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1ー2−16 のつづき
1−2 北コーカサス(北カフカス)
北カフカース連邦管区 (2010年 南部連邦管区より分離)
北オセチア共和国 (北オセチア・アラニヤ共和国)
※ アラニヤは、オセット人の先祖とされる「アラン人」の名に由来する雅称。
公用語: ロシア語、 オセット語(インド・ヨーロッパ語族のイラン語派)
首都:ウラジカフカス
北カフカース(カフカース山脈北側)に位置し、オセチアの北部を占める。
南は ロシア連邦の国境を隔てて グルジアがあり、西は カバルダ・バルカル共和国、
東は イングーシ共和国、北は スタヴロポリ地方。
オセット語は、ロシア連邦に属する北オセチア共和国、グルジアの南オセチア自治州で
話され、話者の数は 約60万人。
1923年 ラテン文字を元にした正書法がつくられ、1938年より、北オセチアでは
キリル文字を用いた表記に改められた。
南オセチアでは 1938年に グルジア文字による表記に改められたが、1954年以後、
キリル文字が用いられている。
アルセン・コツォイェフ(1872−1944):ロシア領オセチアの文学者、オセチア散文創設者の一人
1912年 コツォイェフは サンクトペテルブルクに移り、ウラジーミル・レーニンの発行していた
新聞プラウダを含む多くの場で活動した。
コツォイェフは オセチアの田舎で育てられたが、しっかりした教育を受けていたため、
ロシア語の新聞を校正できるほどのロシア語の知識があった。
1917年 ロシア革命後、コツォイェフの名声は高まった。コツォイェフは様々な新聞・雑誌
のために働き、教育とそれに係わる分野で働いた。
カフカスの民族で、周辺の チェチェン人などムスリムの多い民族と違い どちらかといえば
親ロシア的である。
国境を挟んで 南のグルジア共和国側の シダカルトリ州が 南オセチアに相当する。
同地方では、自治権要求から 北オセチアとの統合 と ロシア連邦への編入を求めて
南オセチア紛争が起こっている。
隣接する イングーシと 領域を巡る対立を抱えるほか、イングーシの東の チェチェンの独立
をめぐる紛争において ロシア軍の拠点として使われている。
2004年9月には 北オセチアの地方都市ベスランで チェチェン独立派が ベスラン学校占拠事件
を起こし、350人以上が死亡する大惨事となった。
6世紀〜1239年 アラニア国。
一時、ハザール の支配下に入ったが、アラブ・東ローマ戦争(629- 1050頃)と並行
して アラブ・ハザール戦争(642 - 799)が起り、東ローマ帝国と同盟関係となって
交流したことから キリスト教が普及した。
9〜10世紀頃 再び アラニア として 約300年間 独立を保つ。
1239 モンゴル人侵入し、首都マガスを始め諸都市は 壊滅的な打撃を受け,
アラニア 消滅。
モンゴルの支配を嫌ったグループは ハンガリーに逃亡し、同地で ヤース人と
呼ばれる民族集団になり、 その後 ハンガリー人への同化が進んだ。
また、一部は 降伏して モンゴル軍に加えられて 中国に移住、元に仕える
親衛軍は 元朝治下のモンゴル高原での数多くの戦争で大きな戦果をあげ、
南坡の変など 14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変で重要な
役割を負った。
カフカス北麓の低地に残ったグループも、良質な草原地帯である この地方に
の山岳地帯へと南下を余儀なくされ、現在の北オセチアに移住して 4つの
部族集団からなる部族連合を形成した。
また、一部は カフカス山脈を越えて南下、南オセチアの領域に入って 群小の
村落共同体を立てた。
山岳地帯に入った彼らは 民族統一国家を建てることはなく、北オセチアの
オセット人は 西方のカバルダ人、南オセチアのオセット人は 南方のグルジア人の
支配下に入った。
当時、カバルダ人の首長が正教会に改宗して ロシアに忠誠を誓い、カバルダ人
やオセット人らと テレク川沿いの深い森に囲まれた この地に入植。
1763 ロシア帝国のグリゴリー・ポチョムキン、モスドクに 要塞の建設
コサック の 517家族を要塞周囲に設けた スタニツァ(コサックの村)に住まわせた。
テレク・コサック軍に属する集団の内、5つのコサック集団が モズドクスキー連隊を
構成し、テレク川沿いの東西80ベルスタに及ぶ前線を防護した。
モスドクは、18C後半〜19C 北カフカスの軍事・交易の中心地として栄えたが、
向かう 北カフカス鉄道が 南のベスラン・グロズヌイ経由で建設されたため 重要性
1878 ウラジカフカス (「カフカスを占領せよ」の意)建設
南側の ウラジカフカス鉄道が開通すると、1890年頃には、チェチェンのグロズヌイを
中心とする石油産業発展の影響下で、ウラジカフカスが中心となった。
ロシア革命(1917)後、
1922 12月 ソビエト連邦が建国
山岳自治ソビエト社会主義共和国(1921)、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国
に編入され、北カフカスで民族ごとの自治領域が設定され、
1924 7月7日 オセット人の領域には 北オセチア自治州が建設された。
元々 オセット人は 主に ウラジカフカスの位置する テレク川より西に居住していた
ため、北オセチア自治州は 現在の北オセチア共和国の西部を領有するのみ
だった。
1936 12月 北オセチア自治ソビエト社会主義共和国に昇格
1944 チェチェン人 と イングーシ人が対独協力の疑いをかけられ、中央アジアへ
民族ぐるみ追放されると、チェチェン・イングーシ自治共和国の西部を編入して
東方に大きく領土を広げた。
新たに編入された かつての境界の町ウラジカフカス(当時はオルジョニキゼ)が
北オセチアの中心となり、首都が ウラジカフカスに移される。
スターリンの死後、チェチェン人・イングーシ人は カフカスへの帰還を許され
チェチェン・イングーシ自治共和国が復活するが、ウラジカフカスとその周辺の領土は
そのまま北オセチア領に残された。
ソ連末期 1980年代末にチェチェン・イングーシとの間の領土紛争の原因となり、
