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(3) のつづき
この 最後の氷河期に、アラビア湾(=ペルシア湾)の海面は 約100m or それ以上に
下がり、アラビア湾盆地を 全て干上がらせた。
アラビア湾の海底には、チグリス-ユファラテス河が 潟や沼沢地帯を伴って延び、その
河口は ホルムズ海峡に達していたが、3万3000年〜2万4000年前 雨期に繁茂
した 緑が豊かだった陸地は 乾燥し始め、約1万5000年前までに沙漠化した。
1万年ほど前、雨が減り 乾燥化が進んで 広大な緑地が砂漠となった。
そのため、人々は 生活圏をせばめられ、 オアシスや山間部など 水の豊富な 場所に移り住むしかなくなった。
その中で、必要にかられて 食用の植物の栽培 や 動物の飼育を行うように なった。 この農耕・牧畜の開始は、人間の生活スタイルを がらりと変えた。
それまでの 食べ物を求めての流浪の生活は、 はるかに 安定したものになり、 定住が可能となった。 BC 6750年頃 ジャルモ遺跡: 50戸ほどの家屋に 約300 人が居住していた
初期農耕村落(小麦・大麦・豆などを栽培。降水に依存する天水農業)。
家は 石の基礎の上に粘土壁が築かれ、炉や土器がそなえてあった。
道具は、石のカマや杵、うすなどが使われていた。
家畜は羊・山羊・牛・豚など
ハッスーナ文化
文化の範囲は 西は ハブール川近くバグーズ、東は イランのザグロス山脈、
南は チグリス川下流のサマッラ、さらに そこから東南のチョガ・マミまで。 彩文土器(八ッスーナ土器 → 前7千年紀後半 サマッラ土器) 「カンバス」としての土器 西アジア先史土器における彩文装飾
かなりの距離の運河を掘り、それを維持する灌漑技術。 ※ この文化は、3つの社会集団で構成されていた。 穀物や家畜といった
北メソポタミアで開発された 農産物を作る農民、家畜を追う テント生活の遊牧民、
葦で作った家で暮らす漁労民である。
ウバイド文化の集落は、大きな規模の村落、部屋が複数ある長方形の
泥レンガ造りの家々などを特徴とする。神殿など公的な施設がメソポタミアで
最初に登場し、10ha以上の面積の大きな集落を 1ha以下の小さな集落多数
が取り囲むという集権的な集落の構造が現れている。
この文化特有の土器は、黒や褐色で幾何学模様を彩色された、黄褐色
や緑がかった色の彩色土器 (ハッスーナ土器とほぼ同時期に出現)。
BC5300年〜BC4700年 ウバイド1期(エリドゥ期)
サーマッラー周辺のサマラ文化と強いつながりを持ち、年平均降水量
120mmの限界線より南の乾燥地帯に 最初の恒久的な集落が築かれた。
BC4800〜BC4500年 ウバイド2期(ハッジ・ムハンマド期)
大きな集落を中心に 運河網が広く張り巡らされるようになった。
チョガ・マミ(Choga Mami, BC4700 - 4600年)では灌漑農業の跡が
発見されており、灌漑手法は速やかに各地に広がった。
BC4500年〜BC4000年 ウバイド3期および4期
急速な都市化が見られ、文化の範囲も東方のザグロス山脈方向、南方
のカタール等ペルシャ湾岸方向、北方のメソポタミア北部方向へと伸び、
北では ハラフ文化に置き換わっていった。
紀元前3800年頃 ウバイド期は急激に終焉を迎えたと見られる。
この時期は 湖水面の低下、砂丘の活動開始などの直後にあたり、
乾燥の広がりによって 人間の活動が不可能になったと見られる。
これ以後1000年にわたり、アラビア東部では人間の活動を示す遺跡は
(未完成)
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現代の問題 1.〜科学
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(2) のつづき
サハラ砂漠
東西 5,600km、南北 1,700km 面積: 約1,000万km2
アフリカ大陸の1/3近くを占める。
サハラ砂漠中央部は極度に乾燥しており、植生はほとんどない。
砂漠の端で山地から水の供給のある所では草、潅木、高木が生えている。
サヘルとの境界は 年間降水量150mmの線。
砂漠の南縁地部の半乾燥地帯をサヘル(下図)と呼ぶ。
半乾燥草原から灌木の茂るサバンナへの移行地帯
サハラの先住民は、西部全体に居住する白人系のベルベル人と
ティベスティ山脈周辺に居住する黒人系のテダ人(トゥブ人)。
これに、6世紀以降東からやってきたアラブ人と、アラブ人とベルベル人の両方
の祖先を持ち イスラム化したムーア人がいる(西方のモーリタニア周辺を中心に居住)。
先祖は タドラルト・アカクス (1万2000年前) やタッシリ・ナジェールに代表される
チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。
シェヌアス人、シルハ人などのグループに分かれる。
東は エジプト西部の砂漠地帯から 西は モロッコ全域、南は ニジェール川方面
までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布し、その総人口は 1000万人から
1500万人ほど。モロッコでは 国の人口の半数、アルジェリアで 同1/5、その他
