混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 2.

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

( 不空の第三句 )
        〜〜〜「 亦 無有相可取 以離念境界 唯証相応故 」〜〜〜
    (また、相の取るべきもの有ること無し。離念の境界は、ただ証とのみ相応するが故なり。)

   
   海東疏は、「空と不空とは、二の差別なきことを明かす。不空というと雖も、しかも相有ること無し。この故に、不空は、空に異ならず。 分別所縁の境界を離れて、ただ無分別の所証と相応するを以っての故なり。」と。

   義記は、「惑者、‘ 浄法は空ならず ’と聞きて、則ち 情執の有uに同じと謂omoわん。故に釈して云く。{ 無有相可取 }と。これ則ち、不空は 空に異ならず。 { 以離念境界 }等と言うは、無相の所以yuenを釈するなり。もし、妄念の所縁は、これ則ち、有相なり。既に、ただ真智の境なり。明らかに知りぬ。妄執の相無きなり。真如門を釈し竟owaんぬ。」と。


   「 真心 」(まことのこころ)というものは、以上述べて来たように、私からすると、何重にも大変込み入っているものです。
しかし、もし誰かが、真心を、‘それはこういうものだ’と語っても、そう簡単に信じてはいけません。それを簡単に信じたばかりに、昔から今日まで 何と多くの悲喜劇が、この地上に巻き起こってきたことでしょう。
 
 義記が言う「惑者」(惑っている者)とは、他人のことではありません。‘自分は、もう真理を悟ったから、惑者でない’という人があったら、それをよくよく吟味してみなければなりません。その者が、人間である以上、たとえ一宗の開祖であろうと例外ではないのです。釈尊にしろ、イエスにしろ、ムハンマドにしろ、別格ではありません。

 私の弱点は、権威とか伝統とか世の多勢に、すぐ流されて自分の思考と主体性を捨ててしまうことです。自らと世界に対する責任を、放棄して、それを他に移譲してしまうことです。 
< 先師のことば >には、「 堕落 」とありました。

 「 真心 」は、誰の心か? ‘自分は、真心を悟った’という人の真心か? それとも・・・・。
ーーーーーーーけれども、いくら他人が真心を語っても、或は 私が真心を語っても、私自身が それを明らかに分っていなければ、何にもなりません。
 時間に余裕のある人は、いくらでも暇つぶしに、哲学論争をしたり、真実の御旗を掲げて宗教戦争や宗教組織の拡大やをすればよい。
 しかし、それらは、みな人生空過ではないのか?! 人は、たいてい100年の寿命を保つことも難しい存在である。しかも、この真心というものは、我々には、たいへん込み入ったものである。 仏教では、その困難さを、‘三大阿僧祇劫を経て仏になる’とも言います。(後に、起信論の「証発心」を語るところに、この事は出てきます)
 したがって、皆 我々は、一人一人で、寸暇を惜しんで、この真心を吟味しなければなりません。
自己の勢力を張ったり、出世して地位や名誉を得たり、物質的な富を得たり、戦争をしたり、向こう三軒両隣りの上げ下げに日を過ごしたり、面子にこだわる言動をしたり、好奇心に駆られて科学研究をしたり、異性の尻を追っかけたり・・・・、そんなことをする暇はないはずなのである。
   
    ** 三大阿僧祇劫sandai/asougi/kou
      劫とは、長い時間の単位。1劫とは、40里四方の岩に、3年に一度、天女が舞い降り、その羽衣で
     一払いして、また天に帰る。こうして、その大岩が摩滅してしまうまでの時間を、1小劫という。
     1中劫とは、80里、 1大劫とは、120里四方の岩に天女が舞い降りる。
     阿僧祇とは、無数という意味。

 吟味するということは、権威や伝統に阿omoneることでも、それに非難・反抗することでもありません。
また、たとえ釈尊であろうと、イエスであろうと、ムハンマドであろうと、その言う「真実」が本当の「真実」かどうかを吟味するのに、我々が科学的真実を科学者の頭脳に頼るように、彼らの言に頼ってはいけません。 
自分自身で、はっきり真実が分らねば、彼等の言う真実は、何の意味もありません。
 
