混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 1.

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問曰 修多羅中 具有此法 何須重説

答曰 修多羅中 雖有此法 以衆生根行不等 受解縁別
所謂 如来在世 衆生利根  能説之人 色身業勝 円音一演
異類等解 則不須論    
如来滅後
或有衆生 能以自力 広聞而取解者
或有衆生 亦以自力 少聞而多解者
或有衆生 無自心力 因於広論 而得解者
自有衆生 復以広論文多為煩 心楽総持少文而摂多義 能取解者

如是 此論為欲総摂如来広大深法無辺義故 応説此論

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーー
 問うて曰く。修多羅syutaraの中に、具tubuさにこの法あり。 何ぞ重ねて説くを須motiいるや。

 答えて曰く。修多羅の中に、この法ありと雖も、衆生は 根・行 等しからざると、受解の縁 
別なるとを以moってなり。
 所謂iwayuru 如来在世には、衆生は利根にして、能説の人は色身の業 勝れたれば、
円音一たび演noぶれば、異類等しく解geして、則ち論ずるを須motiいざるも、
如来滅後には、
 或いは 衆生の 能く自力を以って 広く聞きて解を取る者あり。
 或いは 衆生の 亦た自力を以って 少しく聞きて しかも多く解する者あり。
 或いは 衆生の 自の心力無く 広論に因りて 解を得る者あり。
 自から衆生の 復た広論の文の多きを以って煩となし、心に総持の少文にして 多義を摂する
ものを楽って 能く解を取る者あり。

 是く如くなれば、この論は 如来の広大深法無辺の義を総摂せんと欲するが為なり。
故に 応に此の論を説くべきなり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

ここから、因縁分における第二問答です。

 海東疏は
 「 前の八因の依りて説く所の法は、(乃至)是の如き等の法は、経中に具tubusaに説けり。
  皆 衆生の離苦得楽の為なり。而sikaるに、今更に此の論を造りて 重ねて彼の法を説くは、
  豈に名利等を求めるが為に非ずや。 」と。         


 ‘ 修多羅syutara(経典)に既に説かれているのだから、それを読むことを勧めればよいのに、
  何故 釈尊でもない君が、また新たに論を造って説くのであるか? 
  密に 君の個人的な名利を満たそうとするのじぁないのか? ’

 という当然出てくる疑いです。
 昔から今日まで 伝統的仏教の説教者で、この問いを無視し、この問いの前に 妥協的で
 自他を欺瞞する人生を生きた人のなんと多いことか!          


  しかるに、論主は、この問いを前にして、次のように答えるのです。   

  まづ 略して答え、次に 広く顕す(所謂〜)。                          

< 略答 >

 海東疏は
 「{ 根行不等受解縁別 }とは、その疑情を奪うなり。 経論の所説に別の法無しと雖も、
  而sikaも受解の者の根行kongyou同じからず。或は、経に依りて 論を須motiいざる者あり。
  或は、論に依りて 経を須いざる者あり。故に彼の人の為に 必ず論を造る須beし。
  答えの意、如是。 」と。                              

< 広顕 >

 「 中に於いて 二あり。先には、仏在世の時は 説聴setutyou具tomoに勝れたるを明かす。
  後notiには、如来滅後には 根縁参差なることを顕す。」と。                                         
  (先)「 如来在世衆生利根 」「 異類等解 」・・・聴人の勝
     「 能説之人色心業勝 」「 円音一演 」・・・説者の勝    

  「如来」or「能説之人」とは 釈尊のこと                                                
 ここで、義記は
 「 説聴ともに勝る。経文、なお紙素の伝なし。何に況や 論を須motiいんや。 」と言う。            

   釈尊在世当時は、説く者も それを聞く者も勝れていたから、釈尊の教えを一度聞いて
  誰もすぐその意がわかり、紙に書いた経文など要らなかった。
  ましてや、論などは当然必要なかったのだ、と。

   これは、釈尊が 或は 当時の人が、超自然的な存在であったと言っているのであろうか?
  2500年前のインドの人々が、今日の我々よりも勝れているなどというのは、非科学的だ!と。

  ――― しかし、もし、この論主の言うことが、‘荒唐無稽の宗教的ドグマだ’と言って
  認めないならば、‘この論をどうして造ったか’ という その根拠を疑うことになり、
  結果 この論の存在理由は喪失してしまうことになります。

