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緑の党の苦悩

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★(抄略転載)
 ドイツ緑の党の苦悩 
「反政党的政党」から連立与党への変遷とその諸問題 —(2)
                               井関正久


1. 新しい社会運動から緑の党結成へ : 理論の欠如と党内派閥の形成 (続)


 新しい社会運動は 緑の党の出発点であったと同時に、現在抱える さまざまな問題の根源
でもあった。   政治学者で、「ドイツ緑の党」研究の第一人者である J・ラシュケ は、
「運動政党」の形態をとる 緑の党が抱える問題点として、「運動ジレンマ」をあげている。
ラシュケによれば、諸運動は 長期的成功のために、現実主義とラディカリズムという相反
する目標を 同時に追求しなければならない「ジレンマ」を抱えている。 そして、この
「運動ジレンマ」は 運動行為者に柔軟性のない「アンバランスなアイデンティティ」、
さらには 「敵意ある態度」をもたらし、冷静な戦略的行動を困難にする。

こうした対決的体質は「外側」つまり政敵に対してのみならず、「内側」すなわち異なった意見
を持つ 運動の同志に対しても現れる。
運動が 政党となるとき、このような問題が さらに激化するのである。

こうした中で、緑の党内部において 1980年代半ば以降、「原理派(Fundis)」 と「現実派
(Realos)」 の間の路線紛争が広がり、党全体の発展に大きなダメージをもたらすことになる。

設立期、影響力のあった「緑の党」エリートは、学生運動・APO、すなわち新左翼出身であり、
したがって 80 年代半ばには 緑の党の 「左翼化」 が進んだ。 しかし、
私的経済への深い不信感と、国家権力に対する絶対的な信頼に特徴づけられた左派優位の
時代は、88年 12月のカールスルーエ党大会で 原理派中心の連邦執行部 (Bundesvorstand)
が再選に失敗することによって終焉を迎える。

以後、党内では ヘッセン州環境大臣 J・フィッシャー(現外相) が代表する現実派の立場が
優勢となり、市場経済や競争原理に基づく政策コンセプトにおいて、緑の党は SPD の一部よりも
現実指向が強く見られるようになった。
情報テクノロジーが 緑の党内でも支持されるようになると、技術批判の内容も変化し、
無条件な拒否は 核技術 においてのみ聞かれるようになる。また、
かつて強調された 成長批判も、左派離脱後は 見られなくなった。

その一方で、個別テーマに関しては 左派の発言力は 依然として強く、派閥間の対立は、
緑の党が 常に危機に陥る大きな要因として 現在も残っている。



2.  90 年代の緑の党 :  挫折から危機へ

1990 年 10月3日のドイツ統一 は、「緑の党」にとって 大きな転換点となる。
90 年 12月2日、統一ドイツ最初の連邦議会選挙が、5% 条項を 東西別々に適用するという
特例のもとで実施された。
これまで 東西ドイツ統一に批判的な姿勢をとってきた「緑の党」は、この選挙で 5% を割り、
83 年以来 7年間維持した議席を失って、その後 4年間、連邦議会から遠ざかることとなる。
90 年の連邦議会選挙での敗北は、「緑の党」史上、最大の失策となった。

( 現実派は 基本的には 東西ドイツ統一に賛意を示していたが、コール政権の主張する
  急速な統一プロセスには反対し、東西両ドイツが 憲法制定会議を開いて 新しい憲法を
  制定する統一方式を提唱した。
  これに対して、原理派は 統一自体に反対し、「平等な二つの国家」論を主張した )

一方旧東ドイツでは、市民運動勢力によって結成されたリスト「90年連合」と東の「緑の党」 の
選挙連合が 6% を得票し、特例の適用により 連邦議会に 8議席を獲得した。
このショックは 緑の党に地盤強化の契機をもたらし、次回 1994 年の連邦議会選挙での議席
奪回を目指して、旧東ドイツ市民運動勢力との統合交渉へと進んでいった。

