|
1−2−2 のつづき
1−2 北コーカサス(北カフカス)
1.ダゲスタン共和国 (続2)
主要民族
C.テュルク系民族。
テュルク諸語の北西語群(キプチャク語群)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Caucasus-ethnic_ja.svg/516px-Caucasus-ethnic_ja.svg.png
ダゲスタン共和国は、チェチェンとカスピ海に囲まれた グルジアより 一回り小さい位
の地域だが、カスピ海沿岸にある首都マハチカラ( 丁度 共和国の真ん中辺にある)を
境に 山岳地帯と低地地帯に分かれる。
北部 1/3が カスピ海沿岸の低地、テレク=クマ低地。南部 2/3 が大カフカス山脈
南部の山地で 「内ダゲスタン」 と呼ばれる。 南端、アゼルバイジャン国境近くの
ラグダン山付近が、ロシア連邦領最南部。領域内の最高点は、大カフカス山脈の
バサルリュジュ山(4466m)。
主要河川は チェチェン共和国を流れてきた テレク川、スラーク川、サムール川などが
分かれて 沖積平地を作りながら カスピ海に注いでいる。他に、大カフカス山脈
から流出する大小の河川が多数ある。
低地地方の住民 (ノガイ人、クムイク人など) と山岳地方の住民との対立がある。
クムク語を話す。
話者は、ダゲスタンの北部平野部の都市(ハマチカラなど)を主に、チェチェン や
北オセチアに 約42万2000人(2002)。
※ 英語Wikipediaでは 50万人、ダゲスタン人口の14.2% としている。
彼らは、8世紀 その繁栄期に この地に定住したハザール の末裔ではないか
と考える歴史家もあるという。
ハザール・カガン国の版図 (650年頃が赤、750年頃が橙、850年頃が薄い橙)
しかし、英文wikiでは、
The Russians built forts in their territory in 1559 and under Peter I.
(ロシア人は、1559年 ピーター1世治下で 彼らの領土に砦を築いた )
というのは、オカシイ。ピーター 1世が この世にあったのは 1672 - 1725 だからである。
おそらく、イヴァン4世(1530-84)の間違いではなかろうか?
イスラームに対する聖戦として支持された。当初 傀儡を立てた間接統治を目指す
が失敗、1552年10月 カザンを攻めて陥落させた。しかし 残存勢力の反乱は長引き
、1557年まで アレクサンドル・ゴルバーチイ=シュイスキーによる鎮圧は続いている。
1556年には、カスピ海の西北岸に位置するアストラハン・ハン国を併合。
とある。
話者数の多いことから、また言語学的支配が地理的に国の中央部分
に当たる位置を占めていたことからも、何世紀もの間 クムク語は ダゲスタン
の 共通語の一つであった。 しかし 20世紀後半、異なる民族間の相互理解
の言語としてロシア語がそれに取って代わった。
さらに同時期、山間部のダゲスタン民族の平原 (伝統的にクムク人によって
占められていた) への移住により、その出身地テリトリーで クムク語話者
の占める割合は、目に見えて減少した。
ロシア語に取って代わられるまでは、クムク語やアラビア語が この地方の
商業言語であった。
19世紀から クムク語に アラビア語アルファベットでの筆記が取り入れられた。
1927〜37 にはラテン文字で、1937からは キリル文字で表記。
ダゲスタンの クムク語が話されている地方では、クムク語が教えられている学校
もあるが、それは 一般ではない。ロシア語しか使われない教育施設もある。
クムク人の歌とダンス
Юлдуз Валиева - Друзья
Альбина Казакмурзаева. Концерт 2013.
・ノガイ人
ノガイ語を話す。
話者は、ダゲスタンはじめ、スタヴロポリ、カラチャイ・チェルケス共和国に 9万人。
Wikipediaによると、
1989年時点でのノガイ族は 7万余。その約半は、ダゲスタン共和国北部
の テレク川・クマ川間の地域に居住している。
かつて キプチャク・ハン国を構成した遊牧民族の末裔とされ、テュルク系では
クミク族に次ぐ規模のグループで、現在、そのほとんどは 牧畜や農耕を
主とした生活を営んでいる。
16世紀から ノガイに アラビア語を使用した文語を教える運動が行われ、
18世紀より ノガイ語を アラビア語で表記していたが、1928年からラテン文字、
1938年以降はキリル文字で表記している。
現在の文語は、カラ・ノガイ方言が元になっている。
が建国された。 ノガイ族は この国家を構成する主要民族で、ヤイク川
(現ウラル川)下流の主都サライジュクを拠点に アラル海、カスピ海において
商業活動を活発におこなっていた。
16世紀後半、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国が滅亡すると、
その後、1634年のカルムイク族侵攻に伴い ヴォルガ川南方へと移住した。
18世紀末から19世紀にかけて ロシア帝国の支配下に置かれ、一部は
チェルケス人虐殺後に行なわれた ムスリム住民の人口移動で、トルコやルーマニア
へと移住させられた。
19世紀に、アストラハン、クリミアのノガイは、ヴォルガ・タタール人に同化した。
1917年のロシア革命までは 遊牧的な生活を送っていたが、以降 ほとんど
が定住している。
北カフカースの ノガイは、カラ・ノガイ(ダゲスタン共和国)、アチクラク・ノガイ(スタヴロポリ
地方、チェチェン共和国)、クバン(アク)・ノガイ(カラチャイ・チェルケス共和国)の3グループ
に分かれ、それぞれで 差異の大きい方言が話されている。 グループは
内部で さらに いくつかの部族に分かれ、いずれも結束が強い。
ノガイ人の日常風景
歌
Dombra // Nogay Türkleri
NOGAYLAR -Nogay Türkleri-Arslanbek Sultanbekov
NOGAY TÜRKLERİ
◇ ◇ ◇ ◇
近代化の罪悪 〜ロシア版〜
アラル海において
1960年代には世界4位、琵琶湖の100倍の面積を誇った湖が、綿花栽培などの
灌漑用水に大量の水を使用したため急激に水位が減り続け、ついには8割以上が
干上がってしまった。
冷戦真っただ中の旧ソ連のスターリン時代は、西側諸国に頼らない生産力を得ること、
社会主義の素晴らしさを喧伝することなどを理由に、「自然改造計画」として運河・水路の
建設が推進された。
かって 何世代にもわたり 民族を超えて 享受してきた 自然の恵みを、
一世代も経たないうちに荒廃させる この環境破壊は、
ただ ソビエト・ロシア特有のものだろうか?
