混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

経典から

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阿弥陀仏とは何か?

天人不動衆 清浄智海生
   < 天人不動の衆は 清浄(しょうじょう)の智海より 生ず >


      これは 4C インドの天親菩薩が書いた 『 浄土論 』 の中の 一句です。
     ‘ 仏(阿弥陀仏)とは どのようなものなのか? ’ ということを、
     その上巻に 29種の歌、そして その下巻には 論 をもって、表現した書物です。

     この『 浄土論 』 に対し、中国南北朝時代の 曇鸞donran和尚が解釈を施します。
     その書を 『 浄土論註 』 と言って、これが 中国浄土教の礎石となりました。
              http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A6%AA


 彼は、上の 天親の歌 に対して、以下のように 注釈しました。


「  この二句は、< 荘厳syougon(大)衆功徳成就 > と名づく。

   仏(阿弥陀仏)、もと 何故(なんがゆえ)に この荘厳を起したもうや?

   ある如来(仏)を見そなわすに、(その仏が)法輪を説きたもう下に 有る所の大衆、
   諸の根・性・欲は 種々不同なり。 【根欲不同】
   仏の智慧において、もしは退し もしは没して 等しからざるをもっての故に、
                          【受法不同】
   すべて 純浄ならず。


   このゆえに、(阿弥陀仏は) 願を興したまえり。
   願わくは 我 成仏せんに、所有syouの天人 皆  如来智慧の清浄海より生ぜしめん。


   海とは、言うこころは 仏の一切種智issai/syuchiは 深広jinkouにして 涯てなし。 
   二乗・雑善zoujen・中下の死骸を 宿さず。 これを 海の如しと喩う。


   この故に、< 天人不動の衆は 清浄の智海より 生ず > と言えり。
   不動とは、言うこころは かの天人 大乗根を成就して 傾動kyoudouすべからざるなり。 」

      ** ( )は、kyomu-が 施しました。

      【根欲不同】: 先天的な生れつき・後天的な性格・今の欲が、人みな 違う
      【受法不同】: 同じ法を聞いても、人みな 違った(勝手な)受取り方をする
       二乗: 自ら悟って 他を悟らそうとしない者(他人無視/自閉症)
       雑善: 自らを利そうという魂胆で さまざまな善を為す者(偽善者)

  〜〜〜〜
    〜〜〜〜

 慣れない言葉ばかりで 意味が取りにくいと思いますが、
私は、敢て ここで 一つ一つの言葉を 噛み砕いて 説明しようとは思いません。

‘ 意味が取り易くなくては 仏教ではない ’ と よく言われますが、これは俗論です。
我々の祖先は、「 読書百遍、意 自ずから通ず 」 と言ってきました。

また、この 『 浄土論 』 及び その注釈である 『 浄土論註 』 を、
かの親鸞は 20代から 亡くなる90歳まで、何度も何度も読み込んで、その意を思惟しました。


それを読んで 或は聞いて、すぐに その意を理解し体得しようという人は、
初めから 仏教というものを誤解しています。 また 虫がよすぎます。
すなわち 人間というもの・自己というものを 甘く考えすぎています。

本当に 自己の救い(解決)を得ようとするならば、 
如何に時間がかかろうとも、 そこに 如何に困難が横たわっていようとも、
それらを越えて 救いを完遂しようとする意志がなくてはなりません。

安易に 自らの俗情に媚びることは、 真実の 決して許さないことでしょう。

  * 俗情: ‘早く結果を得よう’‘楽して結果を得よう’という 濡れ手で粟の魂胆のこと

蓮如は、「 仏法は 知りそうもなき者が 知るぞ 」 と言っています。
すなわち、文盲の老婆が この漢文の言葉を聞いて その意を知るのが、仏教というものです。
文盲を バカ にしてはなりません。


     *   *   *   *   *   *   *



 根欲不同・受法不同 なるものが、私であります。

 「 浄土の大衆 」 ならざる現実のうちに 私はあるのです。

 すなわち、< 如来清浄の智海より 生ぜざ > る者です。


 「 仏化を受けず、無明のままに 自力を通すもの 」、

 すなわち 「 無明より生じ 」た 「 輪廻の凡夫 」であるのです。
  
 露堂々として、現実は このようです。



 不幸な境遇にある人を 心配する ・・・・。 

 ――― その私は、果して 他から 心配されるを要しないものであるか?!