 したがって、その真実を吟味するということは、私の全存在をかけた、孤独な営みであります。


 義記が言う「 惑者 」とは、私のことであります。
このことが、私の骨の随まで、分ること。「情執の有」・「妄執の相」を 木っ端微塵に打ち砕かれること。
ーーーーーこうして始めて、「離念の境界」が、私に開示される。

 それは、私の知性や感性に開示されるのではない! 知性や感性を破って、私の全存在が、真実の前に暴露される。
それを、「ただ、証とのみ、相応する」と言われるのであろう。「真智(真実の知恵)の境なり」と。

    ***したがって、真智〜真実の知恵とは、ふつうに言われる 我々人間の知恵とは違うものです。
      人間の知恵は、妄念の知恵。
      たとえ科学の知であろうとそうである。豊臣秀吉や徳川家康の政治的知恵もまたそうである。
      ーーーーここの処を、仏教者は、昔からいい加減に扱ってきたのではないでしょうか?
      
      ある人は、「人間の分別は、清浄で真実なものを、いつも踏みにじって行くものである。」と。
      

                       以上で 心真如門を終えます。

(不空のつづき)〜〜〜「 所言不空者・・・・即是真心、常恒不変浄法満足 則名不空 」
   

   「 又 {真心」者挙体也、{常}者常徳也、{恒}者楽徳也、以離変易苦故。{不変}者我徳也、
    以非業所繋自在。 {浄法}者浄徳也。」(義記)


  論の「 常恒不変浄法 」を、
   義記は「 涅槃nehanの常楽我浄 」と取って 解釈しようというのです。

  前回は、我々には、この世界の物事は どのように見えるか? ということを少しばかり
  考えました。 それは、もう巧まずして、常楽我浄と見えるor見るのでした。 
  これを< 凡夫の四倒 >と言います。

   また、少し深くものごとを見るようになった人である声聞syoumon・縁覚(独覚)は、
  ものを無常・苦・無我・不浄と見えるor見るようになる。 これを< 二乗の四倒 >と
  言います。
  何故、これが 倒(顛倒tendou)と言われるかというと、涅槃は 常楽我浄であるのに、
  << 諸の煩悩無明に覆われるが為に、顛倒心を生じ、我に無我を計し、常に無常を計し、
  浄に不浄を計し、楽に苦を計す。>> (涅槃経) ということになるからです。
  
    ** 読者の方で、この常楽我浄のわが有様や、現実に 或は教えによって その意識
     が破られ、自分や周囲に 無常・苦・無我・不浄を見出す日常のさまを、そのblogに
     描かれるとおもしろい記事になるのではないでしょうか? 
     それは我々の生身の生き様ですから。

  そして、この 二種の四倒を克服した人を、「 菩薩bosatu 」と言います。
   これは菩提薩埵を略したものです。 菩提bodaiとは、道or覚のこと。薩埵sattaとは、
   心or衆生・有情uzyouのこと。 
   従って 大心衆生とか道衆生、 < 菩提を求めるの有情 >(法華玄賛)とか、
   < 自利利他の大願を具足して、大菩提を求め、有情を利するが故に >(仏地論)
   とか言われます。
   仏法の目的は、勿論 教団を維持し発展させることにあるのではなく、一人一人の成仏
   (仏になる)にあるわけですが、現実的には この菩薩を この地上に誕生せしめること
   にあります。


  ところで、
  凡夫も二乗も菩薩も、人であります。 すなわち この世に生死syouziするものです。
  しかし 彼らは、その生死の仕方(生き方・死に方)が違うので、このように別々の名前を
  持つのです。

  この生死の違いを、ふつう二種に別けます。分段bundan生死 と 変易hennyaku生死です。
  
  < 三界(我らの世界)の粗なる異熟果、身命短長は因縁力に随って、定まれる斉限あり。
  故に分段と名づく。 (乃至) 殊勝の細なる異熟果、悲願力に由って身命を改転し、
  定まれる斉限なし。故に変易と名づく。(乃至) 妙用測り難ければ、不思議と名づく。
  或は意生身と名づく、意願に随いて成就するが故に。(乃至)また変化身と名づく、
  無漏定力 転じて 本に異ならしむること、変化hengeの如きなるが故に >
                                (成唯識論八)
                                       


   凡夫と二乗は、分段生死。 阿羅漢・辟支仏・大力の菩薩は、変易生死( 阿羅漢arakan
   は 声聞の、辟支仏byakusibutuは 縁覚の行き着く果 )。
  
   どういうことか?  