リビア、チュニジア、モーリタニア、ニジェール、マリなどで それぞれ人口の数%
を占める。
タドラルト・アカクス の岩絵
リビアの首都トリポリの南に約1000kmにもわたって連なるタドラート・アカクス山脈の
谷間にあるリビア西部の砂漠地帯、アルジェリア国境にも近い、このタドラルト・アカクス地域
には、BC12000年頃〜AD100年頃の間、タドラット・アカクス山脈の岩肌に描かれた
岩絵が、多数、残されている。
岩絵には、ゾウ、キリン、水牛、ウマ、レイヨウ、ダチョウ、羊、ラクダや、馬に乗った人
などが描かれており、当時、辺りは緑豊かなサバンナ地帯で、狩猟や牧畜中心の生活
が行われていたことを示す。また、音楽や舞踊といった日常の様々な生活風景の岩絵
もある。
タッシリ・ナジェールの岩絵
アルジェリア南東部のサハラ砂漠に約500kmにわたる台地状のタッシリ・ナジェール山脈
(最高点は標高2158m、砂岩でできている) に、BC6000年頃から紀元前後までの間に
描かれた2万点以上の岩絵や線刻画が残っている。
50万年前 サハラ砂漠周辺に人類が定住
石碑などから、この地帯は湿潤な気候で、野牛などの狩猟が行われた
ことがわかる。
BC 3万5000年〜BC8000年頃
人間は 主に棍棒で武装し、他に斧や弓も使用した。槍はなかった。
2万年〜1万2000年前 サハラ砂漠が最も拡大し、現在のサヘルのほとんど
が砂漠に呑み込まれていた。
1万年前 最終氷期の終焉とともに サハラは 湿潤化しはじめる。
BC7500年〜BC4000年頃
研磨した石斧や石の鏃などが作られ、狩猟に弓矢を使用した。
この時代の後期には、村落が形成され、今までより 多数の人口が
群れを飼育した。
8000年前 もっとも湿潤な時期を迎えた。
砂漠は アトラス山脈直下の一部にまで縮小し、サハラは ほとんどサバンナ
やステップとなり、森林も生れた。
7500年前 一時乾燥化するが すぐに回復し、5000年前まで湿潤な気候が
続いた。
BC3000年〜BC700年頃
サハラ砂漠からエジプトに渡って 幾つかの王国による連合体が作られた。
( これらの王国は 海岸付近に位置したが、中には砂漠の中に及ぶものもあった )
※ 三内丸山遺跡 (約 5500年〜4000年前 青森市)
その後 徐々に乾燥化し、歴史時代を通じて 乾燥化は進行しており、砂漠の
南下も進行中で、5000年前と比べると 砂漠の南限は 1000kmも南下している。
ヤギ(山羊)
ヤギの家畜化はイヌに次いで古いとされる。ただ、野生種と家畜種の区別
が難しく、その起源は確定的ではない。
新石器時代のBC7000年頃の西アジアの遺跡から遺骨が出土しており、
この頃 家畜利用が始ったか?
用途により乳用種、毛用種、肉用種、乳肉兼用種などに分化し、その品種
は数百種類に及ぶ。
乳製品も、ヤギの乳から発明された。
乳用のほか、肉用としても利用され、皮や毛も利用される。
群れを作って移動するヤギは、遊牧生活にも都合が良く、肉や毛皮、乳を
得ることを目的に家畜化された結果、分布域を広げていったと考えられる。
( ヤギは 粗食によく耐え、険しい地形も 苦としない。そのような強靭な性質から、
山岳部や乾燥地帯で生活する人々にとって 貴重な家畜となっている。
ユーラシア内陸部の遊牧民にとっては、ヒツジ、ウシ、ウマ、ラクダとともに 五畜
の一つであり、特に ヒツジと比べると 乾燥に強いため、西アジアの乾燥地帯では
重要な家畜であり、その毛が テントの布地などに使われる。ヤギの乳質は ウシに
近く、乳量は ヒツジよりも多い。
農耕文明においては 飼育されてはいたが、遊牧民ほど重宝しなくなった。ヤギは
農耕そのものには役に立たず、ヒツジの方が 肉や毛皮が良質であり、また、新たに
家畜化されたウシの方が 乳が多く 農作業に適していたからである。 )
ヒツジ
ウリアル、地中海のヨーロッパムフロンの4種の野生ヒツジに遡る。
新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟が行われていた形跡がある。
家畜化が始ったのは 古代メソポタミアとされ、BC7000〜6000年頃の遺跡から
野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土している。
ヒツジは、その「脂肪」と「毛」を目的に家畜化された。
山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯の遊牧民にとって、重要な栄養素である
脂肪は ヤギからは充分に得ることができず、現代でも ヒツジの脂肪が最良
の栄養源である。(他の地域で 脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい
環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。)
野生のヒツジは、春に上毛(ケンプ)が抜ける(換毛)性質があり、紀元前
から人類は、この抜け落ちたケンプで フェルトを作っていたようだ。
( 現代の家畜化されたヒツジは 換毛しない )
※ 野生のヒツジの毛(フリース)は 2層になっている。外側を太く粗く長い「上毛(粗毛
ケンプ)」に覆われ、肌に近い内側に 産毛のような短く柔らかく細い「下毛(緬毛、