「緑の党」は、まず 選挙の翌日、東の「緑の党」を無条件で吸収し、次に 政党組織となった 
「90 年連合」への接近を図る。 次回の選挙では 5% 条項を東西別々に適用する特例が
もはや採用されないので、緑の党との合併は、小規模の「90 年連合」にとっても、議席確保の
ためには欠かせない必要条件であった。

1992 年 5月に開始された、「緑の党」と「90 年連合」の統合交渉では、両組織の意見の相違が
顕著に現れた。「緑の党」が 統合をもっぱら連邦議会での議席奪回の戦略だと主張したのに
対して、「90 年連合」は 既成政党化した「緑の党」における 政策コンセプトの欠如を批判する
とともに、組織内改革を要求した。 統合交渉での最大の争点は、メンバー数が「緑の党」の
1/15 に過ぎない「90 年連合」の権利を、統一組織内で どのように確定するか ということ
であった。

政党法によれば 両組織の統合は、「90 年連合」が「緑の党」に加入するという形でのみ可能で
あったが、「90 年連合」は、東の「緑の党」が無条件に吸収されたことを批判し、「緑の党」
との対等な「同権連合」としての統合を求めた。
しかし 実際には、こうした要求の多くは受け入れられなかった。「90 年連合」の交渉の成果が
見られたのは、党内組織の結成が認められたこと、党執行部内のポストが 一定数確保された
ことのほか、 党組織の正式名称が 「90 年連合」を先にした 「90 年連合/緑の党」 と
なった点であるに過ぎなかった。

 ( 「90 年連合」は、底辺民主主義の実践を目指し、政党となることを嫌った 三つの市民
   運動グループ〜「新フォーラム」、「民主主義を今」、「平和と人権のイニシアティヴ」〜
   が中心となって結成されたリスト連合であり、旧東ドイツの著名な市民権運動家の多く
   がこれに参加していた。 1991 年9 月には、このリスト連合から「90 年連合」と
   「新フォーラム」という二つの政党組織が発足し、旧「新フォーラム」のメンバーは
   この二つの組織内へ分裂した )

1993 年 1月、ハノーファーで開かれた 両組織の合同代表者会議において、統合条約が
受諾され、「90 年連合」の解消と「緑の党」への加入という形で、統合が成立した。
同年 5月、ライプツィヒで 「90 年連合/緑の党」としての最初の党大会が開催され、ここで
統合条約が発効する。 しかし、統合条約とともに採択された「基本合意」 においては、
旧東西両運動勢力のキーワードであった「底辺民主主義」 ということばは 一度も現れず、
「運動政党」 としてのアイデンティティを明確に示すことはなかった。
結局、「90 年連合」は、「緑の党」への吸収合併によって、「新たな政治プロジェクト」のため
の原動力となることはなく、むしろ 「脚注」 に記述される程度の歴史上の出来事として、
政治的に周辺化していった。

統合交渉時から明白になった 旧東西運動勢力間の確執も、統合後、旧「90 年連合」メンバーの
発言力が弱まるにつれて、さらに激しくなった。

1990年代を通じて、緑の党 (以降、「90 年連合/緑の党」を単に「緑の党」 と記述する)は
独自のプロフィールを失う危機に瀕した。
それは、かつて「緑の党」の専売特許であった エコロジー・男女同権・平和・参加民主主義
といった「緑のテーマ」 が 一般化したことによって始まる。 緑のテーマが 一般常識となり、
その多くが 政敵にも広く受け入れられたことにより、緑の党の独自性が薄れていった。

緑のテーマの一般化は、学校の指導計画や社会科学・自然科学のカリキュラムにも反映され、
「緑のカリスマの日常化」 ともいえる現象が見られるようになる。
また、こうした傾向は、 今日 すべての政党が 極めてリベラルで、エコロジー化し、
「女性にやさしい」 政策をとっていることにも現れている。