1990年6月20日 北オセチア自治ソビエト社会主義共和国、自治共和国宣言。
1991年 ソ連邦 消滅。 北オセチア、名前を 北オセチア・アラニヤ共和国に変更。
4月9日 グルジア 独立宣言
12月 ロシア中央政権 と チェチェン・イングーシ共和国(チェチェン・イチケリア共和国)の
双方が、イングーシ共和国の分離を承認。
分離で わずかな領土しか持たない イングーシ共和国は 旧チェチェン・イングーシ
自治共和国領のウラジカフカス以東をも領土と定めたため、北オセチア共和国
は これに反発。
1992年
2月21日 グルジアの軍事評議会、ソビエト連邦期の憲法を廃止し、1921年
に制定されたグルジア民主共和国の憲法を復活させることを宣言。
これを、アブハズ人たちは、自治権の廃止ととらえた。
7月23日 アブハジア自治政府 独立宣言。
国際的な承認は得られなかったため、グルジア政府は 3000人の
部隊を アブハジアに送り、スフミにおいて、アブハジアの分離主義武装
グループとの間で激しい戦闘が起こる。1週間の戦闘で双方に多くの
犠牲者が出て、グルジア政府は アブハジア自治政府を廃した。
アブハジア側の敗北後、北コーカサスの諸共和国から 義勇軍がアブハジア
の分離主義グループに合流し、再びグルジア政府軍との交戦が始まる。 8月14日 アブハジア戦争
10月 イングーシ共和国との間で武力衝突に発展し、オセチア・イングーシ紛争
が勃発した。
11月 ロシアの介入によって国境はそのまま維持された。
1994年12月 第一次チェチェン紛争。
1999年8月 第二次チェチェン紛争
2007年10月31日 チェチェン・イングーシ共和国、イスラム国家 カフカース首長国 宣言
2008年8月8日 南オセチア紛争
2009年4月16日 第二次チェチェン紛争 終結
(未完成) |
文明 或は 帝国
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1ー2−12 のつづき
1−2 北コーカサス(北カフカス)
北カフカース連邦管区 (2010年 南部連邦管区より分離)
首都: チェルケスク
80を越える民族が暮らすと言われ、全人口の44%が都市に暮らす。
平均年齢は 33.2歳。127,488戸。
近年では、ロシア人の割合の低下が顕著であり、1990年代以降の北コーカサス
地方の政情の不安定化、経済状態の悪化などが原因と考えられる。
チェチェン紛争の際、ノガイ人の人口を上回る 約2万人のチェチェン人難民が流入した。
石炭、花崗岩、大理石、金、粘土などを産する。
鉱泉が豊富で、温泉も多い。
公用語は ロシア語
言語: ロシア語、カラチャイ・バルカル語(テュルク諸語北西語群)、カバルド語 など
カバルド語は、ロシア南部、カバルダ・バルカル共和国やカラチャイ・チェルケス共和国
(アブハズ・アディゲ語族)に属する。 話者は 約65万人。
BC 5世紀頃のユーラシアのステップでは、 BC 3世紀頃 サルマタイ人、西方の南ウクライナ(黒海北岸)に移動し、スキタイ人を
クリミア と ドブルツァへ追い払う。
BC 2世紀 サルマタイ人、ヨーロッパに侵入(そのまま残ったものが アラン人)。
で起こした ローマへの反抗に参加したこともあったという。
1〜3世紀頃 ドニエプル川 と コーカサス山脈以北のローマ帝国の脅威であり続け、
ハドリアヌス帝時代(117 - 138)以降、ローマに影響を与えた。
※ イラン系遊牧民 サルマタイ
BC4世紀〜AD4世紀 南ウクライナを中心に活動。
2世紀に 黒海の北西一帯に進出して スキタイ を駆逐した後、5世紀まで発展
したチェルニャコヴォ文化の主要な担い手。抽象的なデザインに宝石や貴金属を
ちりばめた華麗な装飾を好み、女たちも鎧を纏い馬に乗って積極的に戦場
自分たちの文化的・政治的なルーツと考えていた。) http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/00/Roman_Empire_Trajan_117AD.png/800px-Roman_Empire_Trajan_117AD.png
ローマの最大版図(トラヤヌス帝時代 〜 98 - 117 〜)
民族大移動を起こす。
7世紀 最後のサルマタイ文化が起こる。
その後、スラヴ人の南下と東方からの遊牧民の侵入で衰退。
1828年 露土戦争の講和条約 アドリアノープル条約締結
現カラチャイ・チェルケス共和国の領域は ロシア帝国領 クバン州に併合される。
コーカサス戦争(1817〜64)で 住民(チェルケス人など)が激しい抵抗を行ったが、
チェルケス人虐殺⋆で鎮圧され、ほとんどの住民は オスマン帝国へ移住or追放。
人口の10%だけが、彼らの伝統的な テリトリー に残った。
⋆五輪会場のソチは、1864年 チェルケシア人大虐殺の場所。埋葬されていた兵士の
墓地は、ブルドーザーで整地され遊園地となった。ロシアは チェルケス人虐殺を認めて
いない。スキー競技が行われている「赤い丘」は、多くの人々が殺害された血まみれ
の戦闘が行われた地である。
チェルケシア族は、アディゲ人、アブハズ人、ウビフ人、チェルケス人、シャプスグ人、そして
カバルディン人からなり、主に アディゲア共和国、カバルディノ・バルカリア共和国、
そして カラチャエボ・チェルケシア共和国内の北西コーカサスにいるが、トルコ、ヨルダン
、米国を中心に世界中に離散している。
チェルケス人の90%は ロシア国外に住んでいるという。 1−2−1参照
世界各地のチェルケス人、過去の虐殺・追放に抗議 2013年05月19日
デモ集団を代表して会見を行ったフェフミ・アイブルト氏は、
「 今年は 以前と比べて 我々の声はより大きい。諸民族の高揚がみられた時代
に、消滅することを強いられた チェルケシア の、最も大きな虐殺が行われた クバアダ谷
で来年、虐殺150周年の年に、ソチ五輪が行われる。五輪委員会は、守る責任
のある五輪の価値を もう一度 踏みにじるプロセスを歩み始めた 」と話した。
1918年 ロシア革命
4月1日 クバーニ・ソビエト共和国となり、
5月28日 クバーニ=黒海ソビエト共和国となり、
7月5日 北カフカース・ソビエト共和国となり、