  ‘たとえ、ここのところを認めなくとも、この本論で説いていることだけで 十分 この論
  は評価されるべきだ’と、
  今日多くの解説者は思っているようだが、それは論主の意を全く裏切ることでしょう。
  この論が、仏教の論である限り、そこに いい加減な文が入っているはずはないのである。                                      

   論主が、この論を造る根拠とした釈尊在世当時の「 勝 」は、師弟関係を、学校教育
  の中における 先生と生徒の関係 でしか知らない 今日の我々には、極めて理解しがたい
  ことでしょう。
  しかし、もし我々が、人生の師というものを見出し、その人について長年教えを受けた
  ならば、その師が亡くなった後に、この論主の痛切な心を、幾分か 理解できるでしょう。                      

   ところで、我々の時間感覚は、時計の時間です。個人的には その人生の節目節目で
  その時間感覚が変るものですが、社会に生きる我々の日常では のっぺらぼうの無機的な
  時計の時間が支配しています。
  今は 2005年7月30日午後7時54分33秒・・、明日の何時何分に 商談があるetcと。
  こういう時間意識は、我々は当り前に思っていますが、果してそうでしょうか? 
  過去から現在を経て、一直線に未来に向うこの時間は、我々が 時というものを認識する
  一つの方法でしかないはずのものです。

   この等質の時間観念のもとで、日本の歴史や人類の歴史が語られ さらに地球や宇宙の
  歴史が語られる。 釈尊は、かってその祖先が尻尾を持って樹上生活をしていた人類の一人
  であって、約2500年前にインドで生まれ・・ と その形だけが 我らの客観的対象となり、
  その心の内面がどうであったか ということは 客観的対象となり得ないから、それに
  ついては歴史の記述から除外しよう。客観的なものと言わないようにしよう。そうすること
  で初めて釈迦は、我々の時間感覚の中に客観的に捉えることができる。と。

  ーーーー これが、いかなる偏見・ドグマからも免れた本当の客観的な歴史だと、学校で
  教わるのである。
  我々は、これを科学的だと無条件に信じ、ほとんど違和感を感じないまでになっている。
  むしろ、論主の時間感覚の方が、間違っているとまで思う・・。果たしてそうでしょうか?!                                    

二者 為欲解釈如来根本之義 令諸衆生正解不謬故
三者 為令善根成熟衆生 於摩訶衍法 堪任不退信故
四者 為令善根微少衆生 修習信心故
五者 為示方便消悪業障 善護其心 遠離痴慢 出邪網故
六者 為示修習止観 対治凡夫二乗心過故
七者 為示専念方便 生於仏前 必定不退信心故
八者 為示利益勧修行故
有如是等因縁 所以造論 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よきかた)ーーーーーーーーーーーーー
 二には、如来の根本の義を解釈して、諸の衆生をして正解syougeして謬ayamaらざらしめんと
欲するが為tameの故なり。  
 三には、善根jengonの成熟せる衆生をして、摩訶衍makaenの法に於oいて、堪任kanninして
不退信ならしめんが為の故なり。  
 四には、善根の微少なる衆生をして、信心を修習syuzjuuせしめんが為の故なり。  
 五には、方便を示して悪業の障を消し、善くその心を護り、痴慢を遠離onriして、邪網を
出iでしめんが為の故なり。  
 六には、止観を修習することを示して、凡夫と二乗との心の過を対治せしめんが為の故なり。  
 七には、専念の方便を示して 仏前に生じ、必定jyouして信心を退せざらしめんが為の故なり。
 八には、利益riyakuを示して修行を勧めんが為の故なり。 
 是の如きらの因縁あり。所以yueに論を造る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 引き続いて、因縁分の第一問答。前には、造論の因縁の総。以下は、その別。                                                      
「 別の中、各別に下の文を発起hokkiし、別して当機の為tameにするが故に。」(義記)と。                           

  この論は、自己満足・自己主張あるいは自己の生活のためではなく、
 逐次 何を・誰のために説くのか ということがはっきりしているのである。
 どういうことか?                                           

