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 ソチオリンピック(2月7日〜23日)の陰で
 
                        ソチ(ロシア)の周辺地図-Yahoo!地図
 
                            産経  2014.2.3
■警官や兵士4万人・戦闘機が哨戒…
 
 【モスクワ=佐々木正明】ロシア治安当局は、7日に開幕するソチ冬季五輪の安全
を確保するため、現地に 約4万人の警察官や兵士を動員し、厳重な警戒態勢
を敷いている。
 ソチに隣接する北カフカス地域のイスラム武装勢力が 五輪の阻止を狙いテロ活動
を行っているためで、昨年末の南部ボルゴグラードの連続自爆テロも、同地域の
ダゲスタン共和国の武装勢力が犯行に及んだことが当局の調べで明らかになった。
 
 すでに、ソチ一帯では 人や車両の出入りが厳しく規制されており、ソチに登録
されていない車両は 約100キロ圏内にも入れない。
 空では 戦闘機が哨戒飛行を行い、グルジアとの国境に近い地域には 地対空
ミサイルも配備。 海からの侵入に備え、沿岸には 複数の艦艇も展開されている。
 
 露治安当局は 米英など約80カ国の治安対策機関などとテロ関連の情報交換
を行っており、連邦保安局(FSB)幹部は報道陣に 「差し迫った危険はない」 と
強調した。
 一方、1月31日付の露紙ベドモスチは、ソチ周辺の警備に当る総人数は 発表より
多い 7万人と報道。対テロ特殊部隊は モスクワでも戦闘準備態勢を取っている
という。
 
 


 
 
 北カフカス情勢 ダゲスタンからの便り

ダゲスタンの首都マハチカラから、最近の雰囲気を伝える便りが届いた。
ソチオリンピックに向けて、治安組織の警備が、以前よりさらに厳しくなった。
バスの運転手たちは、検問が厳しくて何時に目的地に着くのか、
予想がつかないとぼやいている。

北オセチアの首都ヴラジカフカスから ダゲスタンの首都マハチカラまでは、
ロストフ・バクー幹線道路で、問題無ければ 4時間ほどの距離だが、
8カ所に検問所(ブロックポスト)がある。
西から東へ 北オセチア・イングーシ・チェチェン・ダゲスタンと続く
のだが、共和国同士の境界だけでなく、各首都への出入口でも検問が
行われ、この数になるのだ。

マハチカラでは、街の中心部にも毎日、銃声が聞こえてくる。
ダゲスタンの検問は、一般的な警察である民警(ミリツィア)と重武装の
OMON(特別任務警察部隊)の共同で行われている。
ダゲスタンのOMONは、黒い目出し帽を常時着用し、大変に威圧的だ。
それと較べると、「カディロフツイ」で知られるチェチェンのOMONが、
目出し帽を着用しないので、まだ穏和に見えるほどだ。

ダゲスタンは、ロシア領内でも指折りのワインやブランデーの名産地だが、
イスラーム武装勢力の度重なる酒屋襲撃におびえて、
酒類取扱いをやめる店が増えている。
住民の間では、以前からオリンピックが終わったら、世間の関心もが薄れる
ので、その後 戦争が始まるのではないかと、専らの噂だったが、
ソチオリンピックが目前に迫って、不安が募っている。
KavkazPortal 2014/01/16
 


 
 
チェチェンニュース#414 (転送・転載・引用歓迎)
  大富亮氏主宰のチェチェンニュース414号が、米国、ジェームスタウン財団の配信記事を
翻訳紹介している。ちなみに、ジェームスタウン財団には、「コーカサスに平和をアメリカ委員会
(ACPC)」の事務局がある。
  掲載記事の筆者、マイルベーク・ヴァチャガーエフは、マスハードフ時代の大統領広報官、
駐ロシアのチェチェン共和国総代表を経て、フランスに亡命し、パリの高等社会科学研究所で
博士論文を執筆した後、米国に移住し、ワシントンのジェームスタウン財団に、カフカス・ロシア
問題研究者として勤務している。(K.P. 2014.01.15.)


簡単に、ソチオリンピックの近づく北コーカサス情勢をお伝えします。

■ダゲスタンで低烈度の武装抵抗活動が続いている

 アメリカの保守派シンクタンク、ジェームズタウン財団のニュースより。
 筆者はマイルベーク・ヴァチャガーエフ。

----
 2013年は、ピャチゴルスクとボルゴグラードでの3回の爆弾テロ事件で
終わった。これらの事件は、もちろん北コーカサスの緊張をさらに深めることになった。

 北コーカサスは年末年始のお祝いムードとは程遠い。地域は明らかに
原理主義化していて、新年のお祝いさえもイスラムの伝統に反すると
言われるようになってきている。

 12月24日、ロシア対テロ委員会は、2013年に北コーカサスでは260人の
抵抗勢力を殲滅したと発表した。そのうち42人が野戦司令官であるという。
また、12件のテロ攻撃を含む78 件の犯罪を未然に阻止したという。
ただ、この発表内容は、何をもってテロ攻撃と定義するかがあいまいで
疑問が残る。
ちなみにチェチェン内務省は、2013年にはチェチェン内でのテロ攻撃は
「何もなかった」と発表している。当局発表はあてにならない。

 チェチェンの東隣のダゲスタン共和国の情勢は、明らかに緊張している。
12月 25 日に、デルベント地区の警察署で、捜査官が何者かによって銃殺
された。ハサブユルト地区でも戦闘があり、ムツァルーアウル村の酒屋で
11歳の少女が死亡した。ダゲスタンではアルコールを販売している場所が
繰り返し襲撃を受けている。

 12月26日にも、スレイマンースタルスキー地区で特殊作戦があり、
抵抗勢力の一員と疑われたマドリド・ババハノフ(27 歳)が自宅で殺害された。

 (原文にはこのような事件がさらに列挙されており、まるで戦争状態:編注)

 このような状況の悪化によって、
ダゲスタンの首長であるラマザン・アブドラチーポフは、同共和国の
安全保障会議として治安維持についての特別会議を開くに至った。
ところが その翌日12月31日にも、ブイナフスクの検察官ガサーノフが、
自宅前で自動車爆弾により殺害された。また、ハサブユルトでも即席爆弾
(IED)による攻撃があり、警察官が負傷した。

 冬季オリンピックが始まるソチでは厳戒態勢が取られているが、
オリンピックが近づくにつれ、北コーカサスの緊張はさらに高まるだろう。

 


 
 
ソチオリンピックに関連し、
アムネスティ・インターナショナルがロシアの人権状況について声明を出した。
                                         2013年10月 9日 [アムネスティ国際事務局発表ニュース]
 
  2014年のソチ冬季オリンピックに先立ち、アムネスティ・インターナショナルは
ロシアで悪化する一方の人権状況を浮き彫りにする世界的キャンペーンに取り組み始めた。
 
 モスクワにオリンピック聖火が到着した。 この聖火は、ロシア当局が華やかなイベントの陰に
隠したくて仕方ない人権侵害の実態を照らしだすだろう。オリンピックに関わる人びとすべてが、
ロシア当局が社会や市民に課している規制を思い、声をあげてその規制に反対することが大切
だろう。
 
 オリンピックの聖火が 10月7日にモスクワに到着し、ソチに向けて出発した。 その時、何十万人
ものアムネスティのメンバーが世界中で イベントを催し、抗議行動を繰り広げた。
ロシアで 表現・結社・集会の自由の権利がどれほど侵害されているかを広く知ってもらうため、
トロント、プエルトリコ、ワルシャワ、パリ、ブリュッセルなど世界各地、そして モスクワで、趣旨に
賛同する人びとが公共の場やロシア大使館の前で抗議の集会やフラッシュモブを行ったり、
ピケをはった。
  ロシア憲法、そして 自らが批准国である国際人権条約によって 明確に保障されている
基本的人権が踏みにじられている事実は、オリンピックのファンファーレも 華やかな式典を
もってしても隠しきれないであろう。 
アムネスティは、今後のキャンペーンで次のことを訴えたい。
 
