混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

時間とは何か?

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〜〜〜〜  「時間」 というものがあるのではなく、「因縁」 がある 

  〜〜〜〜
 昭和14年(1939)の 先師の文を 引用します。

 「 4月に 降ってから後 5,6,7,8,9と 5ヶ月も 雨らしい雨は降らない。
   60年来の 大干ばつであるという。 一度植えられた稲も、今は惨憺たる有様である。
   汽車の窓にも 目を覆いたくなる。
  
   しかるに、この乾燥しきった野山に、大木も小草も 枯死せずに生きている様を見て、
   路傍の小草小木に 手をかけて 労ってやりたい心がする。
   よくも 生きているものである。
   ・・・・・
   中国筋は 東北のようにはなく、恵まれた地方である。 
   それが この度 この@非常時に、この天災である。 しかし これを転じて、平年作で
   あったよりも もっと大きなものを得たならば、決して 損失ではないのである。
   ・・・・・
   本部(広島市内)の横の小川から、子供が フナを6尾ほどすくってきて、
   私の部屋の 金魚鉢に入れたのは、 5月頃であった。

   しかるに この小川には、フナや メダカや ウナギや、とても沢山な魚が生きていた。
   水が無くなるにつれて、手の平ほどの水にも 何百という魚が 集まっていた。

   それが、とうとう干からびてしまって、すべて死んだ。
   救われた 6尾は 水に入れてもらい 餌をもらって、 元気に生きている。

   書斎に入って これを見ると、念仏の種である。
   幾百千万匹の生きものの中で、 たった6尾。 」

    @ この年、大学に 軍事教練が必須科目となり、教科書の認可制が強化され、
       学生の長髪が禁止となる
      5月には、ソ連との間に、ノモンハン事件
      7月に 米国は 日米通商航海条約の廃棄を通告
      8月 アインシュタイン、レオ・シラードの要請を受けて、ルーズベルト大統領宛
        の原爆開発を促す書簡に署名
        又、独ソ不可侵条約が締結され、「欧州の天地は複雑怪奇」と平沼内閣総辞職
      9月に入ると、ドイツ軍は ポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発
        
    これは、このような時代の ある日の文章です。
    この日から、6年後には ヒロシマのこの書斎は 原爆の惨禍の中にありました。


       *   *   *   *   *   *   *   *



 この文章が書かれた 1939年9月から 1945年8月までに、
自然現象のためではなく、ただ 万物の霊長たる人類の 全くの人為のために、
何百万という人々の運命が、この水が涸れた小川のなかの 魚たちと同様なことになりました。

この文が書かれた当時において、 誰が その6年後の自分の境遇を 予想できたでしょう?
これは、今日においても 同様です。 たった6年後でも 自分が 如何なる境遇にあるか?
或は、この国が 世界が、どうなっているか? 誰が 予測できるでしょうか!


世の中が 不安になると 色んな予言者が出てきますが、
‘神のお告げだ’‘未来を予知する’と称する人の言は、ほぼ例外無しに、紛い物でしょう。 
我々は 何度 騙されても、 面白がって 彼らの言に耳を傾けたがります。

これは、我々の <自己関心>の深さ故であり、<自惚unuboれ>の故でしょう。
すなわち 他はどうであれ、‘自分だけは 旨い汁を吸おう’ という <自己関心> や、
‘自分だけは 悪い境遇を免れ得る’ という <自惚れ> が、こうした言に騙される因でしょう。


しかし、時間の流れの中で、その予言があろうと なかろうと、
苛烈な運命に巻き込まれ 呑み込まれて、死ぬべき人は 予め決っていませんし、
それを免れて 生き残る人も、 私かも知れないし あなたかも知れません。

死ぬ人は 死んだのであり、 生き残る人は 生き残ったのです。
そこに、 一人一人の運命を司る 何らかの意志があるわけではありません。
死ぬのも 生き残るのも、 それは その人の 願望や善悪を越えたものでしょう。



――― ところで、
    上は、ある時の間に起こったことを 切り取った文章です。 
    ここに起った出来事を 少し考えてみます。


この干ばつの年の5月に、子供は 宿題or家事労働から解放されて、
たまたま、小川で 魚取りに打ち興じたのでした。
( 何かの事情で、彼は この日 魚取りができなくなったかもしれないのですが・・・)

