混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 2.

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(復次真如者 依言説分別 有二種義。云何為二。 一者 如実空、以能究竟顕実故。 二者如実不空、 以有自体 具足無漏性功徳故。)
所言空者 従本以来 一切染法不相応故。
謂 離一切法差別之相 以無虚妄心念故。
当知。真如自性 非有相・非無相・非非有相・非非無相・非有無倶相  非一相・非異相・非非一相・非非異相・非一異倶相。
乃至総説 依一切衆生以有妄心 念念分別皆不相応故 説為空。
若離妄心 実無可空故。 
            ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー−
言う所の空とは、本より以来konokata 一切の染法zenpouと相応せざるが故なり。謂く、一切の法の差別syabetuの相を離れたれば、虚妄komouの心念なきを以っての故なり。当に知るべし。真如の自性zisyouは、有相にも非らず、無相にも非らず、非有相にも非らず、非無相にも非らず、有無倶相にも非らず、一相にも非らず、異相にも非らず、非一相にも非らず、非異相にも非らず、一異倶相にも非らず、乃至 総説せば、一切衆生は妄心有るを以って、念々に分別して皆相応せざるに依るが故に、説いて空と為す。若し、妄心を離れなば、実に空ずべきもの無し。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 真如というものを、言葉を使って明らかにするには、2つの方面から言わねばならない。
それが、如実空 と 如実不空 である。
  まづ その「 如実空 」について、詳述するのが、今回のところである。
‘ 空とは何か? ’ というのであります。

 海東疏は
  「{ 一切染法不相応 }と言うは、能所の分別 相応せざるが故に。
   { 離一切法差別相 }とは、所取の相を離るるが故に。
   { 以無虚妄心念故 }とは、能取の見を離るるが故に。即ち、離の義を以って空を釈するなり。」と。
    (ここで、能とは 為し手、所とは 為され手のこと。したがって、所取とは 取られる物、
     能取とは 取る者・私。)

  義記は、海東疏に随って やはりこれを釈しているが、文を補って
   「 又、妄境は 妄念より生ずるを以っての故に、釈して空無を顕すなり。良makotoに、倒心妄境は、
    情には有りて 理には無し。真如の徳は、理には有りて 情には無きを以っての故に、相応せざるなり。」
  と 法蔵の得意な言い方をしています。
  
  真如は、「一切染法と相応せず」と。具体的には、能所の分別と相応しないということ。私の思いie.思考や感情で真如に触れることはできず、また思考や感情が描いた世界が真如ではない。たとえ深い宗教感情や神の観想でも、真如に手の届くものではない。それを、「一切法の差別の相を離れ」「虚妄の心念無し」というのである。 
善きにつけ悪しきにつけ あらゆる私の側の身口意に為すことを<妄境は妄念より生ずる>という。
 
  日本国のためにと 誠心誠意で為したことも、多くの 死ななくともよい人々を死なせ、被らなくともよい悲惨
を被らせた。 事終わって見れば、主観の中で 当外れな努力をしていたことに、臍を噛まなかった人がいる
だろうか! そして、それらは 後の世代に深い傷を残すことになった。戦後60年、現に 我らは、こうした中に
いるのであります。 今日 郵政民営化を掲げて総選挙に打って出る小泉首相もまた、戦争の後遺症に
苦しんでのた打ち回っている喜劇役者の一人でしょう。 妄念より妄境を造り出して・・・。
 我らは、自らの利害のなかで 生活していますが、また そうしなければ 食べていけないわけですが、
だからと言って 妄境の事々に 好んで引きずり回されるのは、情けないことであります。
<まことに、倒心妄境は、情には有りて、理には無し>です。

  ここで、「 離 」とか「 無 」とかについて、
私の師は、「 離れているということは、無いと言うのとは違います。我々は、無いというと、今まであったものが無くなったのかと思うが、そうではなしに高次元の世界を言っている。」と言っています。 
理は、私すべきものではなく、また 私が それを握って 振り回すものではなく、高次元の世界のもの。
<それは、情には無き>ものである。

