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そのうち、他の客が みな帰って 我々だけになった。
私は、
地元の人は 今 誰もいない。 それで、率直に 教えてほしんだが、
子供さんは中学生だと言われる。
いろいろ放射能について 心配されていると思うが、
ここに住んでいることを どういうふうに考えておられるんだろう?
と質問した。
去年 原発が爆発したとき、息子は 小学生だった。
バツイチなので 私一人で、 お婆ちゃんと子供を見なくてはならない。
ここで、生きていく他ない。
と 目を潤ませながら言った。 @http://youtu.be/AqQf80XHli0 山田 真 氏
‘12 6月7日 いま福島の子供たちに起こっていること
2011年 8月31日
そうですか ・・・。
しかし、ここに住みつづけることに 決め込んじゃイケマセンよ。
今 事故から一年が過ぎたが、
あのチェルノブイリは、 事故から5年経って 移住することになったんです。
ベラルーシの最高会議が、独自に 汚染地帯からの移住を決定したんです。
ソ連中央政府は、これを追認し、ロシアも ウクライナも 汚染地帯から住民を移住させること
になりました。 中央政府は 何もしてくれません。 自分らのことは 自分らで決めなくちゃ、
誰も助けてくれません。
諦めて、ここに居座ってしまっちゃイケマセン。
という風なことを、 彼女に語った。
※ チェルノブイリ事故における移住に関する法律
土壌汚染(Cs137) K㏃/㎡ 追加的被曝量 m㏜/年
特別規制ゾーン 1480以上 ー
移住の義務ゾーン 555以上 5 以上
移住の権利ゾーン 185〜555 1 〜5
徹底的な 37〜185 0.5〜1
モニタリングゾーン(特恵的社会ステータス付居住地域)
⇑
文科省の土壌汚染色分け
福島県の周辺地図-Yahoo!ロコ
地図画面右上の「地図 ▽」を開いて
「情報を重ねる」欄の「 放射線情報[災] 」に✔を入れる
と、詳細な汚染地図になります。
1986年7月 ベラルーシの行政当局と科学者は, ウクライナやモルダビアと共同で
「 チェルノブイリ事故影響克服のための総合計画 」立案, 86-90年にかけて実施。
@ 86-89年に深刻な事故影響がベラルーシのかなりの地域で現れたことを受け,
90-95年に対する国家計画が立案され、
1989年10月26日,ベラルーシ最高会議第12会期 採択
1990年12月19日,ベラルーシ科学アカデミー幹部会 採択
☟
ベラルーシ最高会議
1.「 チェルノブイリ 原発事故被災者に対する社会的保護について 」 1991年2月22日上程、
修正・追加の上 1991年12月11日採択
2.「 チェルノブイリ 原発事故に放射能汚染地域の法的扱いについて 」 1991年11月採択
ベラルーシにおける法的取り組みと影響研究の概要 ウラジーミル・P・マツコ,*今中哲二
ウクライナSSR最高会議,
1.「 チェルノブイリ 事故による放射能汚染地域の法的扱いについて 」 1991年 2月27日採択
2.「 チェルノブイリ原発事故被災者の定義と社会的保護について 」 1991年 2月28日採択
どちらも 同年 7月1日施行
2.の 第3条 「 放射線環境について,何らの規制なしに 居住または労働できる条件とは,
汚染による被曝量が 年間 1ミリシーベルトを越えないこととする 」
ウクライナにおける法的取り組み オレグ・ナスビット,*今中哲二
※ 食品,飲料水,空気中の放射能レベルに関する規制
旧ソ連, 緊急措置の被曝限度設定
事故(1986)の1年目10レム,1987年5レム,1988,1989年3レム,1990年0.5レム
(外部被曝と内部被曝が50%ずつ) @ 1レム=10m㏜
これに基づいてソ連保健省は,1986年,1988年,1991年に食品と飲料水中の セシウム 137
の暫定許容濃度(TAL)を設定。
TAL-88は,その年 ソ連保健省が採用した生涯35レムの“安全生活概念”に基づく.
