めない限り、この基本問題委員会はこれまでの原子力ムラの中に さらに腐った特区をつくることになる。 ・・・
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