1921年
1月20日 山岳自治ソビエト社会主義共和国となり、
1922年
1月12日 カラチャイ・チェルケス自治州 創設
1926年 カラチャイ自治州 と チェルケス民族管区 に分離
1928年
4月30日 チェルケス民族管区、チェルケス自治州に昇格
1943年 カラチャイ自治州 廃止
第二次世界大戦で 男性人口の半分が ドイツと戦ったにも関わらず、
ヨシフ・スターリン政権は カラチャイ人住民をカザフスタンに強制移住させる。
・ナチス・ドイツ軍がカフカスの地にやって来たとき、チェルケス人たちは、ドイツ軍
を解放軍として迎え、家々には、トルコの半月旗を掲げた。
1957年
1月 再び カラチャイ・チェルケス自治州が設置され、カラチャイ人たちは帰郷を
許された。
1989年 アブハジア紛争
紛争勃発時の民族構成:グルジア人45%、アブハジア人17%、ロシア人15%、
アルメニア人15%、ギリシア人3%
グルジアは、アブハジア自治共和国として自国領と主張しているが、
事実上、アブハジア共和国として独立状態にある。その独立は 国際的
には認知されていなかったが、2008年8月26日 ロシアが承認。また、
2008年9月に ニカラグアが、2009年9月 ベネズエラ、12月 ナウル 、2011年9月
にツバルが独立を承認。首都はスフミ。)
1991年
3月 カラチャイ・チェルケス・ソビエト社会主義共和国となり、
ソ連邦解体にともなって、翌年8月14日、アブハジア戦争勃発
1992年
12月 カラチャイ・チェルケス共和国に改称 民族間の対立が 常に大きな問題となる。
1999年5月 初の大統領選挙が行なわれ、カラチャイ人候補ウラジーミル・セミョーノフ⋆
が チェルケス人候補スタニスラフ・デレフに勝利した後、セミョーノフ陣営の不正を指摘する
デレフ支持者による大規模な抗議行動が起こった。
裁判所は選挙結果を有効と判断、共和国の分離を唱える数千人のデレフ支持者
によるデモが続いた。
⋆ 1988年 ザバイカル軍管区司令官。1991年 ソ連国防次官兼地上軍総司令官を
経て、ソ連崩壊後の1992年から1996年まで ロシア連邦地上軍総司令官を勤めた。
2001年、自動車爆弾によるテロ。チェチェン過激派の犯行と考えられている。
2003年
8月31日 カザフ出身のカラチャイ人 ムスタファ・バトドゥイエフ(スンニー派)、大統領選で
セミョーノフを破る
(1944年 スターリンにより、バトドゥイエフの一家は カザフ追放を受け、
その後、1956年一家とともに帰郷)
2008年 ボリス・エブゼーエフ大統領(カラチャイ人・スンニー派 〜2011)
本情報は 2014年02月08日現在有効です。
(2)カラチャイ・チェルケス共和国,スタヴロポリ地方:
「渡航の延期をお勧めします。」(継続)
これらの地域では,散発的ながら武装勢力による襲撃事件や武装勢力の 武器弾薬庫が摘発される事件が発生しています。また,ソチ・オリンピックを控え
ロシア当局による対テロ作戦が行われているため,銃撃戦などが散発しています。
なお,カラチャイ・チェルケス共和国は,グルジアと国境を接しており,グルジア側
にはアブハジア問題があり,最新の情勢を注視する必要があります。 近年の各地域の主な事例は以下のとおりです。 2013年
1月 警察署を銃撃した 2人組の武装グループが,逃走中に警察に殺害され
ました。この武装グループは,住民2人を殺害した容疑が持たれています。
毎日 2013年10月14日 来年2月の冬季五輪開幕まで 4カ月を切った ロシア南西部ソチは、各種スタジアム
が ほぼ完成し、大会ムードが盛り上がりつつある。 一方、競技が行われるのは、
150年前に帝政ロシアが 先住民の チェルケス人を「虐殺」した場所とあって、チェルケス人
の間には複雑な思いが広がっている。
ソチ中心部から北西へ黒海沿いの鉄道と車を乗り継いで 約 2時間。 山間部に
ある チェルケス人の集落 キチマイは、19世紀のカフカス戦争終盤の戦場の一つで、
チェルケス人の墓が点在する。 近くの海岸からは 帝政ロシアの迫害を受けた多くの
チェルケス人が 船で トルコに逃れた。 長老格の ルスラン・グバシェフさん(64)は 「 故郷を
追われた チェルケス人は 母国語を失い、民族性を奪われた。大きな悲劇だ 」と訴えた。
人口 40万のソチ市は ロシア人が 7割を占め、チェルケス人は 約4000人にすぎない。
そんな ソチに プーチン大統領の肝いりで 冬季五輪が誘致され、かつて チェルケス人
「虐殺」の舞台となった山間部のクラスナヤ・ポリャーナが スキー競技会場に決まった。
ルスランさんらは 開発にあたって チェルケス人の墓や文化的な遺産を調査・保護する
よう当局に求めたが、聞き入れられなかったという。 カフカス戦争の犠牲者を追悼
する記念碑を建てる計画も 宙に浮いたまま。 「 我々の先祖を侮辱するもので、
政府の対応に失望している 」と憤る。
帝政時代の チェルケス人迫害については、チェルケス人組織などが 「虐殺」と認める
よう求めているが、ロシア政府は これを拒否してきた。国外の チェルケス人団体の中
には ソチ五輪の開催反対を掲げるところもある。
今年7月には 北カフカスの イスラム武装勢力指導者、ドク・ウマロフ司令官が「 多くの
イスラム教徒(チェルケス人)が殺害された場所で 五輪が計画されている 」として テロ
予告の声明を出した。
プーチン政権としては チェルケス人「 虐殺 」問題に蓋をしたいのが本音で、ソチ五輪
で チェルケス問題に焦点が当たらないよう案じている節がある。 内戦が続く シリア
にいる チェルケス人が故郷の ロシアに帰還する動きにも消極的な姿勢を見せている。
チェルケス問題に詳しい ロシア科学アカデミー民族学・人類学研究所のユーリー・アンチャバゼ
氏は 「 帝政ロシアに 特定の民族を絶滅させる意図はなく、虐殺とはいえない 」 との
見解を示す。 一方で、ソチ五輪は チェルケス人の悲劇を世界に知ってもらう よい機会 だと指摘する。「 2010年の バンクーバー冬季五輪は 先住民との融和を前面に打ち
出した。ソチ五輪でも ロシア政府は チェルケス問題を隠すべきではない。それが五輪
本来の意義だ 」と語った。
(つづく)
