混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

文明 或は 帝国

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1−2−11 のつづく
 
1−2 北コーカサス(北カフカス)
 
                              [Google] 地図 
  首都: ナリチク         人口: 約90万人(2002)
  公用語: ロシア語カバルド語(カフカス系)、 カラチャイ・バルカル語(テュルク系)
 
   木材が重要資源であり、また 鉱物ではモリブデン石炭タングステン
  などが産出され、カバルダ・バルカルASSRにとって重要資源になっている
  ミネラルウォーターも豊富に湧き出している。
 
   バルカル人は、カバルディン人とは分離して、自分たち自身の共和国の創立
  の希望を表明している。彼らの主張するところでは、カバルディノ・バルカリアの首都
  ナリチク半分と 南部国境に隣接する山岳地帯が、彼らに帰属すべき領域だ。
   ロシア国内で活動している トルコ系の組織は、バルカル人に対して 政治的な支持
  を与えているが、バルカル人が自らのものと主張するミンギタフ地方は、カバルダ人
  にとっても、自らの伝説発祥の地なのである。
 
 

http://dvor.jp/logo.gif カバルダ=バルカル共和国
RANK民族名人口比率%民族名人口比率%
総数
1989年1月
国勢調査
753,531100.00
2002年10月
国勢調査
901,494100.00
1カバルダ363,49448.24カバルダ498,70255.32
2ロシア240,75031.95ロシア226,62025.14
3バルカル70,7939.39バルカル104,95111.64
4ウクライナ12,8261.70オセット9,8451.09
5オセット9,9961.33トルコ8,7700.97
6ドイツ8,5691.14ウクライナ7,5920.84
7朝鮮4,9230.65アルメニア5,3420.59
8チュルク4,1620.55朝鮮4,7220.52
9アルメニア3,5120.47チェチェン4,2410.47
10山岳ユダヤ3,1780.42タタール2,8510.32
-
その他の諸民族、
民族不明
31,3284.16
その他の諸民族、
民族不明
27,8583.09

 
   カバルド語  
    アブハズ語アディゲ語など 北西コーカサス語族(アブハズ・アディゲ語族)に属する。
   話者は 約65万人。
     主に アディゲ共和国で話される アディゲ語と近く、これをまとめて チェルケス語派
   さらに アディゲ語を 西 チェルケス語、カバルド語を 東 チェルケス語と呼ぶこともある。
    ※ 48の子音を持つのに対し、母音は 2つしかない。
 
     カラチャイ・バルカル語  テュルク諸語北西語群(キプチャク語群)
                 ダゲスタン共和国クムク語に近縁とされる 
   話者数: ロシア連邦国内で約30万人(2002年統計)
   カラチャイ方言、バルカル方言の2つの下位方言に分類される。
   1920年 アラビア文字1924年 ラテン文字1936年 キリル文字による正書法制定。
   1995年 カバルダ・バルカル共和国 1996年 カラチャイ・チェルケス共和国国家語の
  地位を与える。(言語名称は、前者が バルカル語、後者が カラチャイ語)
   現在、96%のバルカル人が カラチャイ・バルカル語 と ロシア語の二言語話者。
  学校教科書新聞、雑誌は カラチャイ・バルカル語 ロシア語の併記体制を取る雑誌
  が次第に増えてきている。
 
   バルカル人の出自は、フン族ハザールブルガール人アラン人キプチャクチェコ人
  タタール人等の民族から分かれたのではないかとされる。
  モンゴル帝国の成立(13世紀)以前、バルカル人は アラン人の民族連合の一部に
  属していたが、モンゴル帝国の侵攻で 中央カフカスの谷に退却した。
 
 
 
  この地をめぐって、ロシア帝国オスマン帝国は 17世紀から19世紀にかけて
戦闘を繰り広げたが、ついに ロシアの支配下に入った。
 
 1768  露土戦争(〜74)
   ロシアは ブグ川 と ドニエプル川の間の地域、ケルチ要塞アゾフ及び沿アゾフ地方
  獲得して黒海への出口を確保し、 黒海における艦隊建造権とボスポラス海峡
   ダーダネルス海峡商船の自由通航権を獲得して、ドン川とドニエプル川は ロシアの
  農産物を運ぶ運河となって、物流の動脈としての機能をいっそう高めた
      オスマン帝国は クリミア・ハン国の支配権を放棄させられ、ワラキア モルダヴィア 
  保護領となった
   さらに、オスマン帝国は、帝国内に住む正教会信徒の保護権を ロシアに与えた
  ため、以後 これが ロシアによって 内政干渉の口実として利用され、バルカン半島
  の進出に、トルコ支配下の諸民族の独立要求を利用することとなった。
                     クリミア・ハン国の版図(桃色)、1600年頃
 
 1827 ロシア帝国、バルカリアを併合
     9月1日 カバルディン地区、山岳自治ASSRから分割され、カバルディン自治州
        に組み替えられる
 1922 1月16日 バルカール地区、山岳自治ASSRから分割され、カバルディン自治州
     と合併して カバルダ・バルカル自治州 成立
 1936 12月5日 自治共和国に昇格
 1944 スターリン、テュルクバルカル人ナチスと協力したと非難し、住民を
    中央アジアに強制移住させる。また、バクサン渓谷を グルジアに引き渡した
    バルカル人に因んで国家の名前となっていたため、バルカルの部分は削られ、
    この地域は カバルダASSRに変名された。
    (1957年まで バルカル人の 故郷への帰参は許されなかったが、
      同年以降フルシチョフ政権下で帰国が許され、国名も以前のものに戻された
 1991 1月30日、カバルダ・バルカルASSR、 国家の主権を宣言
 
 
 
 
 
 
   チェチェン総合情報   2002.07.26
  ・・・7月17日の カフカスセンター は、独立派の放送局「ラジオ・カフカス」で放送された
 カバルディノ・バルカリアの ジャマート(イスラム武装組織)「ヤルムーク」の司令官
  セイフッラへの インタビュー を掲載した。
  ロシア当局は しばしば 「国際テロリズムとの戦い」と称して、ハッターブ や ワリド の
 ような アラブ諸国からの義勇兵が大量に チェチェンに流入しているという情報を流す
 が、北コーカサス の イスラム系山岳諸民族の参戦については、ダゲスタンの一部情報
 以外は沈黙してきた。
 