                 (つづく)
   引き続き、ドイツの原発政策を見ていきます。

★(抄略転載)
 ドイツ緑の党の苦悩 —「反政党的政党」から連立与党への変遷とその諸問題 —(1)
                               井関正久

はじめに
                                   
1998 10月27日、緑の党 (「90 年連合/ 緑の党 (Bündnis 90 / Die Grünen)」)は
ドイツ社会民主党 SPD の連立パートナーとして シュレーダー政権に加わり、いわゆる
「赤緑」政権が誕生した。 
新政権樹立当初、緑の党は、16 年間続いたキリスト教民主同盟 CDU のコール政権に代わる
新たな国政の担い手として注目を集めた。
しかし、その後まもなく、あらゆる方面から 緑の党を批判する声が高まる。

1999 3月、ドイツ参加のもとで 北大西洋条約機構 NATO 軍による ユーゴ空爆が始まると、
緑の党は、党アイデンティティの一つ 平和主義に反するとして 党内外から激しく非難された。
また、緑の党代表のヨシュカ・フィッシャー外相個人に対しても、左翼運動を展開していた
70年代初頭に 警官に暴力を振るった過去をめぐって、野党側から論争が投げかけられた。
その一方で フィッシャーはまた、かつての同志からも体制側の認識しかできなくなったと
批判されている。
連立与党となって以来、今日に至るまで、緑の党は 州議会選挙・市町村選挙において
立て続けに敗北し、目下、「負け組」定着というイメージさえ強まりつつある。

緑の党は、 学生運動の中心に立った いわゆる 「68 年世代」を中心的担い手として、
エコロジー・反核平和・反原発・フェミニズム・社会的マイノリティー保護をテーマ化した
諸運動、すなわち「新しい社会運動 (neue soziale Bewegungen)」を基盤に結成された。
そして、これまで環境問題や男女同権、市民参加をはじめ、常にドイツ政治文化の形成において
多大な影響を与え続けてきた。 
こうした緑の党に対する肯定的評価は、とりわけ高学歴若年層における高い支持率を得てきた。

ドイツ政党システムの中に定着し、連立与党となるまでに発展した緑の党が、現在 なぜ、
このような困難な状況に陥っているのだろうか。
また、「反政党」「反議会」「反制度」 という、既成政治システムに対するオールタナティヴを
目指して結成された緑の党は、連立パートナーとして政権に加わるまで、どのような制度内化
プロセスを辿ってきたのであろうか。
そもそも、現在の緑の党は、政権能力を備えているといえるのだろうか。
さらに、ドイツにおける すべての政党が、エコロジー・男女平等・市民参加等、いわゆる
「緑の政策(グリーン・ポリティクス)」を取り入れ、一般市民の生活意識も「グリーン化」
された今日、緑の党は 新たなプロフィール形成のために、どのような方向性を追求すべきなのであろうか。



1. 新しい社会運動から緑の党結成へ : 理論の欠如と党内派閥の形成

緑の党は、1980 に連邦政党として設立された。 その前身は、
78 年以降から州レベルで結成されていた「緑のリスト」や「オルタナティヴ・リスト」である。
緑の党は、市町村・州レベルでの議会進出後、83 年には 連邦議会でも 5.6% の得票で議席
を獲得する。 その後、市民の環境に対する意識の高揚と、国家主義的テクノクラシーとして
硬直した 社会民主主義勢力への不満を背景に、緑の党は若者を中心に支持層を拡大する。

比較的少ないメンバー数にもかかわらず、緑の党は、80 年代半ばまでに 新しい社会運動内部
において、圧倒的な動員力をもつ組織となった。
また、連邦政党として 財政的基盤が固まるにつれて、緑の党を中心に 諸運動のテーマに
関する専門家の形成が促進されていった。

