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――――――(所謂 心性不生不滅 一切諸法唯依妄念而有差別 若離心念則無一切境界之相)
是故 一切法 従本以来離言説相・離名字相・離心縁相 畢竟平等 無有変異 不可破壊
唯是一心 故名真如。――――――
二、(つづき)
「一切諸法」とは、この世のありとあらゆるもの。私が 目に見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、身体で感じ、心で思う、そういうすべてのもの。
しかし、現実に 私が見聞きする世界は非常に狭いものです。
たとえば、このパソコンがのっている机は、木の分子セルロースから主にできており、それは炭素・酸素・水素でできた高分子物質。炭素はその99%が、陽子と中性子それぞれ6個づつから成る核の周りに、6個の電子があり・・・さらに、それら素粒子は・・・と。
この中で、私に直接見えるのは、この机だけです。 あとは、学校で教わったもの。しかもその教えてくれた先生も、炭素分子を直接見たわけではなく、科学者たちが言うのを、そのまま私に伝えたのです。権威ある科学者の言っていることを信頼して、そういうものがあるのだと信じ、それをテストに出すことで、彼は自らの生活を成立たせていた。
目に見えない世界は、私の信じている世界で、実際見た世界ではない。
これに限らず、私は 非常に多くのものを、多少の信頼に足る(と自分が思われる)証拠をもって、それをそうだと信じて、自分の世界を成立たせています。否、むしろ何の証拠も検証もなく信じて・・・、と言ったほうが正しいかもしれません。
いづれにせよ、それが正しかろうが誤っていようが、そういったすべてを、「一切諸法」というのです。
「妄念に依りて差別あるも」とは、
まづ「差別」とは、大小・左右・上下・内外・長短・善悪・穢浄・美醜・正邪・真偽・男女・老若・貧富・利害・好悪・親疎 etcと、我らが作り出したありとあらゆるもの。
人により、立場により、国により、時代により・・・その判断は変ってくる。たとえ同一人でも立場や時が変れば、これが同じあの人かと思うほど変る。また、私も、同じ物を見ても、時や状況が変ると、それを全く真反対に見るのである。<現に諸法を見るに、差別遷流す>(義記)と。
我々は、日常生活の中で、なにか確固不動の世界にいるようにふつう錯覚していますが、少しく静かに これを反省して見ると、忽ち奇妙な幻想的で独善的な世界にいることに気づきます。
明日の命も分らないのに、明後日のことを考えて、朝から心を悩ませて一日を終えるといったことも平気でやります。一体今日は何であったのか?! 実に根拠のない処・世界で、日々を過ごしているのではないでしょうか?
どうして私はこういう世界にあるのか?ーーーーー論は「妄念に依りて」と。
<差別の相は、これ汝が遍計妄情の所作なり。本来無実。>と義記。
前に言及した{遍計所執性}である。あまねく(遍)・はからい(計)・そう決め込んで執着する(執)、私によってそうされたもの(所)を世界とする(性)。これは、ただ縄を蛇と見間違うといった個々の事ではなく、あまねく私の世界を見る見方が、そうなのだ。というのです。
科学的知見もやはり縄を蛇と見ているのと同じかもしれません。或はせいぜい縄は藁からできていると少しく見る程度でしょう。そうでないと言うのであれば、そのことを証明できるでしょうか? おそらく、誰もできはしない。我々はそういう世界にいるということを、独善や恐れを廃して見ていけるのは、仏教しかないと私は思っています。
「若し、心念を離るれば、則ち一切の境界の相無し」と。
これを、海東疏は、<所執の相に対して、無相性を顕す>と釈しています。
心念とは、上の妄念のこと。無相性は、前には相無性とあった。
私(の妄念)が作り上げた世界の相(相は姿形〜ふつう、立派な言葉で世界観という)は、妄情に執せられたもの。したがって、「若し」、それを離れることができれば、そういった私的な独善と幻想の世界の相は無くなってしまう、というのである。