          良心の囚人であるウラジミール・アキメンコフさん、アルチョーム・サヴィオロフさん、
  ミハイル・コセンコさんの3人は、ただ 表現と結社の自由の権利を 平和的に行使しただけで
  1年以上も拘禁されている。
   2011年と2012年の国会議員選挙と大統領選挙が不正だったと抗議する大集会が各地で
  開かれていた折、この3人は 2012年5月に モスクワのボロトナヤ広場での抗議集会で
  拘束された。ボロトナヤ広場での抗議集会に関連して 13人がモスクワで裁判にかけられて
  おり、数人が 同件で いまだに裁判待ちの状態である。
       平和的抗議行動を抑圧する法律により、デモの主催者に重い罰金を科しているが、そうした
  適用の多くが恣意的である。 2013年には モスクワ市内と その周辺だけでも 81の抗議集会
  があり、600人以上が拘束された。
 
   2012年に施行された「外国の代理人法」は ロシアで活動する海外のNGOを著しく弾圧して
  いる。 モスクワのアムネスティ事務局も査察を受けた。 また、この法の下で検察が起訴した
  NGOの裁判では 数団体とその幹部が 高額な罰金を科された。 さらに多くのNGOに対し
  外国の代理人として登録するよう公式要求が発令され、要求に応じなければ処分を受ける
  ことになる。
    2013年に同性愛嫌悪に基づく法律が導入され、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・
  トランスジェンダー・インターセックス(LGBTI)の人びとの表現や集会の自由の権利を制限
  してきた。その結果、ロシア全土で 同性愛嫌悪暴力が増加している。
  LGBTIのイベントは、それに反対するデモ隊によって妨害され、当局からはデモ禁止命令を
  受け、参加者は未成年者の間での非伝統的な関係を奨励したとして逮捕された。
  この法律に違反すると、外国人も含めだれでも最高3000米ドルの罰金を受ける。
    パンクグループのプッシーライオットが 2011年、モスクワのロシア正教会で、平和的で短い、
  しかし 時の政権に挑発的なパフォーマンスをしたことが契機となり、神への冒涜法が導入
  された。メンバーの内 2人は 2年の禁錮刑という政治色濃い判決を言い渡され、現在服役中
  である。その1人 ナジェージダ・トロコンニコワさんは 刑務所の悪状況について苦情を言った
  ため独房に入れられ、ハンストをしている。
    ジャーナリストや人権活動家の殺人事件を きちんと調査しない。アンナ・ポリトコフスカヤ
  さんは 2006年に銃殺されたが、犯人は明らかになっていない。  ナタリア・エステミロワさん、
  ガジムラート・カマロフさん、アフメドナビ・アフメドナビエフさんらの殺人でも、誰も起訴されて
  いない。
 
 オリンピックの放映に世界が釘付けになっている間も、ロシア当局は国内では人権侵害を
繰り広げるはずである。
ロシア当局は オリンピック競技場でのデモを禁止しているオリンピック憲章を盾に、個人や
活動家が、合法的、平和的なデモに参加するのを妨げようとしている。しかし、憲章が禁じて
いるのは 実際の競技場所や会場のみであり、禁止が理にかなっている場合のみである。
  ロシア当局が阻止しようとしている一般的な抗議デモは 憲章の禁止規定には当てはまらず、
その行為は 表現・結社・集会の自由の原則に違反する。
 
 オリンピック大会は 人権を無視していい場ではない。大会の主催は 市だが、実質的には
広く 国の主催であり、その主催国ロシアの基本的人権の侵害は、受け入れられるものではなく、
ただちにやめるべきである。
 
  人権を大切に思うすべての人、そしてオリンピックを組織し運営にかかわる人をはじめすべて
のオリンピック関係者は、表現・結社・平和的集会の権利の侵害に対して、反対の声をあげよう!
 
                            アムネスティ国際ニュース
                                    2013年10月3日
 
   補足:「外国の代理人法」……海外から資金を受け「政治活動」に携わっているとみられる
      NGOなどの団体に、「外国の代理人」として登録する義務を課すもの。
      登録すると、一般団体より頻繁な報告義務や監査義務、定期査察受け入れが発生し、
      また、抜き打ち査察もある。登録や報告に不備があると罰金刑や服役刑が科される。
      「政治活動」に携わっているという判断基準はあいまいで、罰則の適用解釈も幅広い。
      NGOを厳しく監視するための法である。登録しなければ罰金が科せられ、一時的な
      活動停止や資産凍結に追い込まれることもある。
 
 


1−2−6 のつづき
 
 2.カフカス諸語 北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族) ナフ語派
                                                                            Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続3)
 
   
   1.アフマド・カディロフ  2003年10月19日〜04年5月9日 無所属在任中に暗殺
 代行. セルゲイ・アブラモフ 2004年5月9日〜10月5日          無所属
首相による権限代行
   2.アル・アルハノフ     2004年10月5日〜07年2月15日 無所属任期途中で辞任
 代行.ラムザン・カディロフ 
 2007年2月15日〜3月2日     統一ロシア首相による権限代行
   3.ラムザン・カディロフ   2007年3月2日〜(在任中)   2010年9月2日 役職名を首長に変更     
 
 
 
   チェチェン戦争の原因
                  チェチェン紛争とは何か? - チェチェン総合情報  2005.11. 
 
 くりかえしチェチェンで 戦争が起こる理由はいくつか挙げられる。
 
1.ロシアの政治状況が、チェチェン戦争を必要としている。
 
  エレーナ・ボンネル女史(反体制物理学者サハロフ博士の未亡人)は、こう証言している。
 「 第2次チェチェン戦争勃発した 主な原因を探るには、まず、現在のロシア政治情勢
 を理解しなければならない。
  第1次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。
 今回戦争は、エリツィン大統領が 自ら選んだ後継者として公に支持する
  ウラジーミル・プーチン現首相が 世論調査で順位を上げるために必要とされて
 いる 」 米上院議会での証言戦争の結果、1999年の大晦日に エリツィン大統領
 辞任して プーチン代行に その地位を譲り、大統領経験者不逮捕特権を手にした。
 

   チェチェン戦争は、戦争を必要としている ロシアの軍部・情報機関を中心とする

 政治勢力「 シラビキ(力の人々=武闘派) 」主導している。彼ら利益は、チェチェン戦争

 に参加することによる 合法・非合法の恩典によるものだ。

 これには 戦争 及び復興予算着服、現地での違法な石油密売への関与、チェチェン

 独立派への武器の横流し、現地住民の拉致と金銭による釈放(=営利誘拐)など

 が挙げられる。

 
 2.ロシア国家の統一の維持
 
  北コーカサスには、チェチェンの他に ダゲスタン、イングーシ、北オセチア、カバルディノ・バルカリア、
 カラチャエボ・チェルケシアなどの民族共和国があり、チェチェンの独立が 他の国々の ロシア
 への離反につながると、ロシアの国土の一体性が失われることが、ロシア連邦側の
 主張の一つである。
  しかし、1991年以来独立を主張した ロシア連邦構成共和国は チェチェン タタールスタン
 だけであり、すべての地域に チェチェンのような動きが出ることは考えにくい。
 
  また、ロシアが、チェチェンを侵略によって獲得したことは 歴史上 明らかであり、
 この地域の人々が 民主的な手続きを経て 独立を選んだ場合に、ロシア連邦側は、
 これに 反対する資格を持たない。
 
 3.石油資源
 
  イランとトルコが近く、軍事上の緩衝地帯である。 資源面から見ると、チェチェンで
 原油を産する他、カスピ海のバクー油田からのパイプラインが領内を抜けている
 ため、ロシア側としては チェチェンを 自国のコントロール下に置きたい。
 
 
 
                                    2006ー02ー20
   2月23日は、ロシアの祝日「祖国防衛者の日」である(かつては「赤軍記念日」と呼ばれて
 いた)。第一次世界大戦中の1918年のこの日、ドイツ軍と戦うためソ連に赤軍が結成されたこと
 を記念して定められたもので、ロシアでは、3月8日の「国際婦人デー」との関係で「男性の日」
 として認識されている。
  しかし、同時に この日は、スターリンによって チェチェン人が カザフスタンなどに強制移住
 させられた日でもある。第二次世界大戦中の1944年の この日、50万人ともいわれるチェチェン人
 は、突如として故郷を追われることとなった。移住の過程で半数以上が命を落とし、運良く移住
 できた者も、厳しい寒さと飢えに大いに苦しんだといわれる。
 その意味から、2月23日は、チェチェン人にとっても 「忘れられない日」 なのである。

