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「 人生そのものの 寂しさに生きる 」 ということ
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智慧の眼に映る 自己&世界 と 肉眼や知性で見る 自己&世界 とが 私にはある。
外へ外へと 猥雑な世俗的自己に生きる わが相を 照らしだされ、
<我々>の 「われ」 から <我一人>の 「われ」 に帰るとき、
「 何ものをもっても 置き換えることの許されない 寂しさに 耐え忍び、
人生の実相に 目覚めて、もっと深い世界に 歩みを運ぶ者こそ、
やがて 救われゆく人 でなくてはなりません。」(先師)
「寂しさ」とは、自らの現実(宿業)を 受容した相であろう。
欲望は、それに富と権力など それを実現する手段を与えれば、
この地上の あらゆる秩序を 破壊する。
我々においては、たった一つの欲望 の断念さえも、
身を切られるよりも 辛く、 時に 命を奪われることに 等しい。
こうした 欲望というものがもたらす 自己矛盾を、 <苦> と言う。
生の虚偽性を 照らしだされるとき、
何処にも 逃れられず、 何ものをもってしても 癒されず
埋め合わせできない 「絶対の孤独」 ともいうべき 「寂しさ」 を感ずる。
「寂しさ」は、欠落感情ではない。
欲望が障えられて 断念せざるを得なくなった時の 不満感情である「淋しさ」ではない。
「淋しさ」は、日常 つねにあることである。
それを 私は、何かで置き変えて 紛らすことで、 やっと生きているのである。
「 その時 その時の 淋しさや苦しさを 誤魔化して生きてゆくことは、
決して 真実に生きることではない。」(同上)
「 何かで 置き換えられる 淋しさの中に 」 私は、
生温かい 「 仏の観念を抱いて 慰安場所としている 」 のではないか?
まことに 仏教は、
「 淋しさに耐えかねて、淋しさを 無くすることに 紛らすことに、使われていたのです。」
すなわち、「 必ずしも 仏教でなくても よかったのです。」
この 生の虚偽性! ――― (仏)法で 動いているのではなく、 煩悩で 動いているのである。
** 「 」内: 先師の言
合掌
● kyomu- の アッピール ●
原子力発電を やめよう! & 六ヶ所村再処理施設を 止めよう!
―――― 欲望の奴隷になって、冷静な判断を失うまい!
子孫に 我らの負債を 残すまい! ――――
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