混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

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断章ー淋しさと寂しさ

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 「 人生そのものの 寂しさに生きる 」 ということ

                     〜〜〜〜〜〜


智慧の眼に映る 自己&世界 と 肉眼や知性で見る 自己&世界 とが 私にはある。


外へ外へと 猥雑な世俗的自己に生きる わが相を 照らしだされ、

<我々>の 「われ」 から <我一人>の 「われ」 に帰るとき、


「 何ものをもっても 置き換えることの許されない 寂しさに 耐え忍び、

  人生の実相に 目覚めて、もっと深い世界に 歩みを運ぶ者こそ、

  やがて 救われゆく人 でなくてはなりません。」(先師)


 

「寂しさ」とは、自らの現実(宿業)を 受容した相であろう。


     欲望は、それに富と権力など それを実現する手段を与えれば、

     この地上の あらゆる秩序を 破壊する。


     我々においては、たった一つの欲望 の断念さえも、

     身を切られるよりも 辛く、 時に 命を奪われることに 等しい。


     こうした 欲望というものがもたらす 自己矛盾を、 <苦> と言う。



生の虚偽性を 照らしだされるとき、


何処にも 逃れられず、 何ものをもってしても 癒されず 

埋め合わせできない 「絶対の孤独」 ともいうべき 「寂しさ」 を感ずる。


「寂しさ」は、欠落感情ではない。

欲望が障えられて 断念せざるを得なくなった時の 不満感情である「淋しさ」ではない。


「淋しさ」は、日常 つねにあることである。

それを 私は、何かで置き変えて 紛らすことで、 やっと生きているのである。



「 その時 その時の 淋しさや苦しさを 誤魔化して生きてゆくことは、

  決して 真実に生きることではない。」(同上)



「 何かで 置き換えられる 淋しさの中に 」 私は、

生温かい 「 仏の観念を抱いて 慰安場所としている 」 のではないか?


まことに 仏教は、

「 淋しさに耐えかねて、淋しさを 無くすることに 紛らすことに、使われていたのです。」



すなわち、「 必ずしも 仏教でなくても よかったのです。」

この 生の虚偽性! ――― (仏)法で 動いているのではなく、 煩悩で 動いているのである。



                         ** 「 」内: 先師の言


                                合掌

  

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                  ―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい! 

                        子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――
  

釈迦・諸仏の弟子

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なむあみだぶつ

卑しいかな、 わが心想よ。


ここに、世に背を向けて 深い穴に堕ち込み、

一人の逸楽を貪ろうとしている。



哀れむべし、 悲しむべし。

これが、「 釈迦・諸仏の弟子 」 であろうか?!


釈尊・諸仏を煙たがって、 これを 自らの世界から排除し、

ここに、放逸と自堕落を決め込んで、 分ったようなことを喋々としている この者よ。



申しわけありません。

なむあみだぶつ



その全貌を知る由yosiもないが、

私の生活全体が、間違ってなされています。



あぁ! この 欲多く 徳なき者よ。 この 心 定まらぬ者よ。

日常生活の どこに善なるものが 見出せるというのか?!


目を覚ませ! 

わが遺漏irou多きを見ず、 漠然と 自己を善なるものと決め込む この暗愚。



種々なるものへの愛着に 随って、 日を過ごしている この者に、

如何なる価値があり、 如何なる権利が あると言うのか?!


どこにも転がっている石のように 取り立てて価値あるものではなく、

この社会においては、 代替え可能な 機械の部品のようなものであろう。



この世における この者の悲惨は、 しかし ここにあるのではない。

それらは、それ相応に 私を 煩わせ悩まし、 


日々 私を引き摺り回すのであるが、 

そうしたことが 私の悲惨ではない。



私の 本当の悲惨は、 清浄真実なるものを 無視し、

如来の御意(おんこころ)を 踏みにじって 生きているということなのだ。



何の価値も 権利もない 汚穢の者を、

無上の価値あるものに 変え成すのは、


私ではなく、この世の誰かor何か ではなく、

まさしく 如来の大悲本願の力 であるものを!



「 無過念仏往西方 (乃至)  直為弥陀弘誓重  致使凡夫念即生 」(法事讃)

< 念仏して 西方に往くに過ぎたることなし (ないし)
          gujei kasa
  ただ 弥陀の弘誓 重なれるをもって、凡夫 念ずれば 即ち 生ぜしむることを致す >

と、善導は 言っている。



                              合掌

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  昨夜 NHK TVで 五木寛之氏の案内による 「 21世紀・仏教への旅 」を見ました。

 フランスに 弟子丸泰然師が伝えた禅仏教や、 文化大革命で破壊された中国禅の 今を
 紹介していました。


 この番組を見ての感想を いくつか述べたいと思います。



◎ まず、フランスにおける 弟子丸泰然師の働きに、 私は‘ 実に ありがたいことだ!’
と感謝せずにはおれません。 まさに‘仏教とは 如何なるものか’ということを、カトリックの国
フランスでの師の活動は、極めて明らかに 我々に示しています。