 そうではないであろう。

 他人を心配する余裕があるどころか、

 かえって、 自ら どうにもならぬ苦悩の中に あるものであろう。


 時間に押し流され、 種々の遺漏を抱えて、

 その解決を 探しあぐねている者であろう。

 ――― このことに率直でなくては、 「 仏の教化に 随う 」 ということにはなり得ない。


 過失・遺漏 多き者ゆえに、 邪見・驕慢 抜き難いゆえに、 苦悩 多端のゆえに、

 このものを 「 浄土の大衆 」 ならしめんとして、

 如来(阿弥陀仏)の 大悲本願 まします。


 かくして 私は、 他(人)を 心配する者ではなく、

 如来(=仏)に 心配されている者です。



 私が 如来をつかむのではない。 
 
 無明・輪廻の凡夫が 仏or浄土を、認識のうちに 捉えようとすれば、

 その仏もまた、輪廻のうちに 呑み込まれてしまうであろう。

 実際、私において そうであるように。


 仏の認識 ie.信心は、

 「 仏徳の力によって、 その 大悲海・智慧海 に 住持せられて 得 」られるのであります。

 それは、無明・煩悩(=日頃の私)に 住持せられるものではないのだ。


 名利が生命となって、名利によって動いているところに、

 どうして 仏の認識(=信心)など あろうか?!

 なむあみだぶつ


 如来大悲・ご恩徳の前に、 このわが身を懺悔すべし。



                              合掌

  参考: 
   六道輪廻・・・http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/10267103.html                  

〜〜〜〜〜
   
 「 来迎raigouは 諸行往生にあり。 
   自力の行者なるが故に、 臨終ということは 諸行往生の人に言うべし。
   未だ 真実の信心を獲eざるが故なり。
   また、十悪五逆の罪人の はじめて善知識に遇oうて 勧められる時に言うことなり。

   真実信心の人は、摂取不捨のゆえに 正定聚syoujyou-jyuに住す。
   この故に、臨終まつことなし。 来迎たのむことなし。
   信心の定まるとき、 往生 定まるなり。」 
                              ( 親鸞:『末灯抄』)
                          
          ** 善知識:よき師・よき友
             十悪・五逆: http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/9770749.html


        *   *   *   *   *   *


 浄土教は、 
臨終の時、 阿弥陀仏 (以下 弥陀)が 観音・勢至の2菩薩 その他 無数の化仏kebutuら
と共に、その人を 浄土に迎えるために 来ると言います。

親鸞は、これを踏まえて 『末灯抄』に 上のように言っています。


 ‘ 将来 私は どうなるのか? ’‘ 悲惨な境遇に 堕いるのではないか? ’という
不安や恐れは、 死んで後のことだけではなく この世の事であっても、
我々の心に 深く 喰い入っています。

しかし、‘ こうすれば、将来 こうなるであろう ’ と予測できる場合にも、
我々は、得体の知れない 自らの欲望に 突き動かされて、 面前の楽に 流され溺れて、
今 為すべきことを、明日に引き延ばしたりします。

たとえ、‘ 善行を為せば 死後 極楽に往ける、 
これこれの悪業を為せば 永遠の責め苦たる地獄に堕ちる ’ ということが 分っていても、
我らは 善行を為すことは 極めて難しく、 悪業は 極めて容易に為すものです。


このように‘ わかっちゃいるけど、止められない! ’というサガが 我らにはあります。
したがって、将来のことを知ることは、我らは ほとんど不可能なことであるし、
また、それを知っても、我らにおいては ほとんど意味のないことです。