  
 「 当知真如自性 〜 」

  海東疏は
  「 広釈のなかに、四句を絶することを明かす。四句多しと雖も、その要に二あり。
   謂く、有無等と一異等となり。 この二の四句をもって諸の妄執を摂す。
   故に、この二に対して、以って真空を顕す。
   広百論に云うが如し < 復次に、世間所執の諸法は、みな真実に非らざることを顕わし、及び外道所執
   の不同を顕さんが為の故に、頌を説きて曰く、(乃至)釈して曰く、一切世間の色等の句義は言説の所表
   ・心慧の所知、情執不同なり。略して四種あり。有・非有・倶許・倶非となり。・・・>」と。 
  
  我々がものを言い、ものを考える時に、それは四句の中にスッポリ入っているというのです。
すなわち、「 有る・無し 」の範疇か、「 同じ・異なる 」(論と疏は一異という)の範疇かであると。
海東疏は、上の文に続いて インドの外道の例を一々挙げて、このことを確かめています。
今日のさまざまな意見・思想は その表現の材料は違っても、古代インドの外道とされている ものの考えと
思考(=分別)の基本的枠組みは変わりません。
  例えば
   ‘憲法改正は是であるか、非であるか(是でないか)’〜〜‘是である’‘是でない(非である)’
  ‘是であり、あるいは非である’‘是でも非でもない’ これ以外の立場を取れる人がいるでしょうか?
   ‘海外派兵可能な軍隊をもつことは日本のよき将来につながるか?’ie.‘その軍隊をもつのと
  よき将来とは同じか否か ’〜〜‘同じ’‘異なる’‘ある場合は同じ、またある場合は異なる’
  ‘同じでもなく、異なるのでもない’  これ以外の立場に立てる人は・・?  

   この四句の内のどれかが、思慮深くて正しくりっぱな見解だ という風に 誇れるものではないのである。
  どれかの意見しか 我々の立場を取れないということは、考える前から思考の枠組みとして決まっていた
  ことである。この四句の内の どれかが正解であるのではない。
  < この 二の四句を以って、諸の妄執を摂す > と。
  
  しかし、我々は、悲しいかな、自分の思想・考えにしがみ付いて それを自己の支えとするしかありません。
  ‘それがあくまで正しい’と主張してゆかざるを得ない。特に、利害やプライドが絡む時は・・・。
   これを、「 一切衆生は、妄心あるを以って、念々に分別して皆相応せざるが故に、説いて空と為す。」
  と。
  
  海東疏は、
  「 この故に、世間の所執は実にあらず。 今 この文中に、非有相は、これ初句を遣る。
   非無相とは、第二句を遣る。非非有相・非非無相とは、第四句を遣る。非有無倶(相)とは、第三句を遣る。
   (乃至)一異の四句も準じて釈して知るべし。」
  と、起信論の有無の5句と、一異の5句を、四句に納めて釈している。

  
  義記に曰く、
  「 総結の中に、妄計 塵沙zinnsyaなり。遍歴すべきこと難し。故に今、総摂して{相応せず}と弁ず。
   これ順結なり。{ 若離 }の下は、反結なり。染の無きに対するを以っての故に説いて、真(如)を空と為す。
   (真)如の体 無きを以って、空と為すには非らず。 亦た、この文は、是れ疑を釈すべし。
   疑う者、上の真空を聞きて、則ち真体および恒沙の功徳を撥無すると謂omoわん。云々 」と。
  (塵沙とは数が多いこと。恒沙とはガンジス河域の砂の数こと、数限りないこと。)

  私の日々は、朝から晩まで一瞬たりとも 妄念から免れる時がありません。 念々に思うことは、
清浄真実なるものでなく 何か意味があり根拠のある事でもなく、{虚妄の心念}に埋もれています。
この間、何を思っていたか 思い出すこともできません。< 妄計塵沙なり。遍歴すべきこと難し >
これは、一切染法であり、一切差別の相を現出していたのでしょう。 何が?  虚妄の心念が。
空とは何か? 真如とは何か?  そうしたものが解らない(不相応)のは、まさに当然であります。
  
  「 若し 妄心を離るれば、実には空ずべきもの無し 」と。
  ここで、「 空 」は名詞でなく、動詞であることに注意! 
何を空ずるのかというと、妄心を空ずるのである。
妄心が 私を支配し、私がこれに引きずりまわされている限り、「 若離妄心 」でないのであるから、
「 空ずべきもの 」があるのである。
  