 「 二者 」

  「下の立義分および解釈分の顕示正義・対治邪執の與tameに、発起の因縁と作naる。」と。

  この中に「 如来根本ノ義 」とは
  「 彼の文(顕示正義)中に、<一心の法に依りて二種の門あり。・・各々一切法を摂す>
   と説く。即、これ如来所説の法門の{根本}なり。
   又、生滅門中の本覚を如と名づけ、始覚を来と名づく。始本不二を名づけて、{如来}
   という。(乃至)彼の地前三賢の勝解行位の諸の菩薩等をして、比観と相応せしむるが
   故に{正解syouge}と云う。即、顕示正義kenjisyougiの文、是なり。
   この観、倒touを離る故に{不謬}と云う。即、対治邪執の文、是なり。」                                     
  ** 解釈gesyaku分は、顕示正義syougi・対治邪執・分別発趣hossyu道相 の3節から
    できています。 また次ぎの修行信心分は、四信・五行を説きます。
    五行とは、施門・戒門・忍門・進門・止観門で、いわゆる六波羅蜜です。                                              

 「 三者 」

  「下の分別発趣道相の與tameに、因縁と作る。」と。

   ここで、「 善根成熟の衆生 」とは、
   「 彼の文(分別発趣道相)中に、利根の者をして、決定心を発し大道に進趣し、堪任不退
   の位ならしむるを以っての故に。此れ、十信の終心、自分に満足するに当るが故に、
   {善根成熟}と云う。 進みて、十住正定聚の中に入り、前の信心をして{堪任不退}
   ならしむる故なり。」                                                             

 「 四者 」
  
  「下の修行信心分中の初の四種の信心および四種の修行の文の與tameに、因縁と作る。」と。

  ここで、「 善根微少の衆生 」とは、
  「 彼の文中に、信未だ満たざる者をして、信心を修行し満足せしめるを以っての故なり。
  これ、十信の住心に当る。信位未だ満たざるを以っての故に、{善根微少}と云うなり。
  進修して満の向わしめるが故に、{修行信心}と云うなり。」と。                              

 「 五者 」

   これ以降の 五・六・七・八者の4種も、それぞれ説く相手がある。
  しかし皆、「 信位の初心に当る 」 と義記は言っています。
  では「 何故、前の三人は、各三門を以って摂し、この中(信位の初心)に偏hitoeに四有る
   とは、 前の三は、根kon勝れて 進むこと易yasuく 退すること難kataきを以って、
   多くの方便助成道の力を假kaらざるが故なるのみなり。 
   この中は、根劣り 退すること易く 進むこと難く、多くの方便に頼yoるが故に、四有る
   なり。」と。

  更に「 四の中 前の三は、下中上の三人と為す。後の一は 策して以って勤修gonせしむ。」と。                      
  この第五者は、
  「 下の修行信心分中の第四修行の末文の與tameに、因縁と作る。」と。
  すなわち「 彼の文中に、業重く 惑多く 善根 起し難き衆生をして、礼rai懺san等の
   方便を以って、悪業障gossyouを消し 障sawaり軽きが故に、内に頑ゴウ痴慢を離れ、
   外に邪魔肯網を出でるを以っての故に、{善護其心遠離痴慢出邪網}と云うなり。
   これ下品gebonに当るなり。」                        

 「 六者 」

  「 下の第五の修行止観門の與に、因縁と作る。」と。
  すなわち「 彼の文の中に、止観双hutatunagara明して、凡小の二執を遣yaるを以って
    の故に、{治心過}と云うなり。・・これ中品に当るなり。」と。                                                

 「 七者 」

  「 下の修行信心分の末の<復次衆生初学是法>より下の 勧生浄土の文の與tameに、
  因縁と作naる。」と。
  すなわち「 彼の文の中に、勝の方便を挙げて、彼の観解をして分かちて相応せしめ、
    衆生 後報は、還りて縁enに遇いて退を成すことを恐れるが故に、往生せしめて不退
    ならしむるなり。これ上品に当る。」と。                                         
  ここに、勧生浄土の文とは 
   <もし、人 専mopparaら、西方極楽世界の阿弥陀仏を念じ、修する所の善根を回向ekou
    して彼の世界に生ぜんと願求すれば、即ち往生を得> という文です。                                        

 「 八者 」

  「 下の勧修利益分の與tameに、因縁と作る。」と。
  すなわち「 彼の文の中に、彼の損益を挙げて、物(我らのこと)に修捨することを勧める
    を以って、即ち総じて前の諸行を策成するなり。」と。                                                
 