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1ー2−14 のつづき
ヤコブ・ヘデンスコグ
(3)
9.3 北コーカサス地方に対する連邦政府の非軍事的アプローチ
ロシア連邦政府は エスカレートする 北コーカサス地方の暴力と戦うために、軍事面 及び
非軍事面の双方において、様々な方法を試してきた。
その暴力は、一部地域においては ジェット戦闘機や軍の通常部隊が使われるなど、低強度紛争の特徴を帯び始めていた。ロシア連邦当局は また、北コーカサス地方の
悪化する情勢については、行政措置によって対応してきた。
2010年1月、南部連邦管区の一部から 新たに、北コーカサス地方の連邦管区が設置
された。この改革の目的の一つは、2014 年の オリンピックを前に、南部連邦管区に
ある ソチを、北コーカサス地方のその他の地域から隔絶させることだったかもしれない。ロシア連邦政府の北コーカサス連邦管区大統領全権代表には、クラスノヤルスク地方の
元知事、アレクサンドル・フロポーニン氏が任命された。
生活水準の向上の実現によって、反体制組織が 新たな メンバーを募るのを難しく
するため、ロシア連邦政府は 様々な措置を実施している。 2010年9月、連邦政府は
2025年までの北コーカサス地方の連邦管区に関する社会・経済開発戦略を発表した。 北コーカサス地方の経済の発展に焦点を当てたものである。 さらに、2011年7月には ロシア連邦地域開発省が、2012年から 25年までの北コーカサス
地方の発展のための連邦プログラム「ロシアの南部」を発表した。 この プログラムは、
北コーカサス地方連邦管区の予算の10倍にあたる 1,250億ドル規模の投資を必要と
するものである。予算には、観光開発向けの投資 や 失業対策費用などが含まれて
いる。 この提案は 当初、ロシア連邦の経済発展を脅かすとして、連邦財務相から
厳しく批判された。しかし、それにもかかわらず、予算は その後、最終的に承認
されるまでに 当初より 710億ドル多い 1,760億ドルに増額されている。
イスラム教徒が大半を占め、汚職がはびこる 北コーカサス地方の共和国指導部に
多額の補助金を与えることについては、右派が 多くを占め、拡大を続けている
モスクワの愛国主義者グループからの批判が高まっている。 このグループは、「 コーカサス
に エサをやるな! 」とのスローガンを掲げ、活動を行っている。
ソチ・オリンピックの開催を前に、フロポーニン大統領全権代表は スキー観光に
多額の投資を行っている。 しかし、結果は 今の所、まちまちである。これまでに、
フランス 及びオーストリアの投資家との間で 契約が締結されている。 しかし 同時に、テロの脅威が こうした努力の成功に疑いを持たせている。
例えば、2011年2月、イスラム系反体制勢力が エルブルス管区(カバルダ・バルカル共和国)
で モスクワからの観光客3人を射殺した。 また、この管区内で ケーブルカーが同時に
爆破される事件も起きた。 これを受け、NAKは エルブルス管区での対テロ作戦を計画。
同地区への観光客の立ち入りを一時的に禁止した。
テロの脅威以外にも、北コーカサス地方での観光に関する新規事業の試みは、
地元の文化や伝統に起因する問題に直面する。この地方では、ホスピタリティ を提供
することは名誉なことであり、料金を請求するものではない。そのため、北コーカサス
地方におけるスキー観光プロジェクトは、地元住民の関与はなく、トップダウンで
決められたものである可能性が高い。
また、連邦政府に対する反体制が強い地域への コントロール を強める方法として、
ロシア政府が行ったものであるようにもみえるのだ。さらに、土地に関する紛争の
可能性が懸念されている他、汚職に満ちているとの噂もある。
観光業の発展を目指すためとして、魅力的な地所は すでに開発の対象地とされ
ている ― こうしたやり方は、決して 地元住民からの人気を得ていない。
9.4 プーチン政権のゆくえ
ロシア連邦は 未だに、問題を抱える南部地域についての 一貫した戦略を見出せ
ていない。連邦治安部隊は 2011年春、北コーカサス地方の反体制派を 地元の共同体から排除することにおいて、一定の成功を収めた。 しかしながら、この地域の暴力
の継続と反体制派の活動の拡大は、現在の状況が 彼らの制圧からは 程遠いもの
だということを示している。反体制派は 「兄弟や姉妹」を亡くしても 何の問題もなく、
その穴を埋めるための 新たなメンバーを確保できているようである。
さらに、その目的が 自らに対する支持拡大のためであっても、ロシア連邦において
権威主義的な法律の導入を促進する口実であっても、プーチン大統領が任期3期目
の間に、北コーカサス地方の暴力を 自らに有利な形で利用することは、一層困難に
なる可能性がある。3月の大統領選で勝利はしたものの、プーチン氏は最近、政治家
として かつてないほど、自らに対して 高まる世論の反発に直面している。
プーチン大統領が率いる与党、「統一ロシア」にとっては痛手となった 2011年12月の
議会選挙以来、モスクワ 及び その他の主要都市で、反プーチンのデモが 定期的に
実施されているのだ。緩やかな組織体ではあるものの、プーチン政権下においては
かつてない規模で、デモの組織団体は 参加者を動員することに成功している。
北コーカサス地方の反体制活動もまた、モスクワにおける政治的ムードを変えることに
成功したとみられる。 2012年2月、ドク・ウマロフは ビデオで コーカサス首長国の
反体制勢力に対する声明を発表し、ロシア市民を攻撃の標的にしないよう命じた。 「 ロシアの平和的な人々は、もはや プーチンと 彼のチェキスト政権を支持していない 」
からである。
しかしながら、今の所、この声明の信ぴょう性を判断するのは困難である。仮に
連邦機関・法執行機関への攻撃が 今後も これまでどおりに 継続したとすれば、
この声明は、プーチン大統領への支持の低下と、連邦政府の対北コーカサス地方政策
に対する ロシア世論の二分化を、コーカサス首長国が利用しようとしている、ということ
を意味している可能性がある。
一方では、市民を傷つけるな という声明にもかかわらず、2012年5月4日には、
