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我々は、これ以上 女川原発に近づくことを諦めて 道を引き返し、女川町の中心地に急いだ。
日も だいぶん 西に傾いてきたが、まだ 今日の宿は決まっていなかった。
牡鹿半島の付け根に 太平洋に面して 日本有数の港町・女川の街があるはずだった。
だが、我々の前には、ひっくり返ったり ボロボロになった コンクリートの建物が 幾つかあるだけ
で、女川港の全域、そして ずっと谷の奥まで 建物の土台だけを残して むき出しの大地があった。
なんだ、 これは!
女川町の空撮 3月19日撮影
女川町立病院(海抜20m?超え) 3月20日
女川町 (女川街道 R398) 〜 町立病院 2011/04/04
女川町立病院から 鷲神浜側の望む
女川町立病院から 第二小学校へ
女川町立病院の周辺地図-Yahoo!ロコ
http://www.nikkei.com/content/pic/20110405/96958A9C93819499E2E7E2E3E78DE2E7E2E6E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2-DSXZZO2619528005042011000000-PN1-6.jpg
ピロティ部分には、瓦礫が積み上がったまま http://www.nikkei.com/content/pic/20110405/96958A9C93819499E2E7E2E3E78DE2E7E2E6E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2-DSXZZO2619529005042011000000-PN1-6.jpg
病院の1階は津波で損傷したため、一般の人は
立ち入り禁止となっていた 津波映像(津波の高さ:17.6m 〜早稲田大学の調査 )
: 町立病院の対岸から
女川町1 津波被害の境目 3月31日
女川高校付近から峠を越え、女川港まで長い坂を下りながら撮影
かなりの距離・勾配の坂だが、海からずっと離れた所まで津波が駆け上った様子が
伺える。
女川町立病院・女川第二小学校・牡鹿半島
※ 女川町立病院公設民営に 三陸河北新報 2011年8月3日
女川町立病院(斎藤充院長)は10月1日、公設民営に移行すると同時に、一般病床数
を大幅に削減し、介護施設と一体的に運営する「女川町地域医療センター」に再編される。
2日の町議会臨時会で、安住宣孝町長が明らかにした。
女川原発に反対して40年‐高野博女川町議に聞く
2011年4月17日、避難所女川総合運動公園にて
空間放射線線量率の測定結果 女川町
女川町 年齢階級別人口構成 昭和40年( 18,080 人)と平成22年( 10,051人)
2012/6/30現在: 8,189 人 (世帯数: 3,409 )
被害状況 (2012/06/08現在)
・ 直接死; 577人 、関連死: 18人、 行方不明: 327人
・ 家屋全壊:2923棟、 半壊:347棟、 一部損壊:662棟
非住宅被害: 1624棟 火災:5件
まだ瓦礫が 幾分 残っている女川港の周りを ゆっくり 自動車で廻る。 舗装道路は津波前の
ものだろうか、 スピードを出しては走れない。 海の水は、港の岸とすれすれのところにある。
瓦礫の仮置き場は、街はずれに高い塀で囲われていた。
もう夕方になったので、今日の宿を見つけなくてはならない。 これほどの被害を受けた女川で
宿を見つけるということは思いもよらないことで、 我々は 女川から引き返すことにした。
高台に 立派な建物があった。あれは何だろうと思いながら進むと、右手に自動販売機と精米機
があり、その傍らの坂道の上に 津波を免れた家々が見えた。
ここで、しばらく休憩することにする。 Aは 車の中で 携帯で しきりと宿を探していた。
Bは 坂道を上がって行って、津波を免れたらしい家の人に いろいろ話を聞いていた。
私は、その途中に 小さな木造の店の並びを見つけた。 そこの小物を売る店の若い店員に
当時の様子を聞いた。 ‘ どこまで 水が来たのか? ’ 彼女は 今日の店仕舞いをしていたが、
右上の方を指さし、‘ あの家の石垣の上まで 波がきました。 町全体の様子が見られるのは、
町立医療センター(町立病院)に行ってみられるといいですよ。 ’と 教えてくれた。
この店の並びには コンテナを改造した 「うどん屋」や「飲み屋」があった。
車に帰ると、 Aが ‘ 宿が なかなか決まらない ’ と言う。 どこも満員のようだ。
‘ 松島のホテルでもいいか? ちょっと高いが・・・ ’ ‘ 良いだろう。 申し込みしてみてくれ ’
‘ OK、 受け付けてくれた。 ’
Bが帰ってきた。 ‘ 女川に民宿があるそうだ ’と。 ‘ もう、決めてしまったよ ’
私:‘ 津波に呑まれた女川のことがよく分かる所があるそうだ。 ちょっと引き返してみよう。 ’
我々は、あの高台の立派な建物への道を上がって行った。
玄関の中に入ると 傍に受付があった。 若い事務員が出てきて、話をしてくれた。
‘ 波は ここまで来たんですよ ’ と、玄関を出て すぐの大きな柱を指さしながら言った。
2mほどの所に、津波が到達した地点の印をしていた。
‘ 当時、津波から逃げてきた人たちが、あの駐車場の向こうで 津波を見ていたんですが、波が
病院の裏手から回り込んで一階を突き抜けて、人々をさらっていったんです。車の中にいた人は
車ごと 波に呑まれてしまったんです。 二階から 早く上に上がれ と叫んだそうですが、車の
中で 音楽を聴いていたのか、まったく聞こえなかったようです。 ’
彼は、牡鹿半島で罹災し、しばらく避難生活をした後、人手が足りないということで、この病院で
働くようになった。 当時は、寒くて 薬も 食料もなく、低体温症で 何人もなくなったという。
‘ 下の街には住んでもいいことになりましたが、誰も住もうという人がいません。山を切り崩して
高台移転の町の計画がありますが、中々進んでいません。 仮設生活が ずっと続いています。’
しかし、牡鹿半島の方では 高台移転が進捗しているという。 ‘ 人口が少ないからでしょう ’
と、彼は言っていたが・・・?