また、「 離妄心 」は、主語は何か? 「 空ずる 」の主語は何か?  これは、大変な問いなのである。

復次 真如者 依言説分別 有二種義。云何為二、
一者 如実空、 以能究竟顕実故
二者 如実不空、 以有自体具足無漏性功徳故
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  また次に、真如は、言説に依りて分別すれば、二種の義有り。云何ikaんが二となす。
一者 如実空nyozitukuu、能yoく究竟kukyouじて実zituを顕すが故に。二者 如実不空、自体有りて、無漏muroの性功徳syoukudokuを具足するが故に。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  「心真如門」の表題において、前回まで述べたところは、「離言真如」とふつう言われます。
 そこでは、真如というものは、言説・名字・心縁の相を離れている、ということを指摘したのでした。 すなわち、ほんとうのものの有り方というものは、言葉や文字・記号や観念・想念で如何にしても捉えることはできないのだということを、徹底的に述べたのでした。
  「ほんとうのもの」ということに我々は、深い関心があります。「真実は何か?!、事実はどういうことなのか?!」と、事に触れて、我々は さまざまにそれを問題にします。日常においても、仕事でも、また歴史や科学研究などにおいても・・・・。しかし、それは結局、起信論が言うように、ついに 闇の中です。揣摩臆測のなかで、それを普通の事として 我々は過ごしています。

  しかし、「真実というものを、本当に知ろうと願うならば、敢えて言葉でそれを言ってみよう」というのが、ここからの「依言真如」です。なぜなら、我々は、少し込み入ったことを他人に伝え、あるいは何かを他人から聞くのに 言葉しか十分に使えるものを知らないからである。

 元曉の海東別記には「もし、言を絶せずんば、正体は言を離るれば、理を誤る。もし、実に言を絶せば、後に言を帯ぶるを得るは、則ち理を倒ず。」等々と。  
しかし、これは論理矛盾ではなく、我々人間の側の事情(存在矛盾)によるのである。 

  
  「復次真如者依言説分別〜」
      ・・・・義記は「{依言説有二義}とは、この二義を顕す。もし、言を離れれば、即ち唯taだ一味itimiなり。今、既に言に依るが故に、説いて二あり。即ち 言に随いて執取すべからざるなり。 但taだ物(衆生のこと)に信解を生ぜしめんが為tameの故に、この文を説く。 地論に云く <何故ぞ、但だ無言を説かざる? 言に依りて、解を求めんことを示現zigenするが故に。>と。」と。
  
我々の言語は、いつも一つのものを、二つにしてしまいます。‘何かが有る’と言えば、‘それが無い’という立論が生じます。‘何かが正しい’と言えば、‘それは正しくない・誤っている’という風に・・・。世間では、これを天の邪鬼と言いますが、我々が言語を使うときには、つねにこのような事態の中にあります。
 
 けれども、よく考えて見ると、これは言語自体の特徴ではなく、言語を使う我々の思考の特徴でしょう。この思考の癖を、後に論に出てきますが 仏教では「分別hunbetu」と言います。
 我々は、様々なことを日々考え判断して生活していますが、そのとき是非・正邪・善悪・内外・左右・親疎・好悪・生死etcの分別のなかに巻き込まれて、それらに執われ 不必要に心を労しています。むしろこれを世間と言い、我々の当然な世界としています。
 しかし、<既に、言に依るが故に、説いて二あり。即ち 言に随いて、執取すべからざるなり。>と。
 そして、これから説くところは、<但だ、物に信解を生ぜしめんがため>なのだ。私に真如に対する信解を生ぜしめんがために、‘汝の思考の癖を押して言語を使って説くのだ。’と、論は言っているのであります。

  「一者 如実空〜」
      ・・・・義記は「如実空と言うは、これ如実の中 空kuuにして、妄染mouzenなきの故に、{如実空}と云うなり。如実 自ら空なりというには非らず。これ則ち、如実の空の依主釈なり。妄空を以っての故に、ついに能く真理を顕示す。故に{顕実}と云うなり。」と。