三、(1)「是故 一切法 従本以来離言説相・離名字相・離心縁相 」
この句を、海東疏は「依他性etasyouの法に約して、以って離言rigonの絶慮を明かす。」と言う。
「是故 一切法」・・・・この一切法は、前の一切諸法と違って、「縁より生ずる依他起の法なり」(海東疏)と。義記は、「この所執は本より空kuuなるが故に、真心 動ぜざるが故に、これに由yoりて、一切諸法は皆な即ち真如なり。」と。
「離言説相・離名字相・離心縁相」
「離言説相」−−−「音声の所説の如くに非らざるが故に」(海東疏)と。「言説音声の中に在るに非らざるが故に」(義記)と。
「離名字相」−−−「名句の所詮の如くに非らざるが故に」(海東疏)と。「文句の詮表する中に在るに非らざるが故に」(義記)と。
「離心縁相」−−−「名言分別の縁ずる能わざる所なるが故に」(海東疏)と。「意言の分別に非らざるが故に」(義記)と。
我々がものを認識し判断するのは、その多くが他人の言葉を聞き、書物を読み、そして自ら思考したり判断したりするのでしょう。そうして私は物事や世界に対する認識を得る。それ以外の方法で、ものを知るということは、ほとんどないのでしょう。
我々は、言葉と文字を手に入れたことによって、数十億年来の生存のあり方を、根本的に変えたといわれます。このことの重大性を認識しない哲学や宗教は、普遍性をもたないものでしょう。
そして恐らく、これに気づいた最初の民族がユダヤ人でした。その証拠が、旧約聖書とキリスト教徒がいうユダヤ聖典の創世記に記されています。すなわち「楽園追放」と「バベルの塔」の物語です。言葉と思考に対する今日の文明のような手放しの楽観主義ではない、極めて深刻な危機意識がそこには表明されています。しかし、後のユダヤ人達は、この思想を正統のユダヤ思想と見做さなかった・・・。
インドの北西からインダス河流域を経てガンジス河に進出したアーリア人達は、次第に 言葉の神秘性に捉えられ独得の思想を口伝で形成していった。そこには、言葉に対する危機意識はあまり見られない(ただ、彼らはずっと後まで文字を軽蔑した)。そして、文字と言葉の合体を極端なまでになしたのが、空海の真言密教であろう。また、法華経の影響下には、経典の書写や読誦を勧めることが、さかんに行われている。これらの宗教には、上のような危機意識があるかどうか、私は知らない。
しかし、この起信論の如く、仏教は言葉や文字さらには人間の思考に対する極めてシビアな見方があるのである。
義記は、前二者を「この二句は、言語の路 絶し、聞慧の境に非ざるなり。」と。また、「離心縁相」を「心行処滅し、思慧の境に非ず。」と。さらに「上来、偽妄を離るるが故に、真と名づく。自下は、異相を離るるが故に、如と名づく。」と。
(2)「畢竟平等 無有変異 不可破壊 唯是一心 故名真如」
これを海東疏は「離絶の義に依りて、以って平等真如を顕す。」と言う。また「諸の薫習に随いて、差別顕現して、しかも可言の性の差別を離る。すでに可言可縁の差別を離る。即ち、是れ平等真如の道理なるが故に、{畢竟平等乃至故名真如}と言う。」と。
***(数学について) 数学は、諸科学の基礎として、今日 ものの認識に非常に大切なものとなっています。それは、ものの真実の相を認識し理解するための道具とされています。ところで、この数学は、まさしく可言・可縁>のものです。数学的言語を駆使して、知性の見る対象の論理構造を深く細かに分析していきます。すなわち、<可言可縁の差別>のなかに 限りなく入っていきます。決して<(その)差別を離る>ではありません。そして何か定理を証明できた時、数学は ものの真実を把握したと主張します。
これは、一体どういうことか? 真実というものに対する考え方が、数学と仏教では違うようです。一体どちらが、本当の真実なのでしょうか? あるいは、真実というのは、1つではないというのでしょうか?
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