   < 分段生死bundansyouzi >とは、自らの煩悩を縁として、善悪様々になした行為
   (業)が それぞれの結果(果報kahou)を招来する(三界の粗の異熟果)。 

   たとえば、‘会いたくないな〜’と思う人と商談するために車で出かけ、‘会いたくない
   ・会いたくない ’で 運転して事故を起こし、足を一本失った。
    ーーー‘会いたくない’は煩悩、‘車を運転する’は業、‘事故を起こし足を失う’
   は果報。命は失わなかったが、それは偶々のこと。この果報は、因縁により決定される。
   もし、相手の車が 一秒の何分の一か ブレーキを遅く踏んでいたら 命がなかった
   であろう。 相手の人は、昨晩 友人たちとハシゴをしていたが、怖い妻の顔を偶々
   思い出して、少し いつもより早く帰り、二日酔いを免れていたのだった・・・・。
   このように 私の生き死には勿論、あらゆることは、因縁に決定されている( 因縁力に
   随って、定まれる斉限あり )。 わが身の果報は、縁に随い様々となる。様々
   ( 分分段段 )に生死するのである。
   
   < 変易生死hennyakusyouzi > とは、知るべきものが正しく知れないこと(所知障
   syotisyou)を縁として、三界の外から如来の悲願力によって 回心esinし、生まれ変
   わった自己(殊勝の細の異熟果)をもって(〜悲願力に由って身命を改転し)、再び
   この三界に来たって衆生済度の行を修めて、仏になる。

    彼or彼女は、すでに 分段生死を乗り越えており、因縁によって 自己の生死を決定
   されることはない。 彼or彼女の生死の概念が、全く違うものとなっているのである。
   今、生きようが死のうが、そんなことは 少しも問題にならない(定まれる斉限なし)。
   限りなく この世の中に入っていって、そこに生き悩んでいる衆生の現実を知ろうとし、
   その者に寄り添い、その者の腕に己の肩をさし入れて支え、その者の真の救いを成就せん
   とすることが、彼or彼女の生命となっているのです。


  菩薩の願いは、ただ1つ。
  ――――― 一切の衆生を真に救うこと。
      この世に一人でも一匹でも、救れていないものがあれば、自分は仏にならない。
  ――――― これを、菩薩の誓願(seigan 誓いと願い)と言います。



  義記に戻ります。

   論の「常」と「恒」を、義記は 常と楽とする。
   そして、「 変易の苦を離れるを以っての故なり 」と言っています。 
   変易の苦とは、菩薩の苦ということ。わが身のことは 差し置いて、利他の行を その生命
   とする者の苦とは、個人的な苦ではなかろう。
  維摩経には、
   << 一切の衆生 病むを以moって 是の故に われ病む。 もし、一切衆生の病 滅す
    れば、わが病滅す。 所以yuenは何iかん。 菩薩は、衆生のための故に、生死に入る。
    生死あれば、病あり。もし、衆生 病を離れることを得れば、すなわち 菩薩また病無し。 
    たとえば、長者tyouzyaに、ただ一子あり。その子病を得れば、父母また病む。
    もし、子の病癒iえれば、父母また癒iゆ。 
    菩薩もかくの如し。諸の衆生において、これを愛すること 子の如し。衆生 病めば、
    菩薩 病む。衆生の病癒えれば、菩薩また癒ゆ。 
    また言う。この疾は、いづれの因より起こるや。菩薩の病は、大悲より起こる。>>
  とあります。

  実に、菩薩の苦は、痛々しい。
  もし 私が、この菩薩を病に陥らせて苦しめていたとすれば、どうでしょうか? 

