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(復次真如者 依言説分別 有二種義。云何為二。 一者 如実空、以能究竟顕実故。 二者如実不空、 以有自体 具足無漏性功徳故。)
所言空者 従本以来 一切染法不相応故。
謂 離一切法差別之相 以無虚妄心念故。
当知。真如自性 非有相・非無相・非非有相・非非無相・非有無倶相 非一相・非異相・非非一相・非非異相・非一異倶相。
乃至総説 依一切衆生以有妄心 念念分別皆不相応故 説為空。
若離妄心 実無可空故。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー−
言う所の空とは、本より以来konokata 一切の染法zenpouと相応せざるが故なり。謂く、一切の法の差別syabetuの相を離れたれば、虚妄komouの心念なきを以っての故なり。当に知るべし。真如の自性zisyouは、有相にも非らず、無相にも非らず、非有相にも非らず、非無相にも非らず、有無倶相にも非らず、一相にも非らず、異相にも非らず、非一相にも非らず、非異相にも非らず、一異倶相にも非らず、乃至 総説せば、一切衆生は妄心有るを以って、念々に分別して皆相応せざるに依るが故に、説いて空と為す。若し、妄心を離れなば、実に空ずべきもの無し。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真如というものを、言葉を使って明らかにするには、2つの方面から言わねばならない。
それが、如実空 と 如実不空 である。
まづ その「 如実空 」について、詳述するのが、今回のところである。
‘ 空とは何か? ’ というのであります。
海東疏は
「{ 一切染法不相応 }と言うは、能所の分別 相応せざるが故に。
{ 離一切法差別相 }とは、所取の相を離るるが故に。
{ 以無虚妄心念故 }とは、能取の見を離るるが故に。即ち、離の義を以って空を釈するなり。」と。
(ここで、能とは 為し手、所とは 為され手のこと。したがって、所取とは 取られる物、
能取とは 取る者・私。)
義記は、海東疏に随って やはりこれを釈しているが、文を補って
「 又、妄境は 妄念より生ずるを以っての故に、釈して空無を顕すなり。良makotoに、倒心妄境は、
情には有りて 理には無し。真如の徳は、理には有りて 情には無きを以っての故に、相応せざるなり。」
と 法蔵の得意な言い方をしています。
真如は、「一切染法と相応せず」と。具体的には、能所の分別と相応しないということ。私の思いie.思考や感情で真如に触れることはできず、また思考や感情が描いた世界が真如ではない。たとえ深い宗教感情や神の観想でも、真如に手の届くものではない。それを、「一切法の差別の相を離れ」「虚妄の心念無し」というのである。
善きにつけ悪しきにつけ あらゆる私の側の身口意に為すことを<妄境は妄念より生ずる>という。
日本国のためにと 誠心誠意で為したことも、多くの 死ななくともよい人々を死なせ、被らなくともよい悲惨
を被らせた。 事終わって見れば、主観の中で 当外れな努力をしていたことに、臍を噛まなかった人がいる
だろうか! そして、それらは 後の世代に深い傷を残すことになった。戦後60年、現に 我らは、こうした中に
いるのであります。 今日 郵政民営化を掲げて総選挙に打って出る小泉首相もまた、戦争の後遺症に
苦しんでのた打ち回っている喜劇役者の一人でしょう。 妄念より妄境を造り出して・・・。
我らは、自らの利害のなかで 生活していますが、また そうしなければ 食べていけないわけですが、
だからと言って 妄境の事々に 好んで引きずり回されるのは、情けないことであります。
<まことに、倒心妄境は、情には有りて、理には無し>です。
ここで、「 離 」とか「 無 」とかについて、
私の師は、「 離れているということは、無いと言うのとは違います。我々は、無いというと、今まであったものが無くなったのかと思うが、そうではなしに高次元の世界を言っている。」と言っています。
理は、私すべきものではなく、また 私が それを握って 振り回すものではなく、高次元の世界のもの。
<それは、情には無き>ものである。
「 当知真如自性 〜 」
海東疏は
「 広釈のなかに、四句を絶することを明かす。四句多しと雖も、その要に二あり。
謂く、有無等と一異等となり。 この二の四句をもって諸の妄執を摂す。
故に、この二に対して、以って真空を顕す。
広百論に云うが如し < 復次に、世間所執の諸法は、みな真実に非らざることを顕わし、及び外道所執
の不同を顕さんが為の故に、頌を説きて曰く、(乃至)釈して曰く、一切世間の色等の句義は言説の所表
・心慧の所知、情執不同なり。略して四種あり。有・非有・倶許・倶非となり。・・・>」と。
我々がものを言い、ものを考える時に、それは四句の中にスッポリ入っているというのです。
すなわち、「 有る・無し 」の範疇か、「 同じ・異なる 」(論と疏は一異という)の範疇かであると。
海東疏は、上の文に続いて インドの外道の例を一々挙げて、このことを確かめています。
今日のさまざまな意見・思想は その表現の材料は違っても、古代インドの外道とされている ものの考えと
思考(=分別)の基本的枠組みは変わりません。
例えば
‘憲法改正は是であるか、非であるか(是でないか)’〜〜‘是である’‘是でない(非である)’
‘是であり、あるいは非である’‘是でも非でもない’ これ以外の立場を取れる人がいるでしょうか?