 ●抵抗の風土
  実際には ここ 10年にわたる チェチェン戦争が、周辺諸国にも大きな影響を与えて
 いる。 この際、北コーカサスの国々についてまとめておこう。 黒海の方から、アデゲイ、
 カラチャイ・チェルケシア、 カバルディノ・バルカリア、 北オセチア、 イングーシ、 チェチェン、さらに 東に
 ダゲスタン − これらの国々は、言語や基幹民族の出自が様々に違うが、共通性
 として、オスマントルコに臣従した時代に イスラム教を受容しており、武勇や礼節を
 尊ぶ精神風土を持ち、帝政ロシアの侵略と長期にわたる抵抗を続けた伝統がある。
 
  現代史の中では、ソビエト政権初期に、山岳民共和国を形成し、またスターリン時代
 には シベリア・中央アジアへの 民族が丸ごと強制移住される という責め苦を共有
 している。 ソビエト政権は 強制移住と共に 移民政策を推進し、イスラム系基幹民族
 の住むこの地に、宗教的には キリスト教系のスラブ系移民を始め、ユダヤ人や高麗人
 など、ロシア語を母語とする人々を大量に送り込んできた。
 
  カバルディノ・バルカリアの現人口 90万の半分は、ロシア語を母語とする人々
 である。1944年の スターリン による強制移住の結果、バルカル人は 人口のおよそ1/3
 を失った。 現在に至るも その打撃は大きく、バルカル人は、強制移住の対象と
 ならなかった カバルディン人に較べて 劣位に置かれている。
  カバルディノ・バルカリアイスラム武装勢力は、他のコーカサス地域の武装組織と同様に、
 チェチェン戦争に刺激されて誕生し、チェチェンに義勇兵を送り込み、ここで経験を
 積んで成長してきた。第一次チェチェン戦争に参戦し、戦死した ラスール・カゲルマゾフ の
 ような人物が、カバルディノ・バルカリアの若者に大きな影響を与えた。
 
 ●政策転換の必要性
  1998年には、アンゾル・アタバエフ  カバルディノ・バルカリア イスラム武装勢力は 自分たち
 の訓練施設を持つに至ったが、これが ロシア当局の知るところとなり、6人の戦士
 が 2000人規模の治安部隊に包囲され、9時間に及ぶ激戦の結果、負傷した一人
 を残して戦死を遂げた。治安部隊 27人の戦死者を出したが、相手が 6人だった
 とは言えず、150人の敵と戦ったと言いふらしたという。 こうした自国内の戦いと
 チェチェン戦争での実戦が、イスラム武装勢力を育て、今や数千人規模の参加者を
 得ている。
 
  このような武装勢力への参加者を生み出す一番の理由は、ロシア社会の大きな
 歪みである。豊かな資源は 一部の「財閥」等に寡占され、犠牲となった地方は
 社会混乱のツケを払わされるだけで、貧困への自由のみを享受させられている。
 その中で多くの若者は失業状態にいて、鬱屈を発散できる場は 武装闘争の場
 なのである。 こうした状況は、北コーカサス全域に多かれ少なかれ見られ、何も
 カバルディノ・バルカリアが突出しているということでもない。
 
  唯一の解決策は、ロシアが 侵略的な コーカサス政策を改め、真に この地域を平和
 で豊かな地域とすることにある。
 本来、コーカサスは 素晴らしい土地なのだ。風光は明美、万年雪を頂く山々から
 の雪解け水に恵まれた肥沃な大地、スパイシーな野菜と甘美な果物、そして
 芳醇なワイン。人情味あふれる人々。豊富な地下資源。血塗られた植民地主義
 のクビキから 人々が脱するのは いつのことなのだろうか?
 
 
                              2014/01/12
     ロシア西部北コーカサス(カフカス)地域の治安機関は1月11日、冬季五輪会場となる
    ソチの東300キロにある カバルダ・バルカル共和国の首都ナリチク(Nalchik)でテロ容疑者
    5人を逮捕した。国家テロ対策委員会は、容疑者は 国際テログループに属し、手榴弾や
    弾薬、自作の爆発装置を所持していたと述べた。国際テログループの名前は明らかに
    していない。
 
                               (未完成)
1−2−12 のつづき

http://d.hatena.ne.jp/images/diary/c/chechen/titleimg.jpg

2014−02−01

#423 聖火リレーを強制される市民たちhttp://s.hatena.ne.jp/images/comment_dg.gifhttp://s.hatena.ne.jp/images/add_dg.gif

チェチェンニュース(転送・転載・引用歓迎)

 ソチオリンピックのための聖火が、チェチェンにも運ばれ、首都グローズヌイで
リレーがおこなわれました。日本テレビ報道しています。
 
  ソチ五輪の聖火、チェチェン共和国に  < 2014年1月30日 3:01 >

 これによれば、70万人が沿道で見守ったということですが、チェチェンの人口全部
を合わせても 100万人前後であることからすると、かなり大きな数字です。
その一方、チェチェン側のサイト、「ワイナハ・オンライン」では次のように伝えています。
 
  グローズヌイでの「虐待オリンピック」!Tuesday, 28 January 2014

 「 ロシアに占領されているイチケリア・チェチェン共和国首都グローズヌイでは、市民たちがオリンピックの聖火の歓迎の儀式に、強制的に参加させられた。
現地の情報によれば、1月28日の午前7時30分、グローズヌイのすべての住民が、
ランナーの通過する市街中心部の通りに整列させられた。そのあと、市民たちは
マイナス4度の気温の中、数時間ものあいだ待たされた。そして「聖火」が通過した
あと、人々はやっと解放された 」
 
 ということでした。チェチェンでは、親ロシア派の傀儡首長カディロフが暴力の限り
をつくしてきましたから、この情報も、とりたてて不思議なところはありません。
 
 
 

 
2014ー02−02
 

#424 チェチェンとアルカイダの関係http://s.hatena.ne.jp/images/comment_dg.gifhttp://s.hatena.ne.jp/images/add_dg.gif

チェチェンニュース(転送・転載・引用歓迎)

 
チェチェン アルカイダの関係
 
 「 チェチェンをはじめとする北コーカサスには、中東からアルカイダが入り込んで、
テロを起こしている 」という説が、まるで 事実のように マスメディアで流通しています。
 これについて、ロシア歴史家 パーヴェル・ストロイノフ が語っている インタビュー を読んで
みます。 また、ここでは シリア情勢における ロシアの意図についても考察します。
 
 このインタビューは、「チェチェンセンター」 に転載されているのを見かけたのですが、
最初に掲載されたのは 「クラリオンプロジェクト」 という、イスラムの穏健化を図る
というような目的のサイトで、時期も 2012年ですが、情報そのものは真実に近い
と思いますので紹介します。

 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
アルカイダに近い イスラムテロリストロシアで活動しています。ロシアアメリカは
共通の敵と直面しているのでしょうか?
 
