混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 1.

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   ―――――「 是心 則摂一切世間出世間法 依於此心顕示摩訶衍 」―――――                              
 この衆生心 ie.私の心は、無明煩悩(染zen)も真実清浄(浄zyou)も共に、それに依って
いるもの(染浄同依)である。
義記は < 随流ru・反流、唯taだ 此koの心を転ず > という。
無明煩悩が展開して 惑・業・苦waku/gok/kyuと 迷いを深めていき(随流)、
また “君は、それでよいか?” という よき師・よき友の声を聞いて 聞・思・修mon/si/syuu
と 真実の生き方・存在の故郷を尋ねていく(反流)ーーー
こうしたことは、どれもこれも一切、是の心(私の心)をはずしては無い。
それを「 摂す 」 という。       

また、自分の出自がどうだから、親がどうだから、周りの家族や職場がどうだから、学歴・
教養がどうだから、地位や富がどうだから、時代がどうだから・・・ 自分は 随流し、また
反流するのだ、というのではない。
そんな責任転嫁や独善ではなく、この世の一切のことを、この一心に「 摂する 」のである。

 現に摂しているし、 また かりに 何かor誰か摂していない(あ奴は、顔も見たくない! 
あ奴のこと・あの事は思出すのもイヤだ! と無視する) ならば、そういうことによって
展開する私の状況の結果というものは、やがて 私が引き受けねばならない。
(摂する〜〜この場合は、世間法を摂する) 

 ‘ この私の心の外にあって、心に摂することができないようなものはないのだ ’と論は
言っているのだ。これは、かの釈尊の 天上天下唯我独尊tenzyoutengeyuigadokusonに匹敵する
恐るべき宣言である。

したがって、
「 この一心の宗本の法の上において、大乗の三大の義を顕示するなり 」(義記)と。

 この私の心の上において、大乗というものの義理(大いなる大乗の世界 〜〜 論はこれを
三つの大として説く)を顕すことができるのだ。と。                                                                         

 どうして、このようなことができるのか? 

義記はここで、2つの疑問を提出している。                            
「 心は染浄zenzyouに通じ、大乗はただ浄なり。如何ikanぞ、この心 能yoく大乗の義を顕すや? 
また、心法は これ一にして、大乗は広し。如何ぞ、この心、能く義を示すや? 」と。                                   
〜〜〜 初めの問いは、大乗は 真実清浄(ウソ偽りのない穢さのない)の世界である。
 しかるに、私の心は ある時は自分の人生に真面目になり、 また ‘これではいけない、
 なんとかしなければ!’ と危機感を懐いて発奮したり、他人に対して深い同情心を起こす
 こともあるが、
 しかし 大抵は、人からよく思われたい・悪く思われたくないとか、利害打算で人を騙し
 人の好意を裏切り 踏みにじるようなことを平気でなし、責任を他に転嫁し 自己を非理に
 正当化して恥じることもなく、怠惰で我儘である。
 何を思おうが 何を言おうが 何を為そうが < みなもて、そらごと たわごと まこと
 あることな > い者である。
 どうして このような私が、その生活の中に真実清浄(大乗の義)を顕すことができようか?! 
 ということであろう。                                         
〜〜〜 次ぎの問いは、私は、教養も浅く経験も乏しく、しかも日本人であって中国人でも
 インド人でもアラブ人でも英人でもソマリヤ人でもない。また人類であって猿でも鶏でもない。
  しかし大乗は、この世のありとあらゆるものを その内容としており、それぞれの苦悩に
 平等に大悲共感する能力そのものである。
 このように、内にあらゆるものを包み込む広大なる大乗を、どうして この区々たる私の心
 が顕すことができようか?! ということであろう。                                                          
ーーーーーこの疑問に、論は
 「 何以故 是心真如相 即示摩訶衍体故 是心生滅因縁相 能示摩訶衍自体相用故」
  と答える。     

  義記は これを、その初めの問いに対して、
 「 大乗は、浄なりと雖iedoも、相sou用yuuは 必ず染に対して成ずるが故に。
  今、生滅門中に既に具tubusaに染浄を含む。故に、能く顕すなり。
  染を廃するの時、則ち浄用zyouyuu無き故に。此れ初意を釈するなり。」と。                                                                       

大乗とは何か?
 