緑の党は、 設立当初から マスメディアを通して 「反政党」「反議会」「反制度」という
オールタナティヴな政治色を前面に押し出し、1980 年代前半は 「底辺民主主義」を掲げ、
左派リバータリアン的プロフィールを明確にしていった。
既成の議会主義への批判は、レーテ民主主義の理想化となって現れ、実際に レーテ理論を
手本に、ローテーション原則・非中央化 さらには 党役職と議席の分離といった コントロール
メカニズムを導入し、底辺民主主義を 党内でシステム化していった。

しかし 綱領には、当初から 底辺民主主義に関する 明白な根本的決定はなされていない。
「非中央的・直接民主主義」 として記述される 底辺民主主義が、議会制民主主義を単に
補完するべきなのか、それとも完全に取って代わるべきなのかは、1980 年に採択された
ザールブリュッケン連邦綱領でも 明白にされなかった。

こうした事情の背景には、緑の党が 二つの相対する原則に挟まれていた経緯が伺える。
すなわち、 底辺での決定を 原則的に優先すべきだとする主張と、議会制民主主義の枠内で
政治を行うべきだ とする主張に挟まれ、
実践的な底辺民主主義的コンセプトに関する明確な決定を避けてきたのである。
ヘッセン州・緑の党の綱領が、「 議会システムを根本的に直接民主主義へと変えること 」
に対しては 消極的な見解を示しているのも、こうした理由からである。
したがって、「反議会」 を掲げながらも、議会を廃止するという目標を実際に明言したのは、
ラディカルな少数派の一部に過ぎなかった。

底辺民主主義の理論的欠如は、党内に 民主主義に関する共通コンセプトが存在しないことを
物語っている。 底辺民主主義と結びつく 唯一のコンセンサスは、「 反対することに賛成する 」
というパラドックスであり、いかなる政治理論としても成立しない。
その背景には、緑の党が 理論を持たない市民イニシアティヴ や 理論敵視のミリューに
根ざしていたという事実があった。 
社会的諸問題を革命理論に基づいて解決しようとした 1960 年代後半の議会外野党 APO
とは反対に、70 年代の市民イニシアティヴは 自らの生活領域の問題に実践的に取り組んだ。

ヴュールで始った反原発抗議は、個別の原子力発電所に対する直接当事者の抵抗であり、
それが やがて 一般的な 反原子力運動へと発展したのである。
運動の活動家は 技術・物質主義的な合理主義的原則に抗し、そこに環境破壊や軍拡など
生活を危機にさらす発展の原因を見出し 政治的議論を要求した。
しかるに 彼らは 理論的議論に代わり、シンボリックなアクションを行った。
68年学生運動の流を汲む左派オールタナティヴ・ミリューもまた新左翼の中からドグマ的
政治セクトや赤軍派RAFなどの急進派グループが結成されたというネガティヴな経験があった。
そして その後、あらゆる前衛的革命的な社会構想から距離をとり、自分らの個人的生活
コンセプトを 非イデオロギー的に実践するようになった。

このように、APO から新しい社会運動への変化は、
「 理論の過剰 」の後に生じた 「 理論の欠如 」であり、
緑の党は こうした中で 底辺民主主義的コンセプトを欠いたまま結成されたのである。


               (つづく)
   前のページ に引き続いて、ドイツの原発政策について 見ていきます。
   このページとともに、前ページも 読んで見て下さい。 
    事態が、より立体的に 捉えられます。  


★ (抄略転載)
   ドイツ 原子力発電を放棄 新井栄一 2000年7月17日発行


 ( 2000 6月15日付のフランスの新聞 Le Monde の第一面に掲載された 皮肉なマンガ )

1. なぜ ドイツは原子力の廃止を決めたか?