  さて、ロシア軍が チェチェンに軍事侵攻して始まった第二次チェチェン紛争から、既に6年以上
 が経つ。 この間、チェチェン独立派武装勢力によるテロが 断続的に発生しているものの、
 同勢力に対するロシア側の掃討作戦は 継続的に推進され、チェチェンには 親ロシア派のアルハノフ
 政権も誕生しており、「 チェチェンに 親ロシア派政権を樹立し、これを通じて チェチェンをロシア
 の管理下に置く 」という プーチン政権のチェチェン政策 (所謂「チェチェンのロシア化」政策)は、
 一応進展しているようにみえる。
  プーチン大統領は、今年1月31日に内外の記者1000人以上を前に3時間半にわたって行った
 大規模記者会見でも、昨年の成果の一つとして「 チェチェンを ロシアの憲法体制の中に引き
 戻したこと 」 を取り上げた。
 だが、チェチェン情勢は 本当に ロシアの枠内で安定に向かっているのだろうか。

  チェチェン独立派武装勢力が弱体化していることは、恐らく事実であろう。同勢力の指導者
 であるバサエフ野戦司令官自身、今年1月に「 聖戦は拡大しているが、我々は唯一、聖戦を
 支える資金とメディアの不足という困難にぶつかっている 」旨を述べている。
  最近のチェチェン独立派武装勢力の大規模テロが、例えば 北オセチアやカバルダ・バルカル
 など、チェチェンやモスクワといった「中心地」以外の地で発生していることも、同勢力の力量
 低下のひとつの反映かもしれない。
  しかし それでも、独立派武装勢力を取り巻く情勢に照らせば、同勢力が根絶される方向に
 あると言うには、なお無理があると思われる。独立派武装勢力は、行政の腐敗や貧困などの
 社会情勢に不満を募らせる地元住民や他国のテロリスト集団の加担を得るほか、現地の
 治安当局者の一部と癒着しているとみて間違いないのである。
 
  イワノフ国防相(当時。現在、国防相兼副首相)は昨年10月、「 ここ数年間にチェチェンで
 50か国からの外国人傭兵が殲滅された。テロリストが自分の力だけで何かをやったことはない。
 常に、国境を越えた資金やテロリストの流れが存在している 」旨を指摘した。
  また、ロシア内務省は 今年1月、「 昨年1年間に北カフカスの内務機関で武装勢力との関係
 や破壊工作への関与がみられる内務機関職員156人に関する情報を得た。16人が処罰され、
 20人が解雇された 」旨を公表した。
 
    他方、チェチェンの政権が引き続き ロシアの事実上の管理下に収まっているかどうかも、
 不透明である。2年前に独立派武装勢力に爆殺された前大統領の子という「血統」を持つ
 カディロフが 「借り物大統領」のアルハノフに代わり いずれチェチェン大統領となること、現に
 チェチェンの最高実力者が アルハノフ大統領ではなく カディロフ第一副首相であることは、
 まず疑いない。
  だが、そんなカディロフは、プーチン大統領にとって信頼に値する人物とはみられない。
 カディロフは、チェチェンにおいて 以前から 「カディロフツィ」(「カディロフ一派」の意)と呼ばれる
 強大な私兵集団を率いて営利誘拐と略奪を行い、現地で活動する ロシア軍と時に衝突さえして
 いる「危険な男」である。 現段階でこそ、カディロフは 基本的にプーチン大統領の意に沿って
 行動していると見受けられるが( もっとも、プーチン大統領も 様々な形で カディロフを「懐柔」
 している)、今後の両者の関係が 首尾よく推移するかどうかは、なお予断を許さない。
 
     ※ カディロフは、チェチェン独特の「部族の原理」に照らせば アルハノフより上位であり、
  前回(2004年8月)の チェチェン大統領選挙時に得ていなかった大統領の被選挙権(年齢30歳)
  を今年取得する。 また、昨年11月に実施されたチェチェン議会選挙は、プーチン与党の
  「統一ロシア」の圧勝で終わったが、この選挙戦を仕切ったのも カディロフである( 因みに、
  独立派武装勢力のバサエフ司令官は 同議会選挙を 「豚による出し物」と表現 )。
                                  
 
 
 
                               2000年1月17日
  1987年に ゴルバチョフが ペレストロイカ(政治改革)を始めたとき、チェチェンの人々は、
自由な時代の到来を期待して喜んだ。 チェチェン人は、自分たちの信仰や生活を
脅かす ロシアの存在を嫌ったが、ロシア人が自らの体制を改革し、チェチェンに自由を
与えるというのなら、別だった。

 チェチェンでは ペレストロイカの結果、1989年7月には、150年程前に ロシアに併合されて

以来初めて、 チェチェン人(ザガイエフ第一書記 Doku Zavgayev)が、共産党によって

指導者に任命された。

 その頃の チェチェン人は、今のような強い反ロシアではなかったようで、チェチェンが 隣の

イングーシと一緒に 「チェチェン・イングーシ共和国」として 独立を宣言したのは、ロシア内の

自治共和国の中では かなり遅い、90年11月27日だった。

 その後、1991年3月6日に ソ連全土で行われた住民投票では、チェチェンでの投票者

の 76%が、 ソ連邦の存続に賛成している。

 91年8月、モスクワで クーデターに失敗した共産党が解体された直後、チェチェンでも

共産党の ザガイエフが、ソ連空軍の将軍だった ドダエフ(チェチェン人)のクーデターによって

追放された。政権をとった ドダエフは、チェチェンを西欧型の自由主義を持った国にする

ことを目指し、彼が提案した チェチェン憲法は、信仰の自由などがうたわれていた。

 

▼地元の信仰と対立したイスラム原理主義

 ペレストロイカ 後、チェチェンでは 200以上のモスクが建設されるなど、信仰の自由化が

進んだ。 ロシア革命以来初めて、メッカ (サウジアラビア)への巡礼が許され、多くの人々

が巡礼に行き始めた。

 オイルダラーで金持ちになった サウジアラビアの財界人たちが、チェチェン人の巡礼資金を

支援することも多くなった。中東諸国から、多くの イスラム聖職者が  チェチェンに派遣

され、聖典コラーン (コーラン)を教える教室が、各地のモスクに併設された。

 だが しばらくすると、中東からの聖職者の流入や、メッカへの巡礼や留学によって

中東イスラム学んで帰ってきた チェチェン人増えた結果、地元スーフィズム聖職者と衝突し始めた。

 サウジアラビアで主流のイスラム教は 「ワッハビズム」と呼ばれ、伝統にのっとった厳格な

作法を信仰者に求める。これは、開祖 ムハンマド(マホメット)時代信仰維持すべき

だと考える「原理主義」的な考え方で、「聖者」などの人間を崇拝することや、歌や

踊りを宗教儀式とすることに反対していた。

 チェチェンの スーフィズムには、聖者崇拝や歌や踊りの儀式が不可欠だが、サウジから

きた ワッハビズムの聖職者は、これらを 反イスラム的だと攻撃し、スーフィズムの聖職者と

対立した。

 

▼若者の心を奪った「反ロシア・反西欧」

 ワッハビズムは、西欧諸国が中東に影響力を及ぼし始めた 18世紀後半、西欧化

への反発から出た イスラム教の原点回帰運動として、アラビア半島で始まった。

この運動は、アラビア半島豪族だった サウド一族政治力を広げるために使われた。サウド一族 は アラビア半島の大半を統一し、1932年に サウジアラビアを建国した。

「サウジアラビア」とは 「 サウド家のアラブ人国家 」という意味だ。

 チェチェン人多くは、新しく入ってきた ワッハビズムよりも、伝統的な スーフィズム好んだ

彼らにとっては、ワッハビズムを持ち込んだアラブ人も、チェチェンの支配を企む外国勢力

だった からである。

 だが、若者たちは違った。チェチェンでは ソ連崩壊後、ソ連時代からの国営企業が

次々と閉鎖された。 失業率が増え、場所によっては 成人の8割が失業していた。

暇を持て余す若者は、新しく作られた ワッハビズムの モスクに行くようになったが、

そこで教えられることは「 ロシアや 西欧の異教徒(キリスト教徒)による チェチェン支配を

許してはいけない 」という、イスラム原理主義 の考え方だった。

 仕事もなく、若い力を持て余す青年たちの渇いた心には、この 「反ロシア・反西欧」

の明確な イスラム信仰が、唯一の希望と思えた。若者たちは、スーフィズムを守旧的な

体制派の年寄りの信仰だとして攻撃するとともに、西欧風の国造りを目指す ドダエフ

大統領の政策に反発する ようになった。

 ワッハビズム勢力は、サウジアラビアの オイルダラーの後ろ盾があったから、資金も潤沢

だった。ドダエフ政権の姿勢は、次第に イスラム色の濃いものにならざるを得なかった。

 

