混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 2.

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

――――――(所謂 心性不生不滅 一切諸法唯依妄念而有差別 若離心念則無一切境界之相)
   是故 一切法 従本以来離言説相・離名字相・離心縁相 畢竟平等 無有変異 不可破壊
   唯是一心 故名真如。――――――

二、(つづき)
    「一切諸法」とは、この世のありとあらゆるもの。私が 目に見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、身体で感じ、心で思う、そういうすべてのもの。
しかし、現実に 私が見聞きする世界は非常に狭いものです。 
 たとえば、このパソコンがのっている机は、木の分子セルロースから主にできており、それは炭素・酸素・水素でできた高分子物質。炭素はその99%が、陽子と中性子それぞれ6個づつから成る核の周りに、6個の電子があり・・・さらに、それら素粒子は・・・と。  
 この中で、私に直接見えるのは、この机だけです。 あとは、学校で教わったもの。しかもその教えてくれた先生も、炭素分子を直接見たわけではなく、科学者たちが言うのを、そのまま私に伝えたのです。権威ある科学者の言っていることを信頼して、そういうものがあるのだと信じ、それをテストに出すことで、彼は自らの生活を成立たせていた。  
 目に見えない世界は、私の信じている世界で、実際見た世界ではない。
これに限らず、私は 非常に多くのものを、多少の信頼に足る(と自分が思われる)証拠をもって、それをそうだと信じて、自分の世界を成立たせています。否、むしろ何の証拠も検証もなく信じて・・・、と言ったほうが正しいかもしれません。
いづれにせよ、それが正しかろうが誤っていようが、そういったすべてを、「一切諸法」というのです。
    
     「妄念に依りて差別あるも」とは、
  まづ「差別」とは、大小・左右・上下・内外・長短・善悪・穢浄・美醜・正邪・真偽・男女・老若・貧富・利害・好悪・親疎 etcと、我らが作り出したありとあらゆるもの。
 人により、立場により、国により、時代により・・・その判断は変ってくる。たとえ同一人でも立場や時が変れば、これが同じあの人かと思うほど変る。また、私も、同じ物を見ても、時や状況が変ると、それを全く真反対に見るのである。<現に諸法を見るに、差別遷流す>(義記)と。
 我々は、日常生活の中で、なにか確固不動の世界にいるようにふつう錯覚していますが、少しく静かに これを反省して見ると、忽ち奇妙な幻想的で独善的な世界にいることに気づきます。
 明日の命も分らないのに、明後日のことを考えて、朝から心を悩ませて一日を終えるといったことも平気でやります。一体今日は何であったのか?! 実に根拠のない処・世界で、日々を過ごしているのではないでしょうか?
  
  どうして私はこういう世界にあるのか?ーーーーー論は「妄念に依りて」と。
<差別の相は、これ汝が遍計妄情の所作なり。本来無実。>と義記。
 前に言及した{遍計所執性}である。あまねく(遍)・はからい(計)・そう決め込んで執着する(執)、私によってそうされたもの(所)を世界とする(性)。これは、ただ縄を蛇と見間違うといった個々の事ではなく、あまねく私の世界を見る見方が、そうなのだ。というのです。
科学的知見もやはり縄を蛇と見ているのと同じかもしれません。或はせいぜい縄は藁からできていると少しく見る程度でしょう。そうでないと言うのであれば、そのことを証明できるでしょうか? おそらく、誰もできはしない。我々はそういう世界にいるということを、独善や恐れを廃して見ていけるのは、仏教しかないと私は思っています。 

    「若し、心念を離るれば、則ち一切の境界の相無し」と。
これを、海東疏は、<所執の相に対して、無相性を顕す>と釈しています。
心念とは、上の妄念のこと。無相性は、前には相無性とあった。
私(の妄念)が作り上げた世界の相(相は姿形〜ふつう、立派な言葉で世界観という)は、妄情に執せられたもの。したがって、「若し」、それを離れることができれば、そういった私的な独善と幻想の世界の相は無くなってしまう、というのである。