1990年ベラルーシでは,「 チェルノブイリ 原発事故被災者に対する社会的保護について 」が
立案され,ベラルーシ政府は, 90年 8月1日から食品と飲料水の許容濃度に関する共和国
管理レベル(RCL-90)を施行。 92年6月まで約2年間実施された。
RCL-90の基本は,そのレベルの食品を日常的に摂取し続けても,もっとも被曝が大きい
グループでも 年間の内部被曝量が0.17レムを越えない,という考え方。 RCL-90で
ストロンチウム90に関する規制が初めて盛り込まれた。
一方,ソ連保健省は 1991年始め, セシウム 137 と ストロンチウム 90に関するTAL-91設定
1993年 ウクライナ放射線防護委員会(NCRPU)は TAL-93を発表。しかし,ウクライナ政府
の各省は その数値に同意せず,いまだ 保健省に承認されていない(98現在)。
したがって,ウクライナでは TAL-91が 1997年の末まで有効だった。TAL-93の主な問題点
は,その数値に明確な根拠がないこと. しかし,汚染地域の地方当局は,1994年以降,
TAL-93の数値に基づいて,各地の条件を考慮しつつ 食品と農産物に関する地方管理レベル
(LCL)を設定し実施している。地方の条例により,LCLを越えると調査が実施され,必要に
応じて対策が実施される。 @ 1991年 12月25日 ゴルバチョフ、ソ連大統領辞任
26日 ソビエト連邦 崩壊
新たな客が入ってきて、 急に賑やかとなった。
腰がだるくなったので 頭の上に手をあげて 背伸びをしていると、
知らぬ間に 後ろに来て、私の両腕に 手を入れて ぐ〜っと自分の体に引き付けた。
‘ おおっ 気持ちいいなぁ ’
‘ 何 言ってんのよ ’
店を 出ようとして、握手をしながら、
私: 絶対 諦めないでね
もう一曲づつ 歌って帰ろうということになった。
それぞれが 歌を歌っている時、 新たな客が一人 入ってきた。
この若者は、事故以来 南相馬の瓦礫を運搬する仕事をしてきたという。
‘ 高知から ダンプがたくさん来ていたよ
高知って どこにあるんかね? 九州? ’
‘ ボランティアというのは、金を どこからかもらうのかね ’
‘ いや、一銭も もらうわけじゃない ’
‘ わからんな〜、金をもらわずに 働くんかね ’
‘ だいたい みな そうでしょうね ’
‘ ふ〜ん、 そんなことができるんかね。 信じられんな。
人間、金をもらって 働くもんじゃないんかね? ’
‘ 他の所なら 喜んで 仕事を引き受けるが、 いくら金を積まれても、
俺は 強制移住区域の仕事は きっぱり断るよ。
あそこは、ここより 線量が高い。 人間が仕事をするところじゃないよ。
この福島なら 人は住めるが、あそこは 住めるところじゃない。 ’
と しきりに 携帯を いじりながら言った。
そして、 喉を震わせながら カラオケを歌いだした。
(つづく)
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罹災地を訪ねて
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隣室に 泊り客がいたが、我々は 風呂に入るのも忘れて、大声で フクシマのことを話した。
女将さんが、夕食を運んできた。
我々の話を漏れ聞いて 話してもよいと思ったのだろう、配膳をしながら 色々な話をしてくれた。
その話ぶりは サバサバしていて 深刻な話も 深刻さを感じさせなかった。
彼女から聞いたことを 箇条書きにしてみると、
・この辺の線量は 新聞に出でているようなもんじゃない。
除染なんて してないんだからね。 側溝とか あちこちに 1μ㏜/h、 2μ㏜/hのところが
あんだよ。
・福島産は ベクレルが測定されてるが、県外のは きちんと計られてないからね、危ないよ。
(しかし) 家(ウチ)も フクシマ産のものを避けて 県外産のものを買ってんだよ。
・知り合いが 自宅で採れた野菜などを もってきてくれるが 断れなくってね。
・海のモノは 放射能が たいへんだよ、特に 茨城や千葉のは・・・。