ストロイノフ: それは 完全に ロシア政府プロパガンダですね。これまでも 彼らは
   チェチェン人と アルカイダ を結びつけようとしてきましたが、そんなものは最初から
   ないのです。 もともと チェチェン独立運動は宗教的なものではなく、民主的な
   ナショナリストたちのものでした。
    ソ連崩壊した時、他どの連邦構成共和国もそうであったように、チェチェン
   は独立を望んだのです。
 
    1996年第一次戦争での勝利後、チェチェンイスラム国家として独立してから、
   イスラム主義者たちは チェチェンを目指しました。そして ロシア政府は それを支援し
   ました。 イスラム主義者の諸団体内部に紛れ込ませたエージェントを通して。
   そうすることで チェチェンの信頼を落とすことができましたし、チェチェン内に浸透
   することもできたからです。
 
    その結果、ロシアチェチェンの指導部を 民主派とイスラム派に分裂させること
   ができました。 ただ、公然の秘密ですが、チェチェンの「イスラム派」リーダーたちは、
   実は その イデオロギー を信じてなどいません。 単に 中東の金持ちのスポンサー
   を金づるにするか、ロシア連邦保安局(FSB)に操縦されているだけです。
 
       FSB内部告発者であった アレクサンドル・リトビネンコが暴露したように
   ──文字通り 命を代償にして──、アルカイダのリーダーである アイマン・アル・ザワヒリ
   は、FSBのエージェントでした。
   テロ組織の 「エジプトイスラム聖戦」 の リーダー だった当時から、ザワヒリは長年、
   最重要のテロリストとして国際手配されてきました。
   1997年、彼は 突然 ロシアに現れました。北コーカサスのダゲスタンにある
   FSB秘密基地で特殊訓練を受けるためです。その後、彼はアフガニスタン
   に送られ、ビン・ラディンのナンバー2として アルカイダに参加しました。
 
    これが明らかになると、ロシア政府は説明を迫られたので
    「 ザワヒリは 不法入国者として 北コーカサスで逮捕されたが、本人と特定
       できなかったため、国外退去処分にした 」と説明しました。
   ただ、世界中で最重要手配されていた テロリストの一人を捕まえておきながら
   「特定できなかった」ので追い出したというのは、中々信じがたい言い訳です。
 
    そして、この時期に外国からやってきた イスラム伝道者のほとんどは、
   モスクワを経由して北コーカサス入りし、ロシア政府正式ビザを持っていた
   だけでなく、流暢な ロシア語を話しました。だから チェチェンの人々は、彼らが
   どんな人々であるか すぐに気がついたのです。
 
 ( ロシアシリアのアサド政権を支援していますが、これは アサドが ロシア海軍
基地の設置に賛成しているからだと言われています。もし シリア反政府勢も基地
に賛成したら、ロシア反政府側に鞍替えするでしょうか?
 
ストロイノフ: それはないですね。基地の件だけではないのです。 ロシアが アサド
   を支持するのは、西側の介入を躊躇させるためです。 その思惑は 成功して
   います。
 
    1970年代に サダトが西側に叛旗を翻して以来、 シリア中東における
   ロシアの同盟国でした。 ゴルバチョフが、ハフェズ・アサドに対して アラブ世界
   の盟主になることを勧めていますが、ゴルバチョフが言ったことも、それまで
   の政策を踏まえています。
 
    では、モスクワシリアを支援してきた理由は何か ということですが、
   それは イランをはじめ、他の独裁者テロリストを支援してきたのと同じです。
   要は ごたごたを起こしたいのです。かつては イデオロギーのためでしたが、
   今は トラブルのためのトラブルですね。最大の理由は、単純に 石油価格の
   上昇という狙いです。また、あらゆる国際紛争に関わることで、西側に対する
   カードを握っておきたいのです。
 
    だから、アサドに価値がある限り 支援を続けるでしょう。たとえば グルジ
   や、東ヨーロッパミサイル防衛といった問題で、ロシアは カードを切り、西側
   からの譲歩を勝ち取りたいわけです。海軍基地というのは問題の一部でしか
   ありません。
 
    シリア反政府勢力の勝利は、どんな勢力が トップに立つかによるでしょう。
   反政府勢力ロシアのことを「敵の味方」と、正しく理解しています。シリア
   国際社会の ゲーム の ポーン(歩)にし、シリア人の命を取引の道具にしようと
   していると。だから 彼らは ダマスカスの通りで ロシアイランの旗を焼き始め
   たのです。
 
    シリア民主化された場合、プーチンとの同盟は終わりを告げるでしょう。
   しかし、もっともありそうで 不吉なシナリオは、西側のダメな外交によって、
   チュニジアエジプトのように、イスラム主義者が勝利することです。
   そういう場合、彼らは プーチンと手を組んで もめごとを起こしたり、石油価格
   の引き上げたりするのを、プラグマチックなやり方だと考えるかもしれません。
   そうなった時には、彼らの方から基地の設置を求めるでしょうし、我々は また
   一歩後退することになるのです。
 
 
 
 
 
 
1−2−9 のつづき
 
                                                                            Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続5)
 
 4.アフマド・カディロフ 1951 - 2004
 
 1951 スターリン大粛清で 一族が移住させられていた カザフ・ソビエト社会主義共和国    の カラガンダ市で生れる。
 1957 カディロフ一族、チェチェンのシャリン地区 ツェントロイ村に帰国
 
 1968 地元の高校を卒業
   集団農場(ソフホーズ)での労働に 2年間従事
 1971 ロシア本土に移住し、 シベリアの インフラ 開発に参加(〜80)
      シベリアから戻ると聖職者の道に進み、神学校を経て タシケント・イスラム大学で
   神学を修め、イスラム宗務者の称号を得る
 1986 グデルメス の副 イマーム(〜88)
 1989  故郷 北カフカース地方に 最初のイスラム大学を開校、聖職者育成を進める
 1990 より研鑽を深めるべく ヨルダンに向かい、シャリーア (イスラム法学)についての
   専門的な研究に従事。
   ソ連崩壊に伴い 祖国からイスラム法の専門家として招致され、帰国。
    チェチェンでは 連邦内の自治国家に満足しない独立派と、ロシアの庇護による
   国家形成を望む連邦派に分かれて対立が起こっていた。
 1991 独立派が ロシアとの対立を含みながら チェチェン・イチケリア共和国の樹立を宣言
   すると、ジョハル・ドゥダエフ 大統領を支持して 独立派に属し、共和国 副 ムフティー
    として宗教面から政権を支える。
 1994 周辺地域の不安定化を恐れた ロシア、連邦派を支援して参戦
                                 (第一次チェチェン紛争
    カディロフは
     「 ロシア人チェチェン人より はるかに多いが、なら 1人の チェチェン人が 150人
     の ロシア人を道連れにすれば良いだけだ 」
    と述べ、自ら 政府側の武装組織を率いて ロシア軍・連邦派勢力と激しい戦闘
    を繰り広げる。
 