 この8種の因縁は、それぞれに以下の本文の摘要となっています。

  義記の言っていることが、何のことか、本文にまだ当っていない現段階では、よく解らない
 と思いますが、この8因縁は これから本文の内容に入って それを読む際の指南となる
 でしょう。                              

  ただ、ここで注意をしておきたいことは、この8因縁が、それぞれ説く相手を想定している
 ということです。
 前に、菩提心を発して仏教を学び始めた者(菩薩)が辿る歴程について触れましたが、 それと この8因縁が想定していると義記のいう相手と・・・。 
 どうでしょうか? 奇妙なことに気付かないでしょうか? 

 ―――― この起信論は、菩薩の階位のうち どれに向って説かれているのか? 
 ーーーーよく比べてみると、地上の菩薩に対して説かれてはいない!!  
 これは重要なことで、そこに、この論を読むコツがあるのです。
 さらに言うと、自分は、この8因縁のうちどれに当るか? ということが・・。                                 
 (ヒント)元曉はどうであったか?                                                                                                                                              

初説因縁分 
問曰 有何因縁而造此論
答曰 是因縁有八種   云何為八
一者 因縁総相 所謂為令衆生離一切苦 得究竟楽
非求世間名利恭敬故

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーー
初めに、因縁分を説かん。 
問うて曰く、何の因縁ありて、この論を造るや。 
答えて曰く、この因縁に八種あり。云何ikanが、八と為naす。 
一には、因縁総相なり。 謂iう所は、衆生をして一切の苦を離れ、究竟kukyouの楽を得しめん
が為tameにして、世間の名利myouriと恭敬kugyouとを求めるに非ざるが故なり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 海東疏は
  「 この下は、第三に章に依りて、別betuして解す。即ち、五分と為す。初の中に、二あり。
  先づは、章の名を牒siruし、 次に、因縁を顕す。 因縁の中に、二の問答あり。 
  一には、直tadatiに顕し、二には、疑いを遣yaる。・・」と。 
 
  
  この起信論の本文・五章のうち、最初の章である因縁分に入る。                                                   
 論主は、「初説因縁分」と、まづこの章の名をあげ、
 次に この論を造るにいたった理由・目的を、2つの問答形式で述べるのである。                                                                                                                               
 ところで、我々が日常、事を為す場合は、予め はっきりとした理由や目的もなく為すことが
なんと多いことでしょうか?  大抵は、事を為し始めてから 或は それを為し終えてから、
自分のやっていることに不安を覚えor自他に自分の行為の正当性を説明するために、強引に
行為の理由づけをしているのではないでしょうか?                             
 しかし、仏教は、そのようないい加減なウソにウソを塗り固めたようなことを許しません。
いやしくも 事を為す限りは、そこに明確な理由・目的があってのことです。
これは 驚くべきことではないでしょうか!                                                                                                         
 【 第一問答 】 

 ‘ あなたは、どういう理由と目的で、この論を造るのか? ’という真正面からの問い
  に対して 8か条に別けて答えるのである。
  ( 世間では、人にこのようなことを問うてはいけないことになっている。
    なぜなら、その人にウソをつかせることになるからである。 )                  

 「 一者因縁総相 」

  海東疏には
  「 初めに、総相というは、その二義あり。
   一には、凡oyoそ 諸moromoroの菩薩、為作する所ある毎gotoに、衆生の離苦得楽の為tame
   にして、独hitoり この造論の因縁にあるに非ざるが故に、総相という。
   二には、この因、立義分の文に望めて縁となると雖も、然sikaも かの立義分は、総じて
   解釈分等の為tameに 本と作naる。
   この因は亦、通じて 彼の為に縁となる。この義に依るが故に、亦 総相を解す。」と。
  
    前者の義は、衆生の離苦得楽は、およそ仏教が説かれる所、みな総じて これを目的と
   するのであって、この論のみに特別なものではないということ。
    後者の義は、衆生の離苦得楽のために、第二章の立義分は説き出だされ、立義分を
   さらに詳述するために 第三章の解釈分が説かれ・・という風になっているということ。
   だから総相という。                                    