科学技術を利用する 国々・民族が、大なり小なり 形を変えて 皆
この破壊を為しているのではないか?
――― 足尾、ヒロシマ・ナガサキ、ミナマタ、・・・、そして フクシマ。
STAP細胞だとか iPS細胞だとか、今 マスコミは 大騒ぎだが、
そもそも 人間は、自ら作り出した科学・技術を うまく使いこなすことが
できるのか否かという 検証を抜きに、3.11以前と同じく 夢ばかり追う、
所謂 科学・技術の崇拝or暴走は もう いい加減にしなくてはならない。
合掌
2013.11.28
(未完成)
|
文明 或は 帝国
[ リスト | 詳細 ]
|
1−2−1 のつづき
1−2 北コーカサス(北カフカス)
1.ダゲスタン共和国 (続)
主要民族
b.ダルギン人 共和国内の人口:429,347人(2002)
北東コーカサス語族 ダルギン語族 ダルギン語(ダルグワ語)を話す。
ダルギン語は ダゲスタンの公用語で、表記は キリル文字。
ダルギン語は、ダゲスタン国内でも 異なる方言 (17以上) を含む六つの
方言群に分かれている。
他に カルムイク共和国に 7,188人、ハンティ・マンシ自治管区に 1,620人 、
チェチェン共和国に 680人、ロシアの他の地域に 100人以上の話者がいる。
ルーツを持つ カルムイク人により チベット仏教が信奉されており、
ヨーロッパ唯一の仏教国。
ダルギン人は、古代Aghuània王国( ロ-マ人にとってのコーカサスのアルバニア )に
属していた民族の一つで、ダゲスタンの村のなかでも、歴史的に 最も ロシア
の抑圧に対抗してきた。
チェチェン紛争 が始まって チェチェンーダゲスタン国境が不安定になったため、
ダルギン人に 自衛のための武装集団の創設を認めて以来、ダゲスタンの主な
民族は 各々の武装組織を持つようになった。
また、既存のイスラム教組織の体制翼賛的傾向や腐敗が原因で、ワッハービズム
が南部(山岳地帯)の諸民族に浸透し、北コーカサスでの ワッハービズムの「巣」に
なっている。
地名の場所は、 エルブルス山(5,642m) ☜ 地図
からご覧ください。
・・・ 空港から首都のマハチカラに行く脇道に カスピースク市がある。50人以上の犠牲者を
出した昨年5月9日の爆弾テロ現場 (戦勝記念日の パレードの予定行路に爆弾が仕掛けられ
ていたが、爆発のタイミングが外れて 将校ではなく 楽隊員を大量殺害してしまった事件 )を
見学する。道路の修復は まだ終わっていないが、慰霊碑は すでに立っている。その現場から
さらに数百m行くと、1996年の爆弾テロで 国境警備隊の集合住宅が まるごと崩れ落ちた
跡地に着く。 国境警備機構が集中する カスピースクは、テロに苦しめられてきた町である。
翌日から早速、ダゲスタンのイスラム指導者や、政府で宗教問題を担当している役人と面談する。
ダゲスタンは、イスラムへの帰依が著しい点では世界でも有数の地域である。現地の宗教指導者
の1人である イリヤス・ハッジ (ハッジとは 「メッカ巡礼を済ませた者」 という意味の敬称だが、
一時は毎年1万5千人近い巡礼者を出していた ダゲスタンでは、余りに 「ハッジ」 が多いため、
この敬称は、事実上、指導的なムスリムにしか使われないようである) が豪語するところでは、
「 ダゲスタンは アラブ諸国よりも 篤くイスラムを信じている 」。その理由として イリヤス・ハッジ
が挙げるのは、情熱的な 北 コーカサス人の性格、スーフィズムが信仰を深める媒体となっている
こと、(シーア派が多い南部の アゼルバイジャン人、ハナフィー学派を信奉する ノガイ人を除けば)
ダゲスタンの諸民族は、スンナ派四大法学派の中でも最も厳格な シャフィー学派に属している
という諸事'情である。
実際、キリスト教やユダヤ教との共存のため 政教分離を強いられる南部を除けば、ダゲスタン中が
イスラム復興で煮えたぎっている。 私は マハチカラのジュマ・メチェーチ (金曜礼拝が行われる
当該市町村の最大モスク) から半km<らいの所に住んでいたが、毎朝4時には 朝のナマーズ
(礼拝) を指揮する祈りのマイク放送の大音響で起こされる。 私にとっては エキゾチックで楽しい
体験だが、現地のロシア人は これでは 確かに逃げ出すだろう。
宗教色が強いインテリだけではなく、民族政策省の幹部職員もアラビア語が読め、東洋学の
素養がある場合が多い。そうでなければ、いわゆる ワッハーブ派との論争に耐えられないので
ある。至る所に アラビア語の看板や道路標識が見られ、村レベルのイマームでも カイロやダマスカス
の大学に数年留学したなどというのはザラである。
社会主義期は、さすがに 村レベルのイマームに そこまで賛沢はさせられなかったので、アラブ
諸国、中央アジア、モスクワなどでの数ヶ月間の講習で イマームの資質を維持していたが、
長期留学を経た若いイマームたちのイスラムやアラビア語に関する知識の深さ.視野の広さは
これとは比べ物にならないそうだ。
ただし、一部地域では イマームの労働市場が飽和状態にあり、アラブ諸国で優れた教育を
受けたことが就職の保障とはならず、若い世代の宗教家にとっては不満の種となっている。
ただし、年配の宗教家から見れば、ハイカラなイスラムの知識はあっても ダゲスタンの伝統イスラム
を知らないのでは困るし、また、長期留学帰りは 潜在的に ワッハーブ派の影響を受けているので
はないかと疑うことにもなる。 今日では、どの若者を 海外留学させるかについて、ムスリム宗務局
は管理を強化しようとしている。
いずれにせよ、熱狂的なムスリムが多いのは驚くほどで、宗教活動家にインタビューすると、
先方の立場・派閥を問わず、たいがい、先方のこちらに対するオルグとなってしまう。
「 イスラムを真剣に学びなさい。そして やがて受け容れなさい 」。 「 43歳にもなって、まだ
