混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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傍観者と当事者

〜〜〜〜
  〜〜〜〜〜

自らを 暫定的な位置において、

その当事者になることを、いつまでも 引き延ばしている。


 「 そこには、 一時の愉安 と ぼんやりした不安 と

   憍慢kyouman と 懈怠ketai とが あるばかりである

   あぁ、空しく過ぐる者 世の智者、 心静かに 思え 」(先師)



この身体の 目と耳と、その機能を失っても、

それが 何であろうか?!


 「 徳に対して 盲聾であることほど、 哀れなことはない 」(同上)


愛欲・名利に対する 切実な欲求、

貪欲tonyoku・瞋恚sinniの暴れ河に 日夜 漂没hyoumotuしている 私は、


たとえ りっぱな事を言っても、或は 思っても、

忽ち それらは ウソになってしまう身であります。



 「 如来本願の功徳大宝海に 帰したとき、・・・・
 
   わが手元には、功徳ならぬ煩悩悪業の 深信jinsinされることである

   徳に対する 感謝は、 そのまま 不徳の慙愧である 」(同上) 


――― これが、 わが人生の当事者になった 姿である。


この 人生の傍観者よ、 

奇妙なことだ、奇妙なことだ。


どうして 私は、いつまでも 傍観者のままで 居続けるのでしょうか?

なぜ 当事者となろうとしないのでしょうか?  奇妙なことです。



 「 広大なる報恩謝徳の生活に入るのは、

   大功徳(=如来)そのものの 廻向eokouによるが故である 」(同上)


 「 もし 常に 尊法を信奉せば、則ち 仏法を聞くに厭足なけん    * 厭足: 満ち足りる

   もし 仏法を聞くに厭足なければ、 彼の人 法の不思議を信ぜん 」(華厳経)



     法を聞くことが厭わしく、すぐに疲れて 耳を塞いでしまい、

     他の事に関心を向けて 気晴らしとするという この事態は、

     
     一体 どうしたことでしょうか?

     なむあみだぶつ



根本・枝末 一切の 痴惑は、

「 不了仏智huryoubucchi 」 を 因とする。 自力である。


 「 如実修行の 称名行は、 凡夫の自力によって 成就するのではない

   我らの 如実の行は、 如来の名号の 廻向せられることによって、

   <如く>* 成就するのである ・・・

   如来本願の意に 随順することでなくてはならない 」(先師)

     * <如く> : かの如来の光明智相の<如く>、かの名義の<如く>
                      ――― 曇鸞donran「浄土論註」




                            合掌


 
   ** 不了仏智
     :仏智を了せず / 如来(仏)無視、如来に対する反逆 / 仏智疑惑とも言う      
 
   

恩徳報謝

〜〜〜〜
  〜〜〜〜〜〜


‘ 人が 私の言うことに 耳を傾けない ’ と言って、 

淋しく思うのか?

苛立つのか?  怒るのか?  ――― ‘ 私を認めない ’ と。


しかし、よくよく 考えてみよ。

こうしたことは、今に始まったことでは ないではないか。

そもそも、 誰が その自己を否定してまでも、 私の言葉を 承認しようか! 


あちらも こちらも、 誰も彼も 皆、 その自己を 展開すべく 主張すべく、

自らを 特別な存在と思って 動いているのである。

そして、そうした中の一人に、私もあるのであった。 



このような日常において、 共に 協同して(仕)事をやるということは、

何も そこに 正義があって、 それに随って やるのではない。

ただ ただ 功利的な心から、 共同するのである。


「 功利的な心は 自力貪欲tonyokuであって、

  無我の仏智ではない 」 (先師)


仕事も 家族も、まして 仏教をやることも 念仏するのも、

そこに、「 全我を捧げての 報恩謝徳の生活 」 は、

成就していないのである。


私の 一言一句 一挙手一投足は、

如来大悲の 御意on-kokoroに

深く 反逆しているのである。


あぁ、 まことに 「 真実信心 」 である。

「 信心獲得gyakutoku 」 ということがないならば、

私の 「 根本無明 」 の正体は、 明るみに出ない。


わが 本罪honzaiは、 暗黒の闇に 閉じ込められている。

何を為そうとも、何を考えようとも、何を感じようとも、

「 一切の行業gyougouは 悉く 恩徳報謝の営みとは ならない。」



み仏さま、 ただ ただ ここに、 如来の 御意に 背いて、

流転の地獄業の 自害害彼gaihiを 繰り広げるのみであります。

申し訳ありません。 なむあみだぶつ




                               合掌 



              ● kyomu- の アッピール ●

                  原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう! 