 1995 ドゥダエフ大統領によって 正 ムフティー に任命される
    ロシアとの戦いを正当とする ファトワー を発して抗戦の意思を明確にする
 
  1996 停戦で 一応の決着を見ると、新たに成立した アスラン・マスハドフ 政権で
    引き続いて共和国 ムフティーとして 宗教問題を統括
 
     内戦終結後、依然として 連邦派と独立派の対立が尾を引いていたが、
    これに加えて 独立派の間でも 対立が生じつつあった。
    独立派の多くは、愛国心から志願した チェチェン人兵士と、同じ イスラム教徒を
    救おうと参陣したイスラム義勇兵(ムジャヒディン )から成り立っていた。しかし
    チェチェン人とイスラム義勇兵は同じイスラム教徒ではあったが、イスラム義勇兵の多く
    は ワッハーブ派を信仰しており、チェチェン人の多数が信仰するスーフィズム
    折り合いが悪かった。
     チェチェン人のイスラム文化を代表する カディロフは、イスラム義勇兵と結びつく
    独立派内の強硬派に危機感を抱くようになった。同じく 復興の為に ロシアとの
    対立解消を目指す マスハドフ大統領も ジハードの完遂を主張する強硬派に
    手を焼いていた。
 1999 バサエフら、隣国 ダゲスタンへ義勇兵を率いて侵攻を開始(ダゲスタン戦争)、
    合わせて ロシア政府への爆弾テロを引き起こした。
    これを停戦違反と判断した ロシアのプーチン政権は 二度目の介入を決断し、
    第二次チェチェン紛争が勃発。
 
      ヴラジーミル・プーチン首相(当時)は 前紛争の英雄の一人であり、マスハドフと
    バサエフ両者敵対する カディロフの後ろ盾という形で戦争を進める事を望み、
    カディロフも 自派の司令官らと ロシア軍に協力した。
    自らの復権やワッハーブ派への攻撃が目的の一つにあるにせよ、復興に失敗
    した チェチェンの閉塞した状態への危機感も、カディロフが ロシアと手を結んだ一因
    であった事に疑いはない。
 
     進撃する ロシア軍が 首都グロズヌイ占領に成功すると、
  2000 
   7月 プーチン首相は チェチェンを再び連邦内の自治共和国に戻した上で カディロフを
    その暫定政府大統領に任命
  2003 
   10月5日 独立派が ボイコットする中での大統領選挙で、カディロフは 80.84%の
    得票を得て当選(「チェチェン共和国」初代大統領)。
     カディロフは 反対派の弾圧を行うなど 強権的な方法で統治を断行しており、
    この選挙についても 公正とは言い難い点が存在していた。
    また 彼は ロシアの支援による復興へと立場を変えており、反対派からは
    「モスクワからの影響」を指摘された。だが 終わりのない紛争に嫌気が差した
    国民の中で、ロシア主導の和平と復興を提示する カディロフ を支持する風潮が
    あったのも事実である。
 
     反対派への粛清や掃討作戦を強化する一方、カディロフは 反対派兵士に
    対して、投降すれば その罪を許して治安組織などで職を与える「恩赦」を
    出し、治安回復に努めた。
 
     カディロフ と マスハドフは 手を結んで強硬派の切り崩しを進め、リーダー格だった
    シャミル・バサエフ司令官を国防大臣に迎える。
     しかし バサエフが主張を曲げずに政権を離脱すると、マスハドフは 強硬派の
    分断を狙って、ワッハーブ派を庇護する姿勢を見せた。これに激怒した カディロフ
    は マスハドフを批判したが、逆に マフティーから解任され政権から追放される。
 
  2004
      アムネスティ発表国際ニュース/2004.04.07 
          チェチェンとイングーシの状況は悪化している。
              失踪、強かん、拷問、超法規的処刑の新たな証拠
        ・・・ 2004年初頭、ロシア軍とチェチェン武装勢力は、チェチェンにおける深刻な
      人権侵 害に関与し続けた。しかし、最近「カディロフツィ」(カディロフ一派)と呼ばれる
      新興 武装勢力が台頭してきており、多くの「失踪」事件を引き起こし、チェチェンの多くの
      人々は ロシア軍以上に このカディロフツィを恐れている と語っている。
                このカディロフ ツィは、親ロシア派のチェチェン大統領アフマド・カディロフの息子を」
      中心に組織され た武装勢力である。・・・
 
   5月9日 カディロフ大統領、グロズヌイの競技場で 対独戦 勝利を祝う戦勝記念
    式典に 政府や軍の高官らと出席。
    競技場に設置されていた爆弾で 特等観覧席が吹き飛ばされ即死。
     ( 2人の護衛兵士と共和国議会議長、ロイター通信の記者を初め 30人以上
     の要人も死亡。また 致命傷は免れたたが ロシア軍のヴァレリー・バラノフ大佐
     など 56名が重傷を負う )
    突然の事態に 競技場は大混乱に陥った。
         政府側やロシア政府は “独立派によるテロ” と断定し、独立派側は “占領軍
    の特務機関が仕組んだ自作自演”と主張。
    しかし、後に シャミル・バサエフ 司令官が犯行声明を発表した。
     10日 プーチン政権は カディロフへ ロシア連邦英雄の称号の授与を決めた。
 
    カディロフの死亡により 首相 セルゲイ・アブラモフが大統領代行に就任。
   大統領警護隊長を務めていた カディロフの次男である ラムザン・カディロフ
   第一副首相に任命された。
 
    ラムザン・カディロフ副首相は 父の威光 と ロシア政府の支援を背景に
  2007 3月2日 第3代大統領に就任
  2010 8月 「 国に大統領は 1人だけ 」と主張して 大統領職名称変更提唱。
               議会の議決により、9月2日より役職名が「首長」となる。
       〜〜 父親を神格化して個人崇拝色を強めつつある
 
 
                2012年3月7日 ジュディス・マトロフ
     チェチェン共和国の首都グロズヌイでは、かつての瓦礫や人影のない通りも、
    きらびやかな店やサッカースタジアムへと変貌を遂げている。・・・
  