――― それを 大乗というものそれ自体(法) と 大乗というものの義理・わけがら(義)
の二方面から、 論は 解き明かしていこう、というのである。                   

そして、まづその法である。    

〜〜〜 「 所言法 謂衆生心 」 と。
この大乗の「法」ie.自体は、衆生心であるという。 私の心である。 日頃の私の心が、大乗
である、と。

 しかし、もしそうなら、この身このままで、何の問題も無いのか? 
何の修行も苦労も要らないのか? そうならば、どうして この論を造る必要があったろうか?  
こういう疑問が当然出てくる。                                   

これに対して、前に、義記の答えを出したが、
さらに 
 「 如来蔵心、和合不和合の二門を含む。その衆生の位に在るを以っての故に。
  もし、仏地に在れば、則ち和合の義無し。 始覚、本(覚)に同ずるを以って、唯だ是れ
  真如なり。即ち所顕の義に当るなり。 今は、随染zuizenの衆生位の中に就くが故に、
  その二種の門を具するなり 」 と言っています。                                
 ここに、如来蔵・和合・始覚・本覚など、この起信論に特有の言葉が出ていますが、
今はこれに立ち入りません。 
ただ、ここに、「衆生の位にある」「今は、随染の衆生位の中に就く」と言っています。また、前には「大位、因にあるなり。染浄に通ずるのみ」と言っています。                

 ーーー 仏教は難しい非日常的な言語をさかんに使っています。
  何故 こんなわけの解らない言葉を使うのだろう? 
  坊主が箔をつけ、民衆を惑わすために 敢えて難しい言葉を使うのだろうか?
  或は、仏教そのものが、選ばれたエリートの宗教で、特別の生まれつきの才能を持って
  いなければ解らないものなのであろうか?
  また、特殊な 例えば千日回峰行のような修行をせねば、解らないものなのであろうか?

 ――― 普通に言われる 仏教の難しさのこうした理由は、どれも間違っている。
  こういう理由をもって対している限り、仏教は解らないものとなります。
  仏教のわからなさの原因は、私自身にあるので、坊主や仏教の非日常的な言葉や生れつき
  の才能や特別な修行をしないことにあるのではない。
  その意味で、仏教は極めて現実を重んずる宗教である。
  その思考・問題意識は日常の私の現実から出発する。
  何か、神とか仏とか超越的なものから思考を始めないのである。物事の理由付けをそれに
  求めない。
  もし、仏教の教えを聞いて、それが私の現実と一致しないのであれば、現実を教えに合せ
  るような無理なことをしない。

  その場合、その教えが間違っているか、あるいはその教えを誤解している(私の聞き方が
  間違っている)か のどちらかである。
  
  この検証作業を修行と言うのである。 ーーーー                                             

  今 ここで、大乗という 仏教の根本を説くのに、この卑近な日常の私(随染の衆生位)
 を、つまらないものと弊履の如く捨て去り無視するのではなく、むしろここから出発する
 のである(大位、因にあるなり)。
 ここに大乗の最も大事な原点があるのだ(宗本の法なり)と。
 この様々な葛藤に苦しみわが現実を受取れないで右往左往している私が、大乗の法体(因)
 なのだ。と。                                                         