▼助けてくれなかった「国際社会」

 ワッハビズムの イスラム原理主義勢力は、スーフィズムを排除して 自分たちの教えを導入

した山村を、当局の力の及ばない事実上の自治区域にし始めた。 ワッハビズムが

導入された山村では、既存の ロシアの法律を破棄し 「イスラム法」を導入することが

宣言され、それを止めるために やってきた ロシア警察とは、銃撃戦も辞さない構え

で対立した。

 このように、チェチェンの山岳地帯が イスラム原理主義の支配地域になっていくことに、

ロシアは 警戒感を強めた。チェチェンは 1992年に ロシア連邦への参加を拒否し、それに

対する交渉が続いているうちに、チェチェンの反ロシア的な イスラム急進派の力が伸びて

いった。この傾向に 終止符を打つため、ロシア軍は 1994年9月、チェチェンに武力侵攻

した。

 

 ロシア軍が侵攻してきたとき、ドダエフ大統領は、欧米に助けを求めた。大国に抑圧

されてきた民族独立を、人権問題として 世界中で支援している欧米の「国際社会」

は、きっと チェチェン のことも支援し、ロシア を非難してくれると期待した。

 だが 「国際社会」を主導する アメリカは、親米政策を貫いていた エリツィン大統領の
肩を持った。
アメリカが エリツィン政権敵視して追い詰めれば、エリツィンのライバルである旧共産党勢力
復権する可能性があり、冷戦時代の米ソ対立に逆戻りしかねなかった。欧米は
チェチェン紛争を ロシアの内政問題とみなし、侵攻を傍観した。
 

▼アフガニスタンからきたベテラン志願兵

 その一方で イスラム原理主義勢力は、チェチェン に対する支援を強めた。「アフガニー」

と呼ばれる、 アフガニスタンへ侵攻した ソ連軍と戦った経験を持つ ベテラン志願兵たち

が、中東全域から チェチェンにやってきた。

 1979-89年の、ソ連軍と アフガンゲリラとの戦いは、強い イスラム信仰を抱く人々を

「武装集団」に育てる最初のきっかけだった。 ワッハビズム を広げることで イスラムの

中心地 メッカを擁する自国の地位を高めたい サウジアラビアと、中央アジアにおける ソ連

の南進を食い止めたい アメリカ との思惑が一致した結果、 サウジアラビアが 中東で

志願兵を募り、米軍が 軍事訓練を施して、アフガニスタンの戦線に送り込む流れが

作られた。

 志願兵 「アフガニー」たちは、アフガニスタン戦争が終った後も、武力を使って イスラム教

を守る「聖戦」に参加することに意義を見出し、ボスニア や カシミール、スーダン などの、

イスラム教徒と異教徒間の戦場に登場した。チェチェンは、彼らの行き先の一つとなった。

ハッタブ(Emil Khattab)という ヨルダン人の戦闘司令官などが、チェチェンに現れた アフガニー

として知られている。

 アフガニー参戦にかかる軍資金は、2年前に ケニヤのアメリカ大使館を爆破したテロの
黒幕として アメリカ当局から目の敵にされている オサマ・ビンラディンなど、サウジアラビアの
お金持ちが出している可能性が高い。
 

▼「天国へ直行」を利用する司令官たち

  アフガニーたちが チェチェンを武力支援し、ロシア軍が撤退した後の1997年になっても、

チェチェンの多くの人々は まだ、イスラム原理主義を嫌っているか、敬遠していた。

 この年、ドダエフ大統領が ロシア軍によって殺されたが、その後の大統領選挙で、

イスラム急進派ヤンダルビエフ(Zelimkhan Yandarbiyev)が敗れ、ドダエフ政策を引き継いだ

マスハドフ(Aslan Maskhadov)が当選したことに、それが表れている。

 だが 人々の意識とは裏腹に、1996年に ロシア軍が撤退し、事実上の自治が確立

した チェチェンでは、イスラム原理主義勢力が ますます 力を増した。チェチェン政府は 1997年、

旧ソ連の中で 唯一、イスラム教を国教と定める宣言を行った。

 

 この背景には、ロシア軍との戦闘を通じて政治力を増した チェチェン軍司令官たちが、イスラム原理主義を自らの信条として掲げていたことがあった。「 聖戦で死ねば 天国

へ直行できる 」という イスラムの教えは、死に直面する兵士を奮い立たせるもので、

戦争を遂行する司令官にとって、原理主義は便利なものだったからである。

 チェチェン軍の最高司令官 バサエフ(Shamil Basayev)も、ワッハビズムの厳格な イスラム信仰
を実践してはいないものの、イスラム原理主義の考え方を戦略的に使っている。
 

▼隣国に広がる原理主義の戦争

  バサエフ司令官は チェチェンから ロシア軍を追い出した後、1999年夏、イスラム原理主義

の勢力を広げるため、東隣のダゲスタン共和国に軍を侵入させた。武勇で知られる

チェチェンとは対照的に、 ダゲスタンは イスラム学習の熱心さで知られ、北カフカス地方の

イスラム教区の中心は、ダゲスタンの首都 マハチカラにある。

 ソ連崩壊後、ダゲスタンでも ワッハビズムの浸透が進み、イスラム法の導入を宣言して

ロシア当局と敵対している山村が 60カ所ほどある。 バサエフ司令官は、その村々と

チェチェンとの連携を強め、 ダゲスタンを イスラム共和国として ロシアから独立させようと

動いたのだったが、これは 再び ロシア政府の懸念を強めることとなった。

 チェチェンの住民の大半は 単一のチェチェン人だが、ダゲスタンは 30以上の民族が混在

して住んでいる多民族地域である。多くは イスラム教徒だが、一部の民族が イスラム

原理主義勢力の力を借りて独立すれば、他の民族との内戦に陥る可能性がある。

こうした懸念から ロシア軍は、ダゲスタンに侵入した チェチェン軍を攻撃し 撤退させたが、

侵入は何度も繰り返された。

 この緊張状態に加え、チェチェン「テロリスト退治」によって支持率を上げたいロシア政府

の思惑もあって、99年10月、ロシア軍が 再びチェチェンに侵攻し、今に続く戦闘となって

いる。

 チェチェン と ダゲスタンの人々の多くは、イスラム原理主義による支配に賛成していない

と思われるが、イスラム原理主義勢力も ロシア当局も、戦争が激しくなる程 権力基盤

が強化されるため、そのことの犠牲になっている。

 そして 今回も、欧米諸国は 傍観者に徹している。99年11月の国際会議の席上、
アメリカの クリントン大統領が、ロシアのチェチェン侵攻を批判したが、それは イメージアップ作戦
に過ぎなかったようで、アメリカ政府は チェチェン問題の仲介することを、明確に否定して
いる。下手に手出しして、コソボの時のように 戦闘の泥沼に引き込まれる危険が
高まるのは避けたい、と考えているのだろう。
 

▼カフカス全域に広がりかねない戦争

 もう一つ、ロシアと原理主義との狭間で苦境に陥っているのが、チェチェンの南にある

グルジア共和国である。 ここも イスラム教徒が多い国だが、かつて ソ連外相を務めた

シュワルナゼが大統領となり、西欧化政策を続けてきた。

 だが 今秋、チェチェン戦争が始まると、イスラム原理主義勢力が アラブなどからの資金

志願兵の補給を受ける際、グルジアを通るようになり、国内が不安定になってきた。

 ロシアは、グルジアが チェチェン人を支援していると非難し、その疑いを晴らすため、

グルジアにある ロシア軍基地を、チェチェン攻撃の基地として使わせろと要求している。

反面、イスラム原理主義勢力は、グルジア国内の北側にある二ヶ所の地域に入り込み、

原理主義を嫌う グルジア政府からの独立を狙っている。

 もし、グルジア政府が ロシア軍の基地使用の要求を飲めば、ロシア寄りとの烙印を

原理主義者から押され、反政府テロ活動が展開されかねない。逆に イスラム原理主義

に対して譲歩したら、ロシアと敵対することになる。そして グルジアが戦争に陥れば、

カフカス地方全域に、戦禍が及ぶことになる。

 イスラム原理主義とロシア、そして 傍観する欧米という、絶望の三角関係の中で、
チェチェンやグルジアの人々の苦しみは、今後も続く と予測される。   
 
 
                         (つづく)
 