 師は ‘フランスが風邪を引けば、全欧州が風邪を引く’とまで言われた 革命の国フランスで 

  < 自分と世界を変えたいと思ったら、まず 黙って座れ >

と言いました。  
   ( 記憶を頼りに書いていますから、以下 その言葉に多少違いがあるかもしれません。
     間違いがあれば、ご指摘ください。)

  ――― 1968年の5月革命に参加した 当時学生だった女性へのインタビューのなかで
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD
    
    

 また、はじめ知識人が相手の 禅の紹介に限られていましたが、いつの間にか 知識人のワク
を越えて 禅は フランス社会のなかに浸透していきました。
 彼らは 禅のどこに魅力を感じたのか? ということですが、 それは 心の安定 と
簡素な生活 でした。 禅に惹かれたフランス人たちは、 

  ‘ そこに 「 宗教 」を 求めたのではない ’ 

 という 驚くべき吐露をしています。
 
 また、‘ カトリックの仰々しい儀礼に対する 拒否意識があったのだ ’ と。

 これは、逆に言うと キリスト教からは <心の安定> が得られないということでしょう。

 また、近代合理主義の国フランスにおいて理想とされた生活が、その<簡素さ>を 蔑ろに
しているということでしょう。

 さらに、彼らは 「 宗教 」に飽き飽きし、 これが 彼らの生活を 満ち足りたものになし得ない
と感じているということでしょう。

 そして、さらに驚くべきことは、彼らは 禅仏教を「 宗教 」とは見做していないということです。
私は、この番組を見て このことが 一番 心に沁みました。そして 彼らが 何の気もなしに
語ったこの言葉に 深く考えさせられました。
 我々は 仏教を宗教の一つだと教えられ、自らも そう考えてきました。それ故 フランス人が
仏教を 宗教とは見做してはいないということに、始め ‘彼らは 仏教をよく理解せず その表層
に興味を持ったに過ぎないのではないか?’と、私は思いました。

 しかし、これは 私の間違いのようです。 彼らは 真摯に禅仏教を理解しようとしており
決して興味本位のことではなく、その本質に肉薄しようとしていました。


 弟子丸泰然師は 言います。

 < 私は フランスに 禅の‘種’を伝えたに過ぎない。 
   この種は やがて フランスの花を咲かせなくてはならない >

と。 また、

 < 私は、 カトリックの人々に  その信仰を より高尚なものにするための
   手助けをしに来たのである >

と。

 こうした、所謂キリスト教的に言えば 伝道の方式は、キリスト教徒にとっては理解できない
ものでしょう。 彼らキリスト教徒は 自己の信念体系を 無謬のものとし、異教徒に対して その親切心から、自己の信念体系と違うものを 乱暴に否定し、キリスト教の信念体系を 唯一の
ものとして 強引に 受け入れさせようとします。
上の 弟子丸師のような言葉を 彼らは なかなか言えませんし、それを実行できません。
( ただ かのマザー・テレサは、まさに こうしたキリスト教の自己主張と押付けという問題に
気付いていた人でしょう )


 彼らフランス人の言う「 宗教 」は、キリスト教的概念の宗教です。
宗教は、英語では religion すなわち再結合という意味でしょう(私は仏語を知りません)。
罪を犯して楽園追放にあった我々が、救世主イエス・キリストへの信仰によって 創造神の意思と 再び一体となる ということでしょう。

絶対者との関係(=信仰)が これ以外にはあり得ないという 彼らの伝統的な考え方に立てば 
〜 それが religion というものでしょう 〜 、確かに 仏教は religion宗教ではありません。
   

  我々 日本人においても、「 宗教 」という言葉によって 多くの混乱が起きています。
我々は 宗教という言葉を、一体 如何なる立場・信念体系のもとに使用しているのか、を 十分注意しなくてはなりません。 
 それとともに、‘(禅)仏教は 宗教ではない’というフランス人の言葉には、彼らの 深い洞察
と 切実な苦悩があることを 我らは 理解せねばなりません。

 さもなければ、弟子丸師の言(仏教)の 本当の深さを、フランス人たちが理解したほどにも 
理解していないということになるでしょう。そして 彼の言を詭弁としか見れないというテイタラク
となるでしょう。


 私は 親鸞の徒ですが、 弟子丸師の こうした言に 少しも違和感がないどころか、
‘ これこそ 仏教だ! よくぞ言って下さった! 親鸞とても 同じように言うだろう ’ 
と思います。
( ただ、最初に挙げた 彼の言は,‘ 自己と世界を変えたければ、ただ念仏せよ ’と言うでしょう。 本質的には これと弟子丸師の言とは 同じことですが・・・。 ) 