   ( 依主esyu釈 ) 2語以上で1つの意味を表す語において、例えば、意と識という2語からできている
     「意識」という語はどういう意味を持つ語でしょうか? 
      もし、眼識・耳識 <眼・耳の(意)識〜眼・耳に依って生じる識:見える・聞える〜>のように
      「意の識」という意味であれば、意に依って生ずるものということであろう。これがふつう我々が
      使う「意識」の意味です。
      ところが、玄奘genzyouが 国禁を犯してインドに留学し中国に持ち帰った「唯識yuisiki」という
      仏教では、我々の心を分析して、この意識は第六識といい、さらに奥に第七識(意・マナ識)と
      第八識(蔵識・アラーヤ識)が重層的にあると言います。そしてこの第七識は意識とも言います。
      ただこの時は、先の「意の識」ではなく、意そのものが識となって働いています。
      これは「恒審思量すること余識に勝る」(恒tuneに審tumabiraかに思い量hakaること他の7つの識
      に勝っている)と言われます。いわゆる知性・思慮分別です。またこのマナ識は、「四煩悩と常に
      倶tomoなり。謂く、我痴・我見 並びに我慢・我愛」と言います。
      すなわち、「意識」という語の意味を、眼識などと同じように、「意の識」(マナ識の識=第六識)
      とするのを依主esyu釈と言います。また、「識そのものが意」(第七マナ識)ととるのを持業zigou
      釈と言います。( ただ、この場合、2つの識が、同じ名だと紛らわしいので、ふつう第七識を意、
      第六識を意識と言います。)

   「如実空」とは、依主釈の語。したがって、如実とは真如。真如そのものが空というのではなく、真如が妄空(妄染なし)である、ということ。

  「二者 如実不空〜」
       ・・・・義記は「不空は、二種あり。一には、妄の無体に異なるが故に、{有自体}と云う。 二には、恒沙gouzyaの有漏煩悩に異なるが故に、{具足無漏性功徳}と云う。 故に摂論syouronに <四徳本有> と云うが故なり。 仏性論の偈geに <客塵空kyakuzinに由yoるが故に、法界と相離る。無上の法は、不空なれば、法界と相随う> と。」と。

 
 以上で、心真如門に 2節あるうちの「離言真如」を終えます。 

 次の「依言真如」に入る前に、前回述べたことに関連して、 親鸞がその著「 顕浄土真実教行証文類 」
(ふつう「 教行信証 」と言われている)の「 真仏土巻 」に、 この大乗起信論の上の問答を引いていることの問題を、少し私なりに考えておきたいと思います。
   
 真仏土巻は、「 教巻(真実の教とは何か)」「 行巻(真実の行とは何か?)」「 信巻(真実の信とは何か?)」「 証巻(真実の証とは何か?)」 を明らかにした後に、「 仏土とは何か? 」を
思惟されるなかで、まづ「 真実の仏土とは何か? 」を明らかにするものです。

  具体的には、阿弥陀仏の浄土が 本当の浄土かどうか? ということを、さまざまな問題を提起しつつ、それを雄渾なタッチで証明していきます。

   *** この古語・漢文で書かれているとはいえ、そこには西洋哲学が 及びもできない程の驚くべき深い
     思索が展開されています。ところが、これが、浄土真宗の諸教団だけの占有物だと自他ともに認めてい
     る今日の状況というのは、実に奇怪な光景であります。
      現代のさまざまな問題は、この思惟が無かったことにしてやって行けるほど、単純で軽いものなので
     しょうか?! 〜〜 日本語が読める人々で 現代の問題に深い関心のある人々は、この「教行信証」を
     伝統的な問題設定と概念だけでなく 今日 我々の問題意識において、読むことが求められているので
     はないでしょうか?

  弥陀の浄土が、幻想のもの・気休めのものでなく、真の仏土であることを証明した後に、親鸞は、
  
  「 しかれば、如来(釈尊)の真説・宗師(曇鸞・善導)の釈義、明らかに知りぬ。 安養浄土(弥陀の浄土)は、真の報土houdoなることを顕わす。  惑染wakuzenの衆生、ここ(この世)に於いて、性syouを見ること能ataわず。 煩悩に覆ooわれるが故に。 経(涅槃経)に『 我、十住の菩薩、少分 仏性を見る。と説く。』 と言notamaへり。 故に知りぬ。 安養仏国に到れば、即ち必ず仏性を顕わす。本願力の回向ekouに由yoるが故に。亦た 経(涅槃経)には『 衆生 未来に清浄の身を具足し荘厳syougonして、仏性を見ることを得 』と言notamaへり。」

