混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

現代の問題 1.〜科学

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[『巌流塾』 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

大転換の時代:大地震の文明的意義

              京大大学院 人間・環境学研究科教授 佐伯啓思氏

                           (6)

宗教的雰囲気の薄い日本

 ところで、ルース駐日大使が被災地に出かけて、被災者にこう言ったというのですね。
 「 この自然災害によって、多くの命が奪われたかもしれないけれども、あなた方の魂
  まで、自然は奪うことはできない 」と、こういうふうに言ったそうです。
この発言は、被災者を 物凄く勇気づけたと新聞に出ていましたけれども、これも やっぱり
非常にアメリカ的メンタリティだと思います。 言い換えると、
 「 自然は 人間の命を奪うけれども、魂まで奪うことはできない。 魂がある限り、
  我々は 自然をコントロールすることができるはずだ 」
ということですね。 もっとも、菅さんみたいに 被災者の前で立ったままで、
 「 皆んな頑張って下さい 」みたいなことを言うだけよりは、ルース大使の方が はるかに
立派だと思います。 立派だと思いますし、確かに 感動的な言葉ではあるけれども、それが
本当に 日本人の価値観に合っているのか というと、ちょっと違うと思います。
 実は、ルース大使は 非常に敬虔なユダヤ教徒ですから、大使の発言は そういう神の世界、
そして 宗教観があって 初めて出てくる言葉なのですね。
原発は ちょっと別にすると、被災地の多くの人たちは、
 「 自然災害に関しては しようがない。どうにもならない 」
という感じが強いのではないか と思います。

 それにもかかわらず、私が 今回感じたのは、宗教的雰囲気というものが 非常に薄い
ということです。 もしも ヨーロッパやアメリカで あのような大地震が起ったら、教会の前で、
或は つぶれた教会のあたりに人が集まってきて、讃美歌を歌ったり 十字を切って 何か
つぶやいたり という風景が、必ず 出てくると思います。
 ところが、今回の大地震では そのような宗教的な場面は ほとんどなかったようです。
ついでに言いますと、中国の四川大地震のときには、被災者の一人のおばさんが、
 「 この下に、私の娘が埋まっているのだ、何とかしてくれ 」と泣きわめいている映像が
くり返し放映されていたように記憶しています。 これに対して、アメリカ人は やっぱり
キリスト教ですから、神に祈るのでしょう。
では、日本人は いったい何をしたのでしょうか。 
せいぜい 「 がんばれ日本 」「 がんばれ東北 」という掛け声ぐらいなのですね。
特別に宗教的な雰囲気は、まったく見当たりませんでした。



テクノロジーによる非常事態の日常化

 次に、近代科学を どういうふうに考えるか という話をしておきたいと思います。
現在の日本人は、原発そのものを いったいどうしたらいいのか ということについて、
全く決断できなくなってしまっているようです。
現状の経済水準を維持しようとすれば、原発を ある程度維持しないとダメです。 脱原発
でいくならば、経済水準の活動を落さないとダメです。 
この2つの選択肢の間で、日本人は 選択不能になってしまっているのですね。

    ※ 佐伯氏は、「 現状の経済水準を維持しようとすれば、原発を ある程度維持しないと
     ダメです 」と仰っています。 しかし、これは 不正確な言い方です。
     「 火力や水力などを使わなければ 」という前提が、氏の言葉には隠れています。
     これは、原発ムラの人々のトリックに、氏さえも 引っかかっていられるわけです。
      さらに考えると、氏の前提には「 温暖化&CO2原因説 」があるかも知れません。
     しかし、これは 国連が旗振り役となって、世界中に流布した 偽説でしょう。 この説に 
     世界中の国々や科学者が振り回されているのは、世紀の奇観です。 合掌
     
アメリカ のように、「 最善の世界をつくるのだ 」「 人間が 自然を コントロール すれば いいのだ 」
というような、強い価値観も日本人にはないわけです。
一方で、原発というものに対する 不信感だけはあるのです。みんな もう嫌だと思っている
のです。こんなことまでして そんなハッピーにならなくてもいいだろうと思っているのです。
しかし、それがなくなってしまって、経済活動の水準を落せるかと言ったら、どうも そうは
いかないわけです。 アメリカもやっているし、中国もやるというなら 日本も原発を続け
ないとまずいかな と、今 そんなレベルで止まっているわけですね。
 しかし、そろそろ 近代科学とか近代技術というものについて、我々は 日本人としての
考え方を持たないとダメだと思います。