ウール)」がわずかに生えている。最初期のヒツジの緬毛(ウール)は未発達で、
利用されていなかった。
家畜化されたヒツジは、改良によって ケンプを退行させる代わりに、
ヘアーと呼ばれる中間毛 と 緬毛(ウール)を発達させた。
BC4000年頃 ヘアータイプやウールタイプのヒツジが分化。
BC2000年頃 バビロニアは ウールと穀物と植物油の三大産物で繁栄した。
野生のヒツジのケンプは 黒色、赤褐色や褐色だったが、改良により
ヘアーやウールタイプのヒツジからは 淡色や白色の毛が得られ、染料技術
と共に メソポタミアから エジプトに伝播、彩色された絨毯は 重要な交易品
となった。
西アジア原産で 背中に 1つのこぶをもつヒトコブラクダ と、中央アジア原産
で 2つのこぶをもつ フタコブラクダ の2種が現存する。
ラクダ科の祖先は もともと北アメリカ大陸で進化し、200万〜300万年前に
陸橋化していた ベーリング海峡を通って ユーラシア大陸へ移動、ここで現在の
ラクダへと進化した。 北アメリカ大陸のラクダ科は絶滅したが、パナマ地峡
を通って南アメリカ大陸へと移動したグループは生き残り、現在 リャマや
ヒトコブラクダとフタコブラクダの家畜化は おそらく それぞれ独立に行われ、
家畜化は、
ヒトコブラクダは BC2000以前・BC4000・BC1300〜1400など諸説あるが、恐らく
アラビアで行われ、そこから 北アフリカ・東アフリカなどへ広がった。
フタコブラクダは 恐らく BC2500年頃、イラン北部からトルキスタン南西部に
かけての地域で家畜化され、 イラク・インド・中国へと広がったとされる。
ラクダを最初に家畜化したのは古代のアラム人ではないかとされる。
アラム人は ヒトコブラクダを放牧する遊牧民、或は ラクダを荷物運搬に使って
隊商を組む通商民として歴史に登場した。
砂漠を越えることは他の使役動物では ほぼ不可能であるため、ラクダを
使うことで はじめて砂漠を横断する通商路ができた。
サハラ砂漠では、それまで 主な使役動物だったウマに代って 3世紀頃
に 東方から ラクダがもたらされ、はじめてサハラを縦断する交易ルートの
開設が可能となり、サハラ交易がスタートした。
背中のこぶの中には脂肪が入っており、エネルギーを蓄えるだけでなく、
断熱材として働き、汗をほとんどかかないラクダの体温が日射によって
上昇しすぎるのを防ぐ。
乾燥した環境に適応しており、水を飲まずに数日間は耐えられ、砂塵を
避けるため 鼻の穴を閉じることができ、目は 長い睫毛(マツゲ)で保護され
ている。哺乳類には珍しく瞬膜を完全な形で備えている。
また、塩分濃度の非常に高い水でも飲むことができる。さらに 膝の皮膚
が分厚く発達して 断熱性に優れ、ここを接地して座れば 高温に熱された
地面の影響を受けることなく休むことが出来る。
ラクダの蹄(ヒヅメ)は小さく、指は 2本で、5本あったうちの中指と薬指が
残ったもの。退化した蹄に代わり、脚の裏は 皮膚組織が膨らんでクッション状
に発達している。これは 歩行時に地面に対する圧力を分散させて、脚が
砂にめり込まないようにするための構造である。
ラクダは 一度に 80〜136 L もの水を飲むが、その水は血液中に吸収
され、大量の水分を含んだ血液が循環する。ラクダ以外の哺乳類では、
血液中に水分が多すぎると その水が赤血球中に浸透し、その圧力で
赤血球が破裂してしまう(溶血)が、ラクダは 水分を吸収して 2倍にも膨れ
上がっても破裂しない。また、水の摂取しにくい環境では、通常 34-38度の
体温を40度位に上げて、極力水分の排泄を防ぐ。勿論 尿の量も最小限
にするため、濃度がかなり高い。 人間は 体重の1割程の水が失われる
と生命に危険が及ぶが、ラクダは 4割が失われても生命を維持できる。
ヒツジやヤギ、ウシなど 乾燥地域に やや適応した他の家畜と組合せて
飼育されることが一般的。これは、飢饉や疫病等によって 家畜が大打撃
を受けた時のリスク軽減のため。
ラクダは 繁殖が遅く増やすのが難しいが、寿命は約30年と長く、乾燥に
強いために旱魃の際にも 他の家畜に比べて打撃を受けにくいため、
ヒツジやヤギが可処分所得として 短期取引用に使用されるのに対し、
ラクダは備蓄として、長期の資産形成用として使用される。
(つづく) |
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(1)のつづき
自然の中で 採集、狩猟、漁労などをして 食糧を得てきた(狩猟採集社会)。
鮮新世以来 氷床が拡大して、地球は寒冷化していき、2万〜1万8000年前に
気温は 寒冷のピークに達したとされている。
この間、人類の祖先たちは 原因は はっきりしないが、絶滅した種を出しながら、
温暖と寒冷の両気候を乗り切って、狩猟採取をもって 1万年前まで存続してきた。
しかし、
祖先たちは、ヴュルム氷期が終った 1万年前頃から 新たな生活形態を始めた⋆。
当時、急激な温暖化が起こり、それによって溶解した氷河からの冷水が海水温
を下げたことによる 一時的な寒冷化への揺り戻しが発生するなどの気候変動が、
このキッカケとなったとされる。つまり、自然環境の変化で、従来通りの狩猟採集
で食料の確保をすることが 困難になったのだとされる。
⋆ 1万年前から今日まで、1代20年とすると、たった500世代を重ねたに過ぎない!