・遠くで採ってきて 福島で荷揚げしても、福島産の魚となって 売れないんだよ。
・佐藤の栄佐久さんは、辞めさせられたんだよ〜。 原発に反対したからね。
※ http://youtu.be/WfaidpyHZAA 国会事故調(佐藤雄平知事)のビデオ
2012 05.29 ・飯館などと比べたら、ここ(福島市)は まだ良い方だよ。
・もう、ここで住むしかないと思っている。 しかたがないんだよ。
( 旅館の一階には 彼女の息子か孫か 高校生位の男の子がいた。
フクシマの人たちは、 自分の住んでいる所よりも 汚染がひどい所と比べて、
‘ あそこの人たちと比べたら、自分は まだましだ ’ という意識が働いているようだ。 )
などなど
食事は 味は良かったが、 放射能が多少なりとも 入っているだろうという意識があって、
複雑な思いで食べた。 ただ 肉は 全部は食べなかった。
Aは 当初から 福島のものは食べないとしていたため、持参のものを食べた。
Bは 出されたものを すべて平らげた。 彼は 線量がどうのこうのという前に、福島の人たちが
食べているのに 自分が食べないということは、初めから 考えられないことだった。
女将さんは、出した食事について、放射能のことを 何も言わなかった。 食材が それぞれ
どこのもので、どの程度 心配ないかということを・・・。
客の我々も、それを聞くのは 野暮なことだったろう。
食後、風呂に入る前に 夜の街を歩いてみようということになった。
女将さんの‘ 客引きに注意すんだよ ’という声を背に、旅館を出た。
Bは どこか喫茶店に行こうと思っていたが、 Aは スナックを探した。
A曰く ‘ スナックじゃないと ここの人の生の声を聞けない。 金は 俺が払うから ’と。
彼の本音が 酒にあるのか 見聞にあるのか 定かではなかったが、 私も Bを口説いて、
スナックに入ろうと誘った。 Bは ある時期から アルコールを絶っていた。
あちこち 飲み屋街を物色した。 戸を開けると 大音量が飛び出してきた店では
中国人の女性が カタコトの日本語で話しかけてきた。
A: 東京には 多くの中国人がいたが、3.11以後 彼らは さっと居なくなった。すばやかったよ。
俺も、親戚から ‘東京を離れろ’ と電話があったし、自分でも 仕事を捨てて 東京を出よう
と思った。 しかし、(結婚予定の)彼女が 親もいるから東京を離れられないと言った。
会社の同僚も、離れる気配がなかった。 あの時は 恐かったな。
派手派手しくないスナックを見つけて、 ここに入った。
カウンターの中には あまり若くない女性が2人。 奥の方に 先客が 2人離れて座っていた。
我々の隣に座っていたのは 恰幅のいい初老の男性で、福島市で働いている郡山の人だった。
定年後 <準>公務員となっているという。
我々の会話を聞いて、彼は 問わず語りに つぶやくように言った。
・ セシウムの線量が 随分下がっているが、セシウムは どこかに行ったのではない。
そこに そのままとどまっている。 土の中に入り込んで、線量が下がっただけだ。
・ 俺はいいが、子供や孫たちには、フクシマ産のものは 食べさせられない。
・ 子供は 大人より セシウムが 早く身体から抜けるという。 これだけが頼りだ。
・ 福島の基準値を超えた米は 倉庫に保管してあるはずだが、今 倉庫は空になっている
という。 どこかに流れたんだ。
@ 中日新聞: 橋本商事がコメ産地偽装販売:長野 2012年5月23日
・ 原発再稼働など 正気の沙汰ではない。
カラオケの音が大きく 低音に難聴がある私は、彼の声が聞き取りづらかった。
もっと突っ込んで 話を聞きたくて、彼を ソファーの方に誘ったが、
‘ 最終列車が出るので、もう帰らなくてはならない ’と 言って、店を出て行った。
(つづく)
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子供たちのことが気になり、私は 婦人に 唐突に声をかけた。
公園は 除染しているんですか?!
彼女は 当惑したように、
あなたがたは どういう方ですか?