 考えてみたら、そもそも近代社会というものは、次から次へと新しい技術を開発してきました。
例えば、原発も もちろん そうなのですけれども、その他、バイオテクノロジー とか、クローン 技術とか、
さまざまな分野で 全く新しいタイプのテクノロジーが出てきています。
しかし、新しいテクノロジーというものは、 一方で それまで 誰も想定していないような
新しいリスクを生みだしたのです。つまり、いつでも 非常事態の可能性があるのです。
原発は 象徴的で分かりやすい例ですけれども、しかし ひょっとしたら遺伝子操作のおかげ
で何かとんでもないことが起きることもあり得るし、又 「 パンデミック 」のように、とんでも
ない細菌が散らばってしまうこともあります。勿論、原発を攻撃したら一国を破壊することが
できるということが分ってしまいましたから、テロも もちろんあり得るのですね。

 だから、高度な テクノロジー に依存する社会においては、非常事態が日常化するということ
を考えておかないとダメなのです。非常事態は 1000年に一回起きるものではなくて、
いつでも起りえるということを想定しないとダメな状態になっているのだろうと思います。
そういう事態に対して、我々は 一体 どういう体制を取るべきなのか、その点を考えないと
ダメなわけです。 もはや、戦後の平和主義の中で 富を蓄積し、それを配分すればよろしい
という、そんな状況では なくなってしまった ということです
 我々の意識そのものを変えないとダメになってきているのです

 
                     (つづく)
[『巌流塾』 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

大転換の時代:大地震の文明的意義

              京大大学院 人間・環境学研究科教授 佐伯啓思氏

                        (5)

そこにある 次の危機
 
 それと、今回の大震災で もう一つ留意しなくてはならない点は、実は 日本が ものすごく
危機的な状況にある ということなのですね。 今日の新聞に出ていましたけれど、アメリカの
ある地震学者が「 次は 茨木から福島の間のエリアで、3.11に匹敵するだけの大地震が
起きるだろう 」という論文を発表していました。 この大地震は、もしかしたら 明日起きる
かもしれないし、500年後に起きるかもしれないということです。
「 そんないい加減なことなら、何も言うな 」という気がしますけれども、 つまり 「 まだ あの辺
に 大きなひずみがある 」と地震学者が言っている訳です。 これは 本当に どうしようもなく
危機的状況なのですね。一般的な危機管理などでは対応できないほどの危機なのです。
  ※ 2011,Oct.20 北海道大学理学研究院 附属地震火山研究観測センター 森谷武男氏

 こういう非常事態が起きた時に、いったい どうなるのでしょうか。これは 一大問題ですが、
実は 日本国憲法には 非常事態についての規定が全くないのですね。 そして、非常事態に
ついての規定がない憲法というものは 世界でも珍しいのです。 アメリカ憲法にも 非常事態の
規定はないのですけれど、アメリカでは 非常事態には 大統領が全権を持つということが
前提になっていますからね。

 又、一般的には 非常事態というものは 大災害ではなくて、戦争のことを考えている訳です。
どこから攻めてきたときに いったい どうするのか、という話なのですね。 日本の場合、
憲法には「 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し 」と書いてあります。これは、
「 世界の国は 全部 平和主義で 戦争は起こさない。日本だけが 戦争を起こす可能性がある 」
という前提で 日本国憲法ができていますから、非常事態についての規定はないわけです。
この事実ひとつだけでも、とんでもない話だと思いますね。

 本当に 政府が機能するかしないか という状態になった時に、いったい だれが 最終的な権限
を持つのか、そして だれが 治安維持をするのか、こうしたことは たいへん重要な問題になって
きます。 今回も 実は それがないために、何やら よく分らない事態になっているわけです。
内閣の どこに権限があるのか、だれも よく分らなくなってしまっているわけです。
 原発事故についても、今現在は 風向きの関係で首都東京は無事ですけれども、万が一 再臨界*
にでもなって、その時に 風が東京の方に吹いたら、最悪の場合 東京が壊滅するという事態にも
なりかねません。 その時に いったい 誰が これを管理するのか、少なくとも その枠組みを
決めておかないとダメです。
     kyomu-注。 佐伯氏が問題とされている「 再臨界 」は、それほど重要なことでは
          ありませんでした。 もっとも危惧された事態は、水素爆発or水蒸気爆発により 
          原子炉or格納容器が破壊されて、東京は勿論 広汎に放射性物質が拡散する
          ことでした。 それほど、危機的な状態が続いていたのでした。そして、今も
          その可能性は、少ないとはいえ、無くなってはいないのです。
          政府、マスコミ 及び 学者が 肝心な情報を ほとんど出さなかったために、
          氏のような誤解が生じました。