                  ―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい! 

                        子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――

 〜〜〜〜 教えに対する姿勢 〜〜〜〜

     ――― 【正しいことが言いたい】 & 【正しいことが聞きたい】

                                〜〜〜〜〜

正覚大音 響流十方      大無量寿経ー讃仏偈
    (しょうかく だいおん / こうる じっぽう)

 これは、法蔵菩薩が その師・世自在王仏の前に 跪いて合掌し、
 その徳を讃える偈(=歌)のなかの一句です。

 ‘ 師仏の言葉は とても大きな声で, あらゆる場所に 響き渡っている ’ という意味です。

                                     〜〜〜〜
 この一句について、少し考えてみます。

〜〜〜〜

声が 大きいからといって 人の心を動かすとは限りませんし、
遠くの人の耳に 必ずしも留くわけではありません。 
逆に 声が小さくとも、それを聞いた人の人生を 大きく変えることもよくあります。

拡声器で 選挙演説する人の声に、心動かされるということは 希ですし、
たとえ 人々が それに心動かされても、
それがために 後に 塗炭の苦しみをこうむるということは、ごく 普通のことです。

この世の声は、このようです。 
ところが 標記の句は、まったく違ったことを言っています。


声が 「大音」 となり、 「響流十方」 となるのは、
それが、「正覚」 の声であるからであります。
実に、 ここに 人生の要諦があります。        ** 正覚:正しい悟り(覚り)

我々が ものを言うとき、感情的な言葉 や 独善・臆断の言葉 また威圧の言葉 ではなく、
「正しい言葉」 を言わねば、 人を動かすことはできません。
「 私は 正しいことが言いたい 」 というのは、 我々 皆の願いでしょう。


しかし、
「 人は 正しい言葉が出したい前に、
  正しいことを 聞きたいのである。 」(先師)と。


ウソ偽り や 為にする言論などを、我々は 聞きたいわけではありません。
しかし、 私は こうした願い(万人の願い)を 軽視してきました。

人の言を聞くよりも、 自らの思考を 価値あるものとして、
「 人生は教化である 」・「 私は 仏の教えを聞く為に、この世に生まれてきたのだ 」
といった言葉を 煙たがって、理解しようとはしてきませんでした。

何か 大きな勘違いをしていたのです。
私は 他人を教化すべき者ではなく、 教化される者であったのです。

( 自らの心の奥にある願いを 圧し潰して、
  近代的自我を立てることに 何の疑いも懐かなかったのです )

「 何らの 内観なく 懺悔なく 色を造り 言葉を飾って、
  ただ これ、人の称賛を求め、やがて 一時の煽動のために 声をからすならば、
  堕落 これより甚だしきはないであろう。 法を説く者の堕落が そこにある。」(先師)

正しいことを言うことが どんなに至難なことか ということが、 全然分っていませんでした。
これは もう 徹底的に、 自分というものが 見えていないということであり、
また したがって、全然 非仏教的なことでありました。


仏教 すなわち 教えは、 ただ聞くためにある。
それをもって 他に威勢を張ったり 自己弁疏するためにあるのではない。
説く者は 仏、 聴く者は 善男子・善女人 ie. 凡夫の私である。

教えに対する この基本的な姿勢ができていなくて、
何が 仏教徒であろうか! 
それは、 仏教を騙る 外道である。

私において、「 聞く 」 ということができていなくて、
どうして 仏教というものがあろうか!
これは、 まことに 大きな盲点であり、 迷いであります。


自分は、 正しくモノを見 正しくモノを思考し 正しくモノが言え 
正しくモノを行え 正しく生活できる・・・ というのは、大間違いであります。

私は 知らず知らずのうちに これを根底として、
人生に対し 仏教に対して、熱悩衰変してきました。

「 唯一の真実の言が 心に響かない。
  それは、 まことに恐るべきものを 内に持っているが故である。
  (乃至)

  この自力我慢の前には、 正覚の大音 も 何らの響きを持たぬ。
  ただ 大音のごとく響いてくるものは、
  自分に都合の良い声 称賛・名利の声 のみである。 」(先師)と。


なむあみだぶつ

                              合掌



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                  ―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい! 