イスラムを受け容れていないのか。それは人生の無駄遣い 」。「 さあ、いま ここで イスラムを
受け容れなさい。さあ、いま ここで切ってあげるから。痛くも怖くもないよ 」。「 さあ、イスラムを
受け容れなさい。すぐに 2番目の奥さんを見つけてあげるから 」。
私に住宅と足を提供してくれる同僚のラスールまで、「 おれは お前にアジる気はないよ 」など と言いながら、遠まわしに それっぽいことを言ってくる。 イスラム大学に調査に行けば.若い幹部
たちから、日本で イスラムに関心がある若者を何人か送ってくれ と頼まれる。 断っておくが、
これらは冗談ではない。
概して ムスリムは キリスト教徒よりも人間的で魅力的だが、私がダゲスタンで知り合った
ムスリムたちも すばらしい人たちであった。そのような人たちに オルグされながら、いなさな
ければならないのは辛かった。
10日近く ダゲスタンに滞在したが、世俗化が進んだ南部のデルベント市を除けば、街でミニスカート
やズボンをはいている若い女性を見ることはほとんどなかったし ( マハチカラでさえそうである。
もちろん、怪しげな若い女性が あちこちに現れる夜は別 )、郡部に行けば ほぼ100%の女性
が伝統衣装を着ている。 私が訪問した シャミール (コーカサス戦争の反乱指導者) の生村
である ギムルィ村では、3年ほど前まで、酔っ払いを見つけると モスクに連れてきて笞刑を科し
ていたそうである。「 3年ほど前まで 」というのは、 おそらく、当時の 反 ワッハーブ派・キャンペーン
の中で、過激行動とみなされかねない行動は、少しは慎もうということになったためであろう。
それでも、酒類販売をするような売店は、それが公式の警告を聞き入れない場合には、何者か
によって放火されてしまうそうである。 このような事件が 2件起った結果、村での酒類販売は
おろか、ソヴェト時代に病的なアルコール依存症になってしまった人たちを除けば、飲酒習慣
そのものを根絶することができた。 マハチカラにおいてさえ、若い世代は ほとんど呑まなくなって
しまった。 バーと看板が掲げられている店に入っても、バルチカ7番しか置いてないのには
本当に腹が立つ。
近代的な政教分離の考え方からは 問題があるが、イスラムが 私事ではなく、司法機能や
社会秩序維持機能を果たしていることは 必ずしも悪くない。 極端な例を挙げれば、ダゲスタン
には、いまだに慣習法(アーダ)としての「血の復讐」が機能している村もあるのであり、殺人事件
が起った場合に 遺族を宥めて「血の復讐」に走らないように説得するのは イマームや学者
(アーリム)の重要な役割なのである。
社会主義政権末期に、官製の北コーカサス・ムスリム宗務局からダゲスタン・ムスリム宗務局が
分離独立した。 最初の宗務局長(ムフティー)は クムィク人だったが、数限りない権謀術数を
経て、1990年代中盤までには ダゲスタン・ムスリム宗務局は アヴァール人の支配下に入った。
私の面倒を見てくれた ラスールが クムィク人であるため、やや誇張があるかもしれないが、
クムィク人や アゼルバイジャン人のような チュルク系低地民族にとっては、社会主義革命以後
のダゲスタン史は、次第に アヴァール、ダルギン、レズギンのような コーカサス語系の山岳民族
の, 低地移住と政治権力の独占によって、かつての社会的な ステータスを失ってきた屈辱の歴史
であった。
1940年代から60年代にかけて共和国党第一書記だったアブドウラフマン・ダニヤーロフ
(アヴァール人)は、山岳諸民族に向かって 「 天国に昇りたいなら、低地に下れ」と公言したそう
である。 今日でも、クムイク人やアゼルバイジャン人は、山岳系の諸民族を 文化的に劣る、
エチケットを知らない連中として見下す傾向にある (例によって、差別的なアネクドートが山ほどある)。
クムィク人にとっては、世俗権力を マゴメドーアリ・マゴメードフ国家会議議長を頭目とするダルギン人
に握られ、宗教権力を アヴァール人に握られている社会主義体制崩壊後のダゲスタンの状況
は耐え難いものだろう。・・・
今日、アヴァール人以外の宗教指導者の多くは 宗務局の正統性を認めておらず、学者(アーリム)
会議も宗務局系と非宗務局系とに分裂している。 宗務局は、息のかかった郡には、郡イマーム
なるものを任命している。 この郡イマームは、村イマームを任命する (宗務局に敵対している
クムィク諸郡と南部諸郡では、これは実現不可能)。・・・
1990年代においては、このような民族主義とセクト主義とによって混沌とした伝統イスラムが、
共産主義崩壊前後から隆盛してきた、サラフィー派 (所謂ワッハーブ派) の攻撃にさらされた
のである。 預言者の時代のイスラムに回帰し、神と信徒との間の媒介者を否定するサラフィー主義
は、スーフィズムの影響が強いダゲスタンの伝統イスラムの神学上の対極に位置するものである。
カラマヒ事件後、ワッハーブ派は ダゲスタンでは非合法化されてしまったが、当時 公開神学論争を
執拗に挑むサラフィー派から 伝統イスラムの側は逃げ回っていたそうである。当時から厳しい対立
関係にあった宗務局派と反宗務局派も、「反ワッハーブ主義」という点では共通していた。
といっても統一戦線を組んだわけではなく、サラフィー派に対する仮借なさを競い合い、それを
もって、伝統イスラム内での自分たちの優越性の証明としようとしたという感じである。・・・
(未完成)
|
|
1−1−3 のつづき
1−2 北コーカサス(北カフカス)
コーカサス地方のうち 大コーカサス山脈より 北に広がる部分で、黒海と カスピ海に
挟まれた山がちな地である。
ヨーロッパ側・ ロシア側から見ると 「 コーカサス山脈のこちら側 」にあたるため、