西欧社会とキリスト教的世界観の関係

 さて、3番目のポイントですが、 本当は この3番目が 一番 言いたいことではあるのです。
今回の地震が起きた時に、ふと思い出したのは、1755年のリスボン大地震のことでした。
 18世紀の半ばに リスボンで大地震が起き、 ポルトガルは その前から傾いていたのです
けれども、この地震によって ポルトガルが決定的にダメになってしまった と言われています。
と同時に、このリスボン大地震は ヨーロッパの世界観を大きく変えたと言われているのです。
 それは どういうことかというと、 当時 キリスト教の世界観の中では、「 神は可能な中で
最善の世界を造った 」というふうに考えられていたのです。 ということは 逆に言えば、この世
の中が最善である と論証できれば、 神も存在する ということなのですね。
当時は、そういう弁神論というものがありました。 そして、この世の中は最善だと 当時の人々
は 考えていたのです。 そこに リスボン大地震が起きて、 「 とてもじゃないけれど、これは
最善の世界ではない 」という話になった。 そこから 神を中心としたキリスト教の世界観が
崩れていって、近代科学的な啓蒙主義に基づく 近代的な世界観が出てきたと言われています。

 ヴォルテールとルソーなども、リスボンの大地震に影響を受けたと言われていますね。
その他、大きな影響を受けたのは 哲学者のカントで、カントは地震の研究を始めたりもします。
それから、『判断力批判』(1790年)で、こういうふうなことを書くのです。 すなわち、

 「 自然災害は人間の命を奪ってしまう。人間は自然に伏しなければならない。ものすごく
 巨大な自然というものを人間は目の当りにする。それに対して人間は大変な恐怖感を持つ。
 しかし、その次の段階として 人間は理性があり、人間には 崇高な精神というものがある。
 そこで、精神の力によって人間は 自然の メカニズム を解明し、自然の メカニズム を解明すれば
 自然をコントロールすることができる。そこに人間の精神の崇高さがある 」

と カントは言うのです。 そこから 近代科学的な精神が生れてきたわけです。つまり、

 「 人間が 自然を完全に管理する。自然を管理することにより 人間は 自然から自立できる。
 自然に もはや伏する必要はない 」

という考え方ですね。 こうした考え方が 近代科学を生みだし、近代科学の極端な形として
核兵器とか原発を生みだしてきた わけですね。 これは、
「 自然というものの メカニズム を 物理学が完全に解明したので、自然の エネルギー を人間が
作り出すことができるようになり、自然の エネルギー を制約に伏する必要はなくなってしまった 」
という考え方ですね。 それが 今度 こういうことになってしまったわけなのですね。

 そこで、私が思うには、カントのこういう考え方というのは、実に キリスト教的なもの
なのだ ということです。

 まず第一に、「 人間の生命は 自然に伏して死んでいく。 しかし、精神は残る。その精神の
力によって 自然をコントロールすることができる 」 という考え方ですが、これは 非常に
キリスト教的ですね。キリスト教も「 人間の肉体は消滅していく。 しかし、魂は残って 神の
もとにいく。魂でもって 人間は 自分の肉体をコントロールしないとダメだ 」というふうに
考えます。 こういう考え方そのものが 非常にキリスト教的です。

 二番目は、いわゆる「オプティミズム」と言われる点です。具体的には、「 神は最善の
世界を造った。 しかし、大地震が起るということは、どうやら 神はいないらしい。 神は
いないのであれば、人間が神に代って最善の世界を造るべきだ。 」 という発想です。
言い換えると、
 「 人間の精神は 神に非常に近い。 つまり、精神的存在としての人間は 神の代りに
  神の位置について、神の代りに自然を作り変え 社会を作り変え、それで この世の
  中を もっと良いものに作り変えることができる。そうすることによって、人間の幸福が
  増進していく。 神も そのことを望んでいる。
という発想が その背後にあると思いますね。
これも 非常にキリスト教的だと思います。 だから、特に アメリカでは 科学と技術に対する
信仰が非常に強いわけです。 科学と技術に対する信仰が非常に強いということは、科学と
技術によって 人間は 自然や社会を作り変え、人間の幸福を高めることができるし、この世
の中を もっとすばらしいものに作り変えることができる という考え方です。なぜなら、
それは 神の恩恵にそっているからです。そのことを 神は祝福するだろう ということです。 

 だから、こういう原発の事故が起きた時に、アメリカ人なら、このように考えると思います。
 「 彼らは犠牲者であり、犠牲が出たことは非常に悲しい。しかし、彼らの犠牲の上に
  立って、我々は もっとすばらしい、もっと安全な原発をつくるべきだ。
と言うでしょう。
これで 原発を止めようなんていう話には ならないと思います。 アメリカ人は、科学の力、
技術の力への確信をもっているのです。 その背後には やはり、「 神が 或は人間が最善の
世界を造ることができる。そのためには、自然を支配すればいいのだ。 」という キリスト教的な
「最善の世界」という観念があるのだという気がしますね。
 