「 離一切苦 得究竟楽 」

    我々は今日、科学技術文明の中に生活している。人類が、かって数万年・数千万年・・
   とこの地上で蒙ってきた理不尽な苦しみの多くを、この科学技術は取り除いてくれた。
   釈迦は 人生の苦を解決するために出家したのだが、科学技術の解決方法のほうが、
   誰の目にも明らかで普遍的な効果を持っている。その恩恵に与らない日本人はほとんど
   居ないであろう。
   それ故に、今日 「苦の解決」ということにおいて、科学技術への信頼は 仏教の比では
   ないのである。

    しかしここで改めて問う。
   “ 科学技術は 人間の苦を すべて解決できるであろうか?”or“ 科学技術が解決し
   うる苦は、人間の「一切苦」のうちでどの程度のものであろうか?
   そもそも「苦」とは何なのか?”と。

    こういう問いは、今まで十分に真剣に答えられてこなかった問いではないでしょうか? 
   いつも、「科学技術の進歩」という希望的観念によって、答えを先延ばしにされてきた。
   「苦」というものについての深い思惟が 仏教の特徴であるにも拘わらず、仏教者は
   時代の潮流に身をすり寄せて保身を図ってきたのではなかったか?!                                                                   
  「苦」と「楽」
    −−−−これについての深い思索が、仏教にはある。
    それは、恐ろしく深いのです。 ボンヤリ、この起信論の文を読んではいけません。
    ナンデダ!と驚きを立てねば・・・。

     論は、「 衆生をして、一切苦(一切です!)を離れ、究竟の楽を得しめんがために 」
    これを説くと言っている。  
    試みに、もし 私がこう言えば、誰も信用しないし、さらに  この看板を掲げて
    店を出せば、警察のご厄介になるでしょう。
    そういうことを 論主は言っているのです。論主の文は詐欺でしょうか?        

    それ故に、

「 非求世間名利恭敬故 」

  海東疏は
  「 非求世間とは、後世に 人天の富楽を望まざるなり。
    名利恭敬とは、現在に 虚偽の事を求めざるなり。 」と。
 
    人天とは、六道rokudou( 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天〜この我らの世界のこと。
   これを三界sangaiに分けることもある ) のなかの善い境涯である人と天のこと。
    名利とは、名聞myoumon(名誉心、人によく思われたい)と利養riyou(財欲、利害打算)。
   自分の 一身の幸福や身の保持や自己満足のために、この論を造るのではないのだ、
   と表明しているのです。 




        

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論曰 有法 能起摩訶衍信根
是故応説 説有五分 云何為五
一者 因縁分  二者 立義分  三者 解釈分   
四者 修行信心分   五者 勧修利益分 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーー
論ronじて曰iwaく。法hou有aり、能yokuく、摩訶衍信根makaensinkonを起こす。
是koの故に、応masaに説くべし。説toくに五分bun有り。云何ikanが五と為naす。
一には 因縁innen分、 二には 立義ryuugi分、 三には 解釈gesyaku分、
四には 修行信心分、 五には 勧修利益kansyuuriyaku分なり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

前回までで、序分jyobun(義記:帰敬弁意分)を終え、ここから 正宗分syousyuubunに入ります。                                                                   

「 論曰 」

 「 論は、経に異なることを簡eraぶの辞kotobaなり 」と。

   仏教では、それが誰の言葉か? ということに極めて敏感です。
  経とは、十二部経と言います。 ふつう 経典は、釈尊が ある時ある処で 誰かに対して
  説かれたことを、そこに居た 仏弟子の阿難ananなりが
  ‘私は、このように聞きました’ と、それを他の人に 語り聞かせたものです。
  直接、釈尊が記述したものではありません。
  で、その弟子が語った釈尊の言行録は、十二種類に分類できるといわれます。

  この十二のなかに、{論議}があります。。                

   これについて、中国浄土教の祖といわれる曇鸞donranは、その浄土論註zyoudorontyuuで、
  「 仏の所説の十二部経の中に、論議経有り。優婆提舎ubadaisyaと名づく。
   もし復、仏の諸弟子、仏の経教を解geし、仏義と相応する者は、仏また許して、優婆提舎
   と名づく。仏法の相souに入るを以っての故に。 」
   と、天親tenjinの浄土論を讃えています。           