                2009年7月18日
     水曜日、人権活動家で、クレムリン寄りのチェチェン政府に対する著名な批判者ナターリヤ
    ・エステミロワが、政府が支援する、地域の民兵による虐待とされるものを調査していた
    ところを、拉致され、射殺された。
     エステミロワは チェチェンの首都グローズヌィの自宅を出た後、拉致された。目撃者達は
      男四人が彼女を白いラーダに押し込んでいたと語っている。彼女の死体は、数時間後、
    隣国イングーシ共和国で発見された。
     エステミロワは十代の娘を持つシングルマザーで 50歳だった。ロシアとチェチェンの血を
    ひくエステミロワは、1999年に 第二次チェチェン戦争が勃発して以来、一般市民に対する
    人権侵害を調査していた。
     殺害された当時、エステミロワは、チェチェン大統領ラムザン・カディロフの命を奪おうと
    企んでいたとして告発されていた夫婦の変死を調査していた。
    エステミロワの同僚達は、彼女の死は、カディロフのせいだとしている。カディロフは 関与
    を否定し、この活動家の殺人犯は処罰されようと述べた。あるチェチェン政府の広報担当者
    は、正式な捜査が開始されるだろうと、マスコミに語った。・・・
 
                          (未完成)
 
 
 
 
                               2014年01月17日
   【モスクワ田中洋之】ロシア南部・北カフカス地域を拠点とするイスラム武装勢力「カフカス首長国」
  指導者で、来月7日に開幕するソチ冬季五輪を狙ったテロ予告をしているドク・ウマロフ司令官
  (49)の死亡説が浮上し、波紋を広げている。死亡が事実とすれば 五輪成功を最重要課題
  とする プーチン政権にとって “得点”となるが、情報は錯綜しており、テロの脅威が取り除かれ
  たとはいえないのが現状だ。
   チェチェン共和国のカディロフ首長は 16日、「 ウマロフが (ロシア治安当局の武装勢力掃討)
  作戦で殺害されたと だいぶ前から99%確信している 」と語った。
  インタファクス通信などが伝えた。首長は 証拠として、北カフカスのダゲスタン、カバルジノ・バルカル
  両共和国で活動する複数の武装勢力指導者が ウマロフ司令官の死を悼み、後任の司令官候補
  を協議するやりとりの録音が存在していることを挙げた。
   ただ、ウマロフ司令官の遺体は見つかっておらず、現在捜索していると述べた。カディロフ首長
  は 昨年12月中旬にも ウマロフ司令官死亡説に言及していたが、根拠を示したのは 今回が
  初めて。
   これに対し、ロシア情報機関筋は 16日、インタファクス通信に対し、「 ウマロフ司令官の殺害を
  確認できない。死亡情報は持ち合わせていない 」と述べた。同日にはウマロフ司令官が登場
  する新たなビデオ映像(撮影日は不明)が関連サイトで公開された。
    ウマロフ司令官は チェチェン共和国出身で、昨年7月には「 あらゆる手段で ソチ五輪を
  粉砕する 」とする声明を出している。北カフカスでのイスラム教国の建設を掲げ 2007年に
  イスラム武装勢力「カフカス首長国」を創設したウマロフ司令官は、10年のモスクワ地下鉄爆破
  や11年のモスクワ近郊ドモジェドボ国際空港爆破など多くのテロに関与した。
  昨年末に南部ボルゴグラードで起きた連続爆破テロでは 今の所 犯行声明は出ていないが、
  ソチ五輪が間近に迫るなか、プーチン政権はテロ阻止のため国内に厳戒態勢を敷いている。
  
1−2−8 のつづき
 
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   b.チェチェン共和国 (続5)
 
 
 
    1965 チェチェン南部のドゥイシュニ・ヴェジェノ村に生れる(ヤルホロイ部族)
       19世紀のチェチェン抵抗運動 指導者シャミールの名から命名された
 
    1987 モスクワ土地整理技師専門学校 入学
      1年後、成績不振により除籍
            暫く、モスクワで コンピュータ売買などを営む
      (モスクワのアパートには、チェ・ゲバラのポスターが貼られていた )
    1989 イスタンブルのイスラム大学で学ぶ(〜1991)。
    1991 カフカス人民同盟軍(カフカス山地民同盟)に参加
      8月のクーデター未遂事件では、エリツィン側に立って ロシア連邦最高会議ビル
        (ホワイトハウス)防衛に参加した 100人ほどのチェチェン人の中の一人だった。
      その後、チェチェンに戻って ドゥダーエフらに合流。
     11月 南ロシアのミネラルナヤ・バダー で飛行機をハイジャックし、 トルコのアンカラに
      向かい、ロシア側による情報封鎖の実態を暴露するための記者会見場の
      確保を要求するが、トルコ当局に拒否される。
    1992  カフカス人民同盟軍司令官に就任
      翌にかけ、アブハジア紛争に武装勢力 「チェチェン大隊」を率いて介入し、
      義勇軍を称して アブハジア独立を阻止する立場の グルジア政府軍と戦う。
       この戦闘に介入した裏には、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の
      工作があったとされ、バサエフ麾下の武装勢力は、GRUによって直接訓練
      を受け、アブハジアに介入するように指示されたと言われる。
              (GRUのスタニスラフ・ルネフ大佐の言として John. B. Dunlop
                "Russia Confronts Chechnya - Root of a Separatist Conflict" 1998)
    1994 
      12月 第一次チェチェン戦争勃発後、独立派のジョハル・ドゥダエフの指揮下に
       グロズヌイ 守備隊指揮官に任命され、各地を転戦
    1995
       6月 ブジョンノフスク病院占拠事件の首謀者として、これまで 和平交渉を
       拒否していた ロシア政府を 交渉のテーブルに引きずり出し、「民族の英雄」
       視されるようになる。
        しかし、ロシア側の報復も激しく、バサエフの生地 ヴェデノは ロシア空軍の
       空爆に逢い、彼の家族11人も犠牲となった。
    1996 末、第一次チェチェン戦争がハサヴユルト合意により 一応の終結を見る
    1997
       1月 チェチェン大統領選挙に立候補、穏健独立派のアスラン・マスハドフに敗北
        マスハドフ政権では、閣僚や国軍副司令官を歴任するが、
       次第に マスハドフとの間に路線対立を起こすようになる。
       この間に、ロシアの政商 ボリス・ベレゾフスキーから資金援助を受ける。
    1999 アラブ人の野戦部隊司令官アミール・ハッターブと共同して、隣国ダゲスタン
      に侵入  ――→ 第二次チェチェン戦争
  
    2002 夏 これまでの経緯を不問としたマスハドフ大統領との共闘を宣言
      10月23日 モスクワ劇場占拠事件後、事件の責任を取るとして 再び陣営
          を離れる。
       12月27日  グロズヌイで発生した 親ロシア政権の政府庁舎爆破事件を
          自ら組織した声明、事件への不関与声明した マスハドフ政権中央
          との路線の違いを明らかにした。
          (マスハドフとの不一致は この後 同様のパターンが繰り返される)
 