英語では シスコーカサス(Ciscaucasus)、シスコーカシア(Ciscaucasia)とも呼ばれる。
地理的には、北コーカサスという語は 大コーカサス山脈の北斜面と西端部(ロシア・
グルジア国境のプソウ川より西の、山脈南側も含む)を指す。
コーカサス山脈の北方に広がる 広大な ステップ地帯も 北コーカサスに含まれ、
マヌィチ川により構成される湿地や縁故の多い低地 )とされ、これより 北のステップは
東ヨーロッパ平原に含まれる。
グルジア と アゼルバイジャンの一部が 北コーカサスに属するが、大部分は ロシア連邦領
である( 北カフカース連邦管区、2010年 南部連邦管区より分離 )。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/North_Caucasian_Federal_District_%28numbered%29.svg/400px-North_Caucasian_Federal_District_%28numbered%29.svg.png
行政府所在地は スタヴロポリ地方のピャチゴルスク。
人口: 893万3889人(2002年国勢調査)
内、ロシア民族は、298万8070人(33.45%)
言語や宗教をもった民族集団が入り組んでおり、これが 政治的不安定さにも
繋がっている。
これらの民族の間に、17世紀以降 コサックを先頭にして ロシア帝国が南下を
始め、19世紀には オスマン帝国の影響は排除されて、北コーカサスは ロシア帝国に
併合されたが、 ロシア化に抵抗する諸民族との戦争(コーカサス戦争)は ロシアを
大いに苦しめた。
チェルケス人など 北コーカサスの民族の中には ロシアの支配を逃れて オスマン帝国
へ移住したものも多く、現在も 旧オスマン領 シリアやヨルダン等には 北コーカサス系民族
の末裔が多く住む。
1991年12月のソ連崩壊後、 南コーカサスでは グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアの
各共和国が独立したが、北コーカサスにあった諸々の自治共和国(チェチェン・イングーシ
など)は ロシアからの独立を認められなかった。
北コーカサスで起こり、独立運動組織 コーカサス戦線の他 イスラム原理主義に基づく
も戦闘を続けている。
2010年10月号
・・・ いずれにせよ、二つの民族集団(チェチェン人とチェルケス人)がロシアに対して長く反発
してきたのは事実だ。1860年代 ツァーリは、反乱のやまない地域の人口を減らそうと、
ひしめき合う馬車その他に人々を押し込んで、40万ものチェルケス人を主にオスマン帝国
へと追放する強制移住策をとり、その途上で数千人が命を落とす事件が起きている。
だが結局の所、イスラム諸国同様に、北カフカスの場合も現地における群衆動員と 社会暴力の主要な要因を ナショナリズムに求めるのは無理がある。実際、イングーシ人
は 乱暴な チェチェン人と民族的に近いが、より敬虔で物静かだし、イデオロギーやナショナリズム
志向は弱いと考えられてきた。 だが、そのイングーシが 今や この地域でもっとも危険
な共和国と化している。
似たような不満を抱きつつも、ソビエトの崩壊を前に各民族集団は異なる反応をみせた。 チェルケス人は状況を静観したが、チェチェン人は 銃を手に独立を目指した。近年、
チェルケス人のナショナリズムは高まりをみせているが、その目的は分離独立を目指す
ことでもなければ、武器に頼ることでもない。むしろ、チェルケス人のナショナリズムは、
「ロシア人は征服の途上でチェルケス人を大量虐殺した」と考えていることに派生して
いる。
チェルケス人とチェルケス人ディアスポラの多くは、この事実が国際的に忘れ去られて いると考えている。
2014年に冬季オリンピックが開催されるのは、ロシアとの攻防戦でツァーリの軍隊 との最後の戦闘が戦われた黒海沿岸の港町・ソチにおいてだ。チェルケスのナショナリスト
たちは、オリンピック開催を利用して、この歴史問題への世界の関心と認識を高めたい
と考えている。・・・
2011.03.13
2014.1.15
1.ダゲスタン共和国
面積: 50,300km2 人口: 2,576,531人(2002)
首都:マハチカラ、
国名は トルコ語で山を意味する"dağ"に、ペルシャ語の地名の接尾辞"-stān"
(スターン)が付いて、「山が多い場所」を意味する。
山岳地帯が 人々の自由な行き来を妨げたため、非常に多様な民族が混在し
今でも部族的な生活を送っている。 住民のほとんどは ムスリム。
主要民族 (人口割合)
・クムイク人(12%)、 ノガイ人(8%) (以上 テュルク系民族)
・アゼルバイジャン人(4%)、ロシア人(3.2%)
コーカサス諸語(カフカース諸語)
に属する約40種の言語の総称。
この3つの語族が 一語族を成すかどうかは 古くから論じられてきたが、
未だ結論を見ていない。しかし、北東コーカサス語族と北西コーカサス語族との間
には、系統的な関係があるとする見方が有力。
とも類縁関係が見られない孤立した言語で、話者は 約500〜600万人
( 内 グルジア語が約400万人)。
それぞれの民族集団は、自らの民族の利害を第一義的に考えており、
それを守るためなら、武器を手にして戦うことをためらわない。このため、
全てのグループが武装している。
北コーカサス の武力衝突の大部分は 現在、ダゲスタンで発生している。ロシア
の人権団体がまとめた、2012年4-6月の この地域での紛争の犠牲者総数
は約360名、ダゲスタンの犠牲者が半数を超す。これらの犠牲者には、ロシア側
の治安部隊、対抗する イスラーム武装集団の参加者、戦闘に巻き込まれた
一般住民が含まれる。