外にいると 寒くなってきた。 我々は いとまを告げて、病院を後にした。
闇も迫ってきたし、これから 松島の宿まで帰らなくてはならない。 お腹も減ってきたので、
先の コンテナを改造した「うどん屋」で 食事をして行こうということになった。
もう、だいぶ 闇が迫っていた。 精米機の前の空き地に車を入れると、前後に この精米機を
使うため 車が入っては出て行った。 風が冷たく 服を着込んで 車を後にした。
「うどん屋」は すでに店を閉めており、前の「飲み屋」で食事ができるとのことで、こちらに入った。 Aは 酒を頼んだ。 Bと私は それぞれ食事を頼む。 大きな器で 量もたくさん盛られていた。
店の厨房の人達や カウンター の女性は、被災者だった。 彼らは 寡黙で 淡々と仕事をしていた。
近所の人や ボランティアの若い男女が、狭い店内で それぞれに大きな声で喋っていた。
いつの間にか、ストーブがついていた。
(つづく)
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罹災地を訪ねて
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女川(オナガワ)原子力発電所 http://img.47news.jp/PN/201103/PN2011032701000478.-.-.CI0003.jpg
東北電力が 女川を原発候補地と正式に発表したのは1967年だった。
1969年,北側の雄勝町の漁協を中心に反対運動が起こった。 雄勝・女川・牡鹿の三町の
反対派漁民は 「女川原子力発電所設置反対三町期成同盟会」 を結成し,地元の女川町漁協
も足並みをそろえて 反対ののろしを上げた。
近隣の地域の激しい反対運動により,女川原発建設着工は 10年遅延した。1978年,当初
認めなかった女川漁協は ついに同意に応じた。 続いて,翌年,隣接する牡鹿町寄磯浜の寄磯
・前浜漁協も 原発建設を認めるようになった。 ようやく 女川原発は 建設に着工した。
5年後の1984年に第一号機の営業運転を開始した。 地元住民の反対意見も 電力会社の
積極的な経済支援の包囲網に 腰砕けになっていった。
牡鹿半島の過疎,高齢化,少子化の問題に苦しむ地域は,財政豊かな女川町に合併される
ことを願うように変わっていった。 しかし,2005年に雄勝町に併合され,石巻市に統合されて
いった。
2011年3月11日,震度計は震度6弱を観測。 1〜3号機とも自動停止(14時46分)。
その後 1号機タービン建屋地下1階で 火災が発生したが, 同日22時55分 鎮火が確認された。
1号機・3号機が通常運転中、2号機が原子炉起動中だった。
1号機:12日 0時58分、2号機:11日 14時46分、3号機:12日 1時17分 それぞれ冷温停止
女川町独自の放射線測定モニターは すぐに使い物にならなくなった。7台あったモニターのうち
4台は 13mの津波で破壊され,3台は 停電で動かなくなった。 住民は,東北電力の発表以外
に自分たちで 放射能測定の術を失った。
@ 869 年の貞観大津波を詳しく調べていた東北電力副社長、平井弥之助は、女川原発
の設計段階で敷地の高さは「 12 mで充分 」とする多数の意見に対して、たった 1人
「 14.8 m 」を主張し、最終的に彼の執念が勝り 14.8 mが採用された。
氏は さらに、引き波による水位低下も見越して、取水路は冷却水が残るよう設計した。
東北電は津波を 最高9・1mと想定。海沿いに斜面を設け、海面から14・8mの高さに
敷地を整備した。
13日,女川原発敷地内で 21μ㏜/時の放射線が検出され 10条通報。
女川原発の原子炉は 地震後すべて自動停止し 冷温停止と呼ばれる安全な状態であったこと
から,保安院は,検出された放射線は 福島第1原発の爆発で放出されたものとした。
* n(ナノ): 10^‐9 nGy=10^‐3μ㏜
1号機 → タービン建屋地下1Fで火災
運転開始 原子炉建屋で燃料プールの水が床にあふれる