田植え前の小川では、温かい日の光の中で 魚たちが 元気に泳いでいました。
彼らは、突然の闖入者に 驚いて その手の網から逃れようと 右に左に 逃げ回りました。
しかし、ついに この子供の手にかかって 6匹のフナが捕まりました。

彼らに対して 殺生与奪の権をもつことになった この人間の子供は、
幸いなことに、彼らの命を弄び 粗末にする性格の者ではなかったために、
仲間からは引き離されはしましたが、 家に 連れて帰られ 窮屈な金魚鉢に入れられました。

彼らは 自由を奪われ 囚われの身となって、 生きていくに必要な 食い物も 水も、
全く この子供やその家の者たちの 慈悲に頼るほかない 境遇に置かれました。
辛くも 子供の手から免れた仲間らは、 6匹の境遇を 哀れまないものは居なかったでしょう。


しかし、夏が来たり 秋に入る頃になっても、雨が降りません。
田に入れる水にも こと欠き、 小川は だんだん水が乏しくなり 水溜りしかなくなりました。
魚たちは そこに群れて、背びれ尾びれを出し 泡を吹いて 押し合い減し合いしています。

ここまで来ると、捕われることなく自由であったはずの彼らの命運は 1〜2日のことです。
あっという間に 小川は 干上がって、 湿り気さえもなくなりました。
魚たちの 無数の干乾びた死骸が 小川や田圃の乾いた土のうえに散らばっています。


一方、かの囚われた6匹は、日照りのことも知らず 仲間たちの苛烈な運命さえ知らず、
狭さを託(かこ)ちながらも まだ元気で、ともかくも金魚鉢の中で泳いでいます。
雨が降り 小川に水がかえれば、子供の気紛れ次第で、また広い世界に帰れるかもしれません。


この生き残った6匹と 無数の死骸との命運の別れは、一体 どこにあるのでしょうか?
彼らの前世の善悪の業でしょうか? 或は 何か 運命を司るものの意志でしょうか?
とんでもないことです。 こうした説は、生き残ったものの手前勝手な解釈にすぎません。

今 幸いに ここまで、病気にもならず 生き残った6匹の境遇は、
直接には 子供の魚取り遊びの犠牲となったことに縁(よ)るのですが、
ここまで来るのには、数知れない無数の <因縁> が 微妙に働いた結果でしょう。

もし、何かの都合や 子供or家人の気紛れや、それらの1つでも 変っていれば、
彼らは 6匹とも、命を その時まで繋ぐことはできなかったでしょう。
元の命(因)は、このように 無数の事柄(縁)によって、辛うじて 今ある(果)のでした。


しかるに、子供の手から免れた 仲間たちは、
或は 鳥や鼬や蛇の餌食になり 或は 病気になって その命を失ったものもいたでしょうが、
最後は 干ばつによって 全滅の憂き目に遇います。

死という結果(果)に至るのは、 他の生物や病気や 或は日照りや・・・様々な縁があり、
それこそ 一匹一匹 皆 違うのですが、 
生がある(因)限り、無数の縁を 掻(か)い潜って、ついには 死という果を得るものです。


この時 生き残った6匹は、この境遇を因として さらに 様々な事(縁)に触れながら、
それぞれに 生死を経験した(果報を得た)のですが、 今では
かの戦争を 各地で 様々に 経験した人々のように、その消息は 杳として 知れません。


――― 上の考察のように、この時の流れの間に起った事は、

   まさに < 因縁 > と言うべきものです。
    因に縁がはたらき、因は その縁に応対して(業)、果を生じる。
    (その果の持続を 報と言います)
    そして その果報を因として そこに縁がはたらき、因は その縁に業を起こして    
    新たな果を生じる。
    このように、モノは 因・縁・業・果・報、 因・縁・業・果・報 ・・・・ と、
    無限に 互いに重なり合って 続いていくのが、この「 時間 」の世界です。

    そこに、いかなる 主宰神も 運命の必然も 法則も 時間も空間も 認めないのです。
    ただ、あるのは < 因縁 > だけです。


    ** 「互いに重なり合って」とは、上の考察は 魚を中心にして見てみましたが、
       子供を中心に見ると、魚は 彼の「因」ではなく 単なる「縁」となって、
       彼において また別の因縁が 展開していったのでしょう。
       又、先師を中心に この間の事を見てみると、魚や子供は 彼の念仏の縁と
       なっています。

