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〜〜〜〜 教えに対する姿勢 〜〜〜〜
――― 【正しいことが言いたい】 & 【正しいことが聞きたい】
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正覚大音 響流十方 大無量寿経ー讃仏偈
(しょうかく だいおん / こうる じっぽう)
これは、法蔵菩薩が その師・世自在王仏の前に 跪いて合掌し、
その徳を讃える偈(=歌)のなかの一句です。
‘ 師仏の言葉は とても大きな声で, あらゆる場所に 響き渡っている ’ という意味です。
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この一句について、少し考えてみます。
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声が 大きいからといって 人の心を動かすとは限りませんし、
遠くの人の耳に 必ずしも留くわけではありません。
逆に 声が小さくとも、それを聞いた人の人生を 大きく変えることもよくあります。
拡声器で 選挙演説する人の声に、心動かされるということは 希ですし、
たとえ 人々が それに心動かされても、
それがために 後に 塗炭の苦しみをこうむるということは、ごく 普通のことです。
この世の声は、このようです。
ところが 標記の句は、まったく違ったことを言っています。
声が 「大音」 となり、 「響流十方」 となるのは、
それが、「正覚」 の声であるからであります。
実に、 ここに 人生の要諦があります。 ** 正覚:正しい悟り(覚り)
我々が ものを言うとき、感情的な言葉 や 独善・臆断の言葉 また威圧の言葉 ではなく、
「正しい言葉」 を言わねば、 人を動かすことはできません。
「 私は 正しいことが言いたい 」 というのは、 我々 皆の願いでしょう。
しかし、
「 人は 正しい言葉が出したい前に、
正しいことを 聞きたいのである。 」(先師)と。
ウソ偽り や 為にする言論などを、我々は 聞きたいわけではありません。
しかし、 私は こうした願い(万人の願い)を 軽視してきました。
人の言を聞くよりも、 自らの思考を 価値あるものとして、
「 人生は教化である 」・「 私は 仏の教えを聞く為に、この世に生まれてきたのだ 」
といった言葉を 煙たがって、理解しようとはしてきませんでした。
何か 大きな勘違いをしていたのです。
私は 他人を教化すべき者ではなく、 教化される者であったのです。
( 自らの心の奥にある願いを 圧し潰して、
近代的自我を立てることに 何の疑いも懐かなかったのです )
「 何らの 内観なく 懺悔なく 色を造り 言葉を飾って、
ただ これ、人の称賛を求め、やがて 一時の煽動のために 声をからすならば、
堕落 これより甚だしきはないであろう。 法を説く者の堕落が そこにある。」(先師)
正しいことを言うことが どんなに至難なことか ということが、 全然分っていませんでした。
これは もう 徹底的に、 自分というものが 見えていないということであり、
また したがって、全然 非仏教的なことでありました。
仏教 すなわち 教えは、 ただ聞くためにある。
それをもって 他に威勢を張ったり 自己弁疏するためにあるのではない。
説く者は 仏、 聴く者は 善男子・善女人 ie. 凡夫の私である。
教えに対する この基本的な姿勢ができていなくて、
何が 仏教徒であろうか!
それは、 仏教を騙る 外道である。
私において、「 聞く 」 ということができていなくて、
どうして 仏教というものがあろうか!
これは、 まことに 大きな盲点であり、 迷いであります。
自分は、 正しくモノを見 正しくモノを思考し 正しくモノが言え
正しくモノを行え 正しく生活できる・・・ というのは、大間違いであります。
私は 知らず知らずのうちに これを根底として、
人生に対し 仏教に対して、熱悩衰変してきました。
「 唯一の真実の言が 心に響かない。
それは、 まことに恐るべきものを 内に持っているが故である。
(乃至)
この自力我慢の前には、 正覚の大音 も 何らの響きを持たぬ。
ただ 大音のごとく響いてくるものは、
自分に都合の良い声 称賛・名利の声 のみである。 」(先師)と。
なむあみだぶつ
合掌
● kyomu- の アッピール ●
原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう!
―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい!
子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――
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