                        (つづく) 
[『巌流塾』 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

大転換の時代:大地震の文明的意義

              京大大学院 人間・環境学研究科教授 佐伯啓思氏

                        (4)

コミュニティ再建が大きな課題
 
 今度の地震で分ったことは、被災地では パソコンとか ITとか というものは、ほとんど
役に立たなかったわけです。 結局、役に立ったのは 人間関係なのですね。 具体的に顔が
見えて、信頼できる人が そこにいるということなのです。 結局、そういう意味では やっぱり
コミュニティだけが 人の助けとなったのです。
 即ち、コミュニティ の再建が これからの大きな課題となります。 コミュニティ、即ち 具体的に
顔が見えて、お互いに助け合うことができるような人間関係を 日本においてどういう形で
復活させていくのか、ということです。

 実は、これは 日本人が 一番得意だったことなのです。 人間関係を作り出すこと、人と人の
関係をつくることは、 本当は日本人の一番のメリットだったのですね。
先ほど 生産要素として、 「土地」と「労働」と「資本」がある ということを言いました。
ピーター・ドラッガ―は、実は ‘ もう一つ 大事な生産要素がある、それは「組織」である ’という
ことを言ったわけです。 ドラッガ―は、‘ 「組織」というものは 4番目の大事な生産要素だけれど、
多くの経済学者は それを無視している ’ と言ったのです。
「組織」とは、即ち 人間関係です。 例えば、‘ あいつは信頼できる ’とか、‘ こいつは ちょっと
ダメだ ’ とか、‘こいつはあんまり能力がないけれども、何かいいものを持っている’とか、‘ こいつ
は 短期的には ダメだけれど、長期的には 何かやるだろう ’ とか、そういうふうなところで、人間が
お互いつながり合い、人間関係をスムースにしていくこと、それが「組織」ですね。 そういう「組織」
こそが、かっての日本の強みだったわけです。

 先ほど、 生産要素が いろんなレベルで解体されたと言いましたけれども、実は 日本の「組織」
も解体されていったのですね。 例えば、地方のコミュニティは崩壊し、日本型経営も解体までは
至っていないとしても、かなり揺らいでしまいました。 それらを どういうふうに立て直すか
ということも、非常に 大事なことです。 こういうふうなことについて、全部 発想を変えて
いかないとダメなのです。 これが 短期的な意味での「 大転換 」です。


中期的な大転換に「日本モデル」を

 それから第2番目の、中期的な大転換は 「 戦後日本をどういう風に見直すのか 」という点です。
私は、事が ここまできてしまったのは、やはり 「 戦後日本 」というものに、いい面もあったのだ
けれども、 いい面が 今は マイナスにかわってしまったということが原因だと考えています。
そもそも 「 戦後日本 」というものは いったい 何だったのかというと、簡単に言ってしまえば、
「平和憲法」 プラス 「日米安保体制」 プラス 「経済成長追求」と、こういうことだっただろうと思います。
そして、「憲法は そのままにしておこう」、「防衛は アメリカにやってもらおう」、「我々は ややこしい
防衛、外交については あまり考えないで、専ら経済活動に精を出していこう」と 戦後の日本人は
考え、そして関心は 「経済成長の成果である富をどうやって配分するか」 という点だけにあった
わけです。 
日本の政治が そのよい例ですね。 自民党政治がうまくいっていたのは、結局 その枠組みを
きちっと守ったからですし、革新派も 結局 その同じ枠組みの中で、「貧しい方にも ちょっと 金を
よこせ」 という話をしただけなのですね。
だから、この枠組みは 戦後の日本を支えてきた 大きな枠組みになっていたのです。 この枠組み
の中で、日本が 経済大国になったことは 間違いないのです。

 だけど、この枠組みは 実際には 冷戦体制の中でのみ有効な話だったのです。アメリカが
日本を守ってくれるということは、別に アメリカが日本を好きだからというわけではなくて、日本が
自由世界の中で社会主義に対する、もっとも好都合な防波堤であったからなのですね。アメリカ
からすれば、日本は単なる前線基地だったのです。中曽根康弘 元首相は「日本は不沈空母だ」
というふうなことを言っていましたけれどね、アメリカからすれば日本は確かに「巨大空母」だった
のです。そして、かっての社会主義に対する前線基地だったから日本を守った、という基本的
には それだけの話です。