ダゲスタン共和国の首都 マハチカラで 爆発物が仕掛けられた自動車2台が爆発し、
市民と救助隊員13人が死亡、100人以上が負傷している。これは、37人が死亡した
2011年1月のドモジェドヴォ空港での事件以来 最大の犠牲者を出すテロ攻撃となった。
このように、プーチン大統領は、北コーカサス地方の共和国の腐敗した指導者たちの
懐に入ってしまう可能性が高い 連邦政府の支出と、自らの独裁的な リーダーシップ
スタイル に対する国民からの反発の高まりという 2つの問題に、同時に直面している。
大統領、そして 首相として、事実上のロシア指導者の地位に就いてから12年以上
が経過し、北コーカサス地方での低強度紛争が 依然として続く中、プーチン大統領が
「 自らの政策が 北コーカサス地方の秩序を確立した 」と 再び主張することは 困難に
なるだろう。そのため、ロシアのオブザーバー や ロシア国民の大半の目には、プーチン
大統領が 北コーカサス地方における 自身の「歴史的使命」を達成した と判断できる
状況には、まだ程遠いと映っているのである。
以上
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1ー2−15 のつづき
ヤコブ・ヘデンスコグ
(2)
9.2 北コーカサス地方の現在の治安情勢
ロシア連邦政府は 2009年4月16日、チェチェンにおける 10年に及んだ対テロ作戦計画
は完了したと発表した。 実際に、チェチェン共和国内におけるテロ攻撃の件数は、
大幅に減少していた。そして、対テロ作戦に関する 通常業務の権限は その後、
ロシア連邦の組織から チェチェン系住民で組織される地域の治安部隊に委譲された。
「チェチェン化」政策により、ロシア連邦政府は 紛争を連邦からの分離独立を求める
ものではなく、チェチェン内部の紛争とみなすことを可能にした。
さらに、国内の人権擁護団体や国際社会からの批判の矛先を、連邦中央政権から
反らすことができたのである。
地域の保安分野において 最も強力になったのは 「カディロフツィ」(カディロフ人脈)
である。この集団は、チェチェン内部の主導権争いから生まれたものであり、ロシア連邦
政府との同盟関係を築いたものである。その指導者である ラムザン・カディロフ氏は
2007 年、チェチェン大統領に任命された。
父である元大統領 アフマド・カディロフ氏は、2004 年に暗殺されている。
主に ロシア連邦寄りである カディロフ大統領の無慈悲な支配のおかげで、チェチェンの 治安情勢は ある程度において安定した。 しかし それでも、北コーカサス地方全体
としての情勢は、ここ数年の間に悪化している。
そのため、プーチン大統領は 今後、初めて就任したとき以上に 複雑化した北コーカサス
地方への対応を 余儀なくされることになるだろう。より複雑になった このような情勢
には、同時に存在する いくつかの要因が影響している。
第一に、全般的に過去数年と比べて、暴力の程度が高まっている。
前述のとおり、チェチェン ならびに周辺の共和国で 暴力が増えている理由の一部は、
2009年の チェチェンにおける対テロ作戦の終了がある。
これにより、約2万人の兵士からなる内務省国内軍が チェチェンから撤退した。チェチェン
では 飛行制限・夜間外出禁止令・道路封鎖が解除され、するとすぐに、それまでは
押え付けられていた残る反体制派グループのメンバーが活動を活発化させたのである。
又、2009年後半以降 ロシア連邦国内で発生した 3件の大規模な自爆攻撃からも、暴力が増加していることは明らかだった。 2009年11月27日には、モスクワ と サンクト
ペテルブルク ゙を結ぶ急行電車「ネフスキー・エクスプレス」の下で 爆弾1個が爆発、
2010年3月29日には、モスクワの地下鉄で 2 回の爆発が発生、2011年1月24日には、
モスクワ郊外の ドモジェドヴォ空港で 爆弾 1個が爆発した。
これら 3つの事件での犠牲者は、合わせて 100人以上に達している。
2004年の ベスランでの学校占拠事件後、自爆攻撃の利用は 反体制活動の中から
消えた。しかしながら、2008 〜 2009年以降、北コーカサス地方のテロ活動における
特徴的なテロ行為として復活している。さらに、これは チェチェンだけではなく、周辺
の その他の共和国でも使用される手法になっているのだ。
北コーカサス地方の治安情勢の悪化を示す第二の要因は、2004 〜 2005年以降
における 地理的な暴力の拡散である。1990年代から 2000年代初めにかけての
反体制派による暴力は、おおよそ チェチェンに限定された現象だった。それが その後、
隣接する ダゲスタン共和国やイングーシ共和国にも広がったのである。
そして 現在、こうした暴力は 北コーカサス地域全体に広がっている。最大の影響を
受けているのは ダゲスタンであり、それに イングーシ、カバルダ・バルカル、チェチェンが続いて
いる。
カラチャイ・チェルケス や スタヴロポリ地方のように、以前は 事実上、暴力を免れていた
地域においても(後者は ロシア人が人口の圧倒的大半を占める地域であるにもかかわらず)、
ここ数年においては 武装グループ による事件が発生している。
チェチェンと隣接する その他の共和国については、コーカサス地方の出身者が、別の 共和国における暴力の増加に関与している場合が多い。
例えば イングーシでは、2008 年 イスラム教徒による地下活動が活発化した。これは
主に、当時の ムラト・ジャジコフ大統領の独裁統治への反発として出現したものである。
ジャジコフ大統領は 2008 年後半、ロシア連邦によって解任されたが、新たに任命された
ユヌス=ベク・エフクロフ氏 もまた、状況を掌握することはできなかった。
エフクロフ大統領は、ロシア軍での功績を称えられ、ロシア連邦英雄の称号を受けた人物
であった。イングーシでの最も大きな事件は、2009年6月23日に起きた エフクロフ大統領
を狙った自動車爆弾による自爆攻撃である。 この事件によって、大統領は重傷を
負った。 参照:イングーシ 1−2−4
カバルダ・バルカル共和国は かつて、ほぼ間違いなく、北コーカサス地方の共和国の