: 1984年6月1日 屋外重油タンクが傾いたため、油漏れの恐れ
起動変圧器の故障に伴い、外部からの電源供給が停止したが、
非常用ディーゼル発電機が自動起動
2号機 → 地下3F非管理区域に 原子炉補機冷却水系のB系に浸水し :1995年7月28日 非常用のディーゼル発電機が起動せず。16日までに排水 了
別の系統が稼働し、無事停止した。
原子炉建屋で燃料プールの水が床にあふれる 2006年5月 配管が減肉によって穴が開いているのが確認される
2006年6月7日 保安院、配管肉厚管理の再徹底を求める 2006年7月7日 保安院、原発の品質保証体制が充分機能していないと総点検を指示 2007年10月12日 厚さ 約7.1ミリのステンレス製配管に縦 約11ミリ、横 約9ミリの穴 3号機 → 原子炉建屋で燃料プールの水が床にあふれる :2002年1月30日 2006年7月7日 配管減肉予想による点検のため運転停止 2006年 11月25日 再稼動開始 2015年度までに、プルサーマルを実施する事を目指す 女川原発は 町中心部から海岸沿いの道を25分(約17キロ)進んだところにある。
1984年から運転が始まった。平素,『原発は安全』神話をすり込んできた影響だろう。
3月11日以降,女川の住民は 避難所として,発電所内に逃れることができた。しかし,
原発所内にある体育館に避難している人々に面会することもできない。水産加工業に携わる
女川町の60代の男性は「 町の中心部に向かう道が地震で通れなくなり、ここに避難するしか
なかった。頑丈に作られているから安全たし… 」と話す(産経 2011年3月26日)。
女川町飯子浜地区や小屋取・塚浜地区の住民は,道路寸断のために 町の中心部に行け
ない。 したがって,発電所に行かざるを得なかった。 原発まで 1キロほど手前にある 「女川
原子力PRセンター」 周辺に被災者たちが集まってきた。 PRセンターは 電源が故障し,照明
も暖房もない。「 地域の人が困っているなら 」との渡部孝男所長(58)の決断であった。(読売
2011年5月2日)。 所長は 上部に相談することなく,受入れを決断した。 バスに住民を乗せて,
発電所内の体育館に搬送した。 普段は 社員の集会などに使われる女川原発の敷地内にある
体育館である。「 津波により 孤立した周辺の被災者を人道上の措置として発電所内に受入れ
た。発電所内の避難者数は 最大で,約360名となったそうな。 しかし,報道関係者にゲートを
くぐらせなかった。マスコミ関係者も,片づけなどで 原発と自宅を往復している避難者に話を聞く
のがせいぜいだった。 5月末には 30人程度に減少。 女川町の18人,石巻市の4人の計22人
が 6月6日までの88日間残った。
我々が行ったときは、原発近くの 41号線との交差点の所で、「部外者立ち入り禁止」の看板
があった。 先に進むのを諦めて、交差点の傍らに しばらく車を止めた。
すでに 午後遅くなっていたためか、作業員を乗せた車が 何台も 交差点の手前で 一旦停車
しながら、女川町の方に下って行った。
名振の村民すべてや,周辺の地域の人たちは,老いも若きも反対運動をしていたしるしが
あちらこちらに残っている。
プルサーマル容認 県議会に報告
宮城県歴代幹部が東北電に天下り 原発関連の7人 10/03/08
東日本大震災の記録・女川原発は・・・ - YouTube 2011年5月4日
東北電株主総会 女川原発再稼働に意欲「地元理解へ努力」 - 河北新報 2012年6月27日
女川原発、17メートルの防護壁完成 東北電が公開 - MSN 2012年5月8日
東京電力福島第1原発事故を受けて建設されていた女川原発(宮城県女川町)の防潮堤が
完成し、東北電力は8日、隣接する石巻市の市議団に公開した。女川原発は高台に立地して
おり、海面から防潮堤頂上まで高さ約17メートルの巨大な「防護壁」となった。
防潮堤は高さ約3mで、海面から約14mの敷地に建てられた。全長は約600m。 現在は土と
セメントを混ぜた素材がむき出しのままで、今後、雨水対策などを施す。