 だから 冷戦体制が終わってしまったら、実は 「平和憲法」 プラス 「安全保障体制」 プラス「日米
安保体制」 という枠組みを 本当は 見直さないとダメだったわけです。
冷戦体制が終わってしまって、世界中にグローバルなマーケットが出来上がると、結局 世界中
において自国の利益をめぐって マーケットの取り合いが起ってしまった。
そういう時代には、基本的には自国の防衛は まず自国でやらないとダメです。 その上で 友好国、
同盟国との関係を構築していく、手順としてはそうなるのですね。 ですから、本当は そういう話も
90年代にやっておかないとダメだった訳です。 しかし、90年代には、防衛論議や日米関係論議
は ほとんど出なかった。 これは 国のあり方というものに関する 大きな枠組みの話です。

 それと、もう一つの課題は、経済成長追求に関してですが、80年代ぐらいには 日本は ほとんど
成熟社会に入ってしまって、少子高齢化ということを考えれば、90年代以降に 経済構造の転換
をやるべきだったのですね。そうしないと、どうやっても 社会や経済の仕組みがもちません。
すでに 70年代の終わり位に、「脱工業社会論」とか、 例えば ローマクラブが「成長の限界」なんて
いう本を書いたりして、「経済成長は世界的に限界だ」「資源競争が起きて資源が枯渇する」
という話が出てきている訳です。しかし、その議論が 80年代のレーガノミックスの新自由主義
路線で 完全に消えてしまったのですね。 消えてしまったけれども、その話の前提が無効には
なっていないのです。 いずれ、それは 必ず出てくることになるわけです。

 その意味で、私は、日本は 今 世界に先駆けて、次の社会モデルをつくるべきだと思います。
脱経済成長といっても、経済成長率自体が そんなに落ちるわけではないのです。
例えば、公共施設や 道路、橋など、そういう公共インフラを 近い将来には 全部作り変えて
いかないとダメになってくるわけですね。 そういう インフラの更新を行うだけでも、経済成長率
の1%や2%は もちろん出るわけで、別に 経済レベルが落ちるわけではないのです。
 ただし、これは 我々の意識の問題ですが、経済成長とは違う 次の次元で、社会生活の豊かさ
など、もう少し 質的なものの追求や、文化を もう少し 我々の日常の枠組みの中に持ってくるとか
何か 次のことを考えないとダメなのですね。 経済成長の次の社会のビジョンを描きだして
いかないとダメになっています。


  参考:タイ洪水・寸評・・・よく考えているか?   武田邦彦氏 平成23年11月6日

                    (つづき)
 
『巌流塾』 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

大転換の時代:大地震の文明的意義

              京大大学院 人間・環境学研究科教授 佐伯啓思氏

                        (3)

グローバルな金融経済が合わない国・日本

 恐らく 先進国の中で、日本ほど このグローバルな金融中心経済が合わない国はないのでは
ないのではないでしょうか。 それは 先ほど言いましたように、日本は 成熟経済のかなりの段階
まできていますし、しかも その中で人口減少によって 高齢化社会になっていくわけです。
そういう状況の中で、賃金水準は まだ相対的に高くなっており、土地も高くなってしまった。
こういう構造の中でグローバル競争に入れば、当然ながら 日本の企業は利益を上げるために、
たとえば 中国あたりへ転出していかざるを得ないわけです。

 このことは 日本の国内に対しては 大きなデフレ圧力になります。 そして、デフレになれば
国内の需要は減ります。そこに行政改革やら緊縮財政をやれば、ますます日本の経済は低迷
します。 これはきわめて単純明快な話です。
つまり、グローバル 経済の中で規制緩和を行い、グローバル 経済に適応しようとすればするほど、
日本のような国は、必然的に不利になる。 グローバル 経済への適応は 国によって結果が違う
もので、グローバル 経済の中で メリットを得る国もあります。 例えば、アメリカのように産業構造を
うまい具合に転換して、新しい産業分野を作り出して、そこで グローバル 戦略を立てられる国は
それなりに うまくいくわけです。 ただ アメリカの場合には、資本市場が活性化することに
よって アメリカ経済を 何とか支えたわけですから、これは 一種の虚栄の経済です。

 だけど、国によって状況が違う、条件が違うということを、我々は 余りに軽視し過ぎていた。
だから、 日本は リーマン・ショックに直接関係ないにもかかわらず、リーマン・ショックで
非常に大きな打撃を受けましたし、いつまで経っても デフレ経済から立ち直れない。