それで、我らの人生は 
‘ できる範囲のことしかできない。後は 成るようにしか成らない ’
というところがあります。


この 我らの生の現実を 無視して、
あたかも <悪を廃し 善を修する> ことが 自分にはできるという前提で、
わが将来のことを考えるのを 「 諸行往生 」 と言います。

弥陀は 今現在に働く仏ですが、
このように 今のわが現実を疎かにして、明日に良いことを期待する者のために、
その歩みの彼方で その者を救わんと待ち受けるのが、臨終来迎の弥陀です。


その存在が奪われることの恐怖、 この生の一回性と希有性への無限の愛着。
――― これを 仏教は 「 煩悩 」 と押えます。
‘ 将来 自分はどうなるのだろう? ’という不安と恐れも また煩悩です。

我々は <今 こうした煩悩を 内に孕んで生きている> という現実を解決することの方が、
どうなるか分らない将来への いたずらな慮りに 時を過ごすよりも、
重大なことだと為すのが、仏教です。


‘ 死後 みんな 極楽に迎えられるのだ ’ とか、
‘ この地上での行い次第で 天国か地獄かに 創造主の意思で 選別されるのだ ’ とか、
これらは みな、将来への不安 や 亡き人への愛惜 が 描き出した、今日の我らの妄想です。

死後 極楽へ往こうが、地獄に堕ちようが、 
たとえ イエスや釈尊であろうと、わが運命を 他人が分るはずもなく、
また、他人が わが運命に 責任を取ってくれるものでもありません。 


原爆の惨禍のような 地獄の責め苦に遇ったり、
ディズニーランドや美人の閨房のような 天国の逸楽を得たり、
そうした わが運命の保証を 誰がしようか?!

自分が 天国の逸楽を得るに当然な存在だ と、誰が決めたのでしょう?
むしろ、日頃の行状からは、地獄に堕ちて 当然な者であろう。
絶対の孤独のなかで、どんな境遇をも甘受すべきであるのが、我ら人間ではないでしょうか?



‘ 良い境遇に行きたい、悪い境遇に行きたくない ’という心に説かれるのが、
臨終来迎の弥陀です。 しかし、この心には 煩悩が貼りついています。
他はどうあれ 自分だけは良い境遇を得たいという 冷酷非情な 「十悪五逆」 の心です。

自己の将来を心配する心 の問題性(エゴイズム)は 清算されねばなりません。
この わが現実を 誤魔化さず 明らかに認識するとき、
我らは 「真実の信心」を獲eて、弥陀の 「摂取不捨」の中に 煩悩の自己を見出すのです。

この時、もはや 我らは 将来の境遇への恐れを 根絶し、
如何なる境遇にも 恐れを懐かない者となるのです。
そして 死後は 弥陀の浄土に生まれ 「 自然虚無の身・無極の体 」 を得るのです。
                          jinen/komu   mugoku
すなわち、如何なる境遇をも そこを浄土と為す力(智慧と慈悲)を得るのです。



                              

  ** 死後 浄土に生れるということは、「諸行往生の人」には いくらこれを聞いても、
    ピンと来るものではありません。 自分が そうなるとは、理解できないのです。
    それに 浄土とは 何か? 弥陀とは 何か? といったことも、ピンと来ません。

    これらの語は、彼には 夢や想像や幻想以上のものではありません。 
    実際のものとは なかなか感受し難いのです。
    すなわち、浄土は 我々の感覚や知性とは そのままでは つながっていないのです。
    

     浄土とか 弥陀とかが 実感できるのは、 自己の現実(十悪・五逆)が 明らかに
    なった人だけです。 恐れに苛まれ 弥陀の大悲に背を向けている 自己の全体が、
    仏智(無生法忍)に 照らし出されて 始めて、 弥陀は その姿を現します。 

                                  合掌
             

鹿と兎

〜〜〜〜〜
   〜〜〜〜〜〜

ある時、 山中に 大火事が起こりました。