市議団は、津波で外部電源が途絶え、非常用ディーゼル発電機の機能も失われた際に、発電所
に電力を供給する大容量電源装置も見学した。
視察を終えた丹野清市議は「 防潮堤など津波対策には、それなりに安心した 」と評価したが、
女川原発の再稼働については「 市民の考え方が重要。まだ先の議論だ 」とくぎを刺した。
(未完成)
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(石巻市 つづき)
☝ 津波罹災域 あり
3・11津波前に日和山に避難した門脇小学校の子供たち
地震のあと日和山に行った家族が撮ったものです。日和山に避難していた門小の子供たち
の様子が写っていました。・・・ まだ下校していなかったお子さんは皆ここに避難でき無事
だったそうです。門脇小学校はその後津波による出火で焼け落ちてしまいますが、この画面
では津波はまだ来てい ません。3時半ごろの画像です。地震で避難なさった方々は、不安
そうですがまだ行動に余裕があります。
地震前の石巻市街 日和山からみた貴重映像
津波前に日和幼稚園を出発するバス
津波はまだ来ていません。 石巻市の海岸沿いの町が呑まれる瞬間の数十分前3時ごろ
の画像です。防災無線もまだのようですが・・津波に呑まれる直前の南浜も三角公園の
フェンス越しに見えます。こ の段階ではまだ「日常」が続いています。
特定非営利活動法人石巻スポーツ振興サポートセンター事務局2階より撮影
石巻市渡波
海から1km圏内に住んでいて、自宅で津波に遭いました。地震当時は地元のイオンで
遊んでいて、家に帰って来た瞬間津波が押し寄せました。動画自体は短めですが、
この後も 水位は上がり続けて、次の日になっても水は引きませんでした。
石巻市住吉町1丁目
よしろう内科より撮影
石巻 日和大橋 2011年4月3日
女川街道 〜渡波小学校前
4/3 石巻 〜 渡波 〜 女川町へ
宮城県石巻市・津波被害 2011年5月3日 牡鹿半島の女川原発に行って見ようということになった。我々は 何かの養殖の浮きの群れを
見ながら万石浦の沿岸を辿って 女川第一小学校の傍らを 右折、女川湾沿いの 曲がりくねった
41号線を進んだ。
途中の浦々は 軒並み 津波に襲われ、 当時は この道は がけ崩れや津波に洗われて
通行不能だったようで、人々は 半島の尾根伝いに作られた220号線、通称コバルトラインを
使ったという。
@ 女川原発 沸騰水型
1号機 52.4万KW <1984 6月 1日> 東芝 2号機 82.5万KW <1995 7月28日> 東芝 3号機 82.5万KW <2002 1月30日> (プルサーマル予定) 東芝/日立 2011/04/16
@ 牡鹿半島の先端は 東南東に 5m30cm移動し、 1m20cmも地盤沈下をした。
津波の高さは 小屋取 13.0m,寄磯浜 25.8m,十八成浜 7.6m,大原浜 7.5mだった。
小屋取と寄磯浜では 浸水高が10m 以上であったものの,家屋が高い場所に位置している
ため,一部の家屋は被害を免れた。 一方,十八成浜と大原浜では浸水高が10m 以下で
あったものの,低平地が小屋取や寄磯浜より広かったため,海沿いの家屋の多くが流出した。
女川町塚浜小屋取
集落は東に向って海に面しており,海岸の北側は漁港,南側は砂浜になっている.防波堤 では目立った被害は見られなかったが,地盤沈下により海水面が漁港内の地盤高に迫って
いた.大きな被害を受けた1933年の昭和三陸津波後に,集落が高台に移転したため,
1960年チリ地震津波ではほとんど被害がなかったという.しかし,今回の津波では家屋が
流出する被害が見られた.
石巻市寄礒浜
集落は 南に向って海に面し,漁港を有している. 小屋取とは対照的に防波堤が大きな被害 を受けていた. さらに,小屋取と同様に地盤沈下により 海水面が漁港内の地盤高に迫って
おり,道路沿いに 多数の土嚢が並べられていた. この集落では,家屋が標高の高い斜面上
に密集しているため,一定の高さ以上にある家屋では 目立った被害が見られなかった.