 
  ところで、義記は、
   真如の不空たる「常恒」の徳は、この菩薩の苦を離れているから、常楽である。と。
 
  また、「不変」を 我徳だと言うのは、「 業の所繋に非ず、自在 」であるからだ、
  と言っています。
   < 業の所繋 >とは、所知障のことでしょう。
  これは、実際 菩薩として自分が仰ぐ よき人に出会い、親しく接して教えを受けていくと、
  この意味することが、始めて痛切に解るのであろう。
   真如の不空は、人を その師に従属せしめず、或は、その師の行状を見て 不信感を持ち 
  仏教それ自体に対する絶望を引き起こすことをせしめないものだ と言っているのであろう。
  或は、また 求道者が、自らのお粗末さに絶望して、行き場を失わしめず、彼or彼女に
  真の独立を保証するものだ、と言うことであろう。それが、我徳だ、と。  合掌


                                 

 (不空のつづき)

  「所言不空者 〜〜即是真心 常恒不変浄法満足。則名不空」
  

 義記は、
 「 常・恒・不変・浄法 」を 宝性論を引用して、順に 「不生・不死・不老・不病」と
  解釈した後、これに 別の解釈を自ら与えている。

 すなわち、   
 「 又、真心とは、体を挙げるなり。 
  常とは、常徳なり。 恒とは、楽徳なり。 以って、変易hennyakuの苦を離るるを以って
  の故なり。 不変とは、我徳なり。業の所繋に非ずして自在なるを以ってなり。 浄法とは、
  浄徳なり。」 と。

  
   日常、 私は 妄念を自己の心としているが、本当の心(「真心」)はそうではない。
  「 如実不空 」が、本当の心なのだ、と言うのである。
  その不空の徳は、前には 生老病死に対して、「 不生・不死・不老・不病 」。
  今は、顛倒tendouの常楽我浄( これを四顛倒という )に対して、涅槃の「 常楽我浄 」
  である。


  顛倒とは何か?
  「 什(鳩摩羅什)曰く。有無の見は法相に反somuく。名づけて顛倒と為す。 」と。
   この顛倒は、具体的には、ふつう四顛倒と言われます。 常・楽・我・浄の4つの逆さまな
   見方です。 略して 四倒sitouと言う。 
   この四倒に、また二種あります。凡夫と二乗のそれである。
    
   1.凡夫の四倒(有為uiの四倒): 凡夫が、この世の真の相を知らずに見る世界である。
    無常のものを常なるものと思い、苦であるものを楽と思い、無我であるものを我あり
    と思い、不浄なるものを 浄と思って、それらに執toraわれていること。
    すなわち、私の日常生活そのもののことです。
   
   2.二乗の四倒(無為muiの四倒): 二乗とは、声聞syoumonと縁覚engaku。
    声聞とは、仏の教説に従って修行しても、自己の解脱のみを目的とする出家の聖者。
    縁覚とは、独覚とも言い、仏の教によらないで自ら悟り、寂静な孤独を好むため、
    説法教化しない聖者。 捨悲障(悲しみの感情を捨てるという間違い)をもち 仏に
    なれない。
    この二乗は、凡夫の四倒を断じて、無常・苦・無我・不浄は悟っているが、涅槃は
    すべてを滅し尽くした世界と考えているので、涅槃の常楽我浄を知らない。

  
  < 凡夫の四倒 >
   
   我らの日々の日常生活のことであり、また この文明において 主張宣伝され 実際
  それで動いている思想と行動すべてに及ぶものでしょう。
 
  (常) 今日のこの地球環境を収奪した上に成立つ市民社会・経済構造が いつまでも
     続くものと思っている。
  (楽) 電気製品による生活のさまざまな利便(楽)の多くの部分が、ウラン235を
     核分裂させることによって維持されているが、それがために 様々な厄介な問題 
     ( この問題の大きさを 我々は評価し損なってる! ) を抱え込んでいる。
  (我) 近代の人間観の基本は人権思想にある。

    〜〜 我ら人間は、 << 生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利
     を有するものである。 
     これらの権利は 人民が社会を組織するに当たり、いかなる契約によっても、人民が
     子孫から これを あらかじめ奪うことができないものである。 かかる権利とは、
     すなわち財産を取得所有し、幸福と安寧とを追求獲得する手段を伴って、生命と
     自由とを享受する権利である。>> (1776/バージニア権利の章典)
                             
     同年の英国に対する米独立宣言は、さらにあからさまに 

     << すべての人は、平等に造られ、造物主によって一定の奪うことのできない権利
     を与えられ、その中には生命・自由および幸福の追求が含まれる。・・・>>と。
   
     米国においては、人権は天賦人権であり、フランスにおいては、人権は自然権。
     人間が このような権利を保有している存在だというのを「我」という。
     これがために、いかに多くの血が流れたことであろうか!
  
