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上にあげた本文は、「 帰敬序 」kikyouzyoといわれ、 大抵の「論」(西域・インドで釈迦が
亡くなって以降の人が作った仏教の書)や 「釈」(中国で作られた経・論の解説書) の最初に、
この帰敬序があります。
すなわち 論主(この場合は馬鳴)の依って立つ場を表明し、造論の意を述べるのです。
具体的には、「 仏 」と その説かれた「 法 」と それを伝持する身近な人々である「 僧 」、
この三宝の恩を念じ敬うのが、これから この論を説こうとする論主の根本的な姿勢である、
というのです。
帰命とは、
これは、三宝の恩を念じ敬う者の姿orその「誠至を現す」。
以下の「 尽十方・・修行等 」は、三宝の 「徳を現す」or「深広zinkouを現す」。
「 帰 」は、「趣向」(方向性)の義。
「 命 」は、「命根myoukon」いわゆる「いのち」の義。
生きとし生けるもので、これを貴ばないものはない。
「 万生の重んずる所、これより先なるは無し 」。
この二つとない命を挙げて、 「無上の尊に奉る。信心の極kiwamariを表す」。
また、元曉の海東疏には、この「 帰命 」を 「源に還る」義としています。
どういうことか?
「 衆生の六根は、一心より起こりて 自の源に背き、六塵に馳散す。今、命の 六情を総摂
するを挙げて、その本の一心の源に還帰す。故に帰命という。
帰る所の一心は 即ち是れ三宝なり 」と。
** 仏教用語が、たくさん出てきています。
六根・六情(識)・六塵 ――― 六とは 眼gen・耳ni・鼻bi・舌zetu・身sin・意i
根は 器官、識は 意識、塵は 外の世界(眼などの対象)。 衆生は 我ら生きもの。
また法蔵の義記には、「 帰 」は 敬順kyoujyun、「 命 」は 仏の教命kyoumeiと。
「 論主、如来の教命を敬奉して、法を伝え、生(生きとし生けるもの)を利することを明かす 」
と。
如来とは、「如(絶対無限〜相対有限を遙かに越えたもの)より来生raisyouす」 と。
具体的には 釈迦・諸仏。
尽十方 とは、
東西南北 と その間の東南・東北などの4方向、および上と下。
ただ、このあらゆる方向の三宝に帰するのではなく、十方を尽して斉hitoしく敬uyamaおうと
するのである。
また、十方のなかの ただ 1,2の仏の世界に帰するのではない。と義記は言う。
キリスト教の世界もイスラームの世界も儒教や道教の世界も・・・彼れらの敬い帰するもの
(三宝)を尽して、 論主は それらに帰命する、というのである。
驚くべきこと! 恐るべきこと! である。
まづ論主の口から出た 帰敬の意は、 我らを震撼せしめるに足る。
西欧の自由平等の思想・人権思想など、この前には 木っ端に等しい。
しかし これは 論主においてのこと。
私たちの上に、これが実現しなければ、絵に描いたモチ。この欧米文明を越えられない。
それゆえに、これから論主は この大乗起信論を説いていくのである。
「 衆生をして、疑いを除き邪執を捨て、大乗の正信syousinを起こして、仏種を断ぜざらしめん
と欲するがための故に 」と。
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