1998年10月の連邦下院(Bundestag)選挙で Gerhart Schroeder率いるSPD(ドイツ社会民主党)は
過半数に至らない第一党の座を得た。 連立政権樹立のためには 相手として「みどりの党
(Buendnis90/Gruene)」を選ばざるを得なかった。
この連立交渉の条件の1つは 原子力発電から降りることであった。

 

2. 過去のSPD政権の時代にも原子力開発は進められていた

戦後のドイツの原子力技術開発の歴史には 日本のそれと比較できるところが多々ある。
1955年頃から 2つの大規模原子力総合研究所と2つの小規模特定分野研究所を発足させた。
1966年から1982年の間には SPDが関与した連立政権が続いた。1969-74年には Willy Brandt
(ノーベル平和賞受賞者)が、 1974-1982年には Helmut Schmidtが宰相になっている。
1982年以降、保守党CDU/CSUと自由党FDPの連立政権になった。
この間、1979年3月28日に 米国Three Mile IslandでのPWR型発電用原子炉の炉心溶融事故、
1986年4月21日には 旧ソ連,現Ukraine Tchernobylでの発電用原子炉の暴走・爆発事故、
ヨーロッパ中の大規模汚染の拡大事故が起きている。
1990年代に入ってから 本格的反原子力の雰囲気が 同国内に強くなった

 

3. 1990年代後半に入ってからドイツの原子力発電は事業として正常な状態になかった

使用済み核燃料棒は 国際規格の輸送容器に格納されて鉄道で フランスLa Hagueまたは
陸路・海路を経て イギリスSellafieldへ再処理のため送られた。
再処理後 核燃料物質(Pu, U)と核分裂生成物(Sr-90, Cs-137などの高放射性物質)が
ドイツに同様な経路で返送され、 Ahausに一時貯蔵所されている。
Ahausには中間貯蔵所があるが、最終貯蔵所の立地の見通しはない。
1990年代後半には 鉄道輸送は、「みどりの党」の運動員らの激しい妨害を受けた。
この反対運動は だんだん激しさを増し、1998年前半には 運動員数が40000人に達し、列車の
警備に出動する警官の数も40000人にのぼるという状態になった。
ドイツの毎日のTV、新聞の報道は 線路脇で殴りあう警官隊と運動員を映し出していた。
つまりこの時点で すでにドイツの原子力発電は 法で定める事業として正常な状態をなしていなかった。


4. 使用済み核燃料輸送容器の汚染スキャンダル

1998年5月には 使用済み核燃料輸送容器の表面に 基準値を超える放射性汚染があること、
電力会社は それを以前から分かっていながら隠していたことが報道された。
市民はもとより、この大スキャンダルに最も憤慨したのは警官の労組であった。法を守るため
体を張って守っていた列車の車両にまで放射性汚染があったというのでは 警官は救われない。

 

5. 原子力降りの具体的な形

上記のような反原子力発電運動の経緯を見ると、今回の 「原子力降り, Atomausstieg」 が
国民からも、発電事業を含むドイツ工業界からも、「しかたない」と受入れられたことは理解
できる。その条件は:
1) どの動力用原子炉も運転開始後32年を経た時点で原則閉鎖
2) 政府は 原子力発電会社に補償金を払わない
3) 最初の閉鎖は 2002年12月に、最後の閉鎖は 2021年になる予定
4) 2005年7月以降は 使用済み核燃料の外国での再処理の禁止
5) それまでは妨害せず
2000年に入ってから ドイツの総合電機メーカー Siemens社は、その原子力部門を切り離し、
フランスの原子力メーカーとの合弁にもっていった。

 

6. 1950年以来の原子力政策

1960頃すでに 当時の原子核物理学の知識で、原発からの電力量と放射性物質の発生量、
その半減期の関係は 正確に計算できる状況にあった。
しかし、筆者を含めた原子力科学者たちは、「夢のエネルギー 原子力」 に酔いしれて、
発生する放射性廃棄物の処理・処分の方法が確立していないこと、 最終処分の立地の問題に
ついて 国民に十分知らせ、原子力を選ばないという選択肢を考えなかった。
ちなみに、オーストリア、デンマーク、イタリア、フィリピンなどは原子力を採用しなかった。
著者が 1978-79年 研究のためドイツに滞在した時、ミドリっぽい知人から この点に関して
受けた警告を今も忘れることができない。
当時 みどりの党の活動は 勢力の小さな草の根運動であった。一方、原子力開発には 当時
すでに 1950-60年代のような勢いはなかった。 しかし、あの頃「みどりの党」の言うことに
耳を傾けた人はいなかった。