  
  (浄) 市民社会は、商品流通等において 見た目に穢いもの・不揃いのもの・欠陥あ
     るものを排除し、見た目に綺麗なもの・規格が統一されたもの・瑕疵のない完成品
     しか許容せず、 
     また町から乞食を駆逐し、一般住宅から老人・病人・死人を追い出し、自分が出した
     ゴミや汚物を目に見えないところに廃棄し垂れ流して、清潔で衛生的で生物の臭いの
     しない環境を善しとしてきた。
  
     試みに高台に上り、眼下にどこまでも広がる都市で、朝昼晩 一斉に食事をする
     老若男女を想像して見よう。そのために 何頭のor何羽の豚や牛や鶏が犠牲になる
     ことであろうか! 
     そして、その人間や動物たちの糞尿はどこに行ったのであろうか? 
     冷房の効いたビルの中で、綺麗な服を着こなして働く女たち、背広を着て商談に
     臨む男たち・・・・
      ( 日本国中で こういったことが繰り広げられているのである )。
   
     人間の生活は、動物なのであるから本来不浄なものである。それを ここまで極端に
     その表面に否定する社会は、異常ではないでしょうか? 
 
 

  ** 以上は、社会的局面を指摘してみたのですが、私は こうした中で 日々生活し、
   その日常意識は社会的常識に従っています。
   即ち 他ならぬ私自身が、このような社会の価値観(凡夫の四倒)を支えているのです。
   これは、本当に根深く、現代欧米文明を越えて、私の中に根を張っています。

  

  < 二乗の四倒 >
 
    これは、声聞・縁覚が犯す間違いである。
   彼らは、自分の生活について、何らかの問題意識を持っている人達です。  
   声聞は 他の人からその事を気付かされ、縁覚は 自分でその事に気付いたのである。
   そして、その問題の解決をはかるべく努力して、上の凡夫の四倒を克服し、世界および
   自らを 無常であり・苦であり・無我であり・不浄であると深く認識するに到った。 
   しかし、彼らは、人間の究極的悟りie.安らかさは、この認識にあると思い込んでいる。

   声聞は 自らの無常(乃至)不浄の身を厭い、心身共にその寂滅を願う。
   縁覚は 他との交わりを嫌い、孤独を愛し、自分の悟りの世界に深く入って それを
   悦楽とする。
 
   いづれも、通常のレベルを越えた自己と世界に対する認識はあるが、他を利するという
   ことがない。 利他の発想が欠落している。そのような必要性を全く感じない。
   自分は、無常・苦・無我・不浄を悟って、それが究極的なものと思っている。これで
   人間の究極的理想が達成された(成仏)のだと。

  

  この2つの顛倒を克服した者を、< 菩薩 bosatu >と言います。
 
   これは、いかなる者か? 

   〜〜 「 不可思議変易hennyaku生死 」 をする者だと言われます。
   すなわち、
   < 無漏の有分別の業を因とし、所知障を縁として、三界の外の殊勝細妙の果報の身
   (意生身)を受け、大悲の願を発こし、この身をもって この三界内に来て 一切衆生を
   救う行を修して、仏果に至る者である。> と言われます。 
 
   仏教用語が沢山出てきて、申し訳ありません。もっと別の菩薩の表現の方がよかったかも
   しれません。
   ただ、法蔵は、この菩薩の定義を下敷きにして 義記を書いているため、これを出さざる
   を得ませんでした。

   次回、この定義を、噛み砕いていきます。

 (不空のつづき)
  
 釈尊は、「(生)老病死を見て、世の非常を悟り、国と財と位を捨てて山に入って道を学す。」
当時第一級の宗教家(=哲学者=知識人)たちについて、老いるということ、病になるという
こと、死ぬということの問題を問うのである。