中では 最も治安情勢が安定していた国の一つだった。
しかしながら、その治安は 2010 〜 2011年に目立って悪化した。2010年だけでも、
攻撃の件数は 5倍になっている。暴力が増加した時期は、2010年3月の アンゾル・
アステミロフの殺害と、それを受けた地元のjamaat(イスラム過激派グループ)指導部の
交代の時期と重なっている。
北コーカサス地方の最大の共和国である ダゲスタンは、2011年までに この地方で
最も暴力の多い国になった。反体制派と治安部隊の武力紛争による死者の約60%
が、ダゲスタンでの犠牲者である。この年の 北コーカサス地方全体での死傷者数は、
1,378人であった。民族主義や分離主義といった要因が、暴動の拡大に大きな影響
を及ぼしている この地方の他の共和国とは異なり、ダゲスタンでの暴力は、ほぼ
全面的に、絶望的な貧困や警察の蛮行、宗教的不寛容が原因であると考えられ
ている。
北コーカサス地方の治安情勢が悪化していることを示す第三の要因は、ロシア連邦
中央政府が 現在において直面する北コーカサス地方の暴力の問題が、1990 年代 及び 2000年代初めとは 根本的に異なっているということである。
以前の主な問題は、チェチェンにおける民族的な分離主義であった。しかし、ロシア連邦
当局は 現在、潜在的には より一層 困難な敵に直面している。イスラム教分離主義者
の地下活動である。彼らの目的は、この地方における 政治及び社会生活のイスラム化
であり、ひいては この地方全体を支配下に置く、イスラム国家の創設である。
このイスラム分離主義運動の中核にあるのは、北コーカサス地方の すべての共和国と クラスノダール地方、スタヴロポリ地方の一部を網羅する 実質的な イスラム国家「コーカサス
首長国」である。首長国の長である 「首長」は、チェチェンの分離独立派の指導者
であり、ロシア連邦における 数多くのテロ攻撃の実行犯として声明を出している、ドク
・ウマロフ(アラブ名:ドック・アブ・ウスマン)である。
この武装化した地下活動組織は、ロシアの連邦 及び地方当局に対する ジハード
(聖戦)を宣言し、「占領された」領土を統一して 「解放された」地域に シャリア法を
制定することを、活動の目的として掲げている。
反体制派であるコーカサス首長国の戦闘員の数は、この地方全体でも わずか数百人 程度とみられている。彼らが 主に活動を行っているのは、ダゲスタン、イングーシ、チェチェン
である。戦闘部隊は、正式に首長国に所属する組織であり、首長に忠誠を誓う。
しかし、中央指揮系統からは 比較的、自立した立場にあり、独自の指揮権と高い
レベルの戦術的な自由を認められている。反体制派に 最も共通している作戦は、
警察署や その他の公共建物を攻撃し、政府関係者や 彼らがイスラムの教えに 背いているとみなす 地元のイスラム聖職者を殺害するため、そうした建物に爆発物
を仕掛けることである。また、前述した通り、自爆攻撃も一般的に使われている。
反体制派は 自らを、サラフィ主義者だと主張している。サラフィ主義とは、サウジアラビア
に ルーツを持ち、コーランの厳格な解釈を主張する考え方である。自分たちこそが
“真の”イスラム教徒であると訴える サラフィ主義者たちは、長い間、北コーカサス地方では
主流を占める スーフィー主義( イスラム教えを、神秘主義の要素を含めて解釈し、この地方では
伝統的に主流派である )のイスラム指導者たちから差別され、それに苦しめられてきた。
ところが、北コーカサス地方、とくに ダゲスタンのイスラム教社会では 今、変化が起って
いる。 ダゲスタンでは サラフィ派の活動に対する人気が高まっており、主流派になり
つつあるのだ。ただし、サラフィ主義者の全てが、暴力的な いわゆる サラフィ主義戦士
ではないことに注意することが重要である。
若いイスラム教徒たちと、より広範なイスラム世界との 様々な接触や交流によって 1990年代 にもたらされた サラフィ主義の人気の高まり、及び その普及拡大が、ソ連崩壊後の
北コーカサス地方で起きた宗教復興につながった。1990年代初めから、より多くの若者
が 定期的にモスクに通い、断食を行い、日々の祈りを行うようになったのである。
そうした若者たちの多くが、中東のイスラム教国を訪れ、イスラム教の教育機関や大学
で学んだり、ハッジ(聖地メッカ 及び メディナへの巡礼) を経験したりしている。 彼らは
こうした経験を通じて、イスラム教に関する知識を大幅に高め、理解を大幅に深めた
のである。 参照:ダゲスタン寸描(2003)1−2−2
さらに重要なことは、彼らが サラフィ主義 及び その他の急進的イスラム教の考え方に
出会ったことである。サラフィ主義は、様々な外国のイスラム基金や組織の努力によって、北コーカサス地方にも広まった。これらの組織などは、この地方に事務所を設け、新たな
モスクや イスラム学校の建設、イスラム文学の出版などを支援している。
北コーカサス地方における 現在のイスラム社会の急進化は、ある程度において、過去 20年間の ロシアの軍の行動に対する反応ともいえる。すでに述べた通り、1990年代
後半までには ロシア連邦政府が、北コーカサス地方における ロシア軍の行動の自由 (まず
は ロシア連邦軍、その後、内務省指揮下の国内軍とFSB 部隊) を大幅に認めた。 これらの
各組織には、「ワッハーブ主義」とは何か、「ワハビ派」とは 何者か を恣意的に定義する
権利が与えられたとも言える。 そして、これに対する反応として、武装地下組織は
イデオロギーと戦術の両方の面において、さらに 過激化したのである。
チェチェンの民兵が愛国主義を捨て、ジハードのイデオロギーに傾倒したこと、民兵が 自爆攻撃をはじめとする テロリストの攻撃手法を採用したことが、それらを示している。
穏健な サラフィ派は、周縁化されるか 或は 急進化するかの いずれかということに
なったのである。
ロシア連邦は 常に、自らは 地域における国際テロ活動と戦っているのだ と主張 してきた。 確かに、北コーカサス地方の反体制派の活動 と アルカイダの間には、人的・
金銭的な関わりがあった。ウサマ・ビンラディン容疑者の友人と言われた アル=ハッターブは
