|
―――――「 是心 則摂一切世間出世間法 依於此心顕示摩訶衍 」―――――
この衆生心 ie.私の心は、無明煩悩(染zen)も真実清浄(浄zyou)も共に、それに依って
いるもの(染浄同依)である。
義記は < 随流ru・反流、唯taだ 此koの心を転ず > という。
無明煩悩が展開して 惑・業・苦waku/gok/kyuと 迷いを深めていき(随流)、
また “君は、それでよいか?” という よき師・よき友の声を聞いて 聞・思・修mon/si/syuu
と 真実の生き方・存在の故郷を尋ねていく(反流)ーーー
こうしたことは、どれもこれも一切、是の心(私の心)をはずしては無い。
それを「 摂す 」 という。
また、自分の出自がどうだから、親がどうだから、周りの家族や職場がどうだから、学歴・
教養がどうだから、地位や富がどうだから、時代がどうだから・・・ 自分は 随流し、また
反流するのだ、というのではない。
そんな責任転嫁や独善ではなく、この世の一切のことを、この一心に「 摂する 」のである。
現に摂しているし、 また かりに 何かor誰か摂していない(あ奴は、顔も見たくない!
あ奴のこと・あの事は思出すのもイヤだ! と無視する) ならば、そういうことによって
展開する私の状況の結果というものは、やがて 私が引き受けねばならない。
(摂する〜〜この場合は、世間法を摂する)
‘ この私の心の外にあって、心に摂することができないようなものはないのだ ’と論は
言っているのだ。これは、かの釈尊の 天上天下唯我独尊tenzyoutengeyuigadokusonに匹敵する
恐るべき宣言である。
したがって、
「 この一心の宗本の法の上において、大乗の三大の義を顕示するなり 」(義記)と。
この私の心の上において、大乗というものの義理(大いなる大乗の世界 〜〜 論はこれを
三つの大として説く)を顕すことができるのだ。と。
どうして、このようなことができるのか?
義記はここで、2つの疑問を提出している。
「 心は染浄zenzyouに通じ、大乗はただ浄なり。如何ikanぞ、この心 能yoく大乗の義を顕すや?
また、心法は これ一にして、大乗は広し。如何ぞ、この心、能く義を示すや? 」と。
〜〜〜 初めの問いは、大乗は 真実清浄(ウソ偽りのない穢さのない)の世界である。
しかるに、私の心は ある時は自分の人生に真面目になり、 また ‘これではいけない、
なんとかしなければ!’ と危機感を懐いて発奮したり、他人に対して深い同情心を起こす
こともあるが、
しかし 大抵は、人からよく思われたい・悪く思われたくないとか、利害打算で人を騙し
人の好意を裏切り 踏みにじるようなことを平気でなし、責任を他に転嫁し 自己を非理に
正当化して恥じることもなく、怠惰で我儘である。
何を思おうが 何を言おうが 何を為そうが < みなもて、そらごと たわごと まこと
あることな > い者である。
どうして このような私が、その生活の中に真実清浄(大乗の義)を顕すことができようか?!
ということであろう。
〜〜〜 次ぎの問いは、私は、教養も浅く経験も乏しく、しかも日本人であって中国人でも
インド人でもアラブ人でも英人でもソマリヤ人でもない。また人類であって猿でも鶏でもない。
しかし大乗は、この世のありとあらゆるものを その内容としており、それぞれの苦悩に
平等に大悲共感する能力そのものである。
このように、内にあらゆるものを包み込む広大なる大乗を、どうして この区々たる私の心
が顕すことができようか?! ということであろう。
ーーーーーこの疑問に、論は
「 何以故 是心真如相 即示摩訶衍体故 是心生滅因縁相 能示摩訶衍自体相用故」
と答える。
義記は これを、その初めの問いに対して、
「 大乗は、浄なりと雖iedoも、相sou用yuuは 必ず染に対して成ずるが故に。
今、生滅門中に既に具tubusaに染浄を含む。故に、能く顕すなり。
染を廃するの時、則ち浄用zyouyuu無き故に。此れ初意を釈するなり。」と。
|