Bが、 我々が 何者で どこから どういう目的で ここに来たかを 丁寧に説明した。
そうでしたか、 ご心配頂いて 福島県民として お礼申し上げます。
ありがとうございます。
と、頭を下げて、
5月の連休まで 公園で遊ぶことは止められていたんですが、
誰が 指示したのか、最近 ここで遊ぶようになりました。
除染は 前に 一応しましたが、最近はしていません。
線量計の前で 写真を撮っておられたので、何だろうと思っていました。
そして、地震の揺れによる被害は、ここでは それほどなかったこと。 しかし、電気が止まって、
携帯も すぐに充電切れとなり、数日間 外部の情報が得られず、原発のようすも まったく
分からなかったことなど、色々なことを 聞かせてもらった。
ここは、線量が高いようですが、団地のみなさん どう思われているんでしょう?
と問うと、
誰も 声を挙げないんです。 みんな 無知なんです。
県立医大の某副学長が、事故後に 放射能は心配ない とふれ回ったのが効きましたね。
何軒かは、ここを出ていきましたが、ほとんどは留まっています。
逃げて来いと言ってくれる人もいるんですが、 私は 子供がいないから ここに留まって、
この事態の中で 人々のあり方を見届けたいと思っている。
また、
私は 尻が軽いから、この前 有名な人たち、大江健三郎さんらが郡山に来られて、
県の内外から 1万何千人とか集まった 脱原発の集会があって、出てみたんです。
その ある会で、500人ほどいましたが、福島県の人が 何人いるか 手を挙げることに
なったんです。 何人 手を挙げたと思いますか?
私: 200人ほど?
彼女: 私も手を挙げたんですが、 たった 15人ほどでした。
こういう集会は、地元の福島県人の参加は 少なく、県外からの運動員やら そういう人
が多いんです。 この地元の福島の者が 動かないんです。
※ 大江健三郎さんら、反原発集会 「人間らしい生活奪う」
2012年3月11日 - 福島県郡山市の開成山野球場 共同通信
そうこうしているうちに、子供たちが 一斉に 公園からいなくなった。 たぶん、時間を切って、
ここで 遊ぶことを許されているんだろう。
今まで姿がなかった 団地の人々が ちらほら見え始めたので、迷惑になるかと思って、この場を
立ち去ることにした。
( しかし、後で考えてみると、婦人は 我々と話していることを 近所の人に見られることに
別段 迷惑がっている風ではなかった。 団地の人々も 我々に興味をもったのかもしれない。
もう少し そこにいたら、別の展開になったかもしれない ――― とも思う。 ) 団地の家々の狭い庭には、大抵 植木があり 花を植えた鉢が並んでいた。
車で団地を出る時、 ある家の主人が のこぎり と 木の板をもって、側溝の コンクリート 板 と 門の
コンクリート のわずかな段差の所に座り込んで、大工仕事をしていた。
日が だいぶ 西に傾いてきたので、 我々は 福島駅近くの旅館に入ることにした。
駅前を 2,3周回って 狭い路地に旅館を見つけた。 1970年代風の 古い旅館だった。
( トイレと水道は ホテルのように部屋にはない )
女将さんの案内で 2階の部屋に入ったのち、 フクシマについて ひとしきり議論。
Aは 仕事柄、霞が関の官僚たちと接触があり、彼らに対する見方は 厳しいものがあった。
彼の叔父はヒロシマで被曝して ABCCにも呼び出されて調べられた。 Aは 仕事で 放影研
(旧 ABCC) にも行ったことがあり、そこで 学生時代の知り合いに遇ったという。 また、当時、
米国の トップクラス の学者が ここに来て、研究し 論文を書いていたという。
彼の学生時代の下宿先は、原爆で焼き出された家で、その息子は 英語を教えたり、日米の