1990年代、アルカイダの工作員だった。 また、北コーカサス地方の ムジャヒディンたちも
この時期、アフガニスタンや 1992 〜 97年に内戦が起きた タジキスタン など、北コーカサス
とは別の場所において、世界的な聖戦の第一線で戦っていた。
例えば、米軍が 2001年に アフガニスタンで身柄を拘束した 8人のイスラム教徒のうち
2人は、北コーカサス地方 と ヴォルガ地域の出身の カバルディン人であった。
彼らは、タリバン 及び アルカイダのために戦っていた として告発され、2002年に
グアンタナモ収容所に送致された。 2004年に行われた インタビューで、シャミル・バサエフは、
国際的なイスラム教主義者から 「定期的に」資金を受け取っていたことを認めている。
2003年には アル=ハッターブ、2004年には ヤンダルビエフ、2006年には バサエフの 3人が 死亡し、2001年9月11日の攻撃以降、アルカイダは より分散的な ネットワーク になった。
しかし、そうは言うものの、北コーカサス地方における反体制派の活動との人的・金銭的な関連は、恐らく 依然として 存在しているのである。
コーカサス首長国の宣言にも表れているように、北コーカサスにおける聖戦士たちの活動 は 多様化する傾向にあり、活動の目的や組織という点においては、民族に基づいた
ものから、コーカサス地方全体のものへと変化している。現在の イスラム教徒たちの
国家への強い憧れは、世界的な聖戦に参加するという 国境を越えた夢に、取って
変わられることになるだろう。
現時点においては、アルカイダや その他の聖戦士グループとの間に 金銭面 及び兵站
の面での密接な関与がないとしても、少なくとも 北コーカサス地方のイスラム急進派は、
サラフィ派聖戦士と同様のイデオロギーを持っており、また広い意味においては、コーカサス
に イスラム教のシャリア法が支配するイスラム国家を創設するという、同一の戦略的
目標を持っているのである。
(つづく)
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1ー2−12 のつづき
ヤコブ・ヘデンスコグ
(1)
私の使命、私の歴史的な使命は
― 尊大に聞こえるが、事実だ ― 北コーカサス情勢の安定化である。
ウラジーミル・プーチン、2000年 2012年 5月7日、ウラジーミル・プーチン氏は 3度目となる ロシア連邦大統領への就任
を果たした。 1999年に ロシア政界にデビューして以来、プーチン氏は 北コーカサス地方
での出来事に密接に関与してきた。
政治家としての そのキャリアのすべてにおいて、プーチン氏は この地域に対する
自らの強硬手段への国民の支持と、政治家としての自らへの国民の支援を勝ち取る
ために、北コーカサスにおけるテロの脅威を利用してきたのである。
テロとの戦いは また、ロシア連邦における 民主的な自由 と 権利を抑圧する口実
にも使われてきた。
ボリス・エリツィン政権時代、首相だった頃のプーチン氏のロシア国内における人気は、
積極的な対テロ戦士としての評価の上に築かれたものであった。
1999年8月2日、チェチェンのシャミル・バサエフ 並びに サウジアラビアの聖戦士イブン・アル=ハッターブ
率いる反体制派グループは、チェチェンに設けた複数の拠点から ダゲスタン共和国に侵攻
した。 そして、プーチン氏が 首相に任命された翌日の8月10日には、反体制派グループ
が ダゲスタン・イスラム共和国の独立を宣言したのである。
しかし、彼らの成功は短命に終わった。 ロシアの連邦・地方の法執行当局の対応
は、ダゲスタンの OMON(内務省特別部隊)1,000 人、ロシア連邦の空中機動歩兵の
派遣を含む大規模なものであった。
ロシアの無慈悲な爆撃が ダゲスタンの住宅街を破壊するまでには至らなかったものの、
初めて燃料気化爆弾が用いられた。8月22日、バサエフとアル=ハッターブは ダゲスタン
からの撤退を余儀なくされた。恐らく 彼ら自身も驚いたであろう。侵攻は、地元の
村人たちをはじめ、ダゲスタンの人々の圧倒的多数からも抵抗に遭ったのである。
住民たちは、自発的に市民軍を組織して対抗した。
しかしながら、この敗北が、バサエフとアル=ハッターブが 1999年9月5日に第二の侵攻
を試みるのを止めることはなかった。ただし、その第二の侵攻もまた、同じ結果に
終わったのである。
さらに、1999年9月には、一連の爆撃(ダゲスタンのブイナクスクでの爆撃が一回、ロシア のモスクワにおける住宅街への爆撃が二回、そして 南部 ヴォルゴドンスク での爆撃が
一回)が行われ、約300人が死亡した。負傷者は合わせて1,000 人以上に上った。
プーチン氏は これらの爆撃の直後、チェチェンの テロリストが事件の背後にいると断言
した。 しかし、チェチェンのアスラン・マスハドフ大統領は これを否定した。さらに、バサエフや
サルマン・ラドゥーエフなど、通常は 速やかに犯行を認める チェチェンの反体制派の指導者
たちが、1999年の住宅街への爆撃については そうした声明を出さなかったのである。その後、9月22日に リャザンのアパートの地下室で爆弾が見つかり、さらなる
疑念が持ち上がった。 この爆弾は、ロシア連邦保安庁(FSB)が支援する「訓練演習」
用の爆弾の一部であったことが、その後に確認されたのである。
いずれにせよ、これらの爆撃は バサエフ と アル=ハッターブ による ダゲスタン侵攻と
合わせて、第2 次チェチェン紛争(1999 〜 2000年)を正当化するのに使われた。
この紛争は、1999年8月26日、ロシア連邦によるチェチェンへの爆撃によって開始された
ものである。
ダゲスタンでの危機、並びに 1999年8月から 9月にかけての爆撃に対する プーチン氏
の迅速、かつ精力的な対応は、前任の セルゲイ・ステパーシン首相の消極的な態度
とは正反対だった。ステパーシン氏は 辞任の挨拶で前任の閣僚たちに対し、
「 ロシア連邦は ダゲスタンを失う可能性がある 」と述べていた。 プーチン氏は、実質的には 一晩のうちに、ほぼ無名の人物からロシアで最も人気
のある政治家になった。
2000年3月26日に行われた その後の大統領選では、共産党党首のゲンナジー・ジュガーノフ 候補に対し、第1 回投票で地滑り的大勝を収めたのである。