この新たに始まった生活形態は、
農耕と牧畜、そして 定住によって、我々人類の上に引き起こされた大規模な
変革であった。 いわゆる 文明が始まったのである。
農耕は 大量の水が要り、その管理も必要となってくるため、河川周辺などに
農地ができた。 また、土器の発明によって、計画的に食物を生産、そして 貯蔵
が可能となり、ために 食料が安定的に供給され、多くの人口を養えるようになる
と、それまで 家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大、多くの人々
が定住して 社会生活を営むようになった。その結果、政治と経済、ついに 国家
というものが生れるに至ったのである。
また、農耕は、作物の管理や分配のための計算、気候の変化と農作業の日程
を知るための暦法(天文学)、農地管理のための測量などが必要となり、これらが
いわゆる「数学」の発展を促した。
農耕の始まった場所については、ハッキリとはしていないが、
稲作は、前記事のように 今から約1万年程前の長江流域で稲作とされる。
また 麦は、11050 BP(BC9050年頃) レバント (シリア周辺)の テル・アブ・フレイラ遺跡⋆
で 最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。
根菜文化圏のイモ類は、9000年前 パプアニューギニアで 農業用灌漑施設の跡が
オーストラリアの学術調査により発見されている。
農耕以前は、採集によって 野生の穀物や豆類を集めており、 ムギ類は
⋆ アブ・フレイラ1(11,500〜10,000年前頃): 集落は 少数の円形の住居から
構成され、木や小枝等で作られていたか? 人口は 最大 100〜200人。
食料は 野生動物の狩猟、魚釣り、野生植物の採集で得ていた。住居の
地下には食物が蓄えられていた。
野生の子実類があった。
一方、ライムギの耕作・栽培の証拠が 遺跡から検出された。寒冷期
(ヤンガードリアス)の始まりで、気候が乾燥化して、野生動物や野生のムギ類が
減少し、採集に依存していた人々は食糧確保のため農耕を始めたとされる。
1万年前頃、この集落は放棄される。
アブ・フレイラ2(9400〜7000年前): アブ・フレイラ1の約10倍の大きさ(15ha)で、
当時の中東でも最大級の集落。 泥レンガで長方形の住居が作られ、古い
住居が崩れた泥の上に 新住居を再建し、集落の下には大きな丘ができた。
栽培植物の種類は 飛躍的に増え、出土した当時の人々の遺骨に残って
いた変形から、農業の重労働(粉ひきなど)で 体を酷使したと推測される。
また 家畜の飼育も始まり、7300年前には 土器の使用が始まり、機織りも
その少し前に始まった。
7000年程前(BC5900〜5800年頃)、この集落は放棄された。
の類似した 2年草のイネ科イチゴツナギ亜科穀物の総称。
英語では、多くの種類を総称した日本語の「麦」に相当する表現は
なく、種類によって barley(大麦)、wheat(小麦)などと使い分ける。
小麦: 原産地は、中央アジアのコーカサス地方〜西アジアのイラン周辺?
本来 越年生で、秋に種を播いて、春に発芽し 夏に収穫する。
(発芽に ある程度の低温期間が継続する必要があり、温帯から
亜寒帯にかけ 栽培される。比較的乾燥に強く、生産限界は
1万5000年前 1粒系小麦の栽培が始まる。その後 クサビコムギ と
交雑して 2粒小麦になり、さらに BC5500年頃 野生種の タルホコムギ
と交雑し、普通コムギが生まれたという。
普通コムギの栽培は メソポタミア地方で始まり、BC3000年頃には
ヨーロッパやアフリカに伝えられた。
テル・アブ・フレイラなどの古代の野生種ムギは 元々 成熟すると麦穂が
風などで 容易に飛び散る性質を持っていて、当初のコムギも収穫には
非常に手間のかかった。このため、その貴重さと保蔵のし易さから
一種の通貨として取り扱われていたと推測されている。
シリア地方から ヨーロッパなどに広く栽培の範囲が広がるにつれ 品種淘汰
され、この種子の飛び散りやすさの特性が失われ主食穀物となった。
栽培植物化の時期は オオムギの方がやや早く、当初は オオムギ
の方が重要な作物であった。(オオムギの収量の多さや収穫時期の
早さ、粒の大きさなどによる)
また、この時期は コムギも オオムギも 粥として煮て食べるものだった
ため、調理方法の差が重要となることはなかった。しかし、製粉技術が
ことが容易な コムギが オオムギに代って最重要の作物となっていった。
@ 2006年の世界三大穀物 生産量
トウモロコシ(6億9523万t)、米(6億3461万t)、小麦(6億0595万t)
2006年の 10a当たりの反収
英・仏・独:700㎏以上、米:290㎏、豪:190㎏、エジプト:550〜600㎏
米・豪〜反収の低さを 農園の広大さで補う粗放型農業
@ 水稲10a当たり収量 2008年
日本平均 523.6kg (629〜290kg)
大麦: 原産地は 中央アジア(冬季に比較的降水量が多い地域)。
秋に発芽して冬を越し、春に大きく生長し、初夏に結実して枯れる。
現在栽培されている品種は、イラク周辺に生えている二条大麦に
似た野生種 ホルデウム・スポンタネウム が改良されたものとされる。
1万年前 すでに、シリアからユーフラテス川にかけての肥沃な三日月地帯で