  と言い、
  
  次に問題の起信論を、飛錫hisyakuの「 念仏三昧宝王論 」の中から引用するのである。

  「 起信論に曰く『 若し、説くと雖も、能説の有りて、説くべきも無く、また能念の念ずべきも無しと知るを、名づけて随順とす。若し、念を離るるを名づけて得入とす。』 と。 得入とは、真如三昧なり。 いかに況や、無念の位は、妙覚にあり。 けだし以って、了心は初相の相なり。 しかも初相を知ると言うは、いわゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。 しかるに、今の人、なお未だ十信に階kanaわず。すなわち馬鳴大子に依らざらんや。‘ 説より 無説に入り、念より無念に入る。’と。略抄す 」と。
  ( 真如三昧・初相は、論にのち言及あり。妙覚 十住 十地 十信は、前に菩薩の階位のところで述べました。また 上の読み方は、東本願寺聖典に従いました。)


  これは、一体何なのであろうか? 何故、あまり有名でない唐の飛錫の文を、親鸞は ここに置いたのであろうか? かって 私は、違和感を覚えざるをえなかったのです。

  この起信論の文を引用したのち、親鸞は この巻の結論の文に筆を進めます。すなわち

  「 それ、報houを 按anずれば、如来の願海に由yoりて果成kazyouの土を酬報syuuhouしたまえり。故に 報と曰うなり。 然sikaるに、願海に就tuきて、真あり、仮keあり。 ここを以って、復maた 仏土に就tuきて、真あり、仮あり。 選択本願senzyakuhonganの正因syouinに由yoりて真仏土sinbutudoを成就せり。
真仏とは・・・、真土とは・・・、往生とは・・・。」と。

  

   しかし、浄土という問題は、これで終わらないのである。 上の引用文の中にあったように、我らには、
「 今の人、未だ十信に階kanaわず 」。また涅槃経の文「 惑染wakuzenの衆生、ここに於いて性(仏性)を見ることあたわず。煩悩に覆われるが故に。」という現実は、抜きがたくあるからです。

ーーーー 我々は、早く楽になりたい。事実を誤魔化してでも楽になり、苦労をもう本能的に厭うものです。
    穢い仕事、危険なことは 他者に押付け、自分らだけは いい汁を この地上で、さらにあの世があるなら、
    あの世までも啜ろう。「 安養浄土 」と聞けば、早くそれを手に入れたい。 たとえ、それが幻想でも
    真実だ と自分に言い聞かせ、他にそれを認めさせようとします。
     今日の日本の状況も、科学技術文明や資本主義経済を、それが いかに矛盾に満ちていても、その矛盾
    には目を覆って、なんとか それを善きものと思いたい。 この点は、浄土信仰の幻想性を批判する
    近代合理主義の盲点です。 幻想性の批判を、現代文明それ自身に対しても遂行しなければ、公平とは
    言えません。 我々は 同じ幻想の上で踊っているのですから・・・。

    
   親鸞は、結論の文を、さらに続けて、

   「 仮の仏土は、下に在りて知るべし。 既に以って、真仮 みな是れ、大悲の願海に酬報せり。
    故に知りぬ、報仏土なりということを。 良makotoに、仮の仏土の業因gouin 千差なれば、土 また
    応masaに千差なるべし。 これを『方便化身・化土』と名づく。 
    真仮を知らざるに由りて、如来広大の恩徳を迷失す。云々 」
 
   と言って この真仏土巻を終えます。
   そして、次に、長大な「 化身土巻 」を書いて この「 教行信証 」の著述を終えるのです。

  「 仮の仏土は、下に在りて知るべし 」と。「 仮 」とは、起信論で出てきた「 仮 」である。
「 一切諸法は妄念に依りて、差別あり。(乃至)一切の言説は、仮名にして実なく、ただ妄念に随うのみにして、不可得なり」と。