レスギン人は、ソ連時代 ダゲスタン南部とアゼルバイジャン北部に居住して
いたが、アゼルバイジャンの独立で 居住地を分断された。彼らは 公然と
分離独立して 自らの共和国を樹立する思惑を語っている。
アゼルバイジャンの急進的な レスギン人は、独立闘争を行い、地域組織「サドワル」 を結成している。
ダゲスタン共和国で自爆テロ | ロシアNOW 2012年8月29日
ロシア南部のダゲスタン共和国で28日、多くの住民にイスラム教の指導者として
あがめられ、1万人以上の信者を抱えていた サイード・アファンジ・アリ・チルカウィ師
(74)が、自爆テロの攻撃を受け即死した。このテロは、イスラム教の異なる宗派の間
で進められていた和解を、妨害しようとして行われたとの説もある。アリ・チルカウィ師
は積極的に和解の必要性を主張していた。 ・・・
ダゲスタン出身のリズバン・クルバノフ下院(国家会議)議員は、哀悼の意を表した。
「 アリ・チルカウィ師は、共和国に住む多くの人にとって精神的指導者だった。この死
は恐ろしく、取り返しのつかない損失だ」。
クルバノフ議員によると、師は議員との会話のなかで次のように語っていたという。
「 もし 私の家に、私を殺そうと誰かが侵入してきても騒ぎはしない。私がその人間の
血に対して、あの世で責任を負うわけではない。その人間が私の血に対して責めを
負うのだから 」。
また師は、自爆テロの犯人たちについて、こう述べていたという。「そのような人々は、
天国に行けると思っているが、天国の果てにだって近寄ることはできないし、その芳香
すら感じることはできない 」。・・・
連続爆発で16人負傷 ロシア南部ダゲスタン - 産経ニュース 2014年1月18日
ロシア南部ダゲスタン共和国の首都 マハチカラで17日、レストラン2階と近くで
駐車中の車の2カ所で 連続爆発があり、警察官を含む16人が負傷した。同共和国
は ソチ冬季五輪の妨害を宣言したイスラム過激派の活動拠点。ロシア治安当局者
は 地元犯罪グループ間の抗争が背景とみられるとしている。ロシア通信などが報じた。
レストランの2階で 何者かが手榴弾のようなものを投げつけて最初の爆発が発生。
警察官が駆けつけた約15分後には、レストラン前に止まっていた車が爆発した。
同共和国の当局者によると、今月27日に予定されている同共和国内でのソチ五輪
の聖火リレー計画は 当初予定より 大幅縮小され、中部の都市 カスピースク のサッカー場内
だけで行う考えを明らかにしている。(共同) a.アヴァール人
人口 約104万人(2002)
内 ロシア連邦 81万5千人。大部分は ダゲスタン共和国の山間部に住む。
グルジア、トルコにも住む。
5世紀カフカースに建国されたキリスト教国サリル(5C-12C)が現代アヴァール人
の先祖と伝えられる(サーサーン朝ペルシアにより創設されたともいう)。
7世紀 ハザール とイスラム帝国との戦いでは ハザール側についたが、
9世紀には グルジアなど近隣のキリスト教国と結びハザールと争った。
今も 10世紀の教会遺跡が残っている。
12世紀初頭 サリル滅亡。
13世紀 イスラームを奉ずる アヴァール・ハン国が成立、北のキプチャク・ハン国と同盟
して栄えた。
アヴァール・ハン国は 19世紀まで続いたが、ロシアの南下政策で アヴァール人や
1864年 ロシアによる コーカサス征服完了。
(シャミール投降後、西部ではなおも コーカサスの先住民チェルケス人が抵抗運動を続け、
チェルケス人虐殺が行われた。さらに戦後、西部のムスリム住民を中心にオスマン帝国
への人口移動が行われた)
アヴァール人の一部は トルコへ逃れ 人口は減ったが、その後も ダゲスタンの
主要民族であり続けた。
第二次大戦後は 山間部からカスピ海沿岸に移住する人が多くなった。
⋆ シャミール(1797 - 1871)は、今も北カフカースのムスリムの尊敬を集めており、
現在も続く ロシアの支配に対する抵抗運動の精神的な支柱となっている。
平成24年4月10日
(つづく)
|
|
1−1−2 のつづき
1-1 南コーカサス(ザカフカジエ、トランスコーカシア)
a.少数民族の 国境をまたいだ言語
シベリアに至る広大な地域で話される。
本来 テュルク諸語を話す人々は 中央アジア・モンゴル高原から シベリアの辺り
とは 幾つかの言語の特徴を共有しており、テュルク諸語と合せて アルタイ諸語
と言われる。アルタイ諸語の相互の系統関係は 不明。
※ 日本語と同じく、目的語や述語に助詞や活用語尾が付着する膠着語で、
母音調和を行うことを特徴とする。
文の語順も 基本的に日本語に近く 主語‐目的語‐述語になる言語が多い。
日本語と朝鮮語の2つもアルタイ諸語に含めることがある。 ただ、その近縁性は
たしかに認められたとまでは言えず、定説には至っていない。
上記特徴のうち、母音調和だけは 日本語と朝鮮語が欠いているものだが、朝鮮語
については過去に明らかな母音調和があったことが知られている。 また、日本語
についても、過去に母音調和を行っていた痕跡が見られるとする主張もある。
テュルク各語群内では 言語間の共通性が大きく、意思疎通は容易である
と言われる。その分布の広大さに比べて 言語間の差異は比較的小さく、
テュルク諸語全体を 一つの言語、「テュルク語」と見なし、各言語を「テュルク語の
方言」とする立場もありうる。
特に 3語群 (オグズ語群、キプチャク語群、カルルク・テュルク語群)の話し手は
イスラム教を受け入れた結果、アラビア語・ペルシア語から多くの語彙を取り入れ
ているため、語彙上の共通性が大きい。
また、政治的経緯から、トルコ語を除く諸言語は ロシア語からの借用語も
非常に多い。
※ 現在のブルガリア語は スラブ化した言語だが、ブルガリア人の先祖である