栽培が開始されていた (小麦より塩害に強く、南部のバビロニアで 多く
栽培された)。
古代エジプトでは 主食のパンを焼くのに使われており、 ヨーロッパでは
粗く挽いた大麦を煮た粥状のものが食べられていた。
古代ローマでは粗挽きの大麦の粥は プルスと呼ばれ、主食として
重要なものであった。 その後 パンが普及し、15〜16世紀にかけて
寒冷地でも生産性が高く、茹でただけでも比較的美味なジャガイモが
アメリカ大陸からもたらされたため、現在では 主として飼料及び醸造用
の穀物とされるようになった。
して粉砕した粉で、茶で練るなどして食べられている。
日本はチベット文化圏と並んで 大麦を主食穀物として 多く利用した。
として適していたため、栽培は さらに拡大する。
( 製粉する必要のあるコムギに比べ、オオムギは粒のままで食べる
ために手間がかからず、コムギより 熟すのが早いため米の裏作として
適していた上、不足しがちな米の増量用としても適していたため、
この頃は コムギより重視され、栽培面積も広かった。
@ 明治時代の作付面積: 小麦 45〜47万町歩、大麦 130万町歩
ライ麦: 原産地は 小アジア か? 小麦や大麦の原産地より やや北の地域。
ライ麦は発芽温度が 1〜2℃と低く、低温に強いため冬作物として
栽培される。秋に蒔かれたライ麦は 冬を越し、春になると急速に
成長する。他のほとんどの穀物より貧しい土壌で生育することが
できるため、特に砂地や泥炭地などでは 特に貴重な作物である。
また、他の穀物よりも耐寒性が強いため、小麦が生育できない
寒冷地においても成長できる。一方で、粘土質の土地では生育し
にくい。丈が高いため、成長しすぎると倒伏し易くなる。
もともと小麦畑の雑草であったものが、小麦に似た姿の個体が除草
を免れ、そこから繁殖した個体の中から、さらに小麦に似た個体が除草
を逃れ・・・といったことが繰り返され、より小麦に似た姿へと進化(意図
しない人為選択)し、さらに 環境の劣悪な畑では 小麦が絶えて ライ麦
が残り、穀物として利用されるようになったとされる。
( 今日でも 小麦畑における強勢雑草で、小麦の生育条件の悪い畑では 小麦を
押しのけてライムギのほうが主となっている畑がみられる。 )
ローマ帝国では、貧困者が食べるものとしていたため、一時期栽培が激減した。
しかし、ローマ帝国の北部では 小麦の生育条件が悪く、しばしば 小麦畑をライ麦
が覆うようになり、2世紀頃には ライ麦を主目的として栽培されるようになった。
小麦より酸性土壌に強く、乾燥や寒冷な気候に耐えるため、スカンジナビア半島や
ドイツ、東ヨーロッパなどでは主要な穀物として栽培されていった。
中世には 大麦に代って 小麦に次ぐ第2の穀物としての地位を確立した。
16世紀末からは 海運の改善や都市人口の増大に伴い、バルト海沿岸のライ麦が
輸出用作物として盛んに栽培されるようになり、とくに ポーランド王国の大穀倉地帯
を後背地に持つ ダンツィヒのライ麦交易が急増した。
東アジア原産で、高さ 1〜2m。エノコログサが原種とされ、エノコログサとの
交雑もよくおこる。穂は黄色に熟し たれ下る。温暖で乾燥した風土
を好み、生育期間が3〜5ヶ月と短いために、高地や高緯度地域でも
栽培することができる。 C4植物
「米」という漢字は 本来 アワを示す文字だったとされる。 隋唐の税制・
租庸調において、「租」は 粟で納付するのが原則(本色)だった。
作った 現在、世界最古の麺が見つかった。
だが、連作や二毛作を行うと、地力を損ないやすいことや、西域から
小麦が伝わってきたこととも相まって、次第に 主食の地位から転落する。
※ 現在でも 中国では 粟粥などにして、粟を食べる機会は多い。また、「鉄絲麺」
という 最古の麺と同じような麺類を作る地方もある。
日本では 米より早く栽培が始まり、縄文時代の遺跡からも発掘される。
アワを備蓄するように定められている。
古くから、ヒエとともに、庶民にとっての重要な食料作物だった。
だが、敗戦後には生産量が激減した。
ヒエ(稗): 、イネ科ヒエ属。 アイヌ語でピヤパ。
日本列島を含む東アジアで栽培化されたとされる。
日本列島、朝鮮半島、中国東北部など東北アジアで栽培される品種群と
中国雲南省を中心に栽培される麗江ビエの2大品種群に分かれる。
日本では かつて重要な主食穀物であったが、昭和期に米の増産に成功した事
で消費と栽培が廃れた。
畑でも水田でも栽培が可能である。特に気候が冷涼で稲の栽培に適さない岩手県
の山間部で主食用として大々的に栽培されていた。下北半島では、明治の中頃
まで 水田には 稲を植えず、ヒエを栽培していた。
(つづく)
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(20) のつづき
気候と人類活動(1)
ヴュルム氷期(7万年〜1.8 or 1.3万年前)の海面は、今より 140m(100、150m
という記述もある)程低く、日本列島は、朝鮮半島・樺太を経由して 大陸と地続き
であったし、瀬戸内海も陸域だった。
今まで人類の主流だった ネアンデルタール人等が滅んで、ホモサピエンス(約25万年前
に アフリカに誕生し、約10万年前 アフリカを出てから 世界に広がる)にとって代わったのは、
今から3万年ほど前の この寒冷期のことだったという。