     2004 
      8月24日 モスクワバス停爆破事件、 同日 二機の旅客機自爆撃墜
        31日 モスクワ・リガ駅自爆事件
     ――― これらロシア国内での主要な テロ事件に関して、自らの ウェブサイトで
         犯行声明を出す
    2005
      3月9日 マスハドフ、ロシア連邦保安庁(FSB)特殊部隊により殺害される
        これを受けて、翌10日「聖戦継続」を呼び掛ける声明を発表
        「 マスハドフのために戦った者は休むがよい。アラーのために戦う者の
        聖戦は続く 」
        マスハドフの後継者には、チェチェン独立派アブドル・ハリム 宗教裁判所長官
       が暫定的に就任するべきだと主張。
        ――→ アブドル・ハリム 大統領に選出される
    2006
      6月17日 ロシア連邦保安庁 と チェチェン共和国内務省の共同作戦により、
        アブドル・ハリム 殺害される
              同日、在ロンドン・チェチェン分離主義者代表アフメド・ザカエフ
       野戦指揮官の1人・副大統領 ドク・ウマロフが大統領職を継承したと表明。
       27日 大統領により、副大統領に任命される
      7月10日 イングーシ共和国で ロシア軍部隊の作戦により殺害される(41歳)。
           (自動車での移動中に爆死した。ロシア当局は「特殊作戦によるもの」として、
          テロリストの殲滅を強調したが、根拠に乏しく、遺体も公表されていない。
          逆に、自動車に積み込んでいた爆薬の誤爆説、独立派内の内紛説などが
          一般的になりつつある。 )
 
               シャミーリ・バサーエフ野戦司令官インタビュー
           2002年4月後半以来、野戦司令官ハッターブの謀殺に続いて、野戦司令官
          シャミーリ・バサーエフの戦死報道が、ロシアの国営通信社のWebサイト Strana.ru
          を中心に執拗になされてきた。彼の死亡の証拠写真として、手術台に横たわる
          バサーエフの写真が掲載される一方、「彼の死体が出てこないのは、砲撃によって
          バラバラになってしまったからだ」と、矛盾した記事がお粗末にも流されていた。
           チェチェン独立派は、国営通信社チェチェンプレス chechenpress.com が、
          5月5日に チェチェン軍最高司令官である マスハドフ大統領が召集した司令官会議に
          バサーエフが出席し発言した内容を報じ(チェチェンニュース 2002.5.13参照)、
          また、イスラム系の独立派サイト、kavkaz.org が、バサーエフが3人目の妻を娶り、
          その結婚の祝いに20人ほどの友人が集まったといったニュースを流し、死亡を
          否定してきた。
           今回のインタビュー記事は、プリマ通信社が配信すると 直ちにチェチェンプレス
          が転載し、続いて カフカスセンター kavkaz.org や、国際的な独立支援グループ
          のサイト ichkeria.org も後を追った。このことは、バサーエフの政治的な位置が、
          以前より マスハドフ大統領に接近していることを物語っていると思われる。
                                                             チェチェンニュース Vol.02 No.09 2002.06.02より
 
      ロシア軍参謀長クワーシンが、あなたは死んだと発表していますが、
    それについてコメントはありますか?
              ・・・ 私が言っておきたいのは 一つだけです。これは、上官に対して、自分が努力
     してるんだとポーズをとっているに過ぎないと言うことです。あなたは、ハッターブの死
     について 国防相のイワノフが発表したのを覚えていられるでしょう。あなたがたの理屈
     から言えば、あれは パトルーシェフ(ロシア連邦保安局(FSB)長官)が発表するべきものでした。
     ところが、死体により近い奴が 全てを決めるという訳です。クワーシンは イワノフの功績
     にしたくないと言う嫉妬心から、あんな発表をしてしまったのです。
      大局的に見れば、何も変わらないのです。今日、私が死のうが、他の者が死のうが、
     イスラムの聖戦は、止まるものではありません。例えば ハッターブが死んでもそうなのです。
     正面切っての戦闘では、ハッターブを倒せないので、卑劣な方法を思いついて、毒入りの
     手紙を使って彼を毒殺しました。アッラーの思し召しで、我々は下手人たちを特定し、既に
     下手人の1名を銃殺に処し、もう一名を追っています。こいつも必ず捕らえて処刑します。
      問題は 私の生命とか、他の わが イスラム戦士(ムジャヘディン)の生命にあるのではありま
     せん。今日 問題なのは、人々が この現実世界と、彼らの人生観や、自分の自由という
     ものに対して、どう自分を関係付けられるのか? ということなのではないでしょうか。
     我々は今や、誰にも妨げられることなく、我々が生きたい様に生きる権利、自分たちの
     自由を確立する道を歩んでいます。アッラーのお陰により、遅かれ早かれ、自由は我々
     のものになるのです。
      ですから、クワーシンの発表は、我々の間では、単なる失笑を買うに過ぎませんでした。
     と言うのは、こんな愚かで、どうしようもない連中を指導部に担いでいる ロシア軍は、それで
     途方もない戦費と人的資源を無駄にしているのかと思うと、私には ロシアという国が哀れ
     でならないからです。
 
      一番重要な事は、現在の戦いが地雷・爆破戦となっていて、それが幾千もの戦傷不具者
     を生み出し、一生 その責め苦を背負わねばならない幾千の戦傷者を チェチェンから送り出し
     続けていると言うことです。実際、ロシアは このことに気づいていない。彼らは、自分たち
     の犠牲者と死体の数を数えていないのですから。ロシアの政権には、真実 人民を代表し、
     人民の幸せを考えようという者がいた試しがないのです。
     ロシアは 土地や資源を奪われまいとして闘うということを余り経験していません。ほとんどが
     他人のものを奪おうという闘いをしてきたのです。アッラーがコーランで語っているように、
     「わが道を遮るならば、お前らの最も嫌う手口で懲らしめよう」ということになって、我々は
     ロシア侵略者には天誅を加えざるをえないのです。・・・
 