 今般の大震災前に、実は 日本は こういう段階に来ていたのです。 そして、「 これは
どうにもならない 」「 この方向をやってもだめだ 」という閉塞感を 皆が 持っていたのです。
そこに 今回の地震が来ました。 もちろん、この地震は 今まで お話してきた一連の流れ
とは 直接関係のないものなのですけれども、 私は この地震を契機に、大きな方向転換を
すべきだと考えています。 勿論、本当は もっと前に 方向転換すべきだったのですけれども、
「構造改革」以来の この流れを、まず 断ち切ることが先決だと思います。


自給自足経済への方向転換

 端的に言えば、従来のグローバルな金融中心型の経済構造から、もう少し内向きに方向転換
をするべきだと考えています。 「 内向き 」と言っても 別に 鎖国をしろとか、そんな話をしている
わけではもちろんなくて、国内の社会的な基盤を固めるような方向に変っていかないとダメだ
ということです。 それは 国単位でも そうですし、地域単位でも そうです。
地域でも ある程度 自給的な経済圏を意識していった方が いいのではないでしょうか。
 たとえば、東北地方なら東北地方で、関西なら関西で、ある程度の自給的な経済圏を作って
いくのです。 国単位で言えば、国単位で ひとつの自給的な まとまった経済圏を作っていくのと
同様です。 そういう動きが これから むしろ必要になってくるだろうと思います。
積極的に その方向に舵を切らないと ダメなのです。

 ところで、私は 経済学者では ケインズが一番好きで、いまだにケインズは基本的な所では
そんなに間違っていなかったと思います。 ケインズが「 公共投資が大事だ 」と言った理由は、
別に不況対策のためだけではなくて、 実は グローバル経済に対する対策だったのですね。
ケインズの時代、第一次世界大戦が終った 1920年代に、アメリカとイギリスの国力が
逆転してしまい、アメリカ中心のグローバル経済が 再構築されたのです。
 そうすると、イギリス国内には 投資機会がないので、イギリス 国内の資本が アメリカに流れていく
わけですね。 ケインズは それを防ごうとした。 それを防ぐには どうしたらいいのか、と考えた
のです。 そして、国内に 民間の企業の投資機会がないのなら、政府が投資機会を作ればいい、
と考えたわけです。
 そこで 「 アメリカをはじめとする 海外に流れていく資本を、イギリスに止めるために 政府が
公共投資をしろ 」と、こういうふうに提言した訳ですね。 それを ケインズは 「自給自足的な経済
(selfsufficient economy)」と呼びました。 自給自足的な経済が必要である、ということですね。

 もちろん、ケインズは ご存じのように 当時の トップクラス の国際金融学者であり、英国大蔵省の
国際金融部門の担当者でもありましたから、国際金融のことは 誰より 一番よく分っていたのです。
よく分った上で、ケインズは そういうことを言っているのですね。
国内で 公共投資をしないと、イギリス の中にある資本は、国内的な視点では 全く無駄に使われて
しまうわけです。 そこで、ロンドンを整備し、地方を整備し、住宅建設をして、将来のイギリスに
つながるような公共投資をすることに イギリスの資本を使わなければならない、という主張をした
のです。 そして、結果として 30年代の大不況のときに、同じ主張が出てくることになります。


日本が今やるべきこと
 
 今、日本がやるべきことは、 基本的には これと同じことだと思います。 つまり、将来に向けて
の 社会的な インフラストラクチャー の整備です。 この分野でやるべきことは いくらでもあります。
だが そのためには 将来社会のビジョンというものを、ある程度描かなければならないでしょう。

 今般の大震災のようなことが起きると、 やはり 我々の考え方が変ってきます。 例えば、
「生活の安全」というものを 基本に置かないと しようがなくなってしまったわけです。 それは
地方単位でもそうだし、個人単位もそうだし、国単位でもそうなんです。 生活の安全というもの、
もっと言えば、我々の 生命の安全というものを基本に据えないとしようがなくなってしまった訳です。

 しかも、 今回の地震は、一連の事態の始まりだ と見ておく必要がある。 地震学者たちも、
しばらく前までは「 今回の大地震と 将来の東京大地震とは、地層が違うのだから全く関係ない 」
と言っていたのですけれども、 最近は そうではなく、今後 東京大地震がくるということを
全く 否定しなくなりましたね。 すなわち、「 東海大地震、東南海地震、南海地震などの地震は、
東北の大地震が 引き金になって発生することは 十分あり得る 」 という見解ですね。
具体的には、これらの大地震が 今後 30年内に発生する可能性は、70%から80%ぐらいまで
の水準まできているのです。 我々は 今 そういう状況に置かれているのです。これは 本当に
とんでもない話です。 ヘタをしたら「 日本沈没 」という話ですね。
 