 釈迦のように 太子として物質的に恵まれた境遇に生まれ、寒さや暑さ・風雨から護られ、
また 餓えや不衛生な状態から自己を防御でき、当時第一級の医者につくことができ、外国の
侵略を防ぐことができても、 この老病死の 何処からともない密やかな侵入から、自己を護る
ことはできない。
 城の門の外に居住する人々は、彼が見た通りであるが、一方 老病死という人間の現実を
覆う 城内の華麗な荘厳や、かしずく若く美しい采女たちに、澄んだ彼の眼は 晦まされて 
そこに惑溺することはなかったのである。

 彼は、それによって 老病死を防ぎ、幸福な人生を送るのに必要な 国家と財産と社会的地位
を捨てた。 自分を 老病死から守る一切を捨てたのである。
今日で言えば、<国籍> と <健康保険> と <年金> を捨て、<職場> を辞めるような
ことであろう。

 
 しかし、すでに気づかれている人もおられるでしょうが、この老病死というのは、我が肉体に
関するもので、精神性の高い釈尊の教説からすると、呆気にとられるほど 次元が低い話で
あります。
釈迦が悩んだのは、こんな肉体の健康と存在が失われるという程度のことなのか?! と。
 けれども、我々は 太古から、この低次元のことに つねに翻弄されてきました。
国家を形成するのも、経済活動をするのも、戦争も、文明を創るのも、自然破壊も、およそ
我々の この地上での活動のほとんどは、ある面 老病死から自己を護ろうとするものでは
なかったでしょうか? そして、誰も 例外なく、これに敗れ去って世を終えるのである。

  
  
「 常恒不変浄法 」
  義記は、
  「 不空の徳は、妄空に翻対するが故に、略して四種を論ず。」と。
 
  老病死という私の現実への対処を、妄という。私の日々の日常生活である。
  これは、空ぜられなくてはならない。
  それ故、{妄空に翻対する}という。 すなわち、不生・不老・不病・不死 である。 

  どういうことか?
 ーーーー先に 「 もし、妄心を離るれば、空ずべきもの無し。 」
    「 不空とは、すでに、法体は空にして妄無きを顕す。 」と。
   
  義記は、宝性論を出して、
  「 一者、常を以っての故に、不生なり。意生身isyouzinを離るるが故に 」と。
  
  <生>とは、先の四門出遊においては、沙門に逢ったことである。すなわち この老病死
  の世界で、我らが 本当に生き得る道を探求する人に逢った。
  〜〜〜〜 この探求(する人)を否定するのが 不生である。
  あたかも、釈迦が、山での厳しい修行を放棄し、骨と皮になって山を降りて、菩提樹の下に
  座り 不生(伝統的修行で生を探求する沙門の道の否定)を獲得しようとしたように。

  <意生身>とは、勝マン宝窟には  < これ、初地以上の一切の菩薩なり。かの人、
  生を受くること、無碍自在なり。心の如く意の如し。意生身と名づく。>と。 
 
  したがって、意生身とは、これ以上 我らが望むべくもない勝れた仏道修行者のことで
  あります。 その意生身の菩薩でさえ離れるところに 不生があるというのである。
  ふつうの感覚だと、宝性論及び義記の言うことは、これはもう 人間不信も甚だしい、
  ひねくれ者の言い様でしょう。
  長年の修行者 しかも世間で言う いわゆる悟りを得た人、生活もしっかりし、学徳もあり、
  衆目は一致して この者を尊敬信頼している。
  ――― この意生身の菩薩を、それでもう完成した人(=仏)、とは言わないのである。
 
  この言わないというところに、仏教が 歴史の中で、様々な現実と他からの批判に鍛えられ
  鍛え抜かれて、いかなる妥協や幻想をも潜り抜けてきた厳しさ というものがあるので
  あろう。決して、ひねくれているのではないのである。
 
 
  では、何故、不生か?
  ーーーー「 常を以っての故に。」と。
  真如の不空(妄なし)は 「常」という徳をもつ故に、というのである。

 「二者、恒を以っての故に、不死なり。不思議退を離れるが故に。」と。
 「三者、不変の故に、不老なり。無漏の業なきが故に。」と。
 「四者、清涼の故に、不病なり。煩悩の習なきが故に。」と。