この間の経緯については 今は置いておいて、我々の祖先である ホモサピエンスの
その後の歴史を 気候との関係で見ていくことにする。
気候の変動(温暖期と寒冷期)が、我々人類に どのような影響を与えたか
を見るためである。 すなわち、人類は 温暖な時期に どのような状態にあり、
寒冷な時期に どうであったかを見ていく。
※ 新生代において、
新生代の気候変化 横軸は 単位100万年前
今問題にしているのは ココ
Pal 暁新世、Eo 始新世、Ol 漸新世、Mio 中新世、Pli 鮮新世、Pit 更新世
(約258万〜約1万年前)
気温は、約11万年前頃から少しずつ低下し始め、多少の変動はあったが 全体
として低下を続け、2万〜1万8000年前に低温のピークに達した。その後 急速に
気温は上昇するが、1万3000年程前に 1000年程度の寒の戻り(新ドリアス期)
を経た後、1万年程前に ほぼ現在の水準に達した。
ヴュルム氷期には、海水の一部が氷床となって陸地に固定されたため、
冒頭に述べた日本列島だけでなく、世界中で海退が起こり、浅海が広範囲に
わたって陸地化した。 ●氷期にも アラビア半島内陸部は砂漠が広がり、人類の生存に適していなかった
が、海水準の低下で アラビア半島南部沿岸は 今よりも陸地が広く、インド洋の
モンスーン を水源とする 淡水の湧くオアシスが点在していた。10万年前 アフリカを
出た人類の一部は このオアシスを頼りに 海岸沿いに 東に移動したという。
(現在のイエメンからオマーンにかけての陸地に、約7万年〜約1万2000年前までの間、
人類が住んでいた痕跡がある)
アラビア半島を海岸沿いに反時計周りに移動すれば、ペルシャ湾へと到る。
ペルシャ湾は 現在平均水深50mほどの浅い内海で、当時 ホルムズ海峡の辺り
まで、周囲から河川が流れ込む水と緑の豊かな陸地(峡谷)だった。
人類は そこから さらに メソポタミアや ヨーロッパ、アジア、オーストラリア、
南北アメリカに拡散したとされる。
ヨーロッパに進出したグループは、その後も 中東地域及び北アフリカ地域との
交流が保たれたため、これらの地域の人々の間で 遺伝的な差異が生じず、
現在でも同じ コーカソイド(西ユーラシア人)に分類される。
しかし、東南アジア・東アジア方面に進出した人々は、天然の要害である ヒマラヤ
山脈・アラカン山脈が障害となり、中東・インド亜大陸の人々との交流を絶たれ、
独自の遺伝的変異・環境適応を成し遂げた。これがモンゴロイドである。
※ 近年 「人種」という分類法は否定されている。アフリカ集団内の遺伝子の多様性は
他の人種の多様性より大きい。(人種とは、人間を分類する用法の1つ。 生物学的な
に値する差異も存在しない。)
東南アジアでは、 スンダ列島(インドネシア)から インドシナ半島にかけての海域が
「スンダランド」と呼ばれる陸地となり、 ベーリング海峡も 地峡となって 北アメリカ
と シベリアは陸続きになった。
●スンダランドは BC12000〜BC4000年の約8000年間にわたる海面上昇により
海底に没した広大な陸地で、アジア系諸民族の故郷となった場所である。
BC5万年頃から 彼らの一部が、北上して モンゴルやシベリアにまで広がり
マンモスハンターになった。彼らは 徐々に寒さに適応して 北方系アジア民族になった。
また、一部は 海洋民族として太平洋に広がり、一部は スンダランドと陸続きに
これが、アボリニジ等のオーストラロイドである。
※オセアニアにも オーストラリア と ニューギニアの間に 平野(サフールランド)があった。
中国と朝鮮半島、日本に囲まれた黄海も スンダランドと平野で繋がっていた
という。
※ 人類とマンモスの関わり
フランスのルフィニャック洞窟⋆1やペシュ・メルル洞窟には旧石器時代
に描かれたとされる マンモスの洞窟壁画がある。旧石器時代のドイツの
ゲナスドルフ遺跡から マンモスを描いた石板が発見されている。
⋆1 ヴェゼール渓谷にあり ラスコー洞窟から 25km、全長 10kmの巨大洞窟。
13000年前。洞窟全体で 150頭近くのマンモスが描かれている(動物全体
の壁画の8%が マンモス、他に 馬と牛が それぞれ30%)。洞窟内は撮影禁止。
ラスコー洞窟の壁画
ウクライナやポーランドで マンモスの骨で作られた住居跡が発掘された。
約1万年前に氷期が終わり、高緯度地域の気温が10℃程上昇したが、
この温暖化以前の シベリアは乾燥した大地で、柳やイネ科の草が生えた
草原が広がっていた。 シベリアで発見された マンモスの胃の内容物から、
を食べていたと推測される。
ところが、温暖化に伴って湿潤化し、一年の半分は 大量の雪が降り
積もり、植物の生育に適さない大地へと変貌していって、食料の草木が
激減したため、マンモスも シベリアから消えていってという説がある。
アメリカのアリゾナ州では、約1万2千年前のマンモスの化石の骨の間
から、石でできた槍の穂先が見つかった。
アメリカ大陸のコロンビアマンモスの化石の検証から、マンモス絶滅の原因
として 伝染病説が最近 提唱されている。これは、アメリカ大陸でマンモスの
化石と一緒に発見された矢じり (人間による狩猟の証拠) は、全体で 7件
しかないにもかかわらず、病変と見られる 大腿骨の変形が 8割近くの
化石で確認されていることによる。 この伝染病は 人間が連れてきた
家畜だと推測されている (米大陸に人類が進出して 800年程で マンモス