       一つのモノが、縁ともなり 因ともなり 果ともなって、重なり合って 動いて
       行くのが、< 因縁 > というものです。 これが 我々の世界です。




                 (つづく)
   

〜〜〜〜〜
【 覆水 盆に返らず 】 の出典を まず見ておくと、 東晋の『拾遺記』に、 

  呂尚ryousyouと馬氏basiは夫婦だった。 夫の呂尚は 読書ばかりしていて 暮らしのこと
 など全く考えない。 妻の馬氏はあきれてしまい、実家に帰ってしまった。
 後に 呂尚は 立派に学問を積んで有名になり、「太公望」と呼ばれて高い位につき、斉の国
 を与えられるまでになった。 それを知った馬氏は、馬に乗って近くを通りかかった呂尚の前
 にひざまずき、自分が家を出たことを詫びて、再び夫婦になりたいと願い出た。

  呂尚は 馬氏の目の前で 盆に水を入れ、それを傾けて地面にこぼし、
 「 願いを叶えたいのなら、私がこぼした水をすくってみなさい 」と言った。
 馬氏は 言われたとおりに、必死ですくおうとしたが、手ですくえるのは泥だけだった。
 呂尚は 「 君は自ら望んで私と別れたのだ。今、改めて 私と一緒になりたいと言ううが、
 覆した盆の水が再び戻せないように、復縁は無理だ。 一度してしまったことは、
 もう取り返すことができないのだよ 」と言った。

 ( ちなみにこの話は太公望の数多くの伝説の一つであって、必ずしも史実とは限らない。
   周代に盆という容器が存在しないし、前漢の人物・朱買臣に、同様の逸話がある
   <『漢書(朱買臣伝)』> )


  で、三省堂の『大辞林』には、

   (1)  いったん離別した夫婦の仲は元通りにならないことにいう
   (2)  転じて、一度してしまったことは、取り返しがつかないことにいう

  とあります。

  @参考: 覆水難收
  〔[(喝-口)+鳥]冠子注〕太公既封齊侯。道遇前妻。再拜求合。公取盆水覆地。令收之。
   惟得少泥。公曰。誰言離更合。覆水定難收。
  〔後漢書光武帝紀〕 反水不收。後悔無及。 〔何進傳〕 覆水不收。宜深思之。
  〔李白詩〕 雨落不上天。水覆難再收。


    *   *   *   *   *   *   *


 文明時代になって以来 数千年、 我々は 代々 この 【 覆水 盆に返らず 】 という言葉の
お世話にならなかった程、 幸せ(?)な人は 恐らく たいへん少ないのではないでしょうか?

   ( もちろん 一昔前までは、 乳幼児死亡率は たいへん高く、 言葉を覚える前に 
    この世を去った人々も たくさん居ました。 
    しかし 我々が思うほど 彼らは不幸であったかどうかは、俄かには決められません。 )

 地上で 我々が生きていくということは、自らの過去に対する悔恨なしには 済まないことです。
従って この言葉には、多くの人々の 様々な葛藤苦悩が 纏(まと)わりついているのでしょう。



 ところで、
我々にとって、過去とは 今の自分の境遇を のっぴきならない形で 決めているものです。
そして、この境遇において 次々と生起する事どもに 悲喜・心労・鬱屈し、しかも そこで
生きていく他に 生きようのないもの(存在)が 我々でしょう。 
こうした中で、少しく 智慧ある者は 明日のこと・将来のことを 思って、さらに悪い境遇に
ならないように より善い境遇になるように、今の境遇のなかで 為せることを為そうとします。

 我々は 天の上・宇宙空間のどこかに 身を置く 天使や仙人のようなものではありません。
すなわち、地上を見下ろす存在ではなく、地上に張りついて 泥を舐めながら生きる存在です。
この柔らかく傷つき易い肉体を持ち、この肉体を維持し 保護するために 衣食住なしには、
時に 一日とてもたない存在です。 決して 肉体を持たない 神でも幽霊ではありません。