家屋の連なりは 標高約80mの道路にまで続いており,それぞれの家屋から港や海,対岸の
様子が見渡せるようになっている。
牡鹿半島 谷川小学校1 - YouTube 2011/05/13
海面に浮かぶ家の残骸 - YouTube 2011年3月20日
1896年の第一波の時,鮫浦の津波は3.1m,谷川浜は3.4mで死者1名,住居流出
4戸,家屋全壊2戸の被害だった。 1993年の第二波では,鮫浦で4.8m,大谷川浜で
5.2m,谷川浜が4.8mだった。鮫浦だけで,死者19名,行方不明者17名,負傷者19名,
流出住宅10戸,全壊3戸という被害。谷川浜では,死者24名,行方不明者2名,負傷者22名,
流出家屋31戸の被害だった。
明治と昭和の二度にわたる津波で,村民は高台に移転した。にもかかわらず,3月11日
に襲った津波は情け容赦なかった。海沿いの被害の情景はがれきすら残っていなかった。
鮫浦は人口151人,53戸の集落だった。もっぱらアワビの養殖場であった。行方不明者数
3人が出た。
・・・
定刻になると,宮城県庁の職員は さっさと帰宅してしまうそうな。「後はよろしくね」と阪神間
から出向いている職員にすべてを任せてしまうと耳にはさんだ。
一方,石巻市役所の職員は文字通り,不眠不休で働いている。市長自らも定刻を 大幅に
過ぎていようと,祝日であろうと,復旧,復興に取り組んでいる。・・・
2011年3月14日
東日本大震災で、福島県は14日午前11時すぎ、太平洋沖合で約3mの津波を確認した
と明らかにした。岩手県の大船渡沿岸では、自衛隊が5mの潮位変動を確認。沿岸の自治体
は津波の恐れがあるとして、高所への退避を呼び掛けた。 気象庁は 津波や引き潮を把握して
いないとしている。
宮城県警は 牡鹿半島で 約千人の遺体を発見したと発表。 死者・行方不明者は4500人を
超えた。 発生4日目を迎えた被災地では 水や食料、ガソリンなど物資が大幅に不足しており、
政府は 緊急物資の空輸を始めた。 学校などの各避難所には計約45万人が避難しているが、
収容人数が限界に達しつつある。
また宮城県によると、南三陸町でも 14日までの捜索で 約千人の遺体が見つかった。
牡鹿半島の遺体とは 別という。
菅直人首相は 14日午前、政府の緊急災害対策本部会合で「 1万5千人を超える被災者
を救出した 」と発言。 宮城県は、石巻沖で 海上自衛隊の護衛艦が28人を救助したと発表
したが、各自治体が 行方を把握できない住民は 数万人に上り、安否確認を急いでいる。
首相は、福島第1原発について「 憂慮すべき状況が継続している 」との認識を示した。
警察や消防による遺体収容は壊滅的打撃を受けた現場には近づくことが困難で難航している。
東京電力は14日朝から地域ごとに実施する予定だった計画停電を、需要見込みが想定を
下回ったとして遅らせた。
警察庁の14日午前8時現在のまとめでは、死者は1598人、行方不明者は1720人。他に
仙台市内で200〜300人の遺体が収容できてない。
宮城県南三陸町では 約1万人と連絡が取れていないが、 隣の登米市へ避難している人も
多数いるとの情報もある。 観光庁によると、被災地を訪れている観光客2500人の安否確認
もできていない。
宮城県は 遺体の火葬が追いつかないため、他県に 協力要請することを決めた。
気象庁によると、午前10時2分ごろ、茨城県南部で 震度5弱の地震があった。 宮城 石巻市1万人余に避難勧告 NHKニュース
2012年6月19日
東日本大震災の被災地、宮城県石巻市は台風の接近に備え、午後6時、沿岸部を中心と
した4309世帯、1万359人を対象に避難勧告を出しました。
避難勧告が出されたのは、石巻市の ▽旧北上川河口部の2157世帯、▽蛇田地区の1425
世帯、▽渡波地区の727世帯の合わせて 4309世帯、1万359人が対象です。
石巻市の沿岸部の地域では、東日本大震災の影響で地盤沈下が起きています。 さらに、6月のこの時期は 満潮時の潮位が高くなる「大潮」に当たり、20日午前3時ごろに 満潮を迎えることや、台風の接近で 未明から朝にかけて雨が最も強くなるとみられることから、
石巻市は、大雨や高潮による災害のおそれがあるとして、暗くなる前に避難勧告を出すことに
したものです。
石巻市は 市内11か所に避難所を設け、対象地域の住民に 最寄りの避難所に避難するよう 呼びかけています。 (未完成)
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東北一の大都市・仙台市( 広島市に次いで 11番目に人口が多い )については、