三、(1)「是故 一切法 従本以来離言説相・離名字相・離心縁相 」
    この句を、海東疏は「依他性etasyouの法に約して、以って離言rigonの絶慮を明かす。」と言う。
    「是故 一切法」・・・・この一切法は、前の一切諸法と違って、「縁より生ずる依他起の法なり」(海東疏)と。義記は、「この所執は本より空kuuなるが故に、真心 動ぜざるが故に、これに由yoりて、一切諸法は皆な即ち真如なり。」と。

    「離言説相・離名字相・離心縁相」
「離言説相」−−−「音声の所説の如くに非らざるが故に」(海東疏)と。「言説音声の中に在るに非らざるが故に」(義記)と。
「離名字相」−−−「名句の所詮の如くに非らざるが故に」(海東疏)と。「文句の詮表する中に在るに非らざるが故に」(義記)と。
「離心縁相」−−−「名言分別の縁ずる能わざる所なるが故に」(海東疏)と。「意言の分別に非らざるが故に」(義記)と。
  我々がものを認識し判断するのは、その多くが他人の言葉を聞き、書物を読み、そして自ら思考したり判断したりするのでしょう。そうして私は物事や世界に対する認識を得る。それ以外の方法で、ものを知るということは、ほとんどないのでしょう。
 
 我々は、言葉と文字を手に入れたことによって、数十億年来の生存のあり方を、根本的に変えたといわれます。このことの重大性を認識しない哲学や宗教は、普遍性をもたないものでしょう。
 そして恐らく、これに気づいた最初の民族がユダヤ人でした。その証拠が、旧約聖書とキリスト教徒がいうユダヤ聖典の創世記に記されています。すなわち「楽園追放」と「バベルの塔」の物語です。言葉と思考に対する今日の文明のような手放しの楽観主義ではない、極めて深刻な危機意識がそこには表明されています。しかし、後のユダヤ人達は、この思想を正統のユダヤ思想と見做さなかった・・・。
 インドの北西からインダス河流域を経てガンジス河に進出したアーリア人達は、次第に 言葉の神秘性に捉えられ独得の思想を口伝で形成していった。そこには、言葉に対する危機意識はあまり見られない(ただ、彼らはずっと後まで文字を軽蔑した)。そして、文字と言葉の合体を極端なまでになしたのが、空海の真言密教であろう。また、法華経の影響下には、経典の書写や読誦を勧めることが、さかんに行われている。これらの宗教には、上のような危機意識があるかどうか、私は知らない。
 しかし、この起信論の如く、仏教は言葉や文字さらには人間の思考に対する極めてシビアな見方があるのである。

義記は、前二者を「この二句は、言語の路 絶し、聞慧の境に非ざるなり。」と。また、「離心縁相」を「心行処滅し、思慧の境に非ず。」と。さらに「上来、偽妄を離るるが故に、真と名づく。自下は、異相を離るるが故に、如と名づく。」と。

  (2)「畢竟平等 無有変異 不可破壊 唯是一心 故名真如」
   これを海東疏は「離絶の義に依りて、以って平等真如を顕す。」と言う。また「諸の薫習に随いて、差別顕現して、しかも可言の性の差別を離る。すでに可言可縁の差別を離る。即ち、是れ平等真如の道理なるが故に、{畢竟平等乃至故名真如}と言う。」と。

***(数学について)  数学は、諸科学の基礎として、今日 ものの認識に非常に大切なものとなっています。それは、ものの真実の相を認識し理解するための道具とされています。ところで、この数学は、まさしく可言・可縁>のものです。数学的言語を駆使して、知性の見る対象の論理構造を深く細かに分析していきます。すなわち、<可言可縁の差別>のなかに 限りなく入っていきます。決して<(その)差別を離る>ではありません。そして何か定理を証明できた時、数学は ものの真実を把握したと主張します。 
 これは、一体どういうことか?  真実というものに対する考え方が、数学と仏教では違うようです。一体どちらが、本当の真実なのでしょうか? あるいは、真実というのは、1つではないというのでしょうか?