 したがって、我々において 現在の状況を決めている過去は、 神や天使のように 天の上から
俯瞰する 〜 この時、私は あまりに歪小で、彼らの眼から 具体的な その姿を消します 〜
目を持つ 歴史学や生物学や物理学などの見る 過去・現在 ではありません。


(2/13)
 私が 「現在」 と言う時、それは 誰か他の人の 今 ではありません。過去の 例えば
アインシュタインの「現在」でもなく、百年後の誰かにとっての「現在」でもありません。
私に「今」があるように、彼ら 過去の人にも 未来の人にも その人自身の「今」があります。
逆に、「今」を持っていない人というのは、 そもそも あり得ないことです。


 アインシュタインの「現在」( 例えば 時空について思考していた 彼にとっての今 )は、
原爆投下がなければ この世に生を受けなかった子供の父親たる 私にとっては、「過去」
であります。 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/9575358.html
すなわち、それらの事どもが どれ一つ欠けても、現在の私の境遇はないのであります。
互いに 「因」となり「縁」となって、多くのものが 重重無尽に寄り集まり 重なり合って 
現在の私 (他の誰かではない!) の境遇があります。 
この 私の今の境遇のことを 「果報」と言います。


(2/14)
 我々は 現象の前後関係を見て、その前の事の中に 後の結果の原因を見出そうとします。
すなわち、過去を想起して 現象を時系列に並べることによって、そこに 原因-結果の緊密な
関係を 見出そうとします。 日常においても 科学研究においても・・・。


 卑近な例として 例えば、 コップが テーブルから落ちて 大きな音をたてて割れた。

この時、我々は どうしたのか? と、思わない人は 少ないでしょう。 事の前後関係を見ると
服の袖が そのコップにかすって テーブルから落ちたのですが、 我々の思いは ここで
終らないのですね。 さらに この事の原因を求めようとします。

ある人は、その原因を <服の袖> に見るでしょう。 流行りのファッション性の高く実用的
でない その服を問題とするかもしれませんし、だらしなく袖をのばしていることを問題とする
かもしれません。‘ それが コップの割れた原因だ! ’と。

また ある人は、 そんなに簡単に落ちるほど テーブルの端に コップを置いたことを問題と
するかもしれません。 ‘ そんな所に 置くのが間違っている! それが 事の原因だ ’と。

別の人は、 そのコップ自体を問題し 美しいor形がよいが 実用的でない割れ易いコップを
買ったからだ と。

或は また、コップに触れた人を 急かして呼んだ声を、 或は また その声に 周囲を見ずに
あわてて立上った人の 粗忽さを、事の原因だとする人もいるでしょう。

また、物理学者なら そこに ニュートンの3つの力学法則を見出し、またこの現象を
位置エネルギーがどうの 運動エネルギーがどうの と、 いつ果てるともなく 滔々と細かに 
説明しようとして、周りの人の顰蹙を買うでしょう。 何故なら コップは 結局 「法則」に
従って 割れたに過ぎないという 無責任な決定論(宿命論)を主張することになるからです。 
でも、この場が 学校なら この人は それを聞く人々から 尊敬されるかもしれません。

・・・・ etc.


(2/16)
 このように、ある一つの結果の原因を求めるとき、我々は その立場によって 
多くの異なった原因を見出します。 そして、それらは皆 それぞれに理由がある訳です。
でも、その原因を見出すことによって、そこに起ってくるのは 多くの場合 争い事です。

 我々は 各人各様に、事の原因を 過去に 何らか確定することで 事態を理解or判断し 
あれやこれやと行動を起します。すなわち 多くの可能性の中から ある行動の選択をして 
未来に向おうとします。
即ち、現在(結果)において 過去(原因)を見る人(立場)による特殊な見方が、我々に
未来(行動)を決定させ、そこに 多くの紛糾と矛盾を引き起こすということになります。
――― これが、およそ理性的(知性的)と 自ら称する 我々の活動の実際です。
( 科学研究の場合は、<行動の選択> というのは、その <世界観の選択> です )

 すなわち、地上の我々は 天上の神の立場から 下を俯瞰するように、自らの過去を
従って 自らの現在と未来を見るということのできない存在です。 
人それぞれに 同じモノを見ても、上のように その過去の見方を異にするのが、我々です。