まだまだ 興味深い問題があるようですが、 先を急ぐことにします。
我々の一つの目的だった 東松山市・野蒜でのボランティア活動は、事情でキャンセルとなり、
時間の許す限り 遠くに、できれば 南三陸町まで行こうということになった。
石巻に、さらに 398号線で 女川( オナガワ )に向かって進んだ。
◇石巻市
宮城県石巻市の周辺地図-Yahoo!ロコ
被災状況等 平成24年5月末 現在
直接死 3,230人、 関連死 198人 計3,428人
行方不明 499人 ※ 死者・行方不明者数は 宮城県で最大規模
家屋全壊 22,357、 半壊 11,021、 一部損壊 20,364 火災 23件
※ 人口
2011.3.1 160,394人
2022.5月末 151,931人
・平野部の約30%、中心市街地を含む沿岸域の約73k㎡が浸水し、
被災住家は 全住家数の約7割の53,742棟。
・沿岸域では、工場や事業所をはじめ、学校・病院・総合支所等の公共施設が壊滅的な
被害となり、本市全域でライフラインが停止し、都市としての機能が失われた。
・震災後の最大避難者数は 約50,000人、避難箇所は250か所で、在宅避難者を含めた 最大食料配布人数は約87,000人(平成23年3月 17日時点 )。
・地震に伴う地盤沈下も深刻で、牡鹿地区鮎川の120cm沈下をはじめ、市内の広範囲で
地盤沈下や液状化が発生。
その後も大きな余震は際限なく発生し、4月7日にはマグニチュード 7.1 の最大余震に より震度6弱を記録するなど、甚大な被害がさらに拡大した。
震災復興/石巻市震災復興基本計画 〜石巻市議会(平成23年第4回定例会)
平成23年 12月
石巻市 津波 - YouTube 石巻ガス( 宮城県石巻市明神町2-3-48 )の屋上から撮影
避難した牡鹿総合支所からの映像
石巻日日新聞 (壁新聞):石巻日日新聞は、震災後社屋が水没し、電気が使えない状況に
ありながら、完全に外界と隔絶され情報不足で不安に陥る被災者のために、手書き
で情報をまとめた壁新聞を発行
(12日現在の状況) 石巻災害本部によると、
11日午後 4:00 石巻市役所7階が崩落、 鮎川浜全域が壊滅状態
5:50 門小が全焼、 北村小が倒壊の恐れあり
7:20 航空自衛隊松島基地は滑走路が浸水のため動けず
8:10 天王橋が***
12日午前10:35 内海橋陥落
13日号外
石巻沿岸地区 南浜町・門脇町壊滅、渡波沿岸地区も同様か
女川町・牡鹿地区・雄勝 壊滅状態の模様
東松島地区 赤井地区まで波が到達、床上浸水多数、 13日朝の時点で
水が腰の高さまで達している。住民の話によると大曲地区壊滅。
自衛隊・消防関係をはじめとする救助隊が国の内外から到着。 現在、被災地で
懸命の救助活動を行っている。 一方、避難所では 給水が行われており、わずか
だが、食料も届いている。 市当局は 毛布などが不足しているため、安全に確保
できる市民に協力を呼びかけている。 また、市によると、13日正午現在で 電気
供給は蛇田地区から始まっている。
なお、石巻市立の保育・幼稚園、小中学校は 3月15日(火)まで、市女高・市女商
は、18日(金)まで臨時休校。 15日(火)に予定されている公立高校の合格発表
は、22日以降に延期する。
14日号外
石巻市内の大型店から食料・水・毛布などの提供を受けている他、全国の自治体
から援助物資が 今後届けられる。 石巻市は、総合運動公園に それらを まず
集積、その後 各避難所へ配布する。 また、全国水道協会や他県から 給水車
や飲料水が 石巻市に届けられる。
石巻市は、13日 県を通して 国へ避難者用テント(一千人収容)を要請した。
14日、東内閣副大臣が 石巻入り。 市長らと避難所や被害現場を視察。
14日も、余震とみられる強い揺れが 各地で起きた。 余震に注意
避難所生活は 長期化する可能性がありますので ご協力をお願いします。
東松島地区 東松島市では、避難所79か所を開設。 現在(14日朝)の
総収容人数は 1万3705人。 所在不明者が 407件、人数で、
1千人近い模様。
女川町 10mを超す巨大津波を受けて、高台にある町立病院・女川二小・
女川一中・総合体育館を残し壊滅状態。
現在(14日)、自衛隊を中心に救助活動が開始されている。
・・・
Business Media 誠 2011年04月21日
@ 号外には、 女川原発 および福島第一・第二原発のことが出ていない。
新聞社スタッフはじめ 当地の人々は、女川原発への不安はなかったのだろうか?