大統領としての プーチン氏の正当性と、プーチン氏への支持の引き上げ、そして 第2次チェチェン紛争 と その後のチェチェンにおける対テロ政策は、ロシア連邦の所謂
「垂直権力機構」の確立に向けた口実となった。 明示されているわけではないが、
2002年に モスクワで起きた ドブロフカ劇場への攻撃、その 2年後に起きた 北オセチアの
ベスランでの学校占拠事件などのテロ攻撃は、当局に対して 報道の自由や政治的
自由を抑圧し、選挙活動における障壁を確立させる口実を与えた。
与党は これらにより、権力を一層強化させたのである。例えば、生徒たちを含め
300人以上の死者を出したベスランでの人質事件の後、ロシア連邦政府は知事の
公選制を廃止し、テロとの戦いとは 明らかな関連性のない「改革」を実施する決定
を下した。
プーチン大統領が再選された 2012年においても、北コーカサス地方からの脅威は
1999〜 2000年と同様に存在していた。 投票日まであと 1週間もないという時期に、
ロシア連邦 と ウクライナの情報機関は、首相の暗殺計画を 両国の協力によって阻止 したと発表した。そして、さらに その 2か月後、ロシア連邦保安庁は容疑者とされる
テロリストを逮捕した。
2014 年に ソチで開催される予定の冬季 オリンピック を狙った大規模なテロ攻撃に
向け、秘密裏に用意していたとみられる武器を発見したとの発表も行われている。
当然ながら、首相及び大統領候補の身辺の安全は、深刻に扱わなければならない
問題である。 また、ソチに対するテロ攻撃の可能性は、現実的な問題である。
しかしながら、そうは言うものの、一つは選挙の直前、もう一つは就任の数日前
という時期に公表された。こうした 疑惑発覚の タイミングは、これらが プーチン氏への
支持を高めるための計画の一部だったのではないかという疑念につながっている
のだ。
北コーカサス地方における ロシア連邦の対テロ政策と、プーチン氏の関係の深さを
考慮し、本章では、プーチン大統領の第1期目の任期中に 北コーカサス地方の治安情勢
には変化があったのか否か、あったとすれば、それはいかなる変化であったのか
について議論する。そして また、プーチン大統領は 自らの人気を高めるために、
そして ロシア連邦における民主主義のさらなる抑圧を正当化するために、北コーカサス
地方における暴力を利用しようとしているのか否かについて、分析を試みる。
9.1 ロシアの対テロ政策の特徴
ソ連邦時代においては、テロ行為が行われることは稀であり、国家保安委員会
(KGB)には テロ対策の経験が ほとんどなかった。1980 年代にソ連で発生した
テロ事件は、連邦全体で わずか6 件である。航空機をハイジャックした犯人はすべて、
亡命を求めるソ連の市民だった。
より複雑なテロによる脅威( 現在のロシア連邦が直面しているもの )への転換を示す
象徴的な事件は、ソ連崩壊の1カ月前、1991年11月の事件である。アエロフロートの
ツポレフTu-154 が 3人の チェチェン人にハイジャックされ、ロシア連邦が チェチェンの独立
を認めなければ、同機を爆破すると脅したのである。実行犯の一人は、シャミル・
バサエフであった。
第1次チェチェン紛争後の1990年代後半までには、ロシア連邦当局は 新たなテロの
脅威への対応のあり方に適応していた。「テロリズム鎮圧法」は 1998 年以降、
ロシア連邦のテロ対策における努力の基礎となった。この法律によれば、テロとの
戦いに 主に責任を負うのは連邦保安庁(FSB)と内務省(MVD)である。
第2次チェチェン紛争後の2001年1月には、チェチェンにおける対テロ作戦についても、
所管が 国防省からFSB に変更された。さらに 2003年7月以降は、内務省の担当
となっている。
従来の対テロ法に取って替わる新たな連邦法、「テロリズム対策法」は、2006年
に施行された。新法は 国内外における対テロ作戦への武力の行使を合法化した ものである。しかしながら、ロシア国民 並びに国内のインフラをテロの脅威から守る
ための手段については、詳細な記述がなされていない。
同年、プーチン氏は 関連省庁からなり、FSBが主導する ハイレベルの機関、国家対
テロ委員会(NAK)を創設した。同委員会は、ロシア国内における連邦及び地域レベル
のテロ対策活動の実施にあたり、各省庁間の調整を行うものである。
1990 年代後半以降、プーチン首相が就任し、第2次チェチェン紛争が始まった頃には、
ロシア連邦の特殊部隊は チェチェンでのテロとの戦いにおいて、より残忍な方法を用いる
ようになっていた。主に行われたのは、秘密部隊である特殊部隊の支隊が行う、
冷酷で法的に認められない、中央指揮システムの関与を受けずに実行される秘密作戦
である。こうした作戦の一つが、チェチェンの指導部を粛清するというものであった。
例えば 2005年3月の、選挙で選ばれた チェチェン共和国の大統領アスラン・マスハドフ氏
の殺害である。村の鎮定には、zachistki(浄化)が幅広く用いられた証拠がある。
市民及び拘束した民兵の殺害、裁判を伴わない逮捕、テロ容疑者とその家族を人質
に取ること、レイプ、証言を強要するための拷問、略奪などである。
その結果、チェチェンにおける ロシア連邦の戦いは、民兵との戦いから、全面的な抑圧
までを含んだ本格的な紛争になったのである。
2004年 2月13日に カタールで チェチェンの指導者、ゼリムハン・ヤンダルビエフが殺害された
のを皮切りに、テロとの戦いは ロシア連邦の領域外へも拡大した。ヤンダルビエフ
は チェチェンの反体制派グループとアルカイダ 及びアラブ世界との交渉に関与していた。
この粛清の背後には、ロシア連邦の対外情報庁(SVR)並びに連邦軍参謀本部情報
総局(GRU)が存在すると考えられている。こうした疑いが証明されたことはない。
しかしながら、その後においても チェチェン独立派の指導者に対する 同様の先制攻撃
作戦が、トルコをはじめとする海外の移住先で行われている。
(つづく)
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