文化交流活動を盛んにしていたが、被曝2世が負い目で 結婚を断念していた。 その後 理由は
分からないが若くして自殺したという。 彼の体調は 余りよくなかったという。
( 原爆の惨禍を経験した人々の子供を、私は 何人か知っているが、その中に 特別の異常が
見られる人は 未だ知らない。 ただし、これは ヒロシマ原爆についてだけで、この度のように
セシウム137のみ見ても 原爆の約170発分を放出したとされるフクシマ原発については、
たいへん心配せざるを得ない。
@ 原爆の放射性物質の多くは、成層圏まで噴き上げたが、原発の放射性物質は 地上を
這うようにして拡散したのだ。 )
Aは たいへん保守的な人であったが、フクシマの子供たちの状況を見て、‘バズーカ砲で 奴らを
ぶっ放したい ’と しきりに言った。
(つづく)
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郡山を出ると、列車は しばらく 阿武隈川沿いに 地上を走った後、 トンネルを出たり入ったり
しながら北上して行ったため、本宮市や二本松市の様子を じっくりと見ることができなかった。
特に、千恵子抄で有名な 活火山・安達太良山(アダタラヤマ) が 特定できなかったのは残念だった。
※ 安達太良山: 数万年前までは、マグマ噴出を繰り返す活動が活発な火山であったが
徐々に沈静化。 約2400年前のマグマ噴出以降は、時折、マグマ水蒸気爆発を
繰り返す程度となる。
二本松市で 阿武隈川を渡った新幹線は、全長 11 km余りの福島トンネルを過ぎて、目的地
福島駅に停車した。 駅の規模は、県庁所在地とは思えないほど こじんまりとしていたが、
乗降客の様子からは、ここが 原発の惨禍を受けた 所謂 フクシマとは思えない普通の駅だった。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/0/03/FukushimaSt_higashi.jpg/250px-FukushimaSt_higashi.jpg
我々は、いくぶんの緊張感をもって 列車を降りて、フクシマの空気を吸った。 もし、周りに人々
がいなければ、とても 列車を降りて 外気に身を晒す勇気は出なかっただろう。
とにもかくにも、 私は 10万㏃/㎡以上に汚染された大地の上を、自分の足で歩き、その空気を
自分の鼻と口で吸っているのである。 駅を出ると、少し強い風が吹いていた。 金曜の2時過ぎだというのに、高校生が 三々五々
歩いており、女子生徒が駅近くの埃っぽい通路をマスクもせずに帰宅していた。二の腕を露わ
にした男たちが数人、太陽の光に照らされながら 街路樹の剪定作業をしていた。
彼らの姿からは、ここが放射能汚染地域とは とても思えず、見えない放射能を意識している私
には そのギャップが うまく消化しきれなかった。
駅の出入り口は 工事中で、そのため 「福島駅」 の看板が見えにくくなっていたが、 我々は
看板が入る位置に立って、 そこにいた人に 写真を撮ってもらった。
駅近くのレンタカー会社に 重い荷物を担いで行き、友人の持っている割引カードを利用して、
福島ナンバーのプリウスを借り受けた。 プリウスは、その低燃費や走行性能などがよいために
大変評判のよい車だという。
@ 私は 3日目に 松島から女川を経て長面地区の往復を運転したが、私の旧式の車〜窓は
手で開け閉めし、ドアも 各々別々にロックする。勿論 カーナビもETCもついていない〜
の方が 安心感があった。 もし、事故があり ドアや窓が自動で開かなくなったら・・・と
考えたら、心配性だと言って 人は笑うだろうか?
放射能は じわじわと体を蝕むが、例えば、事故で 車に閉じ込められたら 忽ち死んで
しまうだろう。 放射能と車と その被害にあう確率は どちらが高いか?