 この私の心を、何故 大乗というのか? 
〜〜〜論主は 「 是心 則摂一切世間出世間法 依於此心顕示摩訶衍義 」と。    
 これについて、義記はまづ、
 「{摂一切世出世法}とは 法の功能kunouを弁ず。其れ この心は、体相無碍・
  染浄zenzyou同依・随流反流、唯だ 此の心を転ずるを以って この故に、もし 染に随いて
  不覚を成ぜば 世間法を摂す。 不変の本覚及び反流hanruの始覚は、出世間の法を摂す。
  此れ、猶 生滅門に約して弁ず。
  もし 真如門に約せば、則ち鎔融含摂して染浄殊kotonaること無し。
  故に通じて摂するなり 」と。 
 すなわち、法(衆生心)の功能(はたらき)から、その大乗たることを説明するのである。
 前に、この衆生心は、<染浄に通ず>と義記は言っていた。  
 染とは煩悩悪業、浄とは真実。煩悩に押し流されていくのも(随流zuiru)、
 “これではいけない!”と菩提心を発して、真実に向ってガンバッていくのも(反流hanru)、
 私である。私の心である。  
 前者は、<染に随いて不覚を成ず> 貪欲・瞋恚sinni・愚痴(三毒煩悩)の支配に屈し、
 日々 生きる方向性を見失っている生活(世間法)。後者は、<不変の本覚及び反流の始覚> 
 生きる方向性を尋ねていき、或は その方向性を見出して生きる生活(出世間法)。
 両者とも、私の心内のことであり 外の私の境遇に依らない故に、「是心 則摂一切世間
 出世間法」というのだ、と。                                   

已説因縁分 次説立義分。
摩訶衍者 総説有二種  云何為二。 一者 法、二者 義。
所言法者 謂衆生心。 是心 則摂一切世間法・出世間法
依於此心 顕示摩訶衍義
何以故。 是心真如相 即示摩訶衍体故
是心生滅因縁相 能示摩訶衍自体相用故


所言義者 則有三種 云何為三。
一者 体大、謂一切法真如 平等不増減故
二者 相大、謂如来蔵 具足無量性功徳故
三者 用大、能生一切世間出世間善因果故
一切諸仏本所乗故、一切菩薩皆乗此法 到如来地故 
ーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 已sudeに因縁分innenbunを説きたれば、次に立義ryuugi分を説かん。
摩訶衍makaenには、総じて説かば 二種有り。云何ikanが二と為すや。一には 法、二には 義なり。 
言う所の法とは 衆生心を謂iう。 是の心は、則ち一切の世間法と出世間法を摂すれば、
此の心に依りて 摩訶衍の義を顕示するなり。 
何を以motての故に。是の心の真如の相は、即ち摩訶衍の体taiを示すが故なり。 
是の心の生滅syoumetu因縁の相は、能yoく摩訶衍の自の体相用yuuを示すが故なり。・・・・。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー              
 
 前回で 「因縁分」を終り、今回から 正宗分の第二章である「立義分」に入ります。

 前の因縁分では、< どうしてこの論を造るのか? 誰を相手に語るのか?
−−−− 仏滅後の とうてい仏教の器ではない 迷い(=疑と邪執)の深い 苦悩(=一切苦)
の者(衆生)のために造るのだ。> ということを 述べられていました。

 そして、次に この立義分では、この論の大綱を述べられます。
 すなわち、この論の題名は 「 大乗起信論 」 であったが、
その 「 大乗 」 と 「 起信 」 について、その大枠を語る(論)のです。                                             

「 摩訶衍者 総説有二種 一者法 二者義 」

 海東疏は
 「 正しく二の章門を説く。謂く、法と義となり。
   法とは、是れ 大乗の法体。義とは、是れ 大乗の名義なり 」 と。

 摩訶衍makaenとは 大乗のこと。

 義記は この大乗法体を 「 自体の故に、智に対するが故に、義を顕わすが故に、
  即ち 宗本の法なり。 大位 因に在り。染浄に通ずるのみ 」

 また、大乗の名義を 「 謂く、何故ぞ 此の心は、是れ大乗なるや。謂く、此の心の内に 
  二大を具す。故に名づけて 大と為すなり。 二の運転有り。故に乗と名づくなり。
  即ち、宗に依りて顕す所の差別の義理なり。大位 果に在り。唯だ浄をとるなり。
  是故に、大乗は 総説するに 二有り。
  謂く、先に法体を顕し、後に義理を釈す。 義を収るに足るなり 」 と。          