      
      世論というものは、暴君の政治にでさえ影響を与えることができます。ただし、現在の
     西側の、特に アメリカの指導部は、テロリズムという言葉で、全世界を脅かしているという
     状況が生まれています。彼らは、国際テロリズムという、非常に都合の良い用語を発明
     しました。このレッテルは、実質的に如何なる個人にも、国家にも貼り付けることが可能
     ですし、それには 大した証拠も証明も必要としません。
      今日 全世界は、催眠術にでもかけられたように、底なしの破滅に引きずり込まれよう
     としています。例を 先頃のカスピースクの 5月9日の爆発騒ぎに見てみましょう。
     事件の後、すぐに全世界が、犯人は ラバニ・ハリロフだと騒ぎ立てました。何の証拠もなしに
     です。2−3日後、彼の父親がテレビに登場し、自分の息子を非難し、もし目の前に現れ
     たら 自分の手で焼き殺してやるなどと言っておりました。テレビを見ながら考え込んで
     しまいました。「疑わしきは罰せず」 といった美しい格言は何処へ行ってしまったのかと。
      実際にやったか、やらないか事実認否の機会すら与えず、自分を弁護する可能性は、
     いったい何処にあるのでしょうか? そして 誰も彼に質問しようとすら、しないではない
     ですか? そして、彼が 答えていないということも 私は知っています。
     最も興味深いのは、今日 彼には、やっていないという最も初歩的な可能性すらないという
     ことです。そして、たとえ 彼が しゃべり、身の証しを立てようとしたとしても、無駄である
     ということです。なぜかと言いますと、彼が無実であるという身の証しを立てようとする
     相手が、まさに ダゲスタンの政府であり 治安機関であるからです。・・・
 
      何かロシア国民におっしゃりたいことは?
      率直に言ってしまうと、何も申し上げたくない。奴隷に話しかけても無駄だからです。
     奴隷というものは 本質的に 自分では何も決めないのです。
     そして、誰かが同情してくれたり、自分にとって害になると明らかな状況でさえ、主人の
     命令を実行しようとしかねないからです。で、私は ロシア国民が哀れと感じるのは、
     ロシア社会が奴隷状態にいると思えるからです。
      で、ただ一つ申し上げたいのは、よく ロシアのテレビが、平和な住民、平和な時代と
     語っていますが、ロシア国民は、戦争が あなたがた全ての家に忍び寄ってきている、
     あなたがたのロシアが 我々と闘っている以上、平和の時代に あなたがたは暮らしている
     のではないということです。ですから 全ロシアが 我々との戦争状態にあり、我々の眼から
     見たとき、あなたがたは平和な住民とは見られないということです。我々の眼から見れば
     あなたがたは、非武装の軍人であり、平和な住民とは見なし得ません
      なぜなら 大多数が チェチェン民族へのジェノサイドを肯定しているような人々は、平和
     な住民などと呼ぶわけにはいかないからです。シャリアータ(イスラム法廷)の規定する
     ところでは、我々に対し敵対的な言動をする者は、非武装であろうと敵と見なされます。
     現状では、ロシア国民は 武器を持たぬ敵以上の存在ではありません。多くの人々は、
     この問題を考えようとせず、考えたところで、どこか遠くで、チェチェン人というテロリストを
     何か国際的な悪党を、偽ドルを使う連中と闘って、そういう無頼漢を殺そうとしているのだ
     と思い込んでいるのです。自分たちの自由、この世に自由に生きる権利のために我々が
     戦っているとは考えが及んでいません。
      チェチェンで今、ドル札のために戦っている者がいるとすれば、それは第一に ロシアの
     傭兵たち(金目当ての契約志願兵)どもであり、クワーシンやトローシェフの手合いです。
     我々は自分たちの自由、自分たちの独立、そして 自分たちの信仰を守るために戦って
     います。我々は、アッラーのお導きで 自らの勝利に前進するでしょう。
              チェチェンの初代大統領、ジョハル・ドゥダーエフは、かつて「溺れる者を助けられるのは、
     溺れる者自身でしかない。」と語ったことがあります。これは、我々チェチェン抵抗運動の
     戦士にもあてはまり、ロシア国民にもあてはまる言葉です。というのは、ロシアは、いまや
     国全体が 自らの過ちという泥沼に溺れ込もうとしているのです。実際に 今日のロシアは、
     崩壊しようとしており、ロシアの嘘つき指導部が ロシア国土の一体性などと語るのは 我々
     の眼からすれば、滑稽至極です。
      今やロシアは、1万5千平方キロのチェチェンを巡って 既に10年にわたり2回の戦争を
     行い、膨大な人的損失を自らにも、また我々にも強いてきています。前の戦争(第1次
     ロシア・チェチェン戦争)の時期に、チェチェン全土の10倍にあたる 15万平方キロを中国
     に割譲しています。今も 色々な国境紛争地域で 領土は割譲され続けており、国土の
     一体性など こじつけに過ぎません。現在の戦争は、国土の一体性を隠れ蓑に続けられて
     いる、わが民族への敵対的な侵略です
      ロシア指導部が 国土の一体性を語りたいならば、まず 日々 チェチェンで失われている
     資源と毎日何十人という兵士・将校の生命の損失を招く愚行をやめて、国境線を確定し、
     彼らの住居を確立してやれ と言いたいです。現在のロシア指導部の行動を見ていると、
     祖国に尽くすという姿勢がまったく見られません。やっているのは単なる博打です。
     もっとも、これは 我々が心配することでもなく、あなたがたが考えれば良いことですね。
      ロシア国民の皆さんには、こういう例を申し上げておきたい。ロシアの戦争気違いどもが、
     今日のチェチェンで、戦争、ジハード以外のいかなる生活も知らない世代を作り出して
     しまったということをです。この若い連中は、自分の生命も重く見ないし、全ロシアを破壊
     しても 何とも思わないという世代です。彼らは ただひたすら、ロシアにより多くの被害を
     与えれば、それで良いと考える連中です。そして、こういう自然発生的な小グループを
     規制することは、私にも、またマスハドフ(大統領)にも、誰にもできないのです。彼らは
     自分たちの判断で、望むことを自律的に行おうとしています。彼らはこの戦争を、より苛烈
     なものにして行くでしょう。・・・
 
                         (つづく)
1−2−7のつづき
 
2.カフカス諸語 北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族) ナフ語派
                                                                            Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続4)
 
 ここで、何人かのチェチェン人の履歴を見てみます。
 
   1942 ソ連邦 チェチェン・イングーシ自治共和国の首都グローズヌィ に生れる
        1944 スターリンによる チェチェン人の強制移住が実行され、ハズブラートフの家族も
      全員 カザフスタンに強制移住させられる
 
      14歳から働かざるを得ず、労働の合間に夜間学校で学ぶ
   1960 カザフ大学経済学部に入学
      その後 モスクワ大学法学部に移る
   1966 ソ連共産党に入党
   1967 モスクワ大学を卒業
    1970 モスクワ大学大学院を修了し、経済学博士号を取得
        コムソモール 中央委員会宣伝部に勤務
 