                        子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――

聖なる魂

〜〜〜〜〜
  〜〜〜〜〜

我(が)に対する侵攻に、身構え 言い逃れを考え 或は鬱屈する このわが様よ。

この どこに信心・念仏があるか? 仏法のすべては 覆kutugaeって、賽saiの河原のごとし。


しかるに、こうした事態は、今まで 幾度となく経験してきて、

その都度 鬱屈しつつも、やり過ごしてきたものである。


今また、こうしたことに対する この対処を、この世の当然なやり方のように 思って、

事の成行きを、不安に駆られながら 見つめるのである。


それを 仏法にする 意志もなく・・・。  名利打算、すなわち 我(が)だけ。

奇妙なことであり、笑止である。 醜いことであり、哀れむべきことである。



邪見驕慢kyouman悪衆生が 高遠の理を語る。

しかるに、


 「 仏陀は 決して 一切の打算から 生れはしない。

   無限の衆生の闇に対する大慈悲 と み法に対する智慧からのみ 生れる。


   (乃至) 無理や邪見から 生れはしない。

   (乃至) 聖なる法身以外に 仏陀を誕生せしめはしない。 」(先師)



この、我(が)の自己を守り 救わねばならない 衝迫よ。

気付いて見れば、堪koraえ性もなく 懈怠ketaiの淵に呑まれている者よ。


これを 親鸞は、

生死海(しょうじー)と言い、 煩悩海と言う。



 「 まことに 法蔵(菩薩)の本願こそは、

   微塵の汚れなき 清浄syoujyou真実なる 仏心の、 人生における具体的表現である。

  
   無明煩悩の中に ありつつ、

   それに染まらぬ 聖なる 白蓮華byaku/rengeである。」(同上)



この 世間の穢悪(えあく)の状況が、「聖なる魂」の誕生を碍smataげているのだ と思う。

‘環境を変えよう’‘これを改善しよう’ と。


また、‘これ(この者)あるが故に 正義が行われないのだ’

‘これ故に 私の心は 乱される’ と。


しかし、これでは 仏法になっていない。

仏法の門の外で ウロウロしているのだ。 仏法を語る 資格はない。 



 「 聖なる心蓮華shin/rengeは、 濁悪の泥の中にこそ 開くのであった。」(同上)

なむあみだぶつ


                      
                                 合掌

    **参考:賽の河原 
       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E3%81%AE%E5%B7%9D




              ● kyomu- の アッピール ●

                  原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう! 

                  ―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい! 

                        子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――





 

   

コスモスの花

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  〜〜〜〜〜〜


今 庭に コスモスの花が 咲き乱れている。 

これを、昨年 咲いていたコスモスと同じだ と、ぼんやりと見ている 私に、

峻厳たる業道は、昨年のそれではないことを 告げ知らせる。



それが如何なるものであっても、 物は 今しか存在しない。

コスモスは 毎年咲くが、 

それは コスモスという種のDNAが、そのようなことを実現させるのではない。



今年のコスモスの花は、 昨年の業を背負って 今 咲いているのである。

太古より変らない 現象界の外にあるDNAに 操られて、

それは 咲いているのではないのである。



今 庭に咲き乱れている コスモスの花たちは、 

どれも 昨年のコスモスではない。

私は DNAという物質ではなく、また 昨年の私が もはや 永遠に帰って来ないように・・・。

 


@ 科学者の好奇と人間の利益のために、DNAをいじる 最近流行りのバイオテクノロジーは、
現象界の外に 素粒子を想定することで 物を自己の理解&管理可能なものとしようとする世界
に対する偏執狂的な態度の 一つのバリエーションである。

物理学の認識は 現象の外に 素粒子を措定することで成立つが、このような物に対する態度
は、人間の 己を知らない 誤った態度である。 

自己が何であるかも知らずに 自己の外の物が知られる という独善が、今日の科学を発展
させ、自己をDNAの産物と見做す 愚かな認識となり、世界の根本的誤認にまで至っているのである。

人々は、科学に抗議せねばならない。‘ 私は、DNAに操られるような存在ではない! ’と。
そして、この科学の魔法に跪拝して その魔術の使徒の奴隷となって 生きるべきではない!
我々人類は、科学技術の支配から 精神的に独立して 自由になるべきである。

( 素粒子とか DNAとかは、かっての西欧人を支配した創造神の死体を 人間が復活させた
  前よりももっと出来そこないの世界創造原理である )




                                合掌


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