混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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仏道修行(5)

観彼世界相  勝過三界道

究竟如虚空  広大無辺際

  (読み下し)  
    かの世界の相を観ずるに  三界の道(ドウ)に勝過(ショウカ)せり
    究竟(クキョウ)じて虚空(コク)のごとく   広大にして辺際(ヘンザイ)なし   
                                             【天親:浄土論】
 


この三界道は、顛倒(テンドウ)の世界である。
何をしても 何を言っても 何を思っても、みな顛倒なのである。
法性(ホッショウ)に依らず、したがって 二諦に順ゼざるが故である。

誰か人のため、社会or国家のため、人類のため
――― と言いつつ、あるいは 為しつつ、そして 思いつつ、
それは 貫徹せず、中途半端で終わる。 

誰もかれも そうである。 熱悩衰変の世界である。
衆生を 本当には摂し得ず、 衆生に 真の利益(リヤク)を もたらし得ない。
やること、言うこと、思うこと、みな 虚偽である。

こういう処に、私はあるのです。
しかし、このことが徹底して分るには、
勝過三界道の世界が 現前していなくては、どうにもならない。

観彼世界相  勝過三界道
究竟如虚空  広大無辺際
――― 真実功徳の 本願の世界である。

我々(私)にとって 真に重大な事は、
この「 彼の世界 」に 背を向けて、世間に目を奪われている自己が転回されて、
この 三界を勝過した世界に 眼を開かれることである。

これを外した 仏教の話や行は、
いかに高遠の理を語ろうと 厳しい修行をしようと、
すべて 無意義である。 閑人の手すさびである。


仏法は、個人の救いではない。
発心(ホッシン)するとは、「 自己の救いに発心する 」というのでは、不十分である。

今可発心 当度苦悩衆生 
  今 発心すべし まさに苦悩の衆生を度(ド)すべし  ( 龍樹【十住毘婆沙論】 )


「 度衆生 」ということが抜けては、片手落ちである。
なむあみだぶつ 

                               合掌

仏道修行(4)

『 弥陀の本願を 本当に いただいた者は、
 “ 有難いことである 念仏申そう。 いよいよ念仏申そう ” と弥陀を讃タタえるところに、
 十方衆生に 念仏がとどくのである。
 その諸仏称名(ショウミョウ)が 釈尊の教えである。 』( 細川巌 )


――― 「 弥陀を讃える 」ことがなければ、 人に 念仏を勧めることにはならない、と。
その喋々と語る仏法は、 すべて 顛倒(テンドウ)の戯論(ケロン)である。
ここに、仏法を聞き 語り 思惟している者は、いかなる私であるか?
事を対象化し、現実を 外から傍観する者であり、自らの当事者とは なり得ない者である。

弥陀の本願を 本当には いただいていないからである。

「 宿業を負うたる 苦悩の子の一生は、 並大抵のことではない。
 ・・・・
 衆生の宿業を摂取して、宿業を宿業として 照らし出し、宿業の上に生きる者 」(先師)
は、 私ではない。 まさしく これは 如来なのである。


 【 彼の仏国は、即ち これ 畢竟(ヒッキョウ)成仏の道路、無上の方便なり 】(浄土論註)

「 まさに往生を得ず 」という現実は、 為楽故願生( 楽の為タメの故に願生す )にある。
然るに、 「 願生(ガンショウ) 」ということも、また 私に微弱であって、若存若亡である。
ただ、しかし、為楽故 ということは、 現に 生活上の現実である。
今、仏法を思惟するに堪えず、 睡魔に身を委ねようとするのも、
求自身受持之楽( 自身受持の楽を求める ) のである。
――― ここに、不‐求自身受持之楽たる (法蔵)菩薩の巧方便(ギョウホウベン) がある。


私は、 願生(ガンショウ) ということが よく分からないのだ。
この願は、 本来 誰の願なのか? ――― 如来の願であろう。
この日頃の私に、 願のあろうはずがない。
もし、 清浄真実を 願う心があれば、 とっくに 願生の心も分かっていたであろうし、
生活自体も 変わっていたであろう。
何十年も こうした若存若亡(ニャクゾン・ニャクボウ)の空過を 続けているわけがないのである。
この無明黒暗の裡に、 日々 無反省に罪悪の三業を繰り広げて厭きない この短命の生存。
                        ※ 三業: 身と口と意の働き

私は、弥陀の本願というものを、それが 何であるか 確認・納得したいのか?
――― しかし、 何故 確認・納得したいのか?
その 「 したい 」者は、 この此岸(シガン)の者である。
この 此岸の自己を 問題としないから、このようなことになる。

確認・納得したい者の処には、 弥陀は その姿を現さない。
自らの運命を 自らの力で乗り越え 切り開いて、事を為そうと考える処には、
弥陀は、 始めから 用なしなのである。

私は、真実清浄なるものへの 対し方を知らないのです。
なむあみだぶつ

                                    合掌

仏道修行(3)

なむあみだぶつ
願生(ガンショウ)の道の上を 私の足は踏んでいない。
「 八万四千の闇の巷(チマタ) 」にあるのである。
無自覚なるかな。

「 このとき、自証の心としては、 はじめて 自身の悪が見える 」(先師)と。
信心獲得(ギャクトク)の一念を 棚に上げておいて、
自身の悪を見ようとしていたのである。
邪見憍慢(キョウマン)の私を 確認しようと・・・。