 いよいよ、本論に入ってきました。上の漢文(読み下し文ですが)、難しいですね。

 〜〜〜 釈尊は、サンスクリット語で また南方上座部(今日の南アジアの所謂小乗仏教)の
   パーリ語で説かれたのではなく、ガンジス川中下流域のマガダ方言の言語で、その教を
   説かれたといいます。
   そして漢訳仏典は、仏滅後ずっと後に サンスクリットで書かれた仏典を さらに翻訳
   したものであり、その信頼性に疑問を持つ学者達によって、今日 サンスクリット語や
   パーリ語からの日本語翻訳が出版されるようになってきました。

   今日の我々は 漢文の素養もなく、学者によって十分な考証のなされた この釈尊の時代
   に近い形を再現した翻訳本によって、仏教を理解しようとする人も出てきました。

   しかし、これらの翻訳は 学門的に厳密な考証がなされた、いわゆる学者の翻訳であり、
   仏教がわかっていない人の翻訳であるため、形は正しく写し取ったとしても、それが
   どんな固さ・どんな味のものか、ちがう形のものが 同じものから出来ているのか
   違うものなのか、といったことが 少しも表現されていない。

    鳩摩羅什の法華経などは、サンスクリット原典の逐語訳ではなく、意訳であることは
   有名な話だが、かえって この羅什訳の躍動感ある法華経が 東アジアの仏教に巨大な
   影響を与えたのでした。  
   したがって、われわれは 多少労わしくても漢文に慣れましょう。
   われわれに一番近く信頼性がある仏教は 漢文で書かれた仏教なのである。
   勿論、日本人の仏教者が、日本語で語った仏教もありますが、その言葉の背景には
   やはり漢訳の仏教が横たわっているのです。
                            〜〜〜                                 

 まず、大乗の法体について。論は 「 言う所の法とは、謂く、衆生心なり 」 と。
 海東疏は
  「{法者謂衆生心}とは、自体を法と名づく。 今、大乗中には、一切諸法 皆自体無し。
   並びに、一心を用いて、其の自体と為す 」 と。                                   
 論主は言う。 “大乗とは、衆生心である。”と。・・・・????。  

衆生とは、他ならぬ私のことである。

また、ここで 大乗とは、その経典や儀礼や修行方法やその伝統習俗のことではなく、小乗に
対する大乗仏教のことを言っているのでもない。
しかし 我々が知っている大乗とは、師に就いて 永く厳しい修行をして、色即是空・空即是色
の道理を悟り 無生法忍を得て(自利)、この娑婆世界に還り 最後の一人が救われるまで
仏にならぬie.涅槃に入らぬと 衆生済度の行をする(利他) いわゆる菩薩の誕生をめざす
ものであろう。
大乗は 六波羅蜜の行(=自利利他の行)をする 人間世界では変り種の特殊な者である
この菩薩の所にあるものだと思っていたのだが・・・。                  

 大乗とは 私の心・・・????   一体 これはどういうことなのか?  
何を論主は、言っているのであろうか?                                                                                                           

―――(再び、釈尊滅後について)―――                                                              
‘ どのような理由があって、あなたは この論を造るのであるか? ’という批判に対して、
論主は 上のように答えを述べているのですが、 論主のこの答えは、逆に、
これから この論を読んでいこうとする 我々に対する重大な問題提起となっているのです。                           

 釈尊は、偉大な宗教的人格であった。
それを、論は 「 色身の業 勝れたれば、円音ひとたび演noぶれば 異類(さまざまな人や
他の生き物) 等しく解して、論ずるを須motiいず 」 と言っています。

それゆえ、当時の人々は、釈尊から直接感化を受けて その宗教的感性を引き出されて、
「 衆生は利根にして 」 と言うことができたのだ。

 これは、必ずしも釈尊にかぎらない。 どんな宗教であれ、いわゆる宗祖といわれる人や、
深い宗教的覚醒を得た人に就いて その教えを受ける場合にも、当てはまるであろう。                                           