 客観的なものとされる学問でも、物理学と歴史学は どちらも過去を見ることによって成立
するものですが、 後者は 前者よりも 学者どおしの論争に決着をつけることが難しいのは、
その学者が 地上の人間の立場から 神の立場or天使の立場になれる度合いによるのでしょう。

 これは、人間の立場から離れる(=非人になる)ほど、その見る処は 誰も異論を挟めなく
なるということでしょう。 即ち、この人が見る世界には この人自身は 消えているのです。
人としての自らの世界ie過去を、彼らは 物理学者のように 抹消するorそこから抜け出て幽霊
となることなしには、神の立場から見た 歴史学なるものを形成し得ないのが、我々でしょう。

 ところで、この神の立場なり 幽霊なりは、地上にある我々において 具体的には 「傍観者」
(当事者ではない!)となることであり、「帝王」(血も涙もない者)となることでしょう。
 



  ** 因縁 : http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/9234534.html


              (つづく)

〜〜〜〜〜(つづき)

 こうした「時間」についての問いは、 「時間」そのものに対する問いであると同時に、
そうした問いを出す者自身の有り様を 問わねばならないという課題を孕んでいます。

すなわち、【 誰が どういう意図(心根)で この問いを発するのか? 】 という・・・。


例えば、時間を 時計の時間or物理学的時間としてしか思っていない人に対して、

‘ あなたは もう若くはない。人生の半ばを とうに越えて あなたに残された時間は
 少なくなった。 老後のこと・今までの生き方について 今一度考え直したほうが
 よいのではないか?  ’

と言う時とか、 また 打ち続く不幸に 打ちひしがれている人に、

‘  あなたは 自分の将来を悲観絶望して “これが私の人生”と決め込んでいるが、
 < 人生を結論とせず 人生を縁として生きる >  という生き方もあるんだよ  ’

という場合のように、
ある特殊な時間観念に執(とら)われている人に対して、

 「 あなたの 時間の捉え方 は、どこか間違ってはいないか? 」

という問いを発することが 我々にはあります。



「時間」というものが、客観的に こうこういうものとしてある、と言う(見る)のは、
即ち 時間の「実体化」という 我々人間の モノを見る際のクセ(我執の一種)に由来しています。

かのデカルトは、わが<思い>以外の<モノ>を <延長>と<運動> として既定することで、
その後の自然科学が 長足の発展を遂げる礎石を置きました。
これは 又、「時間」というものを 物理的時間としてのみ認め、その他の時間を 客観的ではない
主観的なもの と一括りにして、それらを貶した社会を到来させることでもありました。

彼の世界観 従って「時間」の見方は、後の資本主義社会の発展にも 多大の寄与をしました。

  ( 「時間」というものは、モノの変化を認識する 我々の尺度でしょう。
   ‘時間があるのではなく モノの変化がある’ というのは さすがに 今日の物理学でも
    常識的なことでしょう。
    しかし、物理学に代表される科学は、この‘モノの変化’というときの‘モノ’を、
    特殊なモノ(ie.物質や現象)に限りました。

    この為に、自然科学は その力を発揮できたのですが、
    逆に この計量可能な「客観的時間」による世界認識は、我々に 多くのモノを喪失させ
    たことを 我々は 知らねばなりません。

    「変化」は、科学が対象としてきた「モノ」だけではなかったのですし、
    我々人間にとっては、もっと切実な「変化」する「モノ」があったはずなのです。

    デカルトは、不毛な形而上学的「時間」の思弁(時間の実体化)から 西欧人を解放
    しましたが、 彼自身は また「時間」を 特殊なモノを計量可能(明晰判明)にする
    ie.自己の管理下に置く ための手段以上には 見做しませんでした。

    彼は、自然の支配者になることは 目指しても、自然の中に生きる人間となること
    には 無関心でした。
    彼は、その口癖である「明晰判明」を モノにおいて適用はしても、彼自身に適用する
    ことには その思惟の初めの あの粗雑な適用以外は 不熱心でした。
    〜 これは、彼に限らず 西欧哲学一般が持つ 悲しい業ですし、西欧の思惟の密めた
    動機・意図が ここにあるのでしょう 〜 )



参考:「科学と因縁について」
   http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/13421916.html
   http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/14010282.html
   http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/16186395.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/18010306.html
                      

                                    合掌

暦に寄せて(1)