 教えをor極楽浄土の往生を、ただ 信じて念仏申せばそれでよいのではなく、 我々は、こうした問題(仮の信心・仮の仏土)を抱えており、まさに これが宗教の根本的な問題であるということを、親鸞はここで宣言しているのである。
「 真仮を知らざるに由りて、如来広大の恩徳を迷失す 」と。
 ただ、真実を知っただけでは、それは幻想なのだ。独善と変らないのだ。 この「仮名」・「仮の浄土」というものから、我々は免れないということは、実に深刻な問題なのである。
軽々しく‘ 私は真実を得た ’とか言うものではないのである。 親鸞さえ そう言えなかったのである。
その 人間の業( 罪業 )の深さを踏まえなければ、「 真実とは何か 」は、我々にはわからない、と言ったのである。

  ここで、注意。 「 仮の仏土は、下に在りて知るべし 」とは、次の「 化身土巻 」のことであります。
ところで、親鸞は、この「 仮 」の仏土を、「仮」土ではなく、「化」土と言っています。
化とは、教化の化です。 さらに、これを、「方便」化身土と言っています。この「 方便 」とは、起信論の前の問答にあった、「 正観 」に対する「 方便 」でしょう。        



                                            合掌

問曰、若如是義者 諸衆生等 云何随順 而能得入。
答曰、若知一切法 雖説 無有能説可説 雖念 亦無能念可念
是名随順  若離於念 名為得入
         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーー
 問うて曰く、若moし是kakuの如き義ならば、諸moromoroの衆生等、云何ikanが随順し、而sikaも能yoく入ることを得るや。
 答えて曰く、若し、一切法は、説くと雖iedoも 能説と可説と有ること無く、念ずと雖も 能念と可念と無しと知らば、是れを随順と名づけ、 若し、念を離るれば、名づけて入ることを得たりと為す。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

我々は、間違った人生に対する心得や考え方・虚偽の生活やものの見方を改めて、正しい心得や考え方・真実のものの見方や生活をしたいと思う。この起信論は、こういう我々の要求に応えるために書かれたものである。
 しかし、論主が今まで述べてきたことは、我々を困惑させるものでした。
 「一切諸法(我々が見る世界)は、唯だ 妄念に依りて、差別あり」とか、「一切法(ありのままの本当の世界)は、本来 言説・名字・心縁の相を離れている」とか・・・・・。言葉や文字でそれを説き語り、私に思考を促しながら、
最後に「一切法は不可説、不可念」と言う。このように矛盾した否定の言葉(離・不・無)を使って、真実の世界ie.「真如」を開示しようとするのでした。

 先師は、ここで「しかし、我らは ここに離言絶慮の真如の解釈を聞いて、到底 凡愚の輩の到り得ないことに、長歎息をもらさざるを得ない。我らは、ただ真如一元の哲学を聞いて、満足するものではない。如何にして、我らはこの真如門に実践的関与を持ち得るのであろうか?」と言っています。

海東疏は「{云何随順}とは、これ方便を問う。{而能得入}とは、正観を問う。答えの中に次第にこの二問を答う。
初の中に{雖説・雖念}と言うは、法の非無を明かす。悪取空akusyukuuの見を離れるを以っての故に。{無有能説可説等}とは、法の非有を顕す。執著有の見を離れるが故に。能yoくかくの如く知りて、中道観に順ずるが故に、随順zuizyunと名づく。 
第二の中に、{離於念}とは、分別の念を離る。{名得入}とは、入観の智を顕すなり。」と。
 
 
  義記も、「随順」を方便観、「得入」を正観とする。仏教における、実践の基本を説くのです。
   (説とは、論主が説く。 能説とは、論主。 可説とは、説かれたものie.この論。
   念とは、私が念ずる、心に思う、思考。 能念とは、私。 可念とは、想念、念じたもの。)
  
  
  まづ、「雖説・雖念」ーーー師弟関係の成立(仏法僧、三宝の成立)〜〜能説と能念すなわち、師と弟子があり、師は法を説き 弟子はその説かれた法(可説)を聞いて思考する。そこに法に対する弟子自身の思念ができる(可念)。  
‘ 師が無くとも弟子にならなくとも、ただ真実を悟ればいいではないか ’と言うものではないのである。‘ そのようなこの世の係累は、真実とは何の関係も無い ’というのを、悪取空とか断見とか言います。
義記は、「念即無念にして、念を滅するに非らざることを明かす。念を滅するの非らざるが故に、雖念と名づけて、断見を離る。」と。
  