これは、徒労である。 理として 徒労であったのである。
仏智を呼び込んで、わが悪を見ようと・・・。
大悲真実をはずして、このことをやろうとするところに、間違いがある。
自力我執の全動のうちに、これを為しているのです。

私の その喋々たる言葉を、 善導は 「 汝らの所説、この義 不如是 」 と言う。
また、「 無記・無利・無益(ムヤク)の語に同じ 」 と言っている。
――― こうした言葉を、何度も何度も聞いてきたが、
私は、自らの思いを通して 聞いているのだ。

なむあみだぶつ



諸仏の言葉は、深く遠いもので また微妙(ミミョウ)であるが、
不能悟物( もの〜私〜を悟らしめることあたわず <曇鸞> ) 
と言われる。
まことに、 私は このようなものです。

三毒の奔流・暴流(ボル)に 漂没(ヒョウモツ)されてはならぬ。
頭を下げて、浄土門のうちに入れ。 なむあみだぶつ。
門のうちに入るとは、 
全身が入らなければ 入ったということにならないのは 当然である。

私は、今まで このことが よく分かっていなかった。
浄土門は、 弥陀浄土の東門であり、娑婆の西門である。
仏道修行と言いつつ、 娑婆の西門たる浄土門に入らず、
フリーな立場で 自らの感受性と思考力によって、仏法の修行ができると考えていたのである。

凡夫が、 娑婆で 一人 仏法を為すというのは、
剣呑無比、 そもそも あり得ないことであったのです。
なむあみだぶつ

                                  合掌

仏道修行(2)

昨日、「 白鳥座X-1 」さんから ゲストブックに 次のようなメッセージを頂いた。


  虚無さん、くちばしを挟んですみません。
  どうしてここでコメントするか、オノコロさんの考えが理解できるからです。
  ・・・・
  虚無さんの考えに余裕を感じます。
  ( 言うからには、 ) 私は 虚無さんは もう少し自分を責めることが必要ではないか
  と思います。 虚無さんには まだ余裕がありすぎる。 極めるには もっと厳しさが
  必要ではないかと思います。 本当に自分の指針、方向がはっきりしていますか。
  まだ、はっきりしていないでしょう。 自分を超えて、他者の教えを超えてという気持ち
  が必要ではないですか。


このメッセージにおいて、特に、
「  虚無さんには まだ余裕がありすぎる。 」
「 本当に自分の指針、方向がはっきりしていますか 」
の 2つの言葉に、 私は 答えることができない。
私のあり方への 根本的な問いかけであったからである。

このブログにおいて、私は 以下のような 幾つかの動機or目的をもっていた。
(一) 現代の西欧科学技術文明への批判 と 現文明の転換への試み 
(二) 上の(一)を 仏教において遂行することを試みる
(三) 人々に 仏教の考え方を 紹介すること
(四) 以上を通して、私が 仏法において 深まること


ここ数日の 幾人かの人々との コメントの応酬の中で、
私自身を的(マト)にして 自己と社会の闇(矛盾)を炙りだし、
同時に、仏法を 明らかにしようとしてきた。

しかし、そこで、私の心底にあったものは、
文明or社会への不遜な反発心であった。
また、仏法を明らかにするとはいうものの、
そこには、他の人に 仏法を教えようとする 指導者意識があった。

こうした 不純な心では、仏法にはならない。
単なる 正義の衣を被った 復讐心であり、
また 名利心が 仏法を使って、自己の思いを満たそうとしていたのだ。

ここには、仏さまは おられない。
この世を、火の海にしてしまう。
仏さまを、わが邪心のために 踏みにじっています。


今、 私は この わが事態を このままにしておくことができないことを、 
皆さんから 教えていただきました。
わが 名聞・利養・勝他の煩悩の 暴走を、押しとどめて頂きました。


私は、方向転換をしなくてはなりません。
なむあみだぶつ
                               合掌


  (追って)
    以上のような事情から、 今 コメントを下さっている方々には、
    まことに 勝手ながら、コメントを返すことは、遠慮させていただきます。
    
    これから しばらく、私の課題に 力を集中させたいと思います。
    この決意を促して下さった方々には、 まことに ありがとうございました。



   

仏道修行(1)

菩提心を発して、仏道修行している者は、だれか?
法蔵菩薩である。
私においては、その間 妄念妄想のうちに 動いていたのである。
その言動や、 主観のなかに 埋没して、のたうちまわっていたのだ。

だれが、このような私の言を 信用しようか!
――― 私は、何か 大きな間違いをしています。

仏法は、他人に 主張するものではなく、
わが身の上に、それを聞くべきものである。
このことが 曖昧のままに、仏法を云々している。

このナマ温かい独善! 真の客観性のない 妄雲 重畳たる この主観。
この対極が、「 真実清浄 」というものであろう。



こういう私が、世界を荘厳すれば どうなるか?
――― この問いに ハッキリと答えられないのは、
正道の大慈悲は 出世の善根より生ず (浄土論) という天親の一句を
いい加減に聞いているからである。

奇妙なことだ! 何故 私は
願心荘厳の世界が 分からないのであろうか?

私は 聖者ではない。 ただの そこらじゅうにいる初老の男に過ぎない。
しかし、私は 恣意で動いてよいであろうか?
たとえ、そういう自分であっても、それは 肯定されるであろうか?

誰も、これを 肯定も否定もしない。
ただ、いっそう 如来の大悲を 呼び起すのだ。

                          合掌 

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