1−2−5 のつづき
 
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   b.チェチェン共和国 (続2)
 
   1985年  3月  ゴルバチョフ( 1931〜、スタヴロポリ出身 ) ソ連共産党書記長就任
         グロムイコ最高会議幹部会議長(国家元首)にし、新外相に
                  グルジア党第一書記だった エドゥアルド・シェワルナゼを抜擢。 
  1986年 4月 ゴルバチョフ、ペレストロイカを提唱
           チェルノブイリ原発事故
            これを契機に、情報公開(グラスノスチ)を推進
          スターリン時代の大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。
  1987年 12月 アメリカとの間で中距離核戦力全廃条約締結
  1988年 5月 ソ連軍アフガニスタンから撤退開始
       同時に 東欧に駐留していたソ連軍の一部も、本国へ引き上げ。
        ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により 東西の冷戦構造
             は事実上崩壊。
  1989年 12月2日3日 ゴルバチョフとブッシュ、正式に冷戦の終結宣言マルタ会談
  1990年 ソ連共産党による一党独裁制の放棄、複数政党制大統領制導入
 3月15日 ゴルバチョフ 初代ソ連大統領
 5月 チェチェンでは 元ソ連軍の将軍/ジョハル・ドゥダエフ 権力掌握
  1991年
 5月 チェチェン・イングーシ共和国に改名 
   ゴルバチョフの求心力が低下し、代って ロシア共和国大統領 エリツィンの影響力が
    増大する。
 10月 共和国と連邦政府との間で、 共和国がチェチェン共和国とイングーシ共和国とに
  分立することに同意
     同30日  得票率85%で チェチェン共和国初代大統領 当選
 11月 一方的にソ連からの独立 と チェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言
     ソヴィエト連邦離脱法を基に、一方的に独立宣言
 
      ⋆  厳密には、連邦離脱法は ソ連構成共和国の離脱を念頭に置いたものであり、当時
        ロシア共和国内の共和国であった チェチェンには適用されない。
 
 11月6日 エリツィン、ソ連共産党系のロシア共産党の活動を禁止
 12月8日 エリツィン、ウクライナレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシスタニスラフ・シュシケビッチ 
  最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と
  独立国家共同体(CIS)の樹立を宣言することで合意(ベロヴェーシ合意)。 
 12月25日、ソ連 大統領ゴルバチョフが辞任し ソビエト連邦が解体(ソ連崩壊
 
 
  当時のチェチェンは、ロシア正教を放棄し、キリル文字からラテン文字に変更するなど、
 脱ロシア化を推し進めていた。
 
  チェチェンの脱ロシア化に危機感を抱いた エリツィン大統領は、内務省治安維持部隊
 を派遣。首都グロズヌイ を制圧すべく攻撃を開始したが、チェチェン軍の猛反撃に合い
 撤退を余儀なくされた。
 
  1994年
 12月、ロシア最大の外貨獲得資源である石油パイプラインの経路にあたる チェチェンの
 独立に 更なる危機感を持った ロシア政府は、本格的な武力行使を開始。 
  しかし、ロシア連邦軍は その圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後混乱
 と軍事予算の削減により ソ連時代と比較して 大幅に弱体化しており、 その脆弱
 ぶりを露呈することとなった。
  グロズヌイへの空襲は、多数の民間人の死傷者を出して国際社会から非難が
 集中し、その非道さに イスラーム諸国から多数のムジャーヒディーンと呼ばれる兵が参集
 する結果となった。
  チェチェンは、アル=カーイダのメンバーとされる オマル・ハッダード司令官を中心に反撃。
 ジハードの為に外国から参戦したムジャーヒディーンと共に戦った。
 特に アフガニスタンで 訓練を施された アル=カーイダの戦闘員は 戦場での攻撃だけ
 でなく ロシア国内でのテロ攻撃も行い 数百人の死者を出している。
 
  1995年
  ロシア連邦軍が広域に渡って支配権を回復したことで、ロシア側は 一方的に休戦
  を宣言し、軍隊の撤退を始めた。
   1996年
 4月 チェチェン側の指導者ジョハル・ドゥダエフが 掃討戦の最中に戦死。
    22日  チェチェン・イチケリア共和国国家防衛会議ゼリムハン・ヤンダルビエフ大統領任命。
   5月27日 モスクワにおいて停戦協定(5年間の停戦)に署名
   9月28日 チェチェン・イチケリア共和国政府を組閣
   10月3日 ヤンダルビエフが率いるチェチェン代表団 と ヴィクトル・チェルノムイルジン率いる
    ロシア代表団間の交渉 (於モスクワ)。
  1997年、ロシア軍は完全に撤退
 1月27日 ヤンダルビエフ、チェチェン大統領選挙に敗北(第3位)
   2月12日、大統領の権限を アスラン・マスハドフに委譲。その後、マスハドフ政権との
    協力を拒否し、野党に移った。
   5月、ロシア連邦大統領・エリツィンと「平和と相互関係に関する条約」を締結
 
  1999年
 8月7日 カフカースにおける「大イスラム教国建設」を掲げるチェチェン独立派の最強硬派
   シャミル・バサエフ と アミール・ハッターブ、和平協定を破り 突如隣国のダゲスタンへ侵攻。  また、同月と翌9月 モスクワアパート連続爆破事件が発生した ( ロシア諜報機関
  による自作自演の疑惑あり)。
 9月 首相ウラジミール・プーチン、ロシア軍を チェチェンへ進撃させ、紛争は再開、1997年の
  和平協定は無効となった。
 12月 プーチン、 エリツィンの健康悪化により、大統領代行に就任し、翌2000年に
 大統領に正式に就任。
  2000年 
 2月 ロシア軍  首都グロズヌイ制圧
   大統領マスハドフ、武装反乱指揮容疑で ロシア連邦の検察当局から指名手配
  される。
  2002年 マスハドフの大統領任期は切れ、ロシア側 新たな政権を樹立
   マスハドフは、憲法上、戦時下のため 大統領任期は延長され、チェチェン独立派
  (分離派)のWebサイトでは、「チェチェン共和国大統領」の称号を名乗っていた。
 
    彼は、プーチン大統領に対して、政治対話によるチェチェン問題の解決を訴え続けていたように、
    シャミル・バサエフら チェチェン強硬派とは 一線を画す穏健派の指導者だった。
 
 9月 イングーシ共和国で チェチェンの独立派武装勢力が ロシア軍と衝突、94人死亡。
 10月10日 「グロズヌイ警察庁舎爆弾事件」 25人以上死亡
         23日 「モスクワ劇場占拠事件」 チェチェン武装勢力がモスクワの劇場を占拠
     26日、特殊部隊が突入して犯人一味を射殺、人質を解放。その際に使用
       された特殊ガスの影響により 人質が130人死亡
    2003年
   6月5日  「北オセチア・モズドク 軍用バス自爆事件」 16人死亡
   7月5日 「モスクワ・コンサート会場自爆事件」 16人死亡、50人以上負傷
   8月3日 「モズドク、軍病院自爆事件」 42人死亡
   10月  親露派のアフマド・カディロフ 大統領選で初当選
 
   2004年
 2月6日 「モスクワ地下鉄爆破事件」 240人以上死亡
 5月9日 「チェチェン大統領爆殺事件」 カディロフ大統領を含む40人以上が死亡
 8月24日 「ロシア旅客機同時墜落事件」 90人死亡。
 9月1日 北オセチア ベスラン学校占拠事件 354人以上死亡
    ロシア側は マスハドフの関与を主張するが、マスハドフは 9月23日「 事件に無関係
   である 」と声明を発表。声明の中で、テロを厳しく非難し、犯行声明を出して
   いた バサエフらを自らの責任で裁判にかけると言明。また、ベスラン事件の背景
   として、ロシア軍のチェチェン侵攻は ジェノサイドであるとし、ロシア軍に殺されたチェチェン人
   25万人の内、児童が 4万2000人に上っていることを指摘。
 