――――(心真如者 即是一法界・大総相・法門体 ) 所謂 心性不生不滅 一切諸法唯依妄念而有差別     若離心念 則無一切境界之相 ・・・・――――

海東疏は、「一には、真実性に当りて、以って真如を顕し、 二には、分別性に対して、真如の絶相を明かし、 
三には、依他性に就いて、以って真如の離言を顕す。」と。
元曉は、「所謂」以降を、まづ、3つに分かち、
一・・・心性不生不滅。 二・・・一切諸法〜一切境界之相。 三・・・是故一切法〜因言遣言。  とする。

一、「心性不生不滅」
・・・・・「初の中に、心性と言うは、真如門に約して、その心性を論ず。心性は平等にして、三際を遠離す。
故に心性不生不滅と言うなり。」(海東疏)と。
三際sai:三世zeとも言う。過去・現在・未来のこと。  
ーーーーー<三際を遠離onriす>とは、時間を越えた世界を表す。
 生じたり滅したりするこの時の世界に、我々はある。かっては医学も発達しておらず、多くの人々が チョットしたことですぐ死んでいったが、今日では一週間もしないうちに、ピンピンして何もなっかたかの様に 笑っている。
 また、私が生まれない時、戦争があり、敗戦。農地改革・財閥解体・・とGHQの指導で大きく日本社会は変化し、大陸では スターリンのソ連・毛沢東の中国がその勢力を増して、ついに米国と衝突。この朝鮮戦争の間に、私はこの日本に生まれ、この戦争特需によって経済復興のキッカケをつかみ、やがて経済をあらゆるものに優先させた社会の中で、私は教育を受けた。青年時代、まだ原子力発電には手をつけていなかった日本も、その後30年余、うかうかと過ごしているうちに日本の電力の1/3以上をそれに頼るようになっていた。etc   
こうした膨大な事柄が次々と起こっては過去する世界を三際と言う。

・・・・・義記は、「心性不生不滅と言うは、上の法体を釈す。謂く、妄に随うに生ぜず。治に約するに滅せず。又た、修起するに生ぜず。染に処するに滅せず。 故に摂論に云わく、世間にも破れず、出世間にも尽きざるが故なりと。」と。
法蔵は、元曉より少し観点を変えて、不生不滅を釈している。  
 心真如の性たる心性は、(私の)妄念の巻き起こす差別の世界に限りなく随っているが、その性を現すことなく、修行精進してこの私の誤りを治し真実を顕わそうとしても、この性まで手をつけて滅することはできない。
 また、修行を起こして、私の間違いや罪悪を取り除こうとしても、だからといってこの心性が現れることはなく、妄念に身を任せて汚染のうちに没したとしても、それで心性がなくなることはない・・・。
どんなに困惑するようなことが起きてこようが、どんなに精一杯がんばってやっていこうが、或はどんなに取り返しのつかない悪い事を為そうとも、どんなに立派なことを為そうとも、心性は それゆえに生じたり滅したり、増えたり減ったりすることはない。私の主観(思ったり、言ったり、行なったり)に一切かかわりないものである・・・。


二、「一切諸法 唯依妄念而有差別 若離心念則無一切境界之相」
・・・・・海東疏は、「初に、一切諸法依妄念而有差別と言うは、これ、遍計所執henkeisyosyuuの相を挙ぐ。次に、若離心念即無一切境界相と言うは、所執の相に対して、無相性musousyouを顕す。 猶naoし、空華kuugeの 唯taだ眼病に依って華の相あるが如し。 若し、眼病を離れては、即ち華の相無く、唯だ空性kuusyouあるのみ。当masaに知るべし。この中道の理も、また然sikaなり。」と。

この句を、義記も <遍計所執>という語で、捉toraえているので、つづいて挙げます。
・・・・・「執者云く。現に諸法を見るに、差別遷流す。云何ikaんが、乃sunaち性に生滅なしと言うや?
釈して云く。差別の相は、汝が遍計の妄情の所作なり。本来実無し。病眼に依りて、妄midaりに空華を見るが如し。故に皆な依妄念而有差別と云う。
疑う者また云う。何を以ってか、妄念に依yoりて生ずると知ることを得るや?
釈して云う。諸moromoroの聖人は、妄念を離れたるを以っての故に、既にこの境なし。即ち、験akiらけし。この境は、定んで妄より生ずることを。 
また、もし この境、妄の所生に非ずして実有zituuならば、聖人の見ざる、これ迷倒なるべし。凡夫既に見る、これ覚悟なるべし。空華を見ざるが如き、これ病眼なるべし。(乃至)故に若離於念則無等と云うなり。」と。