放射能測定
集団移転の用地提供 石巻・蛇田地区地権者、市に提案 河北新報 ‘02 6月27日
・・・ 防災集団移転促進事業で住宅用地に活用してもらおうと、宮城県石巻市蛇田地区の
地権者14人が26日、亀山紘市長に所有地計4.7ヘクタールの提供を提案した。 ・・・
「時期とやり方考えて…政治に何言っても無駄」 宮城の被災者
産経新聞 6月26日
東日本大震災からの復興途上にある宮城県石巻市の市民らは、消費増税法案の可決を
複雑な思いで受け入れていた。
同市内の仮設住宅に暮らす会社員、秋山聡美さん(40)は可決を聞き、「 通ったんですね…。 また 家計に負担が増えるのは 目に見えているのですが 」。 秋山さんは 震災で解雇され、
震災後に ようやく就いた会社では、給料が大きく目減りしている。
5歳から10カ月の子供3人を抱え、生活の安定まで切り詰めた暮らしを強いられる。 「 復興政策にしても、増税にしても もうちょっと 時期とやり方を考えてほしい。 私たちが政治に
何を言っても無駄なんですから 」と半ばあきらめ顔だ。
同じ仮設団地に暮らす無職、小松卓二さん(83)は 法案可決をテレビで見守った。年金暮らし の小松さんは「 税を上げなければ 社会保障が成り立たないのならしようがない 」と一言。
着工に向け進展が思わしくない災害公営住宅の説明会チラシを見据え、「 家も何も なくした
私たちは 早く安心して暮らしたいだけ。 しかし、壊してばっかりで表に立たない小沢 (一郎・
前民主党代表) さんは嫌いだ 」と吐き捨てた。 石巻市は22日、防災集団移転促進事業に伴う用地取得で、市街地化を進める新蛇田地区
と、災害公営住宅の建設予定地となっている吉野町、黄金浜両地区の計約43万平方mに
ついて、地権者から買い取ることを決めた。 同市が被災者の移転先の土地を買い取るのは
初めてで、同日の市議会本会議で関連議案を追加提案し、可決された。
市によると、新蛇田地区は地権者135人とすでに合意し、41万3744平方mを22億5224万 円で取得する予定。今秋以降に着工する見通し。
また、この日の本会議は29議案を可決し、閉会。 震災で児童の約7割が死亡・行方不明に なった市立大川小学校の検証事業費(2000万円)については、同小遺族会の合意を得て
から執行する ▽第三者機関設置後も市と同小遺族会の話し合いを継続する−−などを求め
る付帯決議を採択。さらに、議員定数を現行の34議席から4議席減らす条例案も可決。
平成24年
(未完成)
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◇仙台市
被害状況一覧表 (宮城県)
直接死 654人、 関連死 209人、計 863人
行方不明 31人
重症 275人、 軽傷 1994人
家屋全壊 19,817棟、 半壊 107,843棟、 一部損壊 115,571棟
火災 39
宮城県仙台市の周辺地図-Yahoo!ロコ
海辺から約5km程離れた六郷中学校にも津波が押し寄せてきた
三井アウトレットモール仙台港周辺
堤防(防潮堤)の役割を果たして 内陸への浸水をおさえた。 当該区間の法面に駆け上がって
津波から逃れた人も多かった。
住民の間で 東部道路を一時避難場所として指定するよう 15,000人分の署名を集め、宮城県
や東日本高速道路と協議しているさなかの震災だったという。
@ これは、住民生活の視点が いかに住民自身を守りうるか、
また、中央・地方の役人に 或は モノを作る企業には、その仕事をする際 現地住民
の運命は 視野に入らないものであること、 即ち 彼らの仕事の「 公性 」なるものは、
その内実 と その力 との間に乖離のあることを示す好例である。
地盤沈下の状況 (☜ 地図あり)
東北地方太平洋沖地震に伴う地殻変動により、仙台平野の海岸及び平地部において広範な
地盤沈下が発生しています。また、津波により、海岸堤防は全域にわたり全半壊し、海岸沿い
の砂丘も津波による侵食等により部分的に失われた状態となっています。
仙台市の海岸線は、宮城県北部のリアス式海岸に比べ、なだらかな海岸線が多いため、
地形の影響による津波の増幅が少なく、津波の被害の少ない比較的恵まれた地形ということ
ができます。
現在、発生が懸念されている宮城県沖地震では、津波は、地震発生から40〜50分で仙台市
の海岸に到達し、その波高は、最大でも 1m程度の予測となっています。また、歴史的にも、
三陸沿岸に大きな被害をもたらした 1896及び1933年の三陸地震津波、1960年チリ地震津波
のいずれの際にも被害は記録されていません。
しかしながら、1611年三陸沖地震に伴う大津波では、今泉で 50名が水死したとの記録が
残っており、いつまたこのような津波が発生するかもしれません。
津波による危険性が高い地域を災害危険区域に指定しました | 仙台市 平23 12月16日