  ( 不思議退は、恐らく不思議変易hennyaku死のことか? 不思議変易身=意生身
  無漏muroとは、有漏uroに対す。有漏とは煩悩のこと。
  習とは、習気zikkeのこと。煩悩を断っても、残る余習のこと。)


   「 不老不死 」は、中国皇帝たちをはじめ、人類が昔からそれを手に入れようとして、
   多くの試みをしてきたものである。
   また、「 不病 」は、現代医学によって驚くべきことが実現している。
   また、「 不生 」はこれも昔から、“この地上に真に生きるとはどういうことか?”
   “正しく生きるとはどういうことか?”“幸福とは何か?”と 様々な哲学者や宗教家
   さらには思想家が探求して来た。
 
   これらは、実現可能かどうかは別として、正直なところ、我らが 心の底から願うもの
   ではないであろうか? 
   ーーーー また、それ故にこそ、我らは、国家を作ったり、経済活動をしたり、科学技術
   を発展させたり、 血で血を洗う戦争をしたり、 
   ( 最近 米国は、兵士が 相手の兵士と面と面を向かい合せる戦闘を避けて、戦争を
    しようとしている。これは恐ろしいことである。米国人は このことが解っているの
    だろうか? 否、我々は?! )
   他人の運命を踏み躙ったり、環境破壊をしたりするのである。
   それほどに、これらは 強烈な願いなのではないでしょうか?

   しかし、どれもこれも、本当のことにならない! 完結しない!
   ついには、我らは、これらを 幻想だと思うように今日なっている。科学を引っ張り
   出して、不老不死や不病不生を求めるのは 頭脳の狂った者だ言う時代となった。
   こうして、我らの心の奥に疼く願いが抑え付けられ、その出口を封じられているのです。
   この強烈な願いは、このとき どうなるであろうか? いずれ、この無拘束で強烈な
   発現は、我らを 混乱と恐怖のなかに陥れるかもしれない。

 
   仏教は、この我らの心の奥にうずく願いに、真正面から応えようとするのである。
   それが不空なのである。 

                                

( 復次真如者 依言説分別 有二種義。 云何為二、 一者如実空 以能究竟顕実。 
二者如実不空 以有自体具足無漏性功徳。 所言空者 従本以来・・・・若離妄心 実無可空故 )
所言不空者 已顕法体空無妄故 
即是真心。 常恒不変浄法満足故 名不空 
亦無有相可取。 以離念境界 唯証相応故。
            
ーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
言う所の不空とは、すでに法体hottaiは空kuuにして妄無きを顕すが故に、即ち是れ真心なり。
常と恒と不変と浄法とを満足するが故に 不空と名づくるも、
亦た 相の取るべきものあること無し。
離念の境界kyougaiは 唯taだ証とのみ相応するを以っての故なり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<以上 心真如門>ーーーーーーー

 「 真如とは何か? 」ということを 言葉で言ってみると、2つ方面から言える。

  1つ 〜 真如とは、如実空である。 2つ 〜 真如とは、如実不空である。
 
 今回は、その「如実不空」について。「心真如門」の表題で語られる最後となります。

 海東疏は
 「 不空を釈する中に、また三句あり。
  初には 空門を牒chousuす。
   謂iwaく { すでに法体は空にして妄無きを顕す }と言うが故に。
  次に、不空を顕す。{ 即是真心 }より乃imaし{ 名不空 }に至るが故に。 
  { 亦無有相 }以下は 第三に、空と不空とは二の差別syabetuなきを明かす。
  不空というと雖も、而sikaも相 有ること無し。 この故に、不空は、空に異ならず。
  分別所縁の境界を離れて、唯taだ 無分別の所証と相応するを以っての故なり。 」
 と。

  
(初句)
  義記は、「 牒前顕後 」(前を牒し、後を顕す) と言っている。
  これから、真如を「 不空 」の面から述べるのであるが、その体は 前に述べたように
  「妄無し」という意味で、空であった。 このことをはずしては、真如は語れない
  というのであります。
  すなわち、真如は、わが妄心を、空じ空じ空じて 空じ尽くして究竟kukyouじて、
  その「 実を顕す 」ものである。
   