交通事故 ‘95 ‘00 ‘03 ‘06 ‘09 ‘10
上の統計のように 事故件数の割には、死者数が少なくなっているようだが、私は 最近
夜の運転が しづらくなった。 その最大の理由は、ライトの光である。 今までのように
柔らかな光ではなく、目に突き刺すような光を放つライトが増えてきたために、対向車の
白く鋭い光で 前が見にくくなったのである。 プリウスのライトも この鋭い光だった。
この光は、また 歩行者にも親切ではない。 私は 夜の散歩をしているが、この鋭い光の
ために辺りが見えなくなって、歩道の凹凸に足を取られたり、溝にはまりそうになったこと
がある。 老人の目には 特に厳しい光である。
しかるに、警察は 夜の走行では、ライトを上げるように指導している。 交通弱者である
歩行者が 事故に巻き込まれるのを少なくするためだと言う。 何だかヘンな理屈である。
因みに、上の図のように、交通事故の死者が一番多かったのは、1970年の1万6765人
だったが、1万5000人以上の死者をだした ‘69〜‘72の4年だけで、6万人以上となる。
戦後の高度成長経済は、政府の政策によって、この度の大震災の大津波による死者を
はるかに超える超大津波を 長期にわたって引き起こしてきたことになる。
我々は、目に見える 自然の大津波には驚くが、政府の政策が起こした人工の 見えない
超大津波には あまり驚かない。 真に怖いのは、自然災害よりも 人工災害である。
「 自然には警戒を 人間の力には畏敬を! 」という 西欧近代の理想ではなく、
「 自然には畏敬を 人間の力には警戒を! 」という 太古以来の人類の知恵を、
と つくづく思う。
(閑話休題)
レンタカーで 路上に出る。 道路には 多くの車が走っており、人々も軽装で どこにでもある街
の風景が展開していた。 私は、街中の人々の様子を見てみたかったが、西の,山頂に雪が
残っている山が気になる連れ(A)の意 ( 彼は あれが磐梯山ではないか と思っていた ) で、
その山並みに向かって車を走らせる。
‘ ここらへんは、線量が高いんよ ’ という私の言に、
‘ 新聞では 0.6*となっていたから、 年間5mシーベルト ’と答える一人(B)。
‘ いや、新聞で 福島市は 0.1*だったから、1mシーベルトだよ ’ と、A。
‘ どこか公園には 線量計が設置されているはずだから、それを見てみよう ’と私。
途中のコンビニで トイレ休憩。 雪を頂いた山が気になった A は、レジの若い女性に
山の名前を聞いたが、彼女は 店の外に出て しばらく見て ‘ わからない ’と首を振った。
福島では 簡易線量計を コンビニでも売っていると聞いていたので、尋ねると 置いていない
との答えだった。 私が 外で タバコをふかしている間、 Aは 近くに線量計が設置されて
いる公園を聞いてきたので、 まず そこに立ち寄ることにする。
この辺りは 住宅地と畑が混在する地域で、畑には さまざまな野菜が植わっており、風が
コンビニに掲げた旗を さかんに揺らしていた。
この間にも 幾人もの客が 物を買って行った。泥で汚れた作業着姿の農夫など、彼らの身なりは
3.11以前と 少しも変わらない様子だった。
コンビニで教えてもらった公園に行く。 それは 団地の中にあり、短い草が一面に生えていた。
文科省が設置した線量計は、 0.64*μ㏜/h となっていた。 Aは 驚いて、携帯で 計算をした。
私: ここら辺のバックグランドは だいたい 0.04位だろうから、0.6×24×365 で 約5m㏜
だね。 チェルノブイリ基準では 移住せねばならない地域になる・・・。
A: 俺が計算すると 1m㏜だったから、ここへ来たんだ。 驚いた! すごい所だ・・・。
と言って、マスクをした。
Bも、心配で 事前に計算してみたようだが、100m㏜以下なら そんなに心配ないと思っていた
ようだ。 3.11以前には 人為的な追加被曝量が 年間 1m㏜というのは知っていたが・・・。
※ この辺りの土壌汚染は、文科省の航空機モニタリングでは、10万〜30万㏃/㎡ と
なっており、1km以内に 30万〜60万㏃/㎡の汚染地帯が迫っている。
我々が、線量計の前で 写真を撮っていると、近所の小学生の男の子が来て キャッチボール
を始め、さらに 別の子たちも来て サッカーボールで遊び始めた。
私は、気が気ではなく 彼らに声をかけようとしたが、思い止まった。 団地の婦人が一人 不審
そうに じっと こちらを見ていた。
(つづく)
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大震災から 一年三か月が経とうとしている この6月1日から4日までの日程で、