 ところが、問題は その滅後であります。

 釈迦入滅後、すでに 2500年を経た今日に生きている我々ある。
しかも、所も違い 時代も違い 民族や言語も違い 文明も違う。 そういう人の語る言葉が、
仏教なのである。

勿論 たとえ 民族や言語や物の考え方が違っても、釈尊に 直接会うことができたならば、
「 円音一演 異類等解 」、その違いは 乗り越えられたであろうが、しかし今日の我々が、
釈尊のお意kokoroを誠実に解ろうとする時、そこに いかに大きな困難が横たわっているかは、
このことでも想像できるであろう。

 そして実際 その滅後 2500年にわたって、インド・西域・中国・朝鮮半島・日本列島等の
仏教徒は、仏道修行の過程で、釈尊なきことの あらゆる辛さと困難を自ら身をもって味わった
のである。                     

そういう彼等にとって、時間は 物理的時間ではありえない。
キリスト教徒にとって、暦は キリスト生誕を起点にせねばおれないように、ムスリムにとって、
その暦は ヘジラを起点にせねばおれないように、 仏教徒にとっても、またそうであったのだ。   

( キリスト暦は その誕生を、イスラーム暦は そのメディナ聖遷を、仏教は 仏滅をその起点
に選ぶのは、各宗教の特質をよく現している。 ところが、どうであろうか? 

この日本の我々は、維新後キリスト教徒になったわけでもないのに、キリスト暦を採用した。
今日我々は、これが キリスト教信仰の時間意識に裏付けられたものとは 少しも意識せず、
物理的時間と混同している。 否、我々は 無意識のうちに、この暦から宗教的なものを排除
しようとする結果、 宗教に対する極端な無関心or鈍感さと、科学に対する必要以上の思い
入れを懐いているように 私には思われる。 )                                     


 仏滅後の仏教徒たち(「根縁微劣」の者)は、4種類に別けられると論主は述べます。 
とにかく 釈尊の残された経に依ろうとする人々と、 もう経に依ることができず 後の人
(例えば論主)に依っていこうとする人々である。
これは 当然そうなるべきもので、どうして こんな当たり前のことを論主は記すのであろうか?
と不思議に思われるかもしれない。                                               

 ーーーー 義記は 前者を、「 具文義二持 」と「 有義持・無文持 」。
ie.釈尊という勝縁syouenは失われたが、まだその言行録たる経が残っている。これを縁として、
釈尊のお意kokoroを尋ねていこうというのである。 
この人々は 八万四千の経蔵kyouzouを、すべてに亙って聞いて(文持) その意を解す(義持)
者と、 経蔵の一部分を聞いて(無文持) 釈尊の意を解す(有義持)者とがある。と。     
 よく考えて見ると、この後の者とは 各宗派のこと。
 天台・法華は 法華経等の三部経に依り、 真言は 大日経等の三部経に依り、浄土は
大無量寿経等の三部経に依り・・etc.
すなわち、宗派が 誕生する必然性を、 論主は ここで語っているのであろう。

 仏滅後の我らが、本当の仏の意を解ろうie.真実とは何か?を自らの上に明らかにするとは、
このようなことなのだ。と。
それは、偏に 経の方(縁)に問題があるのではなく、その経を受取る我ら(根機)に問題が
あるのだと。 
( 科学を振り回す人は、‘釈尊も後の我らも、同じ素質をもつ人間だ’ と思って、
 このような精神世界のことに、極めて鈍感である。
 どうして彼らに我ら人間の運命を託してよかろうか! )                                                        

ーーーー 義記は 後者を、「 有文持・無義持 」と「 無文義持 」。
ie.彼らは、釈尊は亡くなられ 残された経はあるが しかし それを自分で読み取るだけの力
がない、 経をわが仏道の縁にすることができない者たちである。
したがって、もし わが人生の根本的解決を欲するならば、彼らは、釈尊ならぬ他の仏法者の
語ることを聞いて、それを縁として修行する他はない。 

 この人々は、ある 身近で具体的な人を わが師として その語ることを 長年に亙り
ゆくりなく聞くこと(有文持)で、釈尊の意を解そうとする者と、 
例えば 命旦夕にせまり 或は 日々の生活に追いまくられて とても教えを聞く時間さえ
与えられない(無文持)者とがある。と。                               


 このように、論主は述べる。どうして こんなことを言うのであろうか? 