 その中で、いったい我々は何をすべきか、そして まず安全をどうやって確保するのか という点が重要な課題となります。そのためには、基本的には「自給圏」をつくる以外にないのです。もちろん、別に「鎖国しろ」ということを言っているわけではない。
国を グローバルに開いておいて構わないのですけれど、基本的な考え方としては 「自給圏」を
つくるということです。 グローバルな経済競争よりも、 日本の国内である程度のマーケットを
作り出し、 その マーケットの中で お金が動くような仕組みをつくる、ということです。
 中長期的に、あまり生産性は上がらないけれど、我々の生活の安全に寄与する分野にお金を
流していかなければならない、ということです。 それは、とても 非効率な経済です。 しかし、
その 非効率な経済を 我々は 我慢しないとしようがない、という状況なのです。

 ここで言う「自給」ということの基本は、「食糧」「資源」、それから「防衛」でしょう。
まずは、食糧自給率を ある程度高めないとだめです。それから、資源をどうやって確保するか
が 大きな課題です。 この課題には、原発の課題も絡みますけれども、それから、もう一つは
防衛の問題です。 こういう課題を もう一度 改めてちゃんと考え直す必要がある。 もちろん、
その他として、例えば 「緊急医療体制」を どうするのかという課題などもありますが、今の日本は 
こういう基本的なことから考えていかないと だめな状況になりました。


                     (つづき)
[『巌流塾』 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

大転換の時代:大地震の文明的意義

              京大大学院 人間・環境学研究科教授 佐伯啓思氏

                          (2)

労働の流動化が 日本の生活基盤を崩した

 2つ目の労働については、言うまでもないことですが、労働の流動化によって、長期的な
雇用慣行が崩れてしまいました。 それから、能力給が導入されてきた。 アメリカ型の経営
といいますか 仕事の割り振り、すなわち「 デマケーション(業務分担) 」が かなり厳格に
決められ、成果に対して給料を払うという合理的な構造ができていくわけです。 さらに
よりコストを安くするために 派遣社員 や その究極の結果として 「フリーター」という存在が
出てくるわけです。 これらは 労働の流動化の結果です。
 それで 労働コストは 確かに下がりました。下がったけれど、では どうなったかというと、結局
社会不安が起きているわけです。 失業が起き、賃金が下がる。デフレ経済が生み出されてくる
のです。雇用不安が生れて、社会的な不安が生れてくるわけです。

 一方、普通のサラリーマンの場合、20年、30年と長期間、給料を得ることが確定して
いないと、家を買って ローンを払うこともできませんし、子供の教育を満足に受けさせること
もできないですね。 ですから、住宅を開発した住宅業者が家を売って、その家を 20年、
30年のローンで買うこと や 子供の学費を工面して子供を学校にやる、という社会システムが
ある程度 安定して うまくいくためには、ある程度の長期雇用慣行が必要なのです。
 長期的な雇用慣行が崩れてしまうと、結局 今言ったような 社会の安定性が 全体的に
崩れてしまうことになるのです。 こういうことは 目に見えない形で 非常に大きな影響を
社会に与えたという気がしますね。

 そこにまた、携帯電話とか IT革命の結果が導入されてきて、子供たちが家庭の外へ
飛び出していってしまい、親子関係がうまくいかなくなってきたり、家庭が崩壊していくとか、
社会規範が崩れていく、といった事態が生じることになるわけです。
 戦後に日本の規範は、何段階かにわたって崩れていっているような気がしますけれども、
やはり 90年代以降の「構造改革」の中で、恐らく 誰も予期せぬ結果として 社会的な規範の
崩壊が生じ、子供を まともに教育することができなくなったように思います。 家庭が 安定
した形で 機能を果たさなくなってきているのです。
もちろん それは 高度成長のときから始まっている と言えば 始まっているのですけれども、
やはり 「構造改革」以降 その動きは 加速したと思います。

 こういうことを研究することは、学問的には どの学問にも入らないのです。 経済学者は
こんな話はしませんし、社会学者も なかなか 経済の問題と結びつけて話をしません。
もちろん、現場で こういう議論をやっている人は いるのですけれども、それが もっと大きな
理論的な体系になってこないのです。ですから、なかなか難しい問題なのです。

 私は、「構造改革」が生みだした 一つの大きな問題は、社会的な規範やら 社会的に安定した
生活基盤を崩してしまったことだろうと思うのですね。
こういうことを、一度 ちゃんと検証してみる必要があるのではないか という気がします。