を話すテュルク系民族だった。なお、経緯は全く異なるが、オスマン帝国支配を受けた
経緯で、ブルガリア語にはトルコ語の語彙も多く取り入れられている。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E7%AA%81%E5%8E%A5%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png/800px-%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E7%AA%81%E5%8E%A5%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png
7世紀初めの東西突厥可汗国
トルコ系遊牧民のうち、アルタイ山脈の西南にいた人々は、初め 柔然に服属していたが、
6世紀の中頃から強大となり、柔然を滅ぼして、モンゴル高原に トルコ人による統一国家
を建てた(突厥 トッケツ、トルコ語のテュルクの音訳)。
※ 突厥以外のトルコ系民族は、中国では 鉄勒と言われた
遊牧国家の君主は ハガン(可汗)の称号を用いるが、柔然の王が初めて用いたとされ、 突厥の君主も この称号を用いた。 突厥の建国は 伊利(イリ)可汗(552〜53)。その3代、木杆(モクカン)可汗(?〜572)の時、
ササン朝のホスロー1世と同盟して エフタル(5〜6Cに中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族)
を滅ぼし(566)、東は 満州から 西は 中央アジアにまたがる大帝国となる。シルク・ロードを
押さえて巨利を得て栄えたが、6世紀末 内紛が起こり、当時 成立したばかりの 隋の文帝
の離間政策にあい、突厥は モンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂 (583)。
東突厥は 隋に朝貢することとなり、その後も 内紛が続いたが、7世紀初めの隋末の混乱
に乗じて、再び勢いを取り戻した。しかし、630年に唐に滅ぼされた。
文字の変遷(言語とその表記が、時代と場所によって異なる)
ソグド文字: 碑文から 佗鉢可汗(在位:572 - 81)時代の突厥の公用語は
古テュルク文字: テュルク諸語最古の文献は、第二可汗国時代の686年から
文字、突厥文字)で書かれた。その他の突厥碑文は、モンゴル高原
の各所に残る。 745年に突厥を滅ぼした ウイグルも古テュルク文字を
受け継いだ。
ウイグル文字: モンゴル高原から中央アジアに移住した後、8世紀にはソグド文字
の公用語となった。
が派生し、さらに モンゴル文字から 満州文字(1599年)が派生した
が、いずれも モンゴル諸語に用いられた。
⋆ アラム系の文字であった ソグド文字の草書体から派生したとみられ、
アラビア文字などと同様に、文字を右から左へ書く。
で テュルク語を書き取るようになり、『クタドゥグ・ビリグ』などの文学作品が
著された。 その後、イスラム教の浸透とともに アラビア文字による表記は
オスマン語が それぞれ アラビア語・ペルシア語の要素を取り入れた典雅な
文章語として発展。
※ カラ・ハン国の時代以降、中央アジアの定住民の多くは もともと話していた
東イラン諸語など インド・イラン語派の言語に代って テュルク諸語に属する
と呼ばれるようになった。また後の 東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)に当る
タリム盆地と その周辺域のイスラム化に関しても 大きな役割を果たした。
最初に イスラム教に改宗した伝説的な君主 サトゥク・ボグラ・ハン(? 〜993)
は トルキスタンの各地で聖者とみなされ、現在に至るまで深く尊崇されている。
カラ・ハン国による イスラム化 と マーワラーアンナフル の征服を通して、サーマーン朝で
アラブ・イスラム文化 と ペルシア文化が結びついて成熟したペルシア・イスラム文化が
流入し すぐれた都市文化が栄え、イラン・中央アジア各地に定着した。
さらに 「カラハン朝トルコ語」と呼ばれる アラビア文字を使って記される テュルク語
の文語が生まれて、テュルク・イスラム文化と呼ぶべき独自の文化を誕生させた。
ラテン文字・キリル文字・アラビア文字:
20世紀に入ると文章語の簡略化が進められ、各地の口語を基礎
しかし、依然として イラン などでは アラビア文字が使用されており、
中国では 一度 ラテン文字化が進められた テュルク系諸言語が1980年代
に アラビア文字表記に戻されたので、現代テュルク諸語を表記する文字
は 大きく分けて 3つ存在することになる。
ソ連崩壊後、旧ソ連のテュルク諸語では キリル文字からラテン文字へ移行
する動きが見られる(アゼルバイジャン語、トルクメン語、ウズベク語など)。
ロシアのタタール語なども ラテン文字への移行を目指しているが、ロシア政府
の介入によって ラテン文字の公的使用は制限されている。 アゼルバイジャンの周辺地図-Yahoo!地図
アゼルバイジャン共和国の公用語。
イラン北西部にも 多くの話者がおり、単に トルコ語とも呼ばれる。
他に、グルジアやアルメニア、イラク北部、トルコ、ロシア連邦内のダゲスタン共和国など
にも話者が分布する。話者総数は 約4000万人。
※ トルクメン語 や トルコ語との 互いの意思疎通は容易。
主に アゼルバイジャン共和国で話される 北部方言(話者数 610万人)と、
イランなどで話される 南部方言(イラン国内話者数 1550万人⋆)に大別され、
それぞれに 多くの下位方言が認められる。
⋆ イラン人口に占めるアゼルバイジャン人の割合は25%を占め、アゼルバイジャン共和国内