は絶滅している)。
● アフリカ大陸で進化した人類は、ユーラシア大陸を経て、最終氷期の1.8万〜
1.5万年前(1.4万〜1.2万年前) ベーリング地峡(南北:最大1600km) を渡り、
厚い氷河に覆われた内陸部のアラスカ・カナダ・北アメリカを避けて、太平洋沿岸
(今は海中に没しているが、当時の太平洋沿岸は、氷河も無く、水と食料の調達可能な、
緑豊かな陸地だった) に沿って南下した。
稲作は、約1万年前の中国長江流域の湖南省あたりから始まった
とされている。
水田耕作遺物 (水田遺構は発見されていない) が 1970年代に発見され、
1980年代に、現在の所 最古の水田遺構が 彭頭山文化前期・約8000年前
今に繋がる栽培種の起源は、一つの野生イネ集団⋆から耐冷性の
高いジャポニカ米の系統が生まれ、後に その集団に異なる野生系統が
複数回交配し、耐冷性の低いインディカ米の系統が生じたという。
⋆ 祖先型野生稲は すべて赤米で、普通稲は 種皮の組織をつくる遺伝子の
欠損によって生じたとされる。そのため 赤米は、ジャポニカ種・インディカ種、
陸稲・水稲、粳(うるち)米・糯(もち)米にかかわらず存在する。
インディカ種は ジャポニカ種以上に分化している。中国では、淮河と長江
との中間地域で 両者が混交し、長江以南で前者、淮河以北で後者が
優占する。 日本や中国東北部、朝鮮半島では 主に ジャポニカ種が、
中国南部や東南アジア山岳部では ジャバニカ種が多く、中国南部から
インドにかけての広い地域で インディカ種が栽培される。
稲は 夏期に ある程度 高温になる温暖湿潤の気候が適している。
今日の米所・新潟、山形、秋田など冷涼地の晩稲は 「鳥またぎ」とされ、
食味では台湾米の比するところではなかった。
温帯原産のジャポニカ種は 本来 熱帯気候には適さず、温帯に属する日本でも、
夏期に猛暑が続くと登熟障害を起す。
稲の食用部分の主成分・でんぷんは、分子構造の違いから アミロースと
アミロペクチンに別けられる。米の食感は、両者の含有配分により大きく異なる。
アミロース含量が少ない米は 加熱時に柔かくモチモチした食感になり、アミロース含量
が多いとパサパサした食感になる。日本人の食文化では、低 アミロースの米を
「美味しい」と感じる。この好みは、世界的には 少数派となっている。
通常の米は 20%程度の アミロース を含んでいるが、遺伝的欠損により アミロース
含量が 0%の品種もある。これがモチ性品種である。モチ性作物は稲だけで
なく、アワ、キビ、ハトムギ、モロコシ、トウモロコシ、オオムギ、アマランサスに
見つかっている。これらの作物は世界中で栽培されているが、この品種が栽培
される地域は 東南アジア山岳部の照葉樹林帯だけ(モチ食文化圏)。
日本列島自体が 西半分を「モチ食文化圏」と同じ照葉樹林に覆われており、
また ハレの日に もち米を食べる習慣がある(オコワ、赤飯、お餅)ことから、
日本文化の一つのルーツとされる。
(つづく)
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(19) のつづき
更新世(約258万年〜約1万年前)
ヴュルム氷期
約2万年前の最終氷期の最寒期には、海面は全世界で120m以上も低下して
おり、日本列島も、津軽海峡の一部、宗谷海峡、瀬戸内海の大部分などが
陸続きで、アジア大陸ともつながり、現在の日本海は ほとんど塩湖だったと推定
されている。この時、多くの動物が渡来し 日本の生物相に大きな影響を与えた。
約1万年前からの完新世になって、平均気温が高くなり、海面が上昇し、現在
の海陸分布ができあがった。
・・・
オールデストドリアス期(18000〜15000年前頃) 亜氷期
ベーリング期(13000〜12000BP) 亜間氷期
オールダードリアス期(14000年前頃以降の300年) 亜氷期
アレレード期 (14000年前〜) 亜間氷期
ブリテン島では夏の平均気温は アレレード期の1千年間で4度上昇し、夏の
気温は 14度と現在の ロンドン市内より 2度低い程度までに上昇。
ヨーロッパ大陸の動植物の分布にも変化が起きた。北部地域まで落葉樹の森が
急速に広がり、人類が住んでいた遺跡から出土した動物の骨も、草原に棲む
生き物から森林に棲む生き物へと変化した。この時代の遺跡からは トナカイ
やウマに代わって、アカシカ、オーロックス、バイソン、シャモアなどが多く発掘
されている。
森林に棲息する動物が増える一方、移動性の大型哺乳動物は環境変化に より個体数が減少したため、ヨーロッパ西部に住んでいた人類は、草食性の
大型哺乳動物を食糧とする肉食から、雑食へと切り替える必要性に迫られ、
弓矢や罠で小動物を捕まえるようなる。また、植物を採集し、鳥や魚、さらには
海岸沿いでは 軟体動物も食用にした。
最終氷河期には、狩猟のために数家族単位の小グループを組み、洞窟などで
暮らしていたのに対して、温暖な気候へと移る中で、隠れ家のような拠点から
脱し、森林の中での定住生活へと変わり、集団の人数が増加した。このように
して小規模ながら村が形成された。
温暖化によって、採集生産を基盤とした定住生活へと転換し、不足する 栄養価を得るために狩猟を行った。
ヤンガードリアス期(新ドリアス期 1万2900〜1万1500年前)
最終氷期終了に伴う温暖期(亜間氷期)の後、 1300±70 年間続いた 北半球