土地の流動化は 地域間の格差を生んだ
 
 次に、生産要素の「土地」について考えてみます。 例えば、容積率の規制が緩和される等、
仮に 建物の規制がなくなったら、いったい どういうことが起きるかというと、当然ながら
東京の都心で 地価が上昇するところには 資本が流入してくるでしょう。 一方、地方の
商店街などは 全然 ダメでしょうね。 土地を売ろうとしても売ることができない。だから
シャッターを下したままで放置するわけです。このように、土地の価値に 非常に大きな格差が
でてくる。
 先ほどお話した、「労働」で格差が生じたことと同じように、土地を流動化することによって
土地の格差が出てくるのです。 それは、都市と地方の間の格差になってしまうのです。
だから、東京など 一部の土地が バブル経済を引き起こす一方で、地方都市は 全く動かない、
人が住まない、という状態になってしまう。 こうしたことも、社会的な不安定の非常に
大きな原因となります。

 こういうふうに、生産要素のレベルで、さまざまな不安定さが起ってしまったわけです。
これは 「構造改革」がもたらしたものです。 もちろん、従来の日本の経済構造が あのままで
よかったかというと、そういう話ではありません。 しかし、「構造改革」が結果として
非常に大きなマイナスをもたらしてしまったことも事実です。このマイナスの影響が、社会的な
土台、あるいは 我々の社会生活の 一番 基本的なところに及んでしまった。
 ですから、社会的な土台の再建が 「ポスト構造改革」の大きな課題だったわけです。
それは 言い換えると、「 グローバルな金融中心型経済の中で、日本は 一体 どういうふうな
国をつくるべきか 」という課題でもあったのですね。

 本当のことを言えば、日本は 90年代から そういう課題に直面しているのです。それでも
90年代までの日本は、アメリカとの関係がうまくいけば まだ それでよかったですし、
日本の生産性、特に 技術の生産力は 非常に高度なものがありました。 しかし、90年代以降
は そういう状況ではなくなってきました。
 そういう状況の中で、日本は 一体 どういうふうな国を目指すのか という議論が必要だった
のです。 しかし、現実において行われた政策は 全く逆のことで、できるだけグローバルな形で
競争条件を作り出せばいい、という考えでした。 そのためには 経済をボーダレス化して、 政府
は 余計なことをするな、国家は弱体化する方がいい と、こういう話になっていったわけです。


「 国家の意思 」が必要
 
 これは 今から思い返しても残念です。 また、非常に奇妙な気がしますね。90年代以降の
グローバルな金融中心経済の中で 一番うまくいった国はどこかというと、現状で言えば 中国
ですね。 アメリカは リーマン・ショック以来 ちょっと調子が悪いけれど、リーマン・ショック
までは アメリカも 非常によかった。 そして、ロシア、それからインド、ブラジル、最近は
韓国が出てきました。 一方、EUは ちょっと微妙なとことですね。よかったり、悪かったり、
いいのか、悪いのか、プラス面とマイナス面があります。
 これらの国々に共通することは 何か と言うと、これは 全部 国家の力が非常に強いという
こと、政府の力が強いということです。 戦略的に政府が動くことができる、戦略的に経済の方向
を決めることができる、ということなのですね。 中国は言うまでもないし、ロシアも プーチンが
出てきてからそうですし、アメリカも 大統領の権限は とても強いですし、経済政策の方向性が
かなりはっきりしています。 アメリカの場合、製造業が もうダメだとなれば、クリントン大統領
の時代に ITと金融部門に 迅速に経済構造を転換してしまいました。
つまり、アメリカは 相対的なアドバンテージを持っている分野で 世界の経済のトップの位置に
もう一度返り咲こう、という明瞭な意図があるのです。

 そして、こういうふうなことは 全部 「 国家の意思 」なのです。 国の意思が 経済戦略を決める
のです。 実は、グローバル経済の時代とは、そういう時代だったのですね。
そういうことは、最初から分っていてしかるべきだった。 だけど、今頃になって 日本人は
分ってきたということですね。 分ったときには もう すでに遅いわけです。 恐らく 日本が先進国
の中では このグローバル経済の中で 一番損をしたかというか、うまくいかなかったわけですね。
だけど、どうして うまくいかなかったかということについて、対立する2つの意見がでてきて
しまった。

 一つは、日本はグローバル化の流れに乗るのが遅すぎた という意見です。 だから、
「 できるだけ早く、今からでもいいから 規制緩和を徹底し、グローバル 競争をする条件を作れ 」
という 竹中平蔵さんらが主張している方向性ですね。 まだ、こういうことを言っておられる方が
いるわけです。 
 私の意見は 全く違っていて、日本は日本なりの国家的な経済戦略を持たなかった、あるいは
社会についてのビジョンを持たなかった、そのことが 失敗の一番の原因であると考えています。

                     (つづく)                      

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