  ** また、この天親の浄土論は、大無量寿経という経典に対する 論ですが、このように
   ある経典だけに依って作られた論を、別申論bessinronと言います。
   いま、この起信論は、何らかの特別の経典に依拠ikyoして作られたのではなく、
   大乗仏教全般にわたる根本思想を体系づけたもので、これを大乗通申tuusin論と言います。
   (ただ、いかなる人も、その文化的背景ぬきに、偉大なことが為せるものではなく、
    この論主は、如来蔵仏教を背景として、大乗仏教とは何か? を語ろうとするのです)



「 有法 」

  「 総じて、法義を挙げる。一心・二門・三大の法、即ち所説の法体hottaiなり。」と。

    この論は、一心、すなわち衆生心を、二門(真如門と生滅門)から解き明かし、
   我らの救いの根拠を、三大(体大・相大・用yuu大)に見出そうとするのである。               


「 能起摩訶衍信根 」

  「 法の功能を弁ず 」 と。             

   「摩訶衍makaen」とは、Maha_ya_naのサンスクリットの音写で、大乗のこと。
   「信根」・・・・「 根に、二義あり。一には、能持の義。謂わく、自らの分bunを失situせず。
            二には、生後の義。謂わく、勝進syousinして上求zyouguす。」と。

    義記は、つづいて信と根の関係には、4種類あるとして、
  「 一には、 信ありて、根なし。 謂わく、他の言に随いて信ず。 
    二には、 是れ根にして、信に非ず。 謂わく、余の慧根等なり。 
    三には、 亦信にして、亦根なり。謂く、この中に弁ずる所の、理を見て信を成ずる等なり。
    四には、信に非ず、根に非ず。謂わく、所余の法なり。」 と。

  〜〜〜 何を、言っているのか? 
   これから説き起こそうとする法ie.一心・二門・三大は、よく大乗の信根を起こし得るのだ。

   その信根とは、どんなものか? 
    大いなるもの(仏の世界)と私との分限を失う(迷いとは、仏と私との関係が分らない
   こと。私の師は「如来がわかれば、自己がわかる。自己がわかれば、如来がわかる」と。)
   ことなく、菩提(仏の世界)に向って、まっしぐらに進むことができるようになる。            

   ** 仏教の歴史において、この「信」というものを、始めて深く思惟し、これを重要なる
     ものとしたのが、他ならぬこの如来蔵仏教でした。



「 説有五分 」以下の 「 一者因縁分・・・ 」は、

   いわゆるこの論の目次になっています。
   五章に別けて、説いていこうというのです。

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為欲令衆生 除疑捨邪執
起大乗正信 仏種不断故
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
衆生syujyouをして、疑utagaiを除nozoき、邪執jyasyuuを捨suて、
大乗の正信syousinを起して、仏種bussyuを断danぜざらしめんと欲するが為tameの故に。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 これを、義記は 「 その敬意を申noぶ 」 と言う。
 論主は、何故、三宝に帰命するのか? その意はどこにあるのか?

 ‘ 自分が良い思いをしたい ’とか、‘ 自分の人生を意味あるものにしたい ’からか?  
 人生に対する 不安や動揺や煩wazuraいや苦しみから 逃れたいためか?  

 「 今、此の文の中に、略して三意を申noぶ。
  一、 衆生を益yakuせんが為tameに
  二、 仏種bussyuをして、断ぜざらしめんが為に
  三、 法の久しく住zyuuせんが為の故に 」 と

  まったく 私的な ‘自分だけがよければ、それでよい’ といったこと(家内安全・
  息災延命・商売繁盛etc) のために、 三宝に帰命するのは、仏教ではない。
  仏教でないものが、仏教の名を騙kataって 白昼堂々と行われているのが、今日の
  文明国日本の現状です。 識字率が非常に高い と誇っている 日本の現状です。
  この矛盾は、よく考えると恐るべきものです。
  一体、この日本人とは、何なのか?! 識者、よくよく考えていただきたい!                                                 

  論主は、このような我ら衆生syujyouのために、三宝に帰命kimyouされるのである。

  では、この 「我らのために」 とは、どのようにすることなのか?                                                       