のアゼルバイジャン人人口をはるかに上回る。
アゼルバイジャン共和国では 1929年に ラテン文字による表記が導入された。
さらに 1940年以降、キリル文字を元にした正書法に改められたが、1991年に
再び ラテン文字による 新しい正書法が制定され、移行期間を経て 2003年
1月 キリル文字による表記は廃止された。
イランでは 現在も アラビア文字を用いて表記されている。
11世紀以降中央アジアから移住してきた外来のテュルク系民族と土着の
混血したことによって形成され、さらに 14〜15世紀にかけ モンゴル帝国及び
ティムール朝支配の下、言語的・文化的に テュルク化の影響を多く受けて形成
された民族集団。
※ アゼルバイジャン人はクルド人と同様、中東の 複数の地域にまたがって居住
しており、特に イラン国内では、アゼルバイジャン人が ペルシャ人に次ぐ 多数派
(25%)を形成していることから、これまで これらの地域に アゼルバイジャン人
主導の統一国家を樹立する試みが幾度となく行われてきた。
しかしながら、現在の所 イラン国内における アゼルバイジャン人の独立運動は
沈静化し、アゼルバイジャン人の主導する国家は アゼルバイジャン共和国のみと
なっている。
イランのアゼルバイジャン人著名人
・ファラ・パフラヴィー (パフラヴィー朝第2代皇帝 モハンマド・レザー・パフラヴィー
の妻。 なお、初代皇帝 レザー・シャーの妻も アゼルバイジャン系)
・アリー・ハーメネイー(イランの第2代最高指導者)
・ミール・ホセイン・ムーサヴィー(イラン元首相)
16世紀 現在のイラン 及び アゼルバイジャンを中心とした地域を支配したサファヴィー朝
の影響によるもので、ペルシア人において十二イマーム派が多数であるのと同様
の歴史的経緯による。
アゼルバイジャン共和国では、トルコと同様に 長らく世俗主義が推し進められた
結果、世俗化が 国民生活 レベルまで浸透しており、毎日の祈りやラマダンを
はじめとした イスラム教の戒律は 比較的ゆるやかで、飲酒や女性の服装も
自由な傾向にある。
・ 図録イランの民族別人口構成
イランというと ペルシャ人の国というイメージが大きいが、総人口7,000万人に
占めるペルシャ人の割合は約半分とそう多くない。
最大の少数民族は アゼリ人 (自らはトルコ人と呼ぶ) であり、総人口の24%と 約4分の1を占めている(2008)。首都テヘランでは ペルシャ人と 人口をほぼ二分
するという。宗教は イランの国教イスラム教シーア派であり、ペルシャ人とは婚姻
関係を含め融合が進み、政治・経済分野に深く浸透している(毎日新聞2008.5.6)。
シーア派に改宗した トルコ系(テュルク系)民族であるアゼリ人は イラン北のバクー油田 を有する アゼルバイジャン共和国(人口800万人)では 9割の多数派民族となっている。
人口では 独立国家内のアゼリ人より多い イラン国内のアゼリ人との大アゼルバイジャン
主義が唱えられることが多く、石油利権もからみ、かつては ソ連、現在は イランを
牽制しようとする米国が 大アゼルバイジャン主義を バックアップしているが、当の
イラン国内のアゼル人は ペルシャ人と宗派も一つであり、イランの政治経済における
地位も低くないため、これには余り熱心でないという。
大アゼルバイジャン主義が 国内に波及することを懸念するイランは、独立後の アゼルバイジャン共和国が、ナヒチェバン や ナゴルノ・カラバフの領有を巡り アルメニア
と 2年半に及ぶ 「宣戦布告なき全面戦争」 に突入した時、同じイスラム教シーア派
のアゼルバイジャンを支援せず、キリスト教徒のアルメニアを援助した。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/ussr/azerbaijan_sm01.jpg
アゼリ人の地位が高いため やっかむペルシャ人もあり、「 アゼリ人についての ブラックジョークは 際限がないほどだ。 「アゼリ人兵士が パラシュートでの降下訓練
に臨んだ。が、パラシュートが開かない。落下する兵士がつぶやいた。・・・
&nb |
|
1ー1ー1 のつづき
1-1 南コーカサス(ザカフカジエ、トランスコーカシア)
a.少数民族の 国境をまたいだ言語
ロ. インド・ヨーロッパ語族
インド・ヨーロッパ語族の諸言語が、その起源・ 印欧祖語から 分化と
使用地域の拡散が始まったのは、 5,000–6,000年前の黒海・カスピ海北方
(現ウクライナ)とする クルガン仮説と、8000–9500年前のアナトリア(現トルコ)とする
アナトリア仮説がある。
言語的資料が増えた紀元前後の時代には、既に ヨーロッパから アジアまで
この語族の話者は 広く分布していた。
BC18世紀頃 小アジアで興隆した ヒッタイト帝国の残した ヒッタイト語楔形文字
BC1400‐BC1200年頃のものとされる 線文字B で綴られた ミケーネ・ギリシャ語
始って、現在の英独仏露語などの 約3,500年ほどの長い伝統を この語族
はもっている。
これほど地理的・歴史的に豊かなで 変化に富む資料をもつ語族はない。
参考: ヤンガードリアス期(寒冷化)
最終氷期が終わり 温暖化が始まった状態から急激に寒冷化に戻った時期で、
現在から 1万2900〜1万1500年前にかけて北半球の高緯度で起こった。
この変化は 数十年の期間で起きたとされる(約10年間に約7.7℃以上 下降)。
→ BC 9,000年頃 農耕の開始
縄文海進
約19,000年前から 発生した海水面の上昇。縄文時代前期の約6,000年前
にピークを迎え、海面が今より 2〜3m高かったとされる。日本列島の海に面した
平野部は 深くまで 海が入り込んでおり、気候は 現在より 温暖・湿潤で年平均で