   2005年
 1月26日 アムネスティ・インターナショナル、2004年12月に マスハドフの親類8人が対立する
   親ロシア派チェチェン軍連行され、消息不明になっている報告。後 解放された。
 3月8日 ロシア連邦保安庁(FSB ニコライ・パトルシェフ長官、同庁特殊部隊が マスハドフ
   を殺害したことを発表。 
    チェチェン独立派 アブドル・ハリム・サイドゥラエフ第4代チェチェン・イチケリア共和国大統領
    となり、チェチェン・イチケリア共和国軍カフカーズ戦線(指揮官アミール・アブ-ムスリム)創設。
  2006年
 6月17日、ロシア連邦保安庁 と チェチェン共和国内務省の共同作戦により、
   アブドル・ハリムは殺害された。
    同日、在ロンドン・チェチェン分離主義者代表 アフメド・ザカエフ野戦指揮官の1人・
   副大統領 ドク・ウマロフが 大統領職を継承したと表明。
    ウマロフ、チェチェン・イチケリア共和国軍ウラル戦線(指揮官:アミール・アサドゥラ)と沿ヴォルガ
   戦線(指揮官:アミール・ジュンドラ)を創設。
  2007年
    ウマロフ、北カフカースの広域を領土とする カフカース首長国 創設と自身のアミール
   (首長)への就任を一方的に宣言、チェチェンをその一地方(ウィラーヤ)である
   「Noxçiyçö-Içkeriya」に改称。
    カフカース首長国は、ロシア連邦からのチェチェンの独立に加えて、北カフカースでの
   イスラム国家の建設を目指しており、従来のチェチェン・イチケリア共和国に較べて
   イスラム原理主義的性格が強い勢力。
    なお、チェチェン・イチケリア共和国の中には、彼に従わず穏健な政治活動により
   独立を目指す イギリス亡命中のアフメド・ザカエフのような者もおり、ザカエフは
   ウマロフの共和国脱退後に チェチェン・イチケリア共和国首相に就任。
 
   2009年
   2010年
1−2−4 のつづき
 
1−2 北コーカサス(北カフカス)
 
 2.カフカス諸語 北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族) ナフ語派
 
                                                                           Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続)
 
  ロシア革命(1917)後 
   1921年 チェチェン と イングーシを含む一帯に 山岳自治ソビエト社会主義共和国設置
   1922年11月30日 チェチェン自治州が、1924年7月7日 イングーシ自治州が分離
   1934年 2自治州が合併して チェチェン・イングーシ自治州となり、
   1936年 チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国に昇格した。
 
   1939年8月 独ソ不可侵条約 
  第二次世界大戦1939年9月1日〜45年9月2日
 
   1941年6月22日 ナチス、バルバロッサ作戦 発動(独ソ戦
    1942年6月28日 ナチス、ブラウ作戦 発動( 南部戦線で、ヴォルガ川への到達と
   コーカサス地方の石油資源獲得が目的。 コーカサスの占拠により、当時 世界最大級
   だったバクー油田からの石油供給を断ち切り、ソ連の戦争継続能力に大打撃を与え、
   降伏に追い込むことを図った。) 
 
    B軍集団 スターリングラードヴォルゴグラード攻防戦
     〜1943年2月、史上最大の市街戦に発展) 
    A軍集団
     ドン川下流の渡河をめぐる ロストフ・ナ・ドヌ周辺でのA軍集団の戦闘は激戦が予想
    されたが、3日間の市街戦を経て 7月25日、ロストフ占領。
                                           ドン川 - Weblio地図
       その後、エヴァルト・フォン・クライスト上級大将の率いる第1装甲軍とリヒャルト・ルオッフ
    上級大将の第17軍を主軸に カフカースへと順調に進撃し、8月10日にマイコープ
    13日には クラスノダールを占領。
    8月21日、第1山岳猟兵師団の選抜兵が ヨーロッパ州最高峰のエルブルス山(標高5642m)
    に登頂し、頂上にハーケンクロイツの旗を立てた 。
     しかし、前面に立ちはだかる険しいカフカース山脈に加え、鉄道 及び カスピ海、黒海の
    航路から増援を受けたソ連軍の抵抗を受け、その後の進撃は予定通りに進まなかった。
    また、黒海沿岸の要地 ノヴォロシースクも、9月10日になって市街地占領に成功したもの
    の、トルコ国境のバトゥミへの進路どころか、港湾施設に黒海艦隊の水兵が立てこもって
    激しく抵抗し、最後まで 海上からの補給に利用できなかった。
         さらに、マイコープの油田と製油施設も ソ連軍が退却時に修理不能な状態で破壊しており、
    皮肉にも ドイツ軍は燃える油田を前にしつつ 燃料が欠乏することとなる。
           9月に入り、補給の限界 と ソ連軍の防禦線構築により、グロズヌイから70キロ前面の
    テレク川に面したモズドクで 戦線は完全に膠着した。
     これに憤ったヒトラーは、9月9日にA軍集団司令官のリスト元帥を罷免し、直接指揮に
    あたる。後任に第1装甲軍司令官だったクライスト上級大将があてられたのは、ソ連赤軍
    の攻勢で戦局が逆転しつつあった 11月22日だった。
 
     ドイツ軍が ヴォロネジ占領に手こずる間、ソ連赤軍は チモシェンコ元帥の指揮のもと、
    スターリングラードに向けて計画的に粛々と後退し、前年のような無残な包囲殲滅を回避した。
    これを追うドイツ軍は、夏の大草原で 1年前を彷彿させる快進撃を始めたが、前年と異なり
    捕虜や重機材は ほとんど得られなかった。これを ソ連赤軍の潰走と誤認し、「 もうソ連軍
    はいなくなったのか?」と気を良くした ヒトラーは、7月23日に歴史的な錯誤というべき「総統
    指令第45号」を発した。
     これは A軍集団に バクー占領を、B軍集団に スターリングラードの占領を命じ、さらに 二つの
    軍集団の間隙を牽制するため、別の一隊を プロレタルスカヤからカルムイク自治共和国
    の首都エリスタを経て ヴォルガ河口、カスピ海沿岸のアストラハンに向かうよう命じている。
     カルムイク人は モンゴル系で ヨーロッパ唯一の仏教徒であり、また レーニンもその血を
    引く。ソ連軍が この方面の防衛を放棄したため、ドイツ軍は 無人に近い草原を難なく突破
    し、仏教寺院が建つエリスタを占領した。
    この地域は 草原が どこまでも続き、まさに 地の果てに来た感があったという。補給は
    途絶え、彼らは 文字通り孤立無援となった。
     一方、ソ連は バクーから カスピ海を経て アストラハンからヴォルガという水運ルートとは
    別に、グリエフの港湾と鉄道を整備する別のカスピ海ルートを設定したため、アストラハン
    やスターリングラードを占拠されても、それが ソ連の命脈を絶つことにはならなくなる。
            ともあれ、これらの命令で第4装甲軍は 装甲師団と自動車化歩兵師団の主力が
    引き抜かれ、さらに 燃料補給も A軍集団が優先されたため、スターリングラードに向けた
    追撃は、ヴォロネシ攻略に続いて 速度が鈍ってしまう。こうした錯綜は、追撃を免れたソ連軍
    に再編のための時間を提供する結果となった。
     7月30日にロストフが陥落すると、ヒトラーは 第4装甲軍を 再びスターリングラード方面に
    向わせた。また、セヴァストポリの戦いを終えるとともに クリミア半島からケルチ海峡を
    渡って カフカースを支援攻撃する予定だった エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍も、
    スターリングラード修防戦の支援に向かわせた。
     8月7日、第4装甲軍の先鋒は スターリングラード南西 130kmのコテリニコボに南側から
    回り込みんだ。さらに 翌8日、第6軍は ドン川のカラチ鉄橋を占領し、攻勢の戦略拠点を
    確保した。しかし、スターリングラードへの本格的攻略の開始は 補給と兵力の集結を待たねば
    ならず、総統指令の乱発は 作戦の遂行を大いに混乱させた。そのことは、ドイツ軍から
    ソ連軍を捕捉・包囲する「速度」を喪失させ、逆に ソ連軍に防衛態勢を構える「時間」を
    与えることとなった。
     後退する チモシェンコ軍のドン川東岸での殲滅というブラウ作戦の本来の作戦目的、
    さらに カフカースの油田確保 及び バクーと ロシア中央部との連絡線寸断は いずれも
    失敗に終わった。また スターリングラード市の占領は当初、意図されていなかったが、ヒトラー
         は スターリンの名を冠した この都市の占領による政治的効果 と それに伴うソ連軍の
    士気低下を期し、必要以上の執着を抱くようになり、それが大消耗戦を招くことになる。
 