  ところが、そこに問題が出てくる。我らは、能説・可説、能念・可念に捕われるという・・・。そこで、
「無有能説可説・無能念可念」と。師に囚われ、弟子に囚われ、教えに捕われ、自分の悟りに捕われるという問題は、いかなる宗教にも免れないものなのである。 それは宗教臭として、独特の臭みを発するものである。 今日 世間では、これが嫌だから、宗教がイヤな人が多い。しかしこれは近代市民社会独特の感覚であろう。あたかも、町に住むものが、かって‘田舎の香水’を嫌ったように・・・・。
     
     ***「近代」市民社会の問題がここにある。さまざまな臭いが入り混じって衛生状態が悪かった
     昔のパリやロンドンの市民社会ではなく、近代のそれは、街からそうした生命から発する生活臭を
     できるだけ排除した抽象的空間を作り上げようとしてきたのでしょう。衛生的・合理的・自由平等・文化的
     ・西欧的・現代的etcといった言葉をもって・・。人権を錦の御旗にして、非人間化を推し進めるのです。

この宗教の問題は、避けて通れません。 否、むしろこれが宗教の根本的な問題でしょう。それを、
海東疏は「{無有能説可説}等とは、法の非有を顕す。有に執著する見を離るるが故に。」と。 師とか弟子とか教とか自己の信仰とか・・・そうしたもの(有)に対する執著を、離れることが問題である、というのです。
義記は前に掲げた文に続いて「即ち、無念なるが故に、みな能所なく、常見zyoukenを離る。」と。
(能所とは、主客のこと、説く者と説かれるもの、念ずる者と念ぜられるもの。)
前には、「断見」、今度は、「常見」を離れる。・・・・・・・このように、仏教は、人間のあらゆる妥協(ここで収まろう、これで安心だ、これで終わったetc)を許しません。裏取引で、自分だけ抜け駆けして、いい汁を吸おうという魂胆を破ります。すべてを公明正大のもとで為します。

  こうした問題を、自己において解決していくのを「随順zuizyun」と言います。「よく かくの如く知りて、中道観に順ずるが故に、随順と名づく。」と。義記は「一念の間に於いて、この二見(断・常)を離れて、この無二の法を見るが故なり(これを中道という)。よく、中道に称順して、法性に随順するなり。」そしてさらに具体的に「かの言念等の中にあると雖も、この念等の常tuneに能所nousyoなくして、未だ念等を離れることあたわずと雖も、而sikaも無念に順ず。故に随順と名づく。これ方便観を釈するなり。」と。(称はカナウ)
 そして「もし、念を離るれば、名づけて得入tokunyuuとなす。」ーーーーー「久しく観じて已yaまざれば、即ち能yoくこの妄念を離れて、かの無念の真理に契kanaう故に、正観と名づく。得入と云うは、観智契入なり。(乃至)当に知るべし。妄念の境界に非らずと雖も、絶分の想を生ずべからず。」(義記)と。

>>>> 私は、ここで思う。このblogの読者の中で、もし仏教を解ろうとする人がおられたら、できれば近くによき師を探し出して、その教えを受けられることを!  勿論、その人が 本当に自分のよき師足りうるかは、簡単に結論を出してはいけません。なかには、法然のように、海の向こう中国の、しかも時代を異にする人(唐の善導)を「偏依善導一師」と言って、自分の先生にした人もありましたが・・・。

此真如体 無有可遣 以一切法悉皆真故
 亦無可立 以一切法皆同如故
 当知、一切法 不可説 不可念故 名為真如

ーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  この真如の体は、遣yaるべきもの有ること無し。一切法は、悉kotogotoく皆 真なるを以っての故なり。
  また、立すべきもの無し。一切法は、皆 同じく如nyoなるを以っての故なり。 
  当に知るべし、一切法は、説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて、真如と為すなり。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 海東疏は、
「 正しく名を釈す。{此真如体 無有可遣}とは、真体を以って 俗法を遣yaるに非らざるが故なり。 {以一切法悉皆真故}とは、依他起の一切法は、言説を仮kaることを離るるが故に、悉くこれ真なり。 悉くこれ真なれば、差別を壊eせずして、即ちこれ平等なり。これ平等なるが故に、別に立ryuuすべきもの無し。故に{一切法皆同如故}と言う。{当知}以下は、第三に名を結す。直ちに真如を顕し竟owaりぬ。」と。