1〜2℃気温が高かった。
(それまで、針葉樹林が日本列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸
約1万年前までには これらの大型哺乳動物が ほぼ絶滅した。)
世界的には、海面は 年間1〜2㎝の速度で上昇し、場所によっては上昇は
100mに達した。しかし、この現象が見られるのは氷床から遠い地域だけであり、
氷床のあった北欧などでは、厚さ数1000mに及んだ氷床が解け重みがなくな
って 海面上昇速度以上に 陸地が隆起した。
アルメニアの公用語で、 表記には 独自の アルメニア文字が用いられる。
母語話者: 700万人 ( アルメニア人は 多くが 多くの国々に離散しているため、
アルメニア語話者の総数は ハッキリと つかめていない )
歴史の流れの中で、沢山の語彙を ペルシャ語、次いで ギリシャ語(6世紀)、
トルコ語(11世紀)、フランス語(十字軍の時代から現代まで)、ラテン語(16〜18世紀)、
そして ロシア語(現代)から借用してきた。
特に インド・イラン語派イラン語群 の ペルシャ語からの借用語が多い。
※ BC1世紀 アルメニア高原を中心に 大アルメニア王国を築き繁栄した。
両国の緩衝地帯として 時に 属州となることもあった。
1世紀頃 キリスト教が伝わり(十二使徒聖 タデヴォス、聖 バルトゥロメウス が伝道、
殉教した)、2世紀には アルメニア高地の各地に キリスト教徒が かなりの数に
上った。 301年 世界で 初めて キリスト教を国教とした。 古アルメニア語: 405/406年、アルメニア文字が メスロプ・マシュトツ(361–440)により
創始され、文学、神学、歴史学、詩学、神秘学、叙事詩に 豊かな成果
を残した。
中世アルメニア語(11〜17世紀): トルコ南東部のキリキアに キリキア・アルメニア王国
(1198〜1375) が存在していた。 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/Armenianmeds.gif 現代アルメニア語には、 2つの方言がある。
アルメニア人の共同体で話されている。
西アルメニア語 - キリキア・アルメニア王国時代に形成され始めた キリキア方言
が 時代と伴に変遷して、主に 国外移住した アルメニア人によって
話されている。
※ サーサーン朝ペルシアの支配下に入り、更に アラブの侵攻を受ける
が、9世紀半ばに バグラト朝が興り 独立を回復。
などの侵入が相次いで 国土が荒廃。このため 10世紀に 多くの
アルメニア人が 故国を捨てる。
※ 1636年 オスマン帝国 と サファヴィー朝ペルシア に分割統治され、
第二次ロシア・ペルシア戦争(1826-28)での トルコマンチャーイ条約により、
ペルシア領アルメニアは ロシア領となる。
19世紀後半 オスマン支配の下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、
トルコ民族主義者との対立が激化。20世紀初頭に至るまで 多くの
アルメニア人が虐殺され、生き残ったアルメニア人も 多くは 欧米に移住
するか ロシア領に逃げ込んだ。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/eb/Ethnicturkey1911.jpg/220px-Ethnicturkey1911.jpg
第一次世界大戦前の1911年の地図
小アジア (ASIA MINOR) は 現在のトルコ西部から中部に書かれており、
東部にはアルメニア (ARMENIA) と書かれている。 ⇓
現在のアルメニア-Yahoo!地図
北側に 小コーカサス山脈 と 西側には アルメニア高地が広がり、国土の90%が
標高1000〜3000mの山国で、トルコとの国境を流れるアラス川の左岸に広がる。
見上げる首都エレバンのある アララト盆地(高度は800m以上)。
一万年前から人が居住していたことが考古学的発掘で知られている。
中央部に セヴァン湖(標高1900m、深さ 36〜80mの淡水湖)があり、急流となった
小規模な河川が多い。森林は 国土の15%で、可耕地は 17%、牧草地は 30%、
乾燥不毛地は 18%を占める。
隣国のトルコやイラン同様、地震が多く、1988年に発生した アルメニア地震では
死者 2万5000人。
鉱物資源に富み、鉄鉱石、アルミニュームの原料、最南部で 銅、亜鉛、モリブデンを
産し、南部のシェニーク地方で ウラン鉱床も確認されている。石灰岩は全国に分布。
※ アルメニアは エネルギー資源を産出せず、地域紛争で近隣諸国から孤立している
ことから 国内電力需要の40%以上を老朽化したメツァモール原発に頼っている。
1988年のアルメニア地震後、独立後の1995年まで 6年半 閉鎖されたが、その間
深刻な電力不足に陥った。 この原発は ロシア型加圧水型原子炉440で 格納容器
を持たず、既に 設計寿命を終えており、世界で最も危険な原発(2号機)と言われる。
ロシア型加圧水型原子炉1000を建設中。
トルコ地震で、隣国アルメニアの原発に被害 ? 2011/10/31
※ トルコとは、第一次世界大戦末期 100〜150万人が犠牲になったとされる
アルメニア人虐殺問題を巡って対立しており、アゼルバイジャンとは 一部地域
(ナゴルノ・カラバフ)を巡って 泥沼の対立状態にある。
石油資源の豊富なアゼルバイジャンとの対立には 多くの国防費を要し、国家予算
に占める軍事費の割合は6.5%で世界第8位。
2009年10月 トルコと歴史的な和解を見せるが、いまだ トルコへの敵対心は
強く、本格的な和解まで まだ時間がかかりそうである。
(つづく)
|