 
   チェチェン・イングーシの一部、ナチス・ドイツ占領され、3万以上のチェチェン人が赤軍側
  で戦った。ソ連が支配権を回復した 1944年2月23日ヨシフ・スターリンの命により、
  チェチェン人とイングーシ人が すべて 中央アジア や シベリア強制移住させられ、
  大量の犠牲者が出た。
 
   1957年フルシチョフスターリン批判により、チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義
  共和国は再建され、住民も 生存者は帰還した。ただ、北オセチア領となった領域
  の一部は復帰せず 北オセチア領のままで、この領域をめぐって、ソ連崩壊後、
  イングーシ共和国が領有を主張して オセチア・イングーシ紛争が起きる。
 
 
 
【映像】
  緊迫化するチェチェン情勢:相次ぐテロ・人権活動家暗殺
                         2009/11/05
 
   紛争の傷残るチェチェン 戦火の外科医ハッサン・バイエフ
                      2008
 
  貧困に翻弄された女たち 〜チェチェン・自爆テロリストの告白〜
                      2005
 
 
 
 
                         (つづく)
1−2−3  のつづき
 
   http://www2.anzen.mofa.go.jp/image/logo.gif  本情報は2014年01月31日現在有効です。
 
   ●チェチェン,イングーシ,ダゲスタン,北オセチア,カバルダ・バルカルの各共和国
    :「渡航の延期をお勧めします。」(既に滞在中の方は,退避手段等につきあらかじめ検討
     してください。)(継続)
   ●スタヴロポリ地方及びカラチャイ・チェルケス共和国
    :「渡航の延期をお勧めします。」(引き下げ)
   ●上記を除く地域(首都モスクワ市を含む)
    :「十分注意してください。」(継続)
   1.概況
    (1)チェチェン,イングーシ,ダゲスタン,北オセチア,カバルダ・バルカル,
      カラチャイ・チェルケスの各共和国 及びスタヴロポリ地方では,武装勢力による襲撃や
      自爆テロ事件,誘拐が発生しています。特に,チェチェン,イングーシ,ダゲスタン,
      北オセチア,カバルダ・バルカルの各共和国では,多数のテロ事件が発生しています。
       また,武装勢力や犯罪組織が警察等政府関係者や一般住民を誘拐、襲撃するケース
      などが見られます。これらの地域の情勢安定化には長期間を要すると見られますので,
      今後とも警戒が必要です。
 
 
                                           Google  地図
 
 
 
1−2 北コーカサス(北カフカス)
 
 2.カフカス諸語 北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族) ナフ語派
 
   a.イングーシ共和国(正式名称: イングシェチア共和国
 
   「ガルガイ人の国」と 地元の人は呼び、ロシア連邦に属する共和国の中では、
  もっとも面積が小さい。 首都:マガス 
 
    ※ マガスには 紀元後に北カフカスから黒海北岸地方を支配したイラン系遊牧騎馬民族
       サルマタイを構成するアラン族の首都があった。 
         http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/Alani_map.jpg/500px-Alani_map.jpg
                              4世紀半ば  アランの西遷ルート。
 
 
   人口: 46万7,294人(2002)  公用語: ロシア語、イングーシ語
   住民の大半が、イスラム教スンナ派イングーシ人
   ロシアを構成する共和国としては珍しく、ロシア人は殆どいない。
   ・ イングーシ語話者のほとんどは ロシア語との二言語併用者。
 
     1944年から1957年までイングーシ人は カザフスタンとシベリアに追放されたが、
    この期間 カザフスタン シベリア就学していた イングーシ人世代は ロシア化された。
    今日 イングーシ語は イングーシ共和国中等教育で教えられ 大学でも使われる。

          イングーシ語は 非常に多くのイングーシ人共同体で話されている。
    しかし 2ヶ国語主義の拡大、ソビエト言語政策結果、高等教育へのアクセス不足
    、イングーシ国内 又は イングーシ国近隣の仕事の不足から、危機に瀕する言語と
    考えることが可能である。
     さらに 1991年以降、チェチェン共和国からの分離により、イングーシ語の教育は
    多大な ロシア化に晒された。その結果 イングーシ語から ロシア語への急激な代替
         プロセスが起きている。 さらに イングーシ語を流暢に話す イングーシ語話者でさえ、
    ロシア語の構造と単語を使っている。
            
http://dvor.jp/logo.gif イングーシ共和国
RANK民族名人口比率%
総数2002年10月国勢調査467,294100.00
1イングーシ361,05777.27
2チェチェン95,40320.42
3ロシア5,5591.19
4トルコ9030.19
5グルジア3230.07
6ドゥンガン2090.04
7ウクライナ1890.04
8タタール1510.03
9クムイク1360.03
10アゼルバイジャン1230.03
-その他の諸民族、民族不明3,2410.69
 
     ※ イングーシ人:イングーシ共和国を中心に居住し、約15万人。
        民族名 イングーシは その居住地 アングシト村の名前に由来する他称で、
         イングーシ語による自称は ガルガイ (ГІалгІай)。
         
    チェチェン人と 民族的に同一で、1859年 帝政ロシア北カフカスを併合する際、
  抵抗した東部地域のグループを チェチェン人、抵抗しなかった西部地域のグループを 
  イングーシ人と呼称したのが分離の始まり。
 
   ソ連邦成立(1922)後、1924年 イングーシ自治州(首都:グロズヌイ)が設置され、
  1934年 チェチェン自治州と合併して、チェチェノ・イングーシ自治州となり、1936年
    ( 当時、住民の ほとんどが コサックだったため、ソ連政府は コサックの反政府行動を恐れて、
      山岳地帯のチェチェン人にグロズヌイへの移住を奨励 )
 
   1941年独ソ戦開始後、1942年 ナチス・ドイツが チェチェノ・イングーシ自治共和国
  (特にグロズヌイの油田)を目標とするブラウ作戦を発動。
   ドイツ国防軍、同年9月 現イングーシ共和国北部のマルゴベクを占領するが、侵攻
  をソ連の赤軍によって食い止められ、1943年 1月には ドイツ軍は イングーシから
  撤退を強いられる。
   同年から翌1944年にかけ、ヨシフ・スターリン(グルジア人)は、対独協力を理由に
  イングーシ人や チェチェン人などを 丸ごと 中央アジア シベリアに強制移住させた。
    これにより、イングーシ人の約30%が 最初の1年で死亡したとされる。
   第二次世界大戦争終了後1946年、チェチェノ・イングーシ自治共和国は法律上も
  消滅し、その領土は 北オセチア自治共和国へ編入。これが 後の北オセチアとの紛争
  の種になる。
     
                                                                バイナフの運命 - チェチェン総合情報
 
    1957年、スターリン死後の再評価に伴い イングーシ人やチェチェン人の名誉が回復
  され、チェチェノ・イングーシ自治共和国 復活。ただ、領土は 1946年以前より縮小した。
 
   ソ連末期の1990年11月、チェチェノ・イングーシ共和国は 既に主権宣言をしていた
     ロシア共和国からの独立を宣言(ソ連には残留)。ただし、イングーシ人は ロシア残留
  を希望していた。
   1991年ソ連8月クーデターにより 10月に大統領選挙が行われたが、イングーシ人は
  ボイコット。 11月、ジョハル・ドゥダエフ大統領が チェチェン・イチケリア共和国の独立国家を
  宣言し、ソビエト連邦とロシア共和国の双方から離脱を強行。
   イングーシ人は 住民投票により、イングーシ共和国の創設を選択する。
  12月、ロシア中央政権 と チェチェノ・イングーシ共和国政権の双方が、イングーシ共和国
  の分離・創設を承認する。同月 ソビエト連邦が消滅し、イングーシ共和国は改めて
  ロシア連邦の一部となった。
 