 

7. 原子力政策の 2つの間違い

第一の間違いは、1950-60年代に 科学者も政治家も 放射性廃棄物の1000年を越える
最終保管の技術的見通しと、保管の立地に関する国民の合意なしに 原子力エネルギー政策
を 始めてしまったことである。
原子力以外の非化石エネルギー源(太陽光・風力など) の技術開発には、第二義的な力しか
投入されて来なかった。

第二の間違いは、これだけ大きくなった(ドイツでも日本でも総発電量の1/3)エネルギー源
である原子力から降ることを、代替エネルギー源の見通しなしに政治的に決定したことである。
この決定においても、国民との本当の合意は なされていないのである。
つまり、
原子力を 2021までに全廃しても、これに代わる非化石エネルギー源の開発見通しは
明らかではなく、二酸化炭素の排出規制のための 1997 12月の京都会議の合意 (これに
最も熱心だったのはドイツが率いるEUであった) を進めた場合、
国民は 今までのような 安いエネルギーに基づく便利で贅沢な生活は 続けれないかも
知れない ということへの合意である。
このことについて はっきりした認識は まだないように見うけられる。

従って、冒頭のフランスの新聞の政治マンガのようなことになる可能性が大きい。
ライン(Rhein)河をはさんだ ドイツとフランス。 このマンガの通りになったら、原子力から
降りるも、降りないも同じことである。
つまり、今回のドイツ政府の決定は 政治の 「 お笑い劇 」 にしかならない。


                                  以上
★(抄略転載)
ドイツに学ぶ原発をやめる道 ―― コストの視点から考える
               クリスチャン・キュッパーズ氏講演録(グリンピース・ジャパン) 2003

  講演のテーマは、ドイツの脱原発とそれに付随するエネルギーコストについてです。
 原子力発電なしで、どうやってドイツは エネルギー需要、なかんずく電力需要を満たそう
 としているのか、についてもお話します。
 ドイツでは 1998年に政権の交替*がありました。その時‘原子力発電の段階的な廃止’
 ということが決定され、電力業界も同意をしました。
 そこで、1998年前とその後とで、分けてお話をします。

  * 1998 11月 シュレーダー連立政権発足(社会民主党と90年連合・緑の党)


1998年以前 ― 15年間、新規原発に関心なし
 まず1998年以前のポイントとしては、1998年までの15年間、ドイツの産業界は 新規原発に
関心がありませんでした。 理由は やはりコスト高、それと電力需要が伸びていなかった
ことです。コスト高が 問題となった背景に、電力自由化がありました。
1998年の政権交代の前に、ドイツでは EUの政策に従って電力自由化が進みました。
エネルギー市場が自由化されるということは、新しく発電所を造る時に それは小型で、
しかも顧客の需要に細かく対応できるような発電所である必要がでてきたのですが、
原子力発電は それに不適当な発電形態なのです。 例えば その出力規模が 1500メガW
など大型になりますし、またその建築に要する年月も 5年から10年もかかります。
従って、原発を これ以上建てないことに関して、産業界も合意したのは驚くにあたりません。
産業界が関心を示したのは 古い原発を動かし続けることでした。


1998年以後 ― 経済性と気候変動に配慮し脱原発
 1998年の新政権は 原発の段階的廃止を決定しました。
しかし それは、この原子炉は いついつまでに閉鎖しなければいけないというような廃止の
仕方ではありませんでした。 経済性が配慮され、古い原発は早々に閉鎖、新しい原発は2020年
まで操業、ということになっています。 また、気候変動についても配慮されました。
つまり、原発を廃止しても 二酸化炭素の排出量を減らすということです。