 ** 中国仏教についての番組への感想は、割愛します。




                              合掌




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宿業

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この大地に、人類として 或は 男として 女として、生死するという 

厳然として これ以外の生き方はできない 私の現実を <宿業>と言う。


しかも、日本人として、鎌倉時代ではなく 戦後の1951年に

かくかくの両親から生まれたという さらなる特殊性を受けて存在しているのだ。


宿業というものは、このように

他に代替不能の 極めて 特殊なものの謂iいであろう。


私においては、父母は 普通名詞で表わされるものではなく、

この父 この母であり、それ以外のものではない。


他のことに紛れて、その存在を忘れても、

私の好き嫌いで それを変えることはできないものである。



この<差別性>と<唯一絶対性>の鉄鎖に繋縛されて、実に奇妙な事態に 私はあるのです。

父ー子  母ー子  父ー母 との今生での関係という この宿業。


人は 病というものに罹り、死すべきものだという、そういうものだというのが 宿業である。 

いくら社会的に自由を与えられても、思いの如くならない 限界状況というものがあるのだ。



しかし、世間が 我々を そのワクに封じ込めようとするごとく、

母は母のままで 父は父のままで、子は子の 妻は妻の 夫は夫のままで死んでは 救われぬ。


差別性に閉じ込められたままでは、その世界は 愛着の世界であると共に 怨念の世界である。

人は 誰も その境遇のなかで、多くの怨念を 隠し秘めているものである。


母は母のままでは 救われない。 父は父のままでは救われない。

子は子の 妻は妻の 夫は夫のままでは救われない。


母は 自己を否定して 母でなくならねばならず、 父は 自己を否定して 父でなくなり、

子は子でなくなり 妻は妻で 夫は夫でなくならねば、その者の救いは ありえない。



我々は 宿業の鉄鎖から 解き放たれなくてはならないのだ。

しかし、これを実体的な形をもって為そうとするのを 外道 と言い 小乗 と言う。


この変更不可能な宿業の鉄鎖からの解放を 富や権力や医学とかでするのでもなく、

また 死をもって したりするのではないのだ。


人は 母のままで 死んではならない。 父のままで 死んではならない。

子のまま 妻のまま 夫のままで 死んではならないのだ。


我々は みな このような課題をもっていたのであった。

なむあみだぶつ




                              合掌




               

自堕落

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なむあみだぶつ

仏法を聞くということは、私の業苦を 他の誰彼、

釈尊とか 親鸞とか 師とかに 負わせようとしていたのだ。


日常では 自堕落な生活をしながら、

仏法の前に出れば、何か シャキッとした自分となって、

真面目な振りをする この化け狸。


こうした自分に ジリジリと炒られつつ 今日を過ごす。


私が 「 煩悩具足の凡夫 」であること、

私の周りが 「 火宅無常の世界 」であること、

――― こうした現実が 覆われて、夢遊病者のように、足のない幽霊のように、日々を渡る。


この人生逃避を 密に 或は 明らさまに 企てるものが、

わが身を 乗っ取っているのである。

まことに、無責任で 厚顔無恥の このもの。


なむあみだぶつ

み仏さま、これがための法蔵菩薩の誓願であったろうに、

み仏さま、私は このことを認めようとしないのであります。


わが内に 恐ろしい罪悪を抱えつつ、

これに 眼を覆って、架空の自己を 自己として 生きているのであります。

そして、この自己の 虚妄であることを、固く認めようとしないのであります。



如来は 彼岸から、 常に

「 汝 一心正念にして 直ちに来たれ、 我よく 汝を護らん 」

と、私を 招喚したもうている。


よき師・よき友は 此岸にあって、様々な事に寄せて、

「 きみ、ただ 決定ketujyouして この道を尋ねて行け 」

と、私を 勧め励して 下さってきたし、今もまた 下さっている。


こうした声は、朗々として 宇宙に鳴り響いているのだが、

どうしたことか、み仏さま、 私の心には 少しも響いて来ないのです。

真実なものを、無味乾燥の魅力のないもの 死の世界のものと 感じ、


真実の声に 耳を塞ぎ 心を閉じて、

ここに 一時の安逸を 盗もうとする、

自堕落なるかな。



あぁ、実際の生活において、

この、自己正当化の 責任転嫁の 卑しく恥ずべき私よ!

他人に対して 冷酷この上ない 私よ!


然るに、これは 当座 如何に真摯で 苦痛なものであろうとも、

私の一部を 切り取った認識であって、

私の存在全体の認識ではないのであります。


「 外に 賢善精進の相を現ずることを 得ざれ、

  内に 虚仮を懐きて 貪瞋邪偽 奸詐百端にして、 悪性やめ難し、事 蛇蝎に同じ

  三業を起すと雖も、名けて<雑毒の善>となす また<虚仮の行>と名つく


  <真実の業>と 名けざるなり 」

と、親鸞は 露堂々と 自己の全体を 表白している。

なむあみだぶつ 


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