    1992年6月、ボリス・エリツィンロシア大統領令を発し、イングーシ共和国創設を布告。
  その中で、イングーシ共和国の領土が、北オセチアの一部にも及んでいたため、
  北オセチア共和国が反発。10月、北オセチア共和国との間で 武力紛争が勃発。
  北オセティア・プリゴロドヌィ地区の イングーシ人 4〜6 万人が難民として流入当時の
   イングーシの人口は約16万 )し、大量の失業者が発生。
 
   1994年、第一次チェチェン紛争(-96)発生。 大量の難民の流入(約16万人)し、
  経済破綻に陥る。
    1996年1月、正式名称を イングーシスカヤ共和国から、イングーシェチア共和国に改称。
   1999年からの第二次チェチェン紛争(〜2009年4月16日) チェチェンからの難民
  イングーシに流入。
 
   2002年 ムラト・ジャジコフ大統領(〜2008 治安悪化で、任期満了前に解任
 
     政権による暴力と汚職の蔓延、テロの続発とチェチェン独立派の分裂(ザカエーフとウマーロフ)
      下院選挙(07年12月)・共和国選挙(08年3月)における混乱
         【下院選】①以前の世論調査と矛盾する驚異的投票率(98.4%)
                 得票率(統一ロシア98.72%)
               ②「投票していない」と主張する9万人声明
 
    一方で、チェチェンでの ロシア軍による取締りを逃れて、イスラーム過激派がイングーシ
   に拠点を移しているとされるなど、イングーシ共和国では北カフカス地域の情勢不安
   に伴う緊張状態が続いている。
                    イングーシ(黄色) 
         北オセチア(薄緑色) http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/96/Ingush03.png/357px-Ingush03.png チェチェン(紫色)
                        グルジア(赤色)
 
 
      2008年10月 ユヌス=ベク・エフクロフ 大統領
      2009年  6月  大統領、自爆攻撃で重傷
             ・ 北コーカサス イングーシ共和国の現状 - YouTube
               ・  イングーシ共和国:ロシアの新たな火薬庫に
                                       (1)   http://www.youtube.com/watch?v=JrbitVN9Xy0
                   (2)    http://www.youtube.com/watch?v=SMSR50K8XMs
                                ・ カフカス "血塗られた発火点"
                      http://www.youtube.com/watch?v=o5z51I04y38
 
 
 
     b.チェチェン共和国
      チェチェンは他称で、チェチェン語による自称は ノフチーНохчийである
 
    首都: グロズヌイ 
    人口: 約110万人(2002)   
     北カフカース先住民族の一つのチェチェン人が住民の多数を占める(↓)。
   
RANK民族名人口比率%
総数2002年10月国勢調査1,103,686100.00
1チェチェン1,031,64793.47
2ロシア40,6453.68
3クムイク8,8830.80
4アヴァール4,1330.37
5ノガイ3,5720.32
6イングーシ2,9140.26
7タタール2,1340.19
8トルコ1,6620.15
9ウクライナ8290.08
10ダルギン6960.06
-その他の諸民族、民族不明6,5710.60
 
 
    ロシアの憲法上では  ロシア連邦を構成する連邦構成主体の一つだが、
  ソ連邦解体後、ロシア連邦政府 及び ロシア連邦への残留を主張するチェチェン人勢力
  と、チェチェン・イチケリア共和国カフカース首長国を自称するチェチェンの独立を求める
  武装勢力との間で対立が続き、2度のチェチェン紛争と独立派の テロリズム が 度々
  発生している。
 
 
       チェチェン人とイングーシ人両民族の言語(チェチェン語イングーシ語)は、グルジア語など
  と同じ コーカサス諸語のうちの ナフ諸語に属する兄弟言語である。
 
 
 
  (今に至る 歴史的背景
   16世紀末頃から 東のダゲスタンより イスラームが流入した。 
       ・・・
   1783年 ギオルギエフスク条約で、グルジア東部が ロシア帝国の保護領となる。
  侵攻して町を焼き払う
                 World Navigator(世界地図と歴史情報)ガージャール朝
   1796年夏 ロシア、グルジア遠征軍を起こしたが、エカチェリーナ2世の死去、中止。
   アーガー・モハンマド・シャーは 翌年春、ブハラ 遠征に代えて グルジア安定のため
   テヘランを出発したが、その途上 6月、暗殺される。
      グルジア問題は 以降 ガージャール朝歴代の懸案として ロシアとの対立をもたらし、
  やがて ロシア・ペルシア戦争第一次 1804-13第二次 1826-28)を招くことになる。
 
   1798年 グルジア王 Erekle IIの死後 内戦が起り、ロシアに調停を求める。
   1801年1月 ロシア皇帝パーヴェル1世1754〜1801 3月暗殺)、保護領 カルトリ・カヘティ
  のロシア併合に調印し、9月アレクサンドル1世が実施した。
 
      1812年 ナポレオン・ボナパルトロシア遠征によって ヨーロッパ情勢の急激な展開し
     とりわけ ティルジット条約が瓦解、 イギリスとロシアの接近を背景に、イギリスの仲介で
   ゴレスターン条約1813年9月調印)が締結され、ガージャール朝は グルジア  バクー など
   アゼルバイジャン北半を失った。
 
   ロシアは カフカスを完全に掌握する為に、コーカサス戦争1817-64)を開始。
  カフカズ西部での ロシアの活動を黙認した オスマン帝国との間に オスマン・イラン戦争
   の戦端が開かれ、ギリシャ独立戦争1821-29)に忙殺される オスマン帝国を圧倒
  して、カジャール朝は 一時 バグダードを落とす勢いだったが、これも イギリスの介入
  があり、1823エルズルム条約で終結した。
 
       1818年 ロシアは、チェチニアの真っ只中に グロズナヤ要塞(現グロズヌイ)を建設し、
  チェチニヤ支配を進めようとしたが、
   1825年 デカブリストの乱、30年 11月蜂起。 
   30年 イスラム神秘主義ナクシュバンディー教団イマーム国を建国。軍事・政治制度
  を整備して 25年にわたって ロシア帝国に対抗する。
 
   1828年までに オスマン帝国領アジャリアグルジア南西部)を除く カフカスのほとんど
  全域が ロシアの支配下に入るが、その中で 北カフカスにあって ロシア支配に対して
  激しく抵抗したのが、チェチェン人を始めとする、ダゲスタン と チェチニア現在のダゲスタン
  西部からチェチェン共和国にかけての一帯)の人々であった。
 
     1834年には内部分裂して イマーム宗教指導者)が暗殺され、新イマームに シャミール
  が就任したが、クリミア戦争後の1859年に降伏、チェチニヤ と ダゲスタンは 最終的に
  ロシア帝国に併合された。
 
   チェチェン人は 19世紀前半までに イスラム教のスンナ派が支配的な宗教となり、
  ナクシュバンディー教団の導師たちが 社会の指導的な地位につくようになっていた。
  チェチェニアやダゲスタンの人々は、このようなイスラム神秘主義教団の組織力と結束
  に支えられて、ロシアに対する抵抗を頑強に続けた。この運動を ミュリディズムという。
 
   南カフカスのティフリス( 現トビリシ )に カフカス総督府を置いて カフカスへの支配を強めた
  ロシアは、カフカスの諸民族が 再び結集して ロシアに抵抗することを恐れ、
  チェチェン人と、イングーシ人やチェルケス人など 他のムスリム主体の民族を分割して統治
  する政策を行った。
 
     1850年代に 石油が発見された。
     1860年、ロシア帝国は、テレク州ウラジカフカス)を中心に 帝国の支配機構を導入し、
  チェチェン管区、イケチェリア管区、イングーシ管区、山岳地域管区(シャミールのイマーム国家の
   故地、タゲスタンのこと)を置いた。
   一方、併合後も チェチェン人はナクシュバンディー教団を中心に結集し、ロシアへの抵抗
  を繰り返した。一部のチェチェン人は ロシアの支配を逃れて オスマン帝国に移住し、
  その子孫は トルコ ヨルダン に離散共同体を形成している。
       しかし、チェチェン人の抵抗にもかかわらず、ロシアのカフカス支配強化は進み、
   1890年代には グロズヌイまで ウラジカフカス鉄道が敷設されて、グロズヌイを中心に
  チェチニヤでは石油産業が発達した。

 
  
                          (つづく)

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