高緯度における気候寒冷期。
約10年の間に、気温が 約7.7℃以上下降した。
スカンジナビアでは、森林が氷河性のツンドラに交代し、世界各地の山岳or山脈部
で氷河作用が進行し、降雪量が増加した。
アジアの砂漠起源の塵が 地球大気中に増加した。
レバント地方の旱魃がきっかけとなり、ナトゥーフ文化(BC11000〜9000年頃)に
農業が始まったとされる。
この頃、西アジアで イヌが家畜化される。
前期旧石器時代(約260万〜約30万年前)
ハンドアックスが ひろく用いられた時代。
中期旧石器時代 (約30万〜約3万年前 )
剥片石器が出現した時代。
ネアンデルタール人(約20万〜2万数千年前)が、ヨーロッパを
中心に西アジアから中央アジアにまで広がった。
後期旧石器時代 (約3万〜約1万年前)
石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の
原動力を言語に求める説もある。
クロマニヨン人(ホモ・サピエンス 約25万年前〜)が主流となり、
他の化石人類は 急速に姿を消した。
日本列島の旧石器時代:後期については、北海道から九州にかけて5000カ所
を超える遺跡が確認される。前期/中期についても、数こそ少ないが いくつか
確認されている。
※ サハラ砂漠
2万〜1万2千年前は サハラ砂漠が最も拡大した時期で、現在のサヘル地帯
のほとんどが砂漠に飲み込まれていた。
その後 最終氷期の終焉とともに サハラは湿潤化を開始し、約8000年前に
もっとも湿潤な時期を迎え、砂漠は アトラス山脈直下の一部にまで縮小、サハラ
の ほとんどは サバンナやステップとなり、森林も誕生した。
7500年前 一時 乾燥化したが すぐに回復し、5000年前までの期間は
湿潤な気候が続いた。その後 徐々に乾燥化が始まり、以来 現在に至るまで
乾燥した気候が続いている( 5000年前と比べると 砂漠の南限は1000kmも南下
している)。
乾燥化は 歴史時代を通じて進行しており、砂漠の南下も 進行中である。
完新世(約1万年前〜現在: ヨーロッパ大陸における氷床の消滅をもって定義された)
気候環境が一転して地球全体が温暖化し、氷河がモレーンを残して後退した。
の大型哺乳類の生息環境が縮小し、彼らを絶滅させた。
期間が短いため大規模な大陸の移動などはないが、完新世の初期には、
大陸氷床の融解によって海面が130m以上急激に上昇した。特に 完新世の
気候最温暖期(7000〜5000年前 ヒプシサーマル⋆)と呼ばれる時代には、現在より
3〜5m程 海水準(陸地に対する海面の相対的な高さ)が高かったとされ(縄文海進)、
その後、海面は緩やかに下降し、海水準は 直近の2,000年ほどは比較的安定
している。
スンダランドが海中に没し、現在のインドネシアやフィリピンなどに相当する地域
がユーラシア大陸から分離して島となった。
北米大陸は ユーラシア大陸から分離した。
9600年前頃、ドーバー海峡ができ、グレートブリテンが大陸から切り離された。
約7300年前 南九州の鬼界アカホヤが噴火し、巨大地震や巨大津波が発生。
⋆ この頃までには、氷床は 北米や北ヨーロッパからほとんど姿を消して、
グリーンランドと南極大陸に退いていた。この氷床から海洋への融水の流出は、
かつて 氷床があった陸上からは荷重が取り除かれ、一方では 海洋底に
新たに荷重が加わったことを意味する。その結果、陸上では隆起運動が、
海洋では沈降運動が始った。フェノスカンジアでは 今もこの隆起が続いて
おり、中心部では 1年当り 1cmの割合で地表が高くなっている。
ボレアル期(8800〜7600BP) 亜氷期
8200年前に大規模な寒冷化が始まり 400年間続いた。現在より 2-3℃気温
が低かったと推定される。
アトランティック期(7600〜4500BP) 亜間氷期 新石器-青銅器時代
気候最温暖期(ヒプシサーマル)で、現在より 世界平均で 2-3℃暖かかった。
氷河の前進が世界的に起こった寒冷期。
サブアトランティック期(2500BP〜) 亜間氷期 ※ 新石器時代(BC8500〜3500年)
村落の形成や農耕、動物の家畜化⋆、道具類の発展、巨石建造物、
そして 戦争の痕跡が確認できる。
に製作が始まり、 乾燥地帯で BC6000年頃と推測される メソポタミア
最古の土器などに先行していた。
ブタは 中国でも 独自に家畜化されている。
から家畜化されている。
が家畜化される。
から家畜化された。
が家畜化された。
イエネコの祖先は 約13万1000年前(アレレード期) 中東の砂漠などに
生息していた リビアヤマネコ。
ネコは イヌより家畜化の時期が遅いが、これは イヌが狩猟採集民に
猟犬や番犬として必要とされ、早くから人社会に組み込まれたが、
ネコは、農耕の開始に伴いネズミの害が深刻にならない限り有用性がなく、
むしろ 狩猟者としては 競合相手ですらあったため。
また、伝染病を媒介する鼠を駆除することは、疫病の予防にもなった。
最古の飼育例は、キプロス島の約9,500年前の遺跡に見られる。
今日のイエネコの直接的・系統的起源は明らかではないが、BC3000年頃
の古代エジプトで固定化されたものとされる。
(未完成)
国土交通省 国土技術政策総合研究所
気候変動適応研究本部 副本部長 大 平 一 典 |