2020年までの エネルギーミックスに関する二つのシナリオを紹介します。
まずは 現状の政策にそった現実的なシナリオ。 
もう一つは 省エネルギーをすすめ、技術革新などにより さらに電力需要が抑えらた場合の
シナリオです。
両方ともドイツの現状を踏まえ、経済要因も折込済みです。
例えば太陽エネルギーは ドイツでは高くついていますので、貢献度が低くなっています。
 ( 図1 略 )
省エネケースのシナリオでは、2020年頃には、原発は 非常に少なくなっています。
現在は 全発電量の1/3を占めています。ピンク色は 天然ガスです。利用が増えていますが、
これはコージェネ、熱電供給が増えるという想定です。熱電供給は 効率が良いので、天然ガス
の利用は増えていますが、CO2の排出は減っています。石炭の貢献は だんだん減っています。
 ( 図2  )
  棒グラフの一番上の部分は 再生可能エネルギーで、一番上の緑が バイオマス、
  次の黄色い、ほとんど無い部分が太陽エネルギー。 青が風力、白が水力。
  再生可能エネルギーは、現実的なシナオリでは 発電量の16.4%、省エネでは 26.6%。

省エネの実現
 省エネケースでは  かなり電力需要を減らしています。
20年間で どうやって これだけ減らすか。 まずは 建物の断熱効果の改善です。
それから家電の省エネ化。省エネは 夜真っ暗ななかですごしなさいということではなくて、
電気を知的に使いましょう、ということ。
1次エネルギーの需要では 石油が多くを占めますが、将来は かなり燃費が良くなると予想
して、石油の占める部分を減らしています。

フランスからの電力輸入は 2%
 東京で よく聞かれた質問に、
「 ドイツは フランスから原発の電気を輸入できるから脱原発できたのだろう 」
というものがあります。現在確かに フランスから電力を輸入はしていますが、それは
トータルの電力量の2%です。 また、ドイツは 電力を輸入しているだけではなく、スイスや
オーストリアなどに輸出もしています。

ドイツで再処理を止めた理由 
(1) 核のゴミが増えてしまう
 日本政府は、原発から出る使用済み核燃料からプルトニウムを取出すことにしていると
聞いています。ドイツ政府は 原発の段階的廃止の合意をした時に、プルトニウムの
取出しも将来止めることも決めました。
ドイツの原発から、フランスやイギリスの再処理工場に使用済み核燃料を輸送するということは
2005年の6月以降は 禁止されます。

処理しないなら、どうするのか − 直接処分
 それでは、ドイツ人は その使用済み核燃料をどうしたいと思っているのでしょうか。
再処理に代えて考えられているのは、直接処分です。 まず、30年ほど中間貯蔵して冷やし、
調整施設に持っていって燃料集合体から燃料棒を取り出し それを放射線遮蔽のためのパック
を施して、それを最終処分場に持っていくという案です。
この案の良い所は、再処理工場のような高いレベルの放射性を帯びた排水がでるとか、
或いは 二次廃棄物が出るということがないところです。