 それは、この論を読む者に、自己省察を促しているのである。 
 < 君は、仏滅後の衆生(ie.釈尊に会えなかった者)だが、ならば、この四種類のうち、
  どれが君だろうか?> と。   
 < ‘そもそも この起信論は、大乗仏教の概論として 宗派を問わず 昔から多くの仏法者
  に重んじられ、東アジア仏教史のなかでも特異な働きをしてきた。
  そのような書を これから読もうとする自分は、まさに 選ばれたエリートと言うに
  ふさわしい。’と、君は気負ってはいないだろうね? 
  しかし私は、そのようなエリートのために この論を造ったのではないのだよ

  「 如是(第四番目の無文義持の者の楽negaiのために)、 
  此の論は、如来の広大深法無辺の義を総摂せんと欲するが為の故に、此の論を造る 」>と。                                         
                          

(後)「 若 如来滅後 〜〜 」

  義記は
  「{如来滅}の下は、根縁微劣にして、経を須motiい、論を須いること明かす。
  (乃至)第二に、劣の中に 四種あり。 初に、広略の二経、 後に、広略の二論なり。」と。     

  如来ie釈尊が在世の時なら、私は 彼の人の表情・声の抑揚・動作・生活のあり方に触れ
 そして 私の悩み・疑問を問いかけて、適切な指導を仰ぐことができた。
 また かの人は、時に 私の所に 直接 何度も足を運んで、私を教えることができた。
  しかし、その人が亡くなられた今、その慰めに満ちた声を聞き、私の疑問をぶつけることも 
 彼の人から 自分の間違いを指摘してもらうこともできない。
 彼の人の庇護を全く奪われ、この世の孤児になったようである。
 彼の人に就いて その指導にあづかっていた仲間達は、時が経つにつれて、在世時には
 隠されていた 互いの考え方・感じ方の相違が、次第に露わとなり意見の対立が表面化する
 ようになった。
 たとえ 彼の人の言葉が記述として残されていても、その解釈・受取り方は十人十色。                                   
  彼の人の人格的は影響力の中で、弟子たちは そのよい面が引き出され、互いに切磋琢磨
 して修行に励んでいたし、適切な指導の下で長足の内面的深化をなしつつあった。
  
  これを、「 如来在世には 衆生は利根にして、能説の人は 色身の業 勝れたれば、
 円音一たび 演べれば、異類 等しく解して、論ずるをもちいず 」というのであろう。                                          

  しかし、「 如来滅後 」 は、たとえ 彼の人の勝れた言行録が残されてはいても、
 我々は「 根行 等からず、受解の縁 別 」なる者である。
 時には、彼の人が残された一句の解釈を廻って論争となり(「 受解縁別 」)、互いに
 自己の説を主張して(「 根行不等 」)、多くの人々を困惑させ、ついには師を同じく
 する人々(僧伽sanga)の分裂・反目にも至った。 
 
 本来、人間我らの問題を解決するために語られた言葉が、その解決を覆い、我々を それ
 から遠ざけるのである。

  昔から繰り返されてきたこうしたことの原因は、どこにあるのでしょうか?  