    その後、ソ連科学アカデミー社会科学情報研究所、高級学校問題研究所、
      プレハーノフ国民経済大学で学究生活
     この間、1987年から ボリス・エリツィンと行動を共にする。
 
   1990 ロシア連邦共和国人民代議員に選出される
        6月 最高会議第一副議長に選出される
                   (エリツィン、議会や国内の少数民族の支持を得るためにハズブラートフを選ぶ
    1991  6月 エリツィン、ロシア大統領に選出される
        9月 エリツィンの後任に最高会議議長に選出される
        8月 ゲンナジー・ヤナーエフラ守旧派クーデター  
           エリツィンらと ロシア最高会議ビル(ホワイトハウス)に立てこもり、クーデター側
         と対峙する。 この年、共産党を離党
 
      12月25日  ソ連 大統領ゴルバチョフが辞任し ソビエト連邦が解体(ソ連崩壊
        ソ連崩壊後、エリツィン政権下で ハズブラートフの政治的位置は、次第に
       反エリツィンに傾斜していく。経済改革を巡り、エリツィン側近エゴール・ガイダル
       やアナトリー・チュバイス急進改革派と一線を画すようになり彼ら若手改革派
       を「 ピンクのパンツを履いた坊やたち 」と揶揄していた。
       元来、ハズブラートフは 政治家としては 政治的力量は未熟であり、性格
       敵対者に対決的に過ぎた。 しかも、彼は政治的野心を肥大化させ、
       最高会議内 旧共産党保守派などと提携して、エリツィン政権の急進改革
       路線に反対する発言者の役を演じるようになっていった。
 
   1992 
     6月 自由ロシア人民党(党首、アレクサンドル・ルツコイ副大統領ロシア民主党
       (党首、ニコライ・トラフキン人民代議員「刷新」(代表、アルカジー・ウォリスキーロシア産業
        ・企業家同盟会長)の中道三派は、政治ブロック「市民同盟」を結成し 議会
      内で 一大勢力を築き、エリツィン政権の急進改革派を辞任に追い込んだ。
       ハズブラートフは、ルツコイ伴に 反 エリツィンの立場で提携し、エリツィンとロシア議会
      の対立は激化していった。
 
       ハズブラートフ と エリツィンの対立を決定的にしたのが、
      1993年9月の彼のテレビ発言だった。「 大統領は 当てにできない。
      どうしようもないドン百姓だ。 (人差し指で喉を叩きながら=酔っ払いのジェスチャー)
       これさえあれば、あいつは どんな大統領令にも署名する 」。
       このハズブラートフの発言は エリツィンの逆鱗に触れ、9月21日 訪日⋆を直前
      に控え、「大統領令1400号」を公布。超法規的に現行憲法を停止した上
      で ロシア人民代議員大会及び最高会議を解散、議会を中心とする反エリツィン
      陣営の除去に取りかかった。
       ハズブラートフは、最高会議の緊急会議を召集し、ルツコイに大統領全権を
      付与し、10月3日、最高会議ビルに立てこもって抵抗した。
      しかし、8月クーデターの再現とはならず、ゲンナジー・ブルブリスの指揮のもと
      ロシア政府軍の圧倒的な攻撃により、10月4日 抵抗は失敗(10月政変)。
      ルツコイ、ハズブラートフは逮捕され、レフォルトヴォ刑務所に収容された。
 
   1994 恩赦により釈放。 故郷チェチェンに戻る
   1995 8月紛争調停、チェチェン独立派のドゥダーエフ大統領の退陣を求める
 
 
 2. ジョハル・ドゥダーエフ1944- 1996 4月21日
   1944 チェチェン・イングーシ自治共和国の ペルヴォマイスコエ 村で生れる
     一家は強制移住で カザフスタンに追放される (1957年 故郷に帰還)
 
     ウラジカフカスの北オセチア大学で数学を学ぶが中退
   1962 ソビエト空軍に入隊
      M.ラスコヴァヤ名称タンボフ高等軍事航空学校を卒業
   1968 ソ連共産党に入党 (公式には脱党していない)
   1977 ガガーリン名称空軍アカデミー卒業
     チェチェン人としては 初の師団長、空軍少将まで昇進した。
 
     アフガニスタン戦争に参加
   1987 エストニア駐留(〜91)
       エストニア語を学び、エストニア人のナショナリズムに寛大で、エストニアのテレビ局
      と議会の封鎖命令を拒否したことから、エストニア人からは「反乱将軍」
      と評された。
 
   1990 少将に昇格
      (最後の任地はタルトゥの戦略爆撃機基地、つまり核装備部隊の指揮官だった
      5月 タルトウに来たチェチェン人の要請を受けて退役、野党チェチェン人民
      全民族会議執行委員会を率いる。
     
        11月 チェチェン・イングーシ自治共和国、ソ連邦からの独立を宣言
   1991 5月 チェチェン・イングーシ共和国に改名
        ソ連8月クーデター
             一早く ボリス・エリツィンを支持し、自由広場は 彼の支持者で満たされ、
       国家親衛隊組織され、共和国最高会議解散、ドゥダエフ 権力を掌握
      10月 共和国と連邦政府との間で  チェチェン共和国イングーシ共和国に分立
         することに同意
        30日 得票率85%で チェチェン共和国初代大統領に当選
      11月 一方的にソ連からの独立とチェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言
 
   1994 12月 エリツィン、チェチェンの独立を防ぐため 連邦軍をチェチェン共和国に投入、
         第一次チェチェン紛争 勃発
   1995 2月 ロシア軍、チェチェンの首都グロズヌイを制圧
   1996 4月21日 ドゥダエフ、衛星電話通信中 ロシア軍のロケット弾攻撃で死亡
       8月 エリツィンとチェチェン武装勢力のリーダーの間で停戦合意 
   
 
      ドゥダーエフに対するチェチェン人の支持は いまだに強いように見える。
      妻アッラは ロシア人。第一次チェチェン戦争後に ロシアから追放され、現在はアゼルバイジャン
      共和国のバクーで発言を続けている。彼女は チェチェン人からも信望の厚い、チェチェン
      を最もよく知るロシア人と言える。
     ルドニック・ドゥダーエフ(1949−2005)
        チェチェン人。ウズベキスタン共和国、 Brich-Mulla に生まれる。法律を学んだのち、
       30年以上をソビエト/ロシアの治安機関で過ごす。
       2000年12月、チェチェンの親ロシア政権の一員となる。グロズヌイの政府庁舎爆破事件
       の際に負傷し、一時昏睡状態になったが回復。
       2001年2月、親ロシア政権の安全保障会議議長。
       2005年12月11日、グロズヌイの官舎の火災によって死亡。
 
 
                         (つづく)

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