‘海外派兵可能な軍隊をもつことは日本のよき将来につながるか?’ie.‘その軍隊をもつのと
よき将来とは同じか否か ’〜〜‘同じ’‘異なる’‘ある場合は同じ、またある場合は異なる’
‘同じでもなく、異なるのでもない’ これ以外の立場に立てる人は・・?
この四句の内のどれかが、思慮深くて正しくりっぱな見解だ という風に 誇れるものではないのである。
どれかの意見しか 我々の立場を取れないということは、考える前から思考の枠組みとして決まっていた
ことである。この四句の内の どれかが正解であるのではない。
< この 二の四句を以って、諸の妄執を摂す > と。
しかし、我々は、悲しいかな、自分の思想・考えにしがみ付いて それを自己の支えとするしかありません。
‘それがあくまで正しい’と主張してゆかざるを得ない。特に、利害やプライドが絡む時は・・・。
これを、「 一切衆生は、妄心あるを以って、念々に分別して皆相応せざるが故に、説いて空と為す。」
と。
海東疏は、
「 この故に、世間の所執は実にあらず。 今 この文中に、非有相は、これ初句を遣る。
非無相とは、第二句を遣る。非非有相・非非無相とは、第四句を遣る。非有無倶(相)とは、第三句を遣る。
(乃至)一異の四句も準じて釈して知るべし。」
と、起信論の有無の5句と、一異の5句を、四句に納めて釈している。
義記に曰く、
「 総結の中に、妄計 塵沙zinnsyaなり。遍歴すべきこと難し。故に今、総摂して{相応せず}と弁ず。
これ順結なり。{ 若離 }の下は、反結なり。染の無きに対するを以っての故に説いて、真(如)を空と為す。
(真)如の体 無きを以って、空と為すには非らず。 亦た、この文は、是れ疑を釈すべし。
疑う者、上の真空を聞きて、則ち真体および恒沙の功徳を撥無すると謂omoわん。云々 」と。
(塵沙とは数が多いこと。恒沙とはガンジス河域の砂の数こと、数限りないこと。)
私の日々は、朝から晩まで一瞬たりとも 妄念から免れる時がありません。 念々に思うことは、
清浄真実なるものでなく 何か意味があり根拠のある事でもなく、{虚妄の心念}に埋もれています。
この間、何を思っていたか 思い出すこともできません。< 妄計塵沙なり。遍歴すべきこと難し >
これは、一切染法であり、一切差別の相を現出していたのでしょう。 何が? 虚妄の心念が。
空とは何か? 真如とは何か? そうしたものが解らない(不相応)のは、まさに当然であります。
「 若し 妄心を離るれば、実には空ずべきもの無し 」と。
ここで、「 空 」は名詞でなく、動詞であることに注意!
何を空ずるのかというと、妄心を空ずるのである。
妄心が 私を支配し、私がこれに引きずりまわされている限り、「 若離妄心 」でないのであるから、
「 空ずべきもの 」があるのである。
また、「 離妄心 」は、主語は何か? 「 空ずる 」の主語は何か? これは、大変な問いなのである。
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