第一には、ドイツでは 取出したプルトニウムにウランを混ぜて MOX燃料にして、また原発
で使うことをしてきたのですが、いろいろ不都合なことが起きてきたためです。

まず、この処理のため廃棄物がたくさんでます。高い熱を発する高レベル放射性廃棄物、
中レベル放射性廃棄物で熱を出すもの、これらは 中間貯蔵施設で20年、30年、40年くらい、
冷えるのを待たなければなりません。そのあとで最終処分場にもっていきます。
このほかに熱を出さない中レベル放射性廃棄物、低レベル放射性廃棄物もたくさんでます。
ウランの廃棄物も出ます。これらも最終処分場が必要です。大変な量の核のゴミが出るわけ
ですが、使用済み核燃料中のプルトニウムは 質量の1%位です。リサイクル率1%という
のは古紙1%の再生紙では ほとんど意味のないリサイクルとなってしまうように、意味の
あるリサイクルとは言えません。
リサイクルの目的の一は ゴミの減量ですが、プルトニウムを取出す作業を加えることに
より 使用済み核燃料のまま処分するときより、廃棄物が 10〜20倍に増えるからです。
使用済み核燃料中 96%を占めるウランは、劣化して 再利用が難しく、現実的には
核のゴミです。

(2)放射能汚染の原因となる
 再処理を止めた理由の第二は、大西洋の放射能汚染という問題です。大西洋の放射能汚染の
原因の95%が再処理工場です。

(3)使用済み核燃料輸送への反対
第三の理由は、再処理をする場合には 何百キロという距離を ドイツからイギリス或いは
フランスの再処理工場へ使用済み核燃料を運びます。
それに対する反対がありまして、それが禁止になった理由です。今は原子力法によって
使用済み核燃料は 原発の敷地内に 一時貯蔵することになっています。

(4)直接処分よりも大幅にコスト高
第四の理由は、再処理をすると直接処分に比べ 大幅にコスト高になるというものです。
直接処分した場合、再処理した場合、どちらにも コストの想定には相当のブレがあります。
しかし、再処理の場合の方が ブレが非常に大きくなっています。プルトニウムの取出し作業
については、コストの想定に ブレはありません。契約で決まっております。
輸送コストは、全体の中で 大きな部分ではありません。最終処分をするためのパッケージング
については、現在フランスやドイツで ドイツの使用済み核燃料のパッケージングをしています
が、ドイツの考えでは、英仏のやり方は 正しくないので、やり直しが必要になってきます
ので、追加的コストがかかります。
最終処分に いくらかかるかについては、最終処分の方法が まだ見えていない部分がたくさん
あるために上限と下限のひらきが大きいといえます。

またプルトニウムとウランの管理も必要になります。この大部分が プルトニウムにかかる
コストで、非常に高くなってきます。 その要因は MOX燃料製造コストが高いということが
あります。プルトニウム管理の中には、長い間プルトニウムを貯蔵した場合に それを使う段
になって、不純物を取り除く必要が出る可能性も出てきます。プルトニウムは 貯蔵すると
アイソトープの一種が劣化します。次第に劣化し、アメリシウムが出てきます。それがMOX燃料
に加工しようというときには 非常に邪魔になるのです。
ヨーロッパでは、そのアメリシウムが どれくらいまでなら許容可能かという制限があります。
非常に厳しい値で、プルトニウムを6年間貯蔵してできるアメリシウムの量は、許容不可能な
レベルになっています。

再処理に比べてコストがかからない直接処分
 直接処分では 処理前処理、中間貯蔵への輸送と調整、輸送容器と中間貯蔵、中間貯蔵と
輸送、そして、最終処分で それぞれコストがかかります。
最終処分コストは 再処理ケースと大差ありません。 再処理がない分、コストが低くなって
います。直接処分ケースのコスト予想値の最高値が、再処理ケースの最低値よりも さらに
安くなります。

・・・・



                                     以上


ドイツで最初の原子炉が稼動したのは 1968、一番新しい商業炉は 88に運転を開始。
 現在、新しい原子炉が建設される可能性はない。東西ドイツ統一前後の重大事故発覚など
 で、旧東独側の旧ソ連製原子炉は すべて運転停止、建設中のものも閉鎖。
 現在ドイツで 電力会社10社により保有され、稼動している14ヵ所 19基の原発は すべて
 旧西独側にある。
 ・・・・
  ドイツ国民の半数以上が、現在の脱原子力政策は 政権の交代によって、将来 撤回され
 得ると考えている。
 ・・・・
                               (2004)

                 

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