    参照:「経典から」〜〜維摩経仏国品<その心 浄きにしたがって、仏土浄し>

―――――心真如者 即是一法界・大総相・法門体――――

「大総相・法門体」
・・・・・海東疏に「この一法界は、通じて二門を摂す。而るに、今 別相を取らず。中に於いて、但だ 総相の法門を取る。然るに、総相に於いて 四品ある中に、三無性所顕の真如を説く。故に大総相と言い、軌kiとして真解を生ずるが故に、名づけて法と為し、通じて涅槃に入るが故に、名づけて門と為す。一法界、体を挙げて生滅門と作るが如く、如是く、体を挙げて真如門となる。この義を顕さんが為の故に、体と言う。」と。
ーーーー二門とは、真如門と生滅門。 別相とは、生滅門。 
 三無性musyouとは、相sou無性・生syou無性・勝義syougi無性。
この3つは、それぞれ遍計所執henkeisyosyuu性・依他起etaki性・円成実enzyouzit性に対する。
** 譬えで言うと、 
  遍計所執性・・・ 縄を見て、蛇と思う(蛇の相を見る)。〜〜蛇は実有のものでない故、それを相無性という。 
  依他起性・・・  稲から藁ができ、それが縄となった。〜〜縄という実有が、初めからあるのではなく、因縁和合してこの縄となった故に、生無性という。縄という実用に供する物として作られたというのは、人間の判断。 
  円成実性・・・  縄は、稲藁が因縁によってそのような形を取った物。真如(稲藁)は一切有為法(縄)の実性。〜〜稲藁は、それ自身で稲藁。それがどういう性質をしており、どのように役に立つかというようなことは、人間の側の勝手な振る舞い・判断。我々の物を見る立場を否定するところに、ものはその真実の姿を現す故に、それを勝義無性という。

    *** 上の「三無性」は、世界に対する我々の態度とその見方を言っているのである。真実に世界を見るとはどういうことか?ということを・・・。
 ところで、科学が 物の真実の相を追究するものであると言われるが、どうであろうか? 仏教のこの論と科学の論と。もし別々のものとすると、真実に2つあるのであろうか? 少なくとも仏教者は、現代世界を席巻している科学に対する抜きがたい崇拝の念に阿omoneること無く、これに妥協することなく厳しく対決し、しっかりと 「真実とは何か?という問い」に答えを出さねばなるまい。


 心真如すなわち一法界は、それを私が、‘ こうこういうものだ ’とつかむことができないものである。すなわち私の認識やイメージに掛からないものである。
 我々は、‘ そういう認識できないものは、そんなものは無い。’というであろうか? 
 では、聞く。‘ 無い’とは、誰が言ったのか?ーーーーーーそう判断する者が言った。
 では、どういう根拠で、無いと判断したか?  ーーーーーー・・・・・・・。  
如是。我々は、ものを正しく 正直に言わねばならない。いかにそれが辛抱できないものであろうと、「私は、認識できない。」で終わらねばならない。「それは無い」と判断しては 独断!


 しかし、仏教は、ここで終わらない。むしろ、ここから すべてが始まるのである。
「法界とは、聖法の因」と。「聖法は、この境に依りて生ず。」と。ありとあらゆる善きもの・清浄なものが、ここから生まれるのである。
 ところで、その善浄なるものは、我らの世界に働き、実現するものであろう。すなわち有限で相対の世界に成立つものでなければ、どこに成立つのであろうか? 今、これを別相・生滅門と言うのである。
 逆に、この世の善きもの・清浄真実なるものは、他の所から生まれるであろうか?
たとえば、人間の良心から・・?、人間の理性から・・?、人間の基本的人権から・・?、科学技術から・・?、民主主義から・・?、天皇から・・?、日本の伝統から・・?、市場経済から・・?、キリスト教orイスラームの創造神から・・? etc 。 どうでしょうか?