 「 所成の益yakuのなかに、二あり。
   先ず、過を離れる益を得て、 後に、行を成jyouずる益を得せしむ。」 と。

   前者。「 疑いに由yoるが故に、真に迷い、楽を失うなり。
        執に由るが故に、妄mouを起こし、苦を種uえるなり。」
 ここで義記は、十地論を引用する。
 「 十地論の中に、< 菩薩、三種に衆生を観じて、大慈悲を起こしたまう。
  一、最上第一義楽を遠離onriす。 二、諸苦を具足gusokuす。 三、彼の二に於いて、
  顛倒douす。 > 
  解geして云iわく。 真楽の本有honuなるを失って知らず。妄苦の本空honkuuなるを得て、
  覚satoらず。 彼の得失に於oいて、都subeて覚知せざるが故に、菩薩をして、悲を生じ、
  論を造らしむ。
  この故に、下の文の {立義分ryuugibun}及び{顕示正義kenjisyougi} を以って、
  如来根本の義を解釈gesyakuして、諸moromoroの衆生をして正解syougeして謬らざらしむ。
  疑惑を除くを以って、真楽を悟らしむ。
  {対治邪執taitijyasyuu}を以って、その二執を遣yaり、苦の因を離れしむ。
  故に、下に云わく < 痴慢timanを遠離onriして、邪網jyamouを出iだす等 >。
  故に、除疑捨邪執と云うなり。」 と。



   後者。「 すでに、真に於いて疑わず、邪に於いて執せず。(しかし)未imaだ、何乗に
      於いて、行を起こすやを知らず。
      謂iwaく。大乗に於いてす。是koれ、究竟kukyou根本の法なるをもっての故に。
      (さらに)未だ、此の大乗に於いて、何nanらの行を起こすやを知らず。
      謂く。信心の行gyouを起こす。 信は、是れ衆行の本なるを以っての故に。
      亦た即ち、前の疑を翻hirugaeすが故に<信>と云う。 前の邪執を翻すが故に、
      <正>と云う。是れを大乗の正信syousinを起こすと云うなり。
      則ち、下の文の {分別発趣道相hunbetuhossyudousou}及び{修行信心分
      syugyousinjinbun}を以って 此koの行を成jouず。」 と。

    以上の義記の文において、{***}は この起信論の本文(正宗分syousyuubun)の
   中にある題目を順次あげているのです。
   即ち、この序分の意を、以下に展開して敷衍・詳述することで、この「大乗起信論」
   はできているのです。
   だから、もし、この序分が解れば、もう起信論すべてが解ったことになります。
   それほどの内容を、この短い序分は持っているのです。                                                                                                     

 

 「 仏種不断 」

  「 衆生をして、過を離れ 行を成ぜしめ、信位を成満jyoumanし 位kurai不退に入りて、
   当果toukaを成zyouずるに堪taえしむるが故に、仏種不断と云iうなり。
   下の文に云く。{信成就発心sinjyoujyuhossinとは、畢竟hikkyou不退にして、如来種
   nyoraisyu中に入りて正因syouin相応する等}。 
   又maた釈す、此koの所説に由yoりて、 諸moromoroの衆生をして 仏因を修行して、
   常恒jyoukouに絶えざらしむ。 華厳kegon(経)に云く <仏の種子syuuziを衆生の田
   に下kudaして、正覚syoukakuの芽を生ず。この故に、能yoく仏宝をして断えざらしむ >
   とは、此の謂iiなり。
   また、釈す。此の教法kyoubou流伝rudenするに由りて、前に釈する所の如く、亦た不断
   と為す。 此れ、{勧修利益riyaku分} の所作syosaに当ataるなり。」と。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日、漢文に慣れていない人が、多くなりました。
漢字は、東アジアの深い精神文化を数千年にわたって荷ってきました。中国も朝鮮半島も
日本も、戦前は、お互いに 漢字を使って 筆談で会話ができました。
しかし 今日、三国とも 従来の漢字を捨て、実用的な字をそれぞれ別々に使うようになり、
互いの意思を伝えることができる言語は、英語となりました。

 この戦後の事態を、我々は深刻に考える必要があります。歴史的事情が このような現実を
もたらしたのですが、これによって、我々が失ったものは、非常に大きいものがあるのでは
ないでしょうか? 
 
 現に、上の文が、自由に読みこなせる人は、大学を出た人でも、そう多くはないでしょう。

 もし、仏教に興味のある若い人があったら、今はひどく読みづらいかもしれませんが、
がまんしてガンバッテみてください。 そのうち、すぐに 慣れてきます。
仏教は、漢文で書かれているのです。 合掌 



                     

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