 義記は、
「 二に、法に約して釈して云く。{無可遣}とは、真体を以って 生滅の法を遣るに非らず。何を以って遣らざるとならば、釈して云く{以一切法悉皆真故}。生滅門中の一切染浄等の法は、即ち自性無し、真如と異らざるを以っての故に、遣るを待たざるなり。また{無可立}とは、既に 諸の生滅等の法は、未だかって真ならざるにあらず。故に、この真如は、立つることを待たざるなり。何を以って、立つることを待たずとならば、下の句の釈に云く{以一切法皆同如故}と。一切生滅の法は、本来同じく如なるを以っての故に。この真如、未だかって顕れざるにあらず。更に何の所立ぞや。」と。

 海東疏と義記は、ほぼ同じ事をいっています。文を読めば、だいたい言っていることは、解るような気がします。論理的には明解です。
しかし、いざ‘じゃぁ、どんなことを言っているの?’と聞かれると、忽ち しどろもどろになります。
 真如は、どこか遠い彼方にあるのではなく、私に付いて離れないところにあります。しかしそれはあまりに近いのでつかむことができません。‘これは真如ではない’と、それを遣る(すてる)のは間違いだし、‘これが真如だ’と、それを立てるのも間違いです。
恰も それは、右手をもって、右手をつかむようなものです。

 この辺りの事情を、義記は「一には、観に約して釈して云く。」と言って述べています。
「外人、前の文に真如の名と相とを双hutatuつながら遣yaるを見て、真如の本体も またこれ、遣るべきの法なりと謂omoいて、則ち断見dankenを生ぜん。 故に今釈して云く。但だ、虚妄の名相を遣りて、真如の実法を遣らず、と。これ、妙智の観境なるを以っての故なり。何を以って、遣らずというとは、下の句に釈して云く。{以一切法悉皆真故}(一切の法は悉くみな真なるを以っての故に)、法の遣るべきもの無きなり。
外人、既に、真理は遣らずと聞きて、則ち 法の立すべきありと謂omoいて、当情touzyouに縁執ensyuuす。故に、{亦無可立」と云う。妄情を離るるを以っての故に。何を以って立てずとならば、下の句(以一切法皆同如故)に釈顕せり。知るべし。」と。

 ** 我々現代人は、「真如」などという人間知性に掛からないものを相手にする暇もなく、
むしろ知性の対象でない故に、それは無いものと思う。すなわち「断見」の時代にあるのである。
  
 昔、まだ我々の心が素朴だった頃には、知性よりも、情動が我らを支配していた。
その物の見方は具象的で、抽象的観念は重んじられなかった。しかし、今日では 逆にその
抽象的概念によって 別の問題が生れている。

 例えば、‘地球が太陽の周りを回る’という陳述の抽象性に我らは、ほとんど気付かないで、
それを現実のものと錯覚しているほどである。物理学における運動の相対性すら無視して、
この陳述を正しいものとしている。 
この陳述が正しいのは、陳述者が灼熱の太陽表面にいるときだけであろうに! 
 このように、今日の我らは、自分が地球の大地の上にいることを軽んじ、肉体を持っていること
を忘れて、抽象概念を振り回していることを自覚せず、真理の使徒であるかのように思っている。

 地球環境が人間活動で破壊されていることに危機感を持つ人も、自らが、その帳本であること
を自覚しないで、抽象概念を振り回して事が解決できると思っている。
   
 昔の「虚妄の名相」ie.具象的観念の世界を批判し、今日の世界観を作上げてきたのはよいが、
その批判は「妙智」に依るものではなかったのである。

  
 また 上のように、今日の我らは、科学的世界観を「立て」、これを世界の真実の相だとして
いる。それはもう、理由の有る無しではなく、固い信仰になっている。これを「 当情に縁執す 」
と言う。この「妄情を離れ」て、「立すべきなし」とならなければ、環境問題も本当の解決とはならないであろう。  

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