友人2人とともに 東北の罹災地を訪れてきました。
この間、現地で 私の見聞きし、感じ 思ったことを、ここに 記録しておこうと思います。
◇ ◇
6月1日(金) 正午過ぎ 東京駅で、友人と合流。
駅の構内を行き来する老若男女の姿は、3.11など なかったのではないかと錯覚するほど、
日常の風景だった。
昼食の弁当を買って、予め 友人が取ってくれていた 東北新幹線 「やまびこ61号」 の
指定席車両に乗り込む。 座席は ほぼ満席であった。
※ 東北新幹線は、震災前年の2010年12月4日 八戸駅 - 新青森駅間が延伸されて、
全線開業した。
2011年3月11日午後2時46分、大地震の発生と同時に、東北新幹線は全区間で運転
を中止。仙台駅構内で試運転中のE2系が脱線した他、数本の列車が駅間で立ち往生。
落橋やトンネルの崩落はなかったが、仙台駅の天井が落下するなど5つの駅が損傷し、
大宮 - いわて沼宮内間約536kmで、電柱の損傷 約470箇所、架線の切断約470箇所、
高架橋の橋脚損傷 約100箇所、線路の損傷 約20箇所など、約1200箇所( 内那須塩原
- 盛岡間は約940箇所 )に被害が生じた。
4月8日頃 一ノ関 - 盛岡間、 4月中旬 那須塩原 - 福島間復旧、 25日 全線再開。 東京から福島までは、約1時間半。 列車は 家並みの間に ビルや工場が立ち並ぶ中を
大宮、宇都宮と、広大な関東平野を どこまでも進んだ。
宇都宮を出ると 鬼怒川を越えて、いよいよ 大地そのものが 1万ベクレル/㎡以上の汚染
を受けている地帯に入っていく。
那須塩原駅を通過した頃には、青々として萌えた立つような春の景色を窓外に見ながら、
10万ベクレルの放射線が 身体に突き刺さり 貫いている世界に来たのだという 何とも言え
ない緊張感に 幾分 興奮を覚えた。
窓外の風景には 次々と、3.11以前と変わらない 人々の日常の暮らしが展開していったが、
線量計をもっていれば、ぐんぐん数値が上がっていくのを見て、おそらく 私は 平静ではおれ
なかっただろう。
やがて、列車は 栃木県と福島県の県境にある 長いトンネル(那須トンネル:約7km、白坂
トンネル:約3km)に入って 新白河を通過。 その後も トンネルを出たり入ったりして 須賀川市
を流れる釈迦堂川( 阿武隈川の支流 ) に近づく辺りに出た。
東西に長い須賀川市は、東半分が 西半分の汚染に比べて低く、白川市の半分以下となって
おり、丁度 その境を 東北本線が通っている。 新幹線は 車体を 天空の下に晒したまま、
西半分の汚染地帯を 阿武隈川に沿って走り、福島県に入って 最初の停車駅・郡山に着いた。
※疑問: トンネル内では、汚染は どのようになっているのだろうか?
駅のプラットホームには、会社員風の男が 鞄を持って 急ぎ足で歩いて行き、 肌も露わな
薄着の若い女性 や 乳飲み子を抱えた母親、 子供連れの夫婦が歩いており、ここが 放射能
の汚染地帯とは とても 思われない。
郡山市の人口は 328,742人( 2012 6.1 現在 )と 県庁所在地・福島市よりも多く、家並み
が 四方に視界のかなたまで続いていて、 この街は ゴーストタウンどころか、西日本の街々と
同じ、否 3.11以前と まったく変わらない 人々の生活があるように見える。
因みに、この日 郡山市は
放射線や除染に関する正しい理解を深めていただくため、市民の皆様を対象とした
「放射線・除染講習会」を開催します。
( 講師: 福島県原子力班員、JAEA(独立行政法人 日本原子力研究開発機構)、
徳島大学等から派遣予定 )
という広報を 市のウェブサイトに載せている。
また、
検査は18歳以下の方を優先して行いますが、今年度は、震災当時妊娠中の方や現在
妊娠中の方、そして、平成18年4月2日から平成20年4月1日までに生まれた未就学児、
小中学生を中心に検査を実施します。
※ 0歳から3歳児については、検査時に動いてしまうなどの可能性が高いことから、
正確に測定できないため、現在のところ、検査対象外とさせていただきます。なお、
0歳から3歳児の検査方法については、福島県において検討中であり、検査実施可能
となりましたらお知らせします。
と。
この地の空間線量は、6月5日付けで公表され、
教育施設は 除染の結果 0.1*〜0.5*になっているが、もちろん 通常の場所では
この程度では おさまらない。
さらに、 しかし、これも 汚染の実態を 正確に表したものではないであろう。
そのことは、現地の人々も よく分っていることを、福島市に行って 知った。
郡山市在住の ままこの詩. さんのブログ
(つづく)
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