津波被害の集団移転で住民相談会 仙台市 | 日テレNEWS24 2012年6月26日
東日本大震災の津波被害を受けた仙台市沿岸部住民の集団移転先の申込期限が来月9日 に迫る中、締め切り前に最後となる住民への相談会が 26日から始まった。 集団移転の相談会は 仙台市内3か所で行われ、このうち宮城野区の会場では、相談者が 希望する移転先の申請方法や被災した宅地などの買い取り価格などについて、市の職員に 質問していた。 仙台市は、津波で甚大な被害を受けた沿岸部を「災害危険区域」に指定し、この区域の住民 ら 2471人を 内陸部の別の場所に集団移転させる計画を進めている。 仙台市の相談会は、集団移転先の希望申請が締め切られる前の日の来月8日まで、仙台市
役所、サンピア仙台、高砂証明発行センターで行われる。
東 日 本 大 震 災 (Gibachinamazuのブログ) 放射能情報
測定日(採取日): 平成24年3月7日(水)
1−1 脱水汚泥 単位:Bq/kg 施 設 名 I‐131 Cs‐134 Cs‐137 南蒲生浄化センター(宮城野区蒲生) 不検出 110 150 広瀬川浄化センター(青葉区折立) 不検出 19 17 ※ 仙台市が管理する浄化センターは 全部で5箇所,その内「脱水設備」を有している施設 が上記の2箇所である。(脱水汚泥が発生する施設)
※ 脱水汚泥とは: 下水を処理する際に発生する汚泥を 脱水機で ある程度の水分を 取り除いた汚泥をいう。
※ 測定頻度:毎月1回 ※ 測定分析機関:エヌエス環境 株式会社 ☝ 6月26日現在、最終測定日は 3月7日 5月15、16日 Cs‐134 Cs‐137 ( ㏃/kg )
今泉工場 480 720 混合灰
葛岡工場 890 1300 〃
松森工場 240/630 360/990 焼却灰/集塵灰
5月9〜11日
蒲生仮設焼却炉 44/300 55/480 〃
荒浜仮設焼却炉 42/200 72/320 〃
井土仮設焼却炉 93/310 150/480 〃
教育委員会会議の概要 | 仙台市
※会津若松市: 小・中学校及び幼稚園の測定結果
都市公園の測定結果 0.17〜0.44μ㏜/h
@ 仙台市が このレベルだと無視できない汚染だということになる。 宮城県の建築制限 きょう解除 復興見据え新制限移行 5市町推進地域選択
山元町は危険区域指定へ 河北新報 2011年11月10日
. 宮城県内6市町の市街地を対象にした建築制限が10日、解除される。県が建築基準法84条
に基づく制限をかけたのは 気仙沼市、東松島市、名取市、南三陸町、女川町、山元町。
人口が多く建築主事を置く石巻市は 市の権限で制限をかけることができるため、区域を市独自
で指定した。 制限期間は 災害発生日から最大2ヵ月だったが、震災後に特例法が制定され、
最大8ヵ月まで延長可能になった。
東松島市は 10月31日に全面解除、 5市町が11月10日まで延長した。石巻市は 半島部の 一部( 94ha )で延長したものの、9月11日には 市内3地区 計約449haの建築制限を解除。
翌12日、解除地域を 国の被災市街地復興特別措置法に基づく「被災市街地復興推進地域」
に指定した。
復興推進地域では 2階建て以下、敷地面積300平方メートル未満でしか建物を建てられない。 しかも 区画整理などを見据え 「容易に移転が可能なこと」 という条件が付く。 制限期間は
2年間で、石巻市の場合、2013年3月11日まで。 東松島市も 11月1日に復興推進地域を指定。
山元町を除く4市町も同様の措置を取る。
山元町は、11日から建築基準法第39条に基づく町の「災害危険区域条例」により、町の3分の1 に当たる約1900haを危険区域に指定し、住宅の建築を禁止する。 危険区域は 集団移転の
対象地域だ。 建築制限をかけていなかった仙台市も、39条に基づく条例で建築制限する方向
で調整している。
◇石巻・東松島 自宅再建急ぐ動き 被災者「くつろぎの場早く」
自治体「復興事業で移転要請も」
先行して 被災市街地復興推進地域に指定された石巻市や東松島市の一部地域では、住宅 の新築や改築を計画する動きが出始めている。 復興推進地域での建物の新築、改築などには
、建築許可が必要で 市町村を通じて申請する。
東松島市は、申請を受け付ける際に 「復興事業に支障がないかどうか判断し、支障が出る 可能性があれば、相談させてもらう」(復興都市計画課) と言う。 石巻市では 9日現在、地域内
での建築許可申請が 5件あり、うち 2件が許可された。 市は「 市民から申請の相談があれば、
将来、道路などにかかって移転をお願いすることもあり得ると説明している」(基盤整備課)と。
(つづく)
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