  
(第二句)
    ・・・・・その「実」とは何か? 
  「 即是真心 」(すなわちこれ真心なり)と。 妄念妄境が無くなったら、orそれを
  離れたら、何にもそこに無いのか と言ったらそうではなく、それが真心(真実の心・
  本当の心)なのだ というのです。
   
  義記は、
  「 次に、正しく不空を顕す。 不空の徳を、妄空に翻対するに、略して四種を論ず。
  故に宝性論(これも如来蔵仏教の論書です)に云わく、
  < 一には、常を以っての故に不生なり。意生身を離れるが故なり。
    二には、恒を以っての故に、不死なり。不思議退を離れるが故なり。 
    三には、不変の故に、不老なり。 無漏なきが故なり。 
    四には、清涼の故に、不病なり。煩悩の習なきが故なり。 >
  と。 このなか、浄法は、かの論の清涼に当るべし。惑染を離れるを以っての故なり。 」
  と。

  ( 如来蔵仏教独特の発想が、ここに 「不空」とか「常恒不変浄法」という言葉として
   出てきています。 これは、般若hannya系統の仏教の「空」一辺倒で押して行こうとする
   のに対する反動として顕れたものでしょう。‘ それは、断見に堕っするのではないか ’
   という・・・。 今まで、それは常見だ として軽んじ警戒されてきた言葉(「常恒不変」
   とか「常楽我浄」とかという) を大胆に使うことで、断見を克服しようとする試み
   であったのでしょう。 )
  
  今、宝性論の文を引いて、この「 常恒不変浄法 」の句を理解しようとするのである。

   *** 王になるべく育てられた釈迦は、父や一族郎党はじめ国内のすべての人々の
    期待を裏切って、出家したのだが、
    ( 当時、釈迦族の国は弱小国家であった。周囲には幾つかの強国が、隙あらば
     国の領域を広げようと動き始めていた。 実際 釈迦の晩年には、隣のコーサラ国に
     侵略され、釈迦一族は 皆殺しにあって滅亡するのである。
     これをもっても、周囲の釈迦に対する期待の大きさと、出家は、彼にとって その
     共同体への裏切りを犯してのことだったことが察せられるであろう。
     今まで 我々は このことを軽んじていたのではなかろうか?!
     釈尊の心の中は、単に 個人的な悩みだけではなかったであろう。 国を担う王に
     なるべく嘱望されていた 若い彼は、その当事者として、必ずや“ 国家とは何か?
     一族(民族)とは何か? ”という問題にもぶつかっていたに違いないのである。 
     そして それに誠実に答えようとしたに違いない。
     その証拠は、彼は菩提樹下の成道以後、釈迦族の人々と晩年に至るまで 深い交流を
     持っていたところに見られよう。 )

    そのキッカケは、四門出遊simonsyutuyuuにあったとされます。すなわち、王城から
    外へ遊びに行こうと、東門から出ると そこにヨボヨボの老人を見、 また南門から
    出た時 そこに病人を、 西門から出るとそこに死人を見、 最後に 北門から出た時 
    沙門(出家者)に出会って、彼は 自らの進むべき道を見出したというのです。

     いわゆる、我々の「生・老・病・死」の現実(四苦)が、深く彼の胸に食い入って、
    国(共同体)の根っ子に この問題を見出したところに、彼の出家は 実行に移された
    のであろう。 
    その後、彼の弟子達は 代々、この四苦の現実を忘れることなく問題としてきました。
    
    ( この四苦は、従来 個人における問題だとされ、国の存在理由とは無関係のもの
     と考えられることが多かったのではないでしょうか? 
     しかし恐らく、四苦を 国家の存在理由との関係で 真正面からとらえた仏教が
     「大無量寿経」に触発された 浄土教 ではなかったでしょうか? )

 

  そこで、今 
  この宝性論には、真如の不空を、我らの生の現実である四苦から見るのであります。

  不空は、生に対して 不生である。死に対して 不死である。老に対して 不老である。
  病に対して不病である。
  そして、不生は 真如が「常」であるから、不死は 「恒」であるから、不老は 「不変」
  であるから、不病は 清涼ie.「浄法」であるからだ。というのである。

                                

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.
kyomutekisonzairon
kyomutekisonzairon
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
検索 検索

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事