〜〜〜〜
   先日、「 消費は美徳か  」の記事における 私のコメントに対して
   swnfm-さんから 厳しい問いを頂き、
   これに対する私の考えを その記事のコメント欄に記しておりましたが、 
   案に相違して 長いコメントとなり 未だ答えきれない状態です。
       http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/54163248.html
   また、「水がめ座」さんなどからも、様々な意味での困惑のメッセージを頂き、

   いろいろ考えた末、ここで かのコメントを 
   「 時間とは何か? 」 という題でシリーズ化することで、 
   私の趣意を より分り易くできるのではないか? と考えました。

   明らかにしたいことは、
    救いとは何か?  魂はあるのか?  この世で生きるとは何か?  修行の場なのか?
    また、輪廻とは何か?  浄化とは何か?  浄土はあるのか? etc.
   といったことです。

       *   *   *   *   *   *   *

 
そもそも、我々は 「未来」という時間を どのように考えるべきでしょうか?
もっと言うと、「過去」「現在」という時間も どう捉えたらよいのでしょうか?
すなわち、「時間」とは そもそも 何なのでしょうか?

我々は、「時間」というものを 多義的に捉えています。
物理学の時間 や 暦の時間、また 民族の歴史 や 個人の成育史 としての時間、
さらに日常の時計の時間・・・。

どれも それぞれに役割があり、我々にとって 無くてはならない時間です。

   ( 今日 暦法は、我々は イスラム暦ではなく キリスト教暦を拝借しています。
     一応 外向きには 仏教徒にもかかわらず、我々は仏暦ではありませんし、
    昔の五行・十干・十二支という中性的なものでもありません。

    この暦法というものは、我々日本人(及び世俗化した欧米人)には、単に その利便性 
    〜 この利便性ということの意味を 我々は深く考えなくてはならないでしょうが 〜  
    のみから使用しています。

    ムスリムやキリスト教徒やユダヤ教徒の暦法は、単に利便性だけではなく、彼らの
    時間感覚そのもの、従って 彼らの生 や その共同体そのもの、そして 信仰生活
    そのものでしょう。

    暦法というものは 件の共同体の秩序を与えるものですから、昔から その共同体の
    精神的or物理的な統治者の定めるものでした。 )


ところで、我々は 今日 どのような 「時間」 (歴史感覚ie.生活感覚ie.生の感覚) の中に
生きているのでしょうか?

これを思う時、今日 我々日本人は
極めて混乱した 「時間(感覚)」 の中に生きていることに気付きます。
「時間」 が混乱しているということは、生き方が混乱していることでもあります。
そして 結局、実利的な時間に追いまくられて、生の意味 従って 自己を喪失してしまいます。
  参考:「西暦2006年になりました」 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/22017387.html



そもそも 「時間」 とは 何なんでしょうか?

過去から 現在を通って 未来に続く 価値中立の のっぺらぼうな時の流れなのでしょうか?
それとも、過去から未来に向かって 何か 向上発展していく流れなのでしょうか?
或は 逆に、だんだんと悪くなり退化して流れていくものなのでしょうか?

また、それは 前もって 全てが決定されている必然的な流れなのでしょうか?
或は、予め 将来の全てが決定されたものではなく 気紛れに流れていくものなのでしょうか?

また、時間の流れ ie. 物事の生起消滅は、どういうふうに起るのでしょうか?
何か それを司るものが居る(ある)のでしょうか?
それとも、主宰神にせよ 法則にせよ、そんなものはないのでしょうか?

こうした疑問を 昔から 洋の東西を問わず 人は、時間というものに対して 懐いてきました。


今日の我々は、科学技術の様々な発見・発明の連続による生活の変化や 時代と共に種々の
権利を得てきたのを見て、 時間の流れが 人類の向上発展を現わしている と思われる証拠
を沢山挙げることができ、 人類は 段々と進歩していくものだということを 半ば信じています。

しかし、一方で そうではないように思われる 様々な事象が、我々に 将来への不安を掻き立て、
また ある場面では 人に 将来への絶望を懐かせざるを得ない現実も 顕わになっています。
  参考:「時間について」  http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/11345272.html


我々は、ここにおいて 時間というものを、より根本的に考える必要があるようです。


                        
                                 合掌
 
                 (つづく)


  

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