 〜〜 西欧人たちは 16C初から17Cにかけての新旧両キリスト教の血生臭い戦争の経験を
 通すことで、その原因を 啓蒙主義によって「宗教のドグマ性」というものに見出した。
 これ以降、宗教抜きでこの世の様々な問題を解決しようとする思潮が世界を覆い、それは
 現在まで続いている。
  日本の学校でも、「宗教」というものを 今日に至るもそう教えられているのだ。
 しかし、これは明らかに「ある意図をもった」事実の歪曲であることは、少しく西洋史を
 学んだ者ならすぐ気づくはずであろうが、奇妙なことに 真実を重んずるはずの学者で、
 このことに言及する者は極めて少ない。             

  歪曲とは、どういうことか?  かの啓蒙主義が対象としたのは、キリスト教であった。
 そこでは、
 「キリスト教はドグマ性が強い」、「キリスト教は宗教である」。したがって「あらゆる
 宗教はドグマ性が強い」と言う。

  これは三段論法にもなっていないお粗末な論理ではないでしょうか?
 
  こんな無茶苦茶な論理を、日本の最も知的な科学者が 平然と口にするのを聞くのは、
 残念なことである。
  また、啓蒙主義が台頭したのは、宗教戦争に懲りたからでは必ずしもなく、世界交易の
 進捗と新大陸の開発によって、西欧の経済・社会構造が大きく変化したためではなかった
 でしょうか? etc。                                                                          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  ところで、起信論は、これに対してどう言っているか?         


 「 衆生根行不等  受解縁別 」と。

  すなわち、教え(法)の方に問題があるのではなく、衆生(機)の方に問題があるのだ、
 と言うのです。
 西欧啓蒙主義が出した結論(宗教教義が問題で、それが無垢の人間を迷わす)とは、全く
 違うのである。                                     
  
 義記は、
  「 第二に劣の中に、四種あり。初に、広略の二経。後に、広略の二論。
   初に、自力にして、広く経を聞きて、仏意を解することを得て、他論を須motiいず。
   故に、自力と云う。即 文義の二持を具す。   
   二に、亦た、自力を以って、略経の文を尋ねて、而sikaも、能く経意を解す。
   故に、亦た他論を須いず。 此れ、義持ありて、文持無きなり。  
   三に、但だ、経文に依りて、意を解すること能わず。他の広論に因りて、経意を解する
   ことを得。故に、{無自心力}と云うなり。此れ、文持ありて義持無し。  
   四に、此の人、繁文に耐えず。唯だ、文約に義豊なるの論の依りて、深く仏経の所説の
   旨を解す。故に、{心楽総持而摂多義}と云う。此れ、文義の二持無し。 」と。                             

  釈尊滅後の衆生は、「根縁微劣」ie.「根」と「縁」と2つのハンディキャップをもっている。

 このうちで、「初の二は、経に依りて、解を取る者」(海東疏)。

 これを中国唐の善導は、その観経疏で
 「釈迦すでに滅したまいて、後の人見たてまつらざれども、なお教法ありて尋ぬべき・・」
 と言っている。
 釈尊は すでにましまさないが、その言行録が残っている。これを縁として、自分の力で
 仏意を尋ねようとする人である。
 彼らは、同時代の他人が思惟し論ずるのを聞く必要を認めない。

 〜〜 このうちには、経は八万四千と言われるほど大部であるにもかかわらず それらを
 広く読んで 釈尊の意を聞く事のできる人と、 
 そんなに多くの経は読みこなす力はないが 少しく読み その意を聞いて多くを解すこと
 のできる人がある。    


  次に、
 「 後の二は、論に依りて、方masaに解を取る者 」(同上)。 

  これは、自分の力で経を読みこなす力はなく、幼児や病人が流動食しか口にできないように、
 経を噛み砕いて解説してもらってようやく 仏の意が解るのである。
 本来の釈尊の言行録たる経は彼らの縁とならず、釈尊でない他の人の論を縁とするのである。

 〜〜 このうちには、いくらでも論を聞いていける人と、込み入った多くの解説を煩わしく
 思う人とがある。
 後者は、云う。<あなたの長々とした解説は、もう耐え難い! 私は、自らの人生の解決を
 強く願うし、釈尊の教えを解りたいと思うことは、人後に落ちないつもりだ。
 だから、どうか もっと簡単で要領を得た論(総持少文而摂多義)を お願いできないもの
 だろうか?>と。                                           

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