 義記は海東疏とほぼ同じことを言っているが、「大総相というは、二門のなか別相を取らず。中に於いて、但だ 総相を取る。然るに、別を該収し尽くす。故に、大と言うなり。」と。
この世の善浄なるものを、すべてそのうちに包んでいるのである。何もこの一心からはみ出すものがない。故に、大(総相)というのだ、と。

 また、この一法界は、法門の体である。法門とは、法は、「軌生物解kisyoubutuge」(義記)という。物(衆生=私)に理解を生ぜしめる軌(のり・みち)である。
私をして、真実清浄の世界に眼を開かせるさまざまな方便である。そして、「(それを)通じて、涅槃に入るが故に、名づけて門と為す。」と。
 いわゆる、よき師・よき友・よき教えが、「聖智通遊」(義記)の(法)門であろう。
そして、「この一法界の挙体、全うじて生滅門となり、挙体、全うじて真如門となる。この義を顕さんが為の故に、体と言うなり。」(義記)と。
 驚くべき一法界のダイナミズムである。

心真如者 即是一法界 大総相・法門体。                             所謂 心性不生不滅。 一切諸法唯依妄念而有差別                        若離心念 則無一切境界之相。                                 是故 一切法従本以来 離言説相・離名字相・離心縁相                      畢竟平等。  無有変異 不可破壊 唯是一心 故名真如。                                        以一切言説仮名無実 但随妄念 不可得故。言真如者 亦無有相 謂言説之極 因言遣言。 此真如体 無有可遣 以一切法悉真故 亦無可立 以一切法皆同如故 当知一切法 不可説不可念故 名為真如。                    問曰 若如是義者 諸衆生等 云何随順 而能得入。 答曰 若知一切法雖説 無有能説可説 雖念 亦無能念可念 是名随順。若離於念 名為得入。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)心真如とは、即sunawaち是koれ 一法界にして、大総相、法門の体なり。謂iう所は、心性は不生不滅なり。一切の諸法は、唯だ妄念に依りてのみ差別有るも、若し 心念を離るれば、則ち一切の境界の相無し。是の故に、一切法は、本より以来 言説gonsetuの相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟hikkyou平等にして、変異有ること無く、破壊haeすべからず。唯だ是れ 一心のみなれば、故kotosaらに真如と名づく。 ( 一切の言説は仮名kemyouにして実無く、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以っての故に。真如と言うも 亦 相有ること無く、言説の極、言に因yoって言を遣yaるを謂iう。この真如の体は、遣yaるべきもの有ること無し、一切法は悉く皆真なるを以っての故なり。亦立すべきもの無し、一切法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如と為すのみ。問・・・)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                                              
これから、心真如門と心生滅門のそれぞれを、詳しく論じていくのである。                                             
まづ、心真如門。                                  
義記は、「初めに、如体の離言を挙げて、以って観智の境を明かし、上の立義分の中の真如の義を釈す。             
二に、{復次真如者}(上の本文に続く文)の下は、言に依りて徳を弁じて、以って生信の境を明かし、上の立(立義分)の中の真如の相を釈すなり。 
初めの中に二あり。一には、総じて法体を挙げ、二には、問答釈疑。」
と、この心真如門の詳述するところを、概観している。
要は、すでに立義分で述べているのだが、それが何を言っているかよくわからない私の為に、より詳しく事を噛み砕いて述べようというのである。


上に掲げた本文を義記は「初には、如体を顕す。二には、{以一切言説}の下は、執を会して名を釈す。 
前の中に三あり。初に、実に就いて略して標す。 次に、{一切法}の下は、妄を会して真を顕す。 三に、{是故}の下は、真の離妄を結す。」と段落に分ける。                                                                   ーーーー「(心真如者)即是 一法界」
海東疏は「是れ、真如門所依の体を挙ぐ。一心は、即ち是れ一法界なるが故に。」と。
義記は「一法界とは、即ち 無二の真心を一法界と為naす。此koれ、算数sanzyuの一に非ず。謂く、如理・虚融・平等・不二の故に、称して一と為す。 又た、下の{依言}に二義あるに対するが故に、今 体に約して但だ一と云うなり。 依りて、聖法を生ずるが故に、法界と云う 。中辺論に云く、< 法界とは、聖法の因を義と為すが故に。この故に法界と説く。聖法、この境に依りて生ず。この中の因の義は、是れ界の義の故なり。」と。                                 
〜〜〜〜〜〜〜〜元曉の海東疏は、「一法界」をおおらかに解釈しているが、 賢首は、各宗派間の論争激しく、また異議紛々として巻き起こっている唐で この義記を書いているため、上のように 言葉を一つ一つ厳密に押さえている。

まづ、「一」とは、一,二,三、・・・の一ではない。二,三,四、・・のない一である。いわゆる全一の一である。                                         

では、何が一なのか? 義記のよれば、真心が一である。私の真makotoの心が・・・。
また、如理・虚融・平等・不二の故に一というと。私の真心ではない心は、したがって理に逆らい、固く剛直で、偏向しており、沢山ある心ということになろう。

そしてまた、論には「一法界」であるから、法界が一である。 
この法界とは何か?  これは、各宗派で、さまざまな込み入った議論がなされるのですが、ふつう事ziと理riの2種があります。 
事の法界とは、「周遍法界 抜苦衆生」(法界を周遍して、苦の衆生を抜く。〜〜源信の往生要集)というように、ありとあらゆるこの世のこと。 
理の法界とは、賢首大師法蔵がここで述べている法界。彼は別の書(探玄記)で「界に三義あり。一には、是れ因の義なり。依りて聖道を生ずるが故に。摂論に云く。法界とは、一切浄法の因なり・・」と。

 また、義記は、上に掲げた論についで述べる依言真如で、真如に二種の義(「如実空」と「如実不空」)があるというのを踏まえて、あらかじめこの一法界の一を この二義に対して一と言うのだと周到な注意をしています。

この心真如 (真如とは、対象的に私がこちらに居て、あちらの真如を見るというような存在ではない。対象化できないものである。したがって私と真如は2つのものではない故に、心真如という)
は、別の言葉で言うと、一法界と言える。すなわち、真如(真実)が二つも三つもあるのではないのである。 

*** 我々は、今日 相対主義の時代に生きている。
絶対とか超越とかという概念は、形而上学の対象で、それは、近代以前の古い独善的概念。
それらは哲学や科学によって批判的に乗り越えられたとか、あるいはこれらに手をつければ、現実を軽視することになるから・・と敬遠することが、19C以来 今日まで流行であった。
それゆえ、キリスト教の神とイスラームの神と仏教の如来と・・・こういったものが、バラバラにそれぞれ自己を主張して住み分け、あるいは争ったままにし、
‘だから宗教はだめなのだ!古い蒙昧な時代の遺物である。科学が発達すれば、このような無用の争いも無くなるであろう。’と、それらを融和しようとする発想は、信ずることのできないものとなっている。
また他の宗教に対する理解が叫ばれても、それは文化的歴史的あるいは教義的分析をすることと同一視されているテイタラクである。        


しかし、一法界とは、形而上学ではない。学問の対象にならないから、一という。もしそれぞれの宗教の神が、何らかの真実性を持つならば、それはこの一法界を<所依の体>とするものでなくてはならないであろう。真実が二つも三つもあってはならぬ、ということが宗教の独善性とならないという保証が、この一法界という言葉であろう。                  

「 二者 心生滅門 」

  海東疏は、
  「 <一心とは如来蔵と名づく>・・・この一心の体に、本覚あり。 而sikaも 無明に
   随いて 動じて生滅となる。故に この門に於いて、如来の性syou隠れて而sikaも現れ
   ざるを、如来蔵と名づく。」と。

                                                 
  衆生心 ie.私の心は、2つの面から言うことができる。
  一つは、心真如門、 二つは心生滅門 と。     

  前回は、心真如門について考えた。ありとあらゆるものは、各々それ自身で存在するのでは
 なく、互いに因となり縁となって生滅変化し、かって有ったものも、今はもう無い。そうした
 事象の巨大な海の中に呑込まれ流され来たって 私は今ある。
 大小さまざまに、すべては刻々と変化し、それを見る私も縁によって変化してきた。
 ‘これが私だ’という自己意識もアッという間に変壊する。したがって、このような私の認識も、
 また その中にあり、水に描いた絵のように流れて跡を止めない。

 ‘ 生じたものはすでに無く、滅したものはかって有った。’と言うも、偶々こういうことに
 関心を向けた時の、気紛れな私の一時の見にすぎない。一日の大半は眠っており、また起きて
 いる時間は 個々の事物に 様々な欲をもって 引きずり回されて心を雑乱zouranしているの
 である。衆生心=私の心は、このようである。

  諸行無常の理は、かくして私の見ではない。雑縁zouen乱動の私には手の届かない見である。
 これは、「 本来寂静zyakuzyou 」のものの見であろう。
 こうした騒々しく変壊する心の 寂滅したところでなくては、この幾重にも重なった因縁の
 世界の全貌は、ついにその手の内に把握できない。

 すなわち、この世界のありのままの姿というものは、生滅変化を越えた世界からしか把握でき
 ないのだ。 否、把握するという人間的な行為が、そもそも成立つ必要があるのかさえ分った
 ものではない。
 こうした私の主観(偏見と煩悩が作り出したもの)を絶した寂滅した世界を一心と言おう、
 また、心真如門と言おうというのであろうか?                                              
 ーーーしかるに、この真如の世界は、私の方から それをつかもうとしてもつかめず、
 触れようとしても手の届かない世界である。 何故か? 私が居るからであり、それに触れ
 ようとするからである。この私の居る世界を心生滅門と言う。                                                 

  義記はこれを、
  「 随縁zuien起滅の義、即ち、生滅門なり。謂く、薫に随いて転動して、染浄と成る。
   染浄と成ると雖も、性、恒に不動なり。只だ、不動に由りて、能く染浄と成る。
   この故に、不動も動門にあり。 この故に、下の文に、<識に二義あり。>と云う中の
   {本覚}是れなり。上の生滅門の中の{自体}是れなり。云々 」と。                                       

  <随縁起滅の義>・・・縁に随って、起こり滅する。 さまざまな内と外のもの(縁)
  に触れて、内にある煩悩(因)が出てきて 喜んだり鬱屈したり怒ったりと色々な思いが
  生起し、それを外に言葉に出し、あるいは手足を動かして行動するのであ(果、身口意の
  三業)。

  またよい話(縁)を聞いて、‘ あたら一生を このままではイケナイ。そのように成ら
  なければ・・’と、自分を向上させるべく奮起する。
  我々は、縁に随ってどうにでも動く者である。何か信念のあるように思われる人も、それは
  他と比べて比較的そうであるというだけである。
  善い縁に触れれば 善い行いになり、悪い縁に触れれば、たとえ良心があると言っても、
  悪い行いをする<薫kunに随sitagaいて転動して、染浄となる>。                                               

   ならば、どうなるのか? 私は、何ら主体性のないもの ということになる。
  縁次第でどうにでもなり、どんなことでも為し、どこへでも行く・・、そういうものである。
  これが私の現実。 

  また、 私は、寂滅の世界に いかにしても触れることができない。すなわち、ものを
  そのあるがままに見ることができない。それを「無明」という。
  すべては、私の見であり、それはものを曲って見、間違って見、或は ものを無視し、
  軽視する<無明に随って、動じて生滅と作る>。

   こうしたなかにあって、しかも私を、如来蔵だと言われる<この門において、如来の性 
  隠れて顕れざるを、如来蔵と名づく>。 この“ 如来蔵である ”ということがなければ、
  私はついに、深いニヒリズムのなかに絶望しなくてはならなくなるであろう。 
  <如来の性隠れて顕れず>ということは、逆に“ 如来まします ”ということなのであろう。

  これは、源信(gensin天台僧942〜1017)を讃えた親鸞の「 煩悩障眼雖不見
  大悲無倦常照我 」( 煩悩、眼manakoを障saえて 見たてまつらずと雖iedoも、大悲
  倦monouきことなくして、常に我を照らしたまう〜〜正信偈)の句を思い出させます。                                                                 
  心生滅門とは、このように六道輪廻(何の意義もそこに見出せない衆生の生存の有り方)の
  我ら衆生の救いを、具体的に確保し保証する局面を言うのであろうか?                  

  *** 人間の理性の当にはならないことは、人類は20Cに根限り経験し、また洋の東西
   の幾ばくかの哲学者や賢者が吐露していることであるが、いまだもって現代文明は、
   この人間理性に必要以上の役割を負わせようとしているのである。
   そして、その負わせられた理性or知性の人は、その重荷に耐えかねて、幻想と独善の中に
   逃げ込んでいる。この事態は極めて悲惨である!

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
kyomutekisonzairon
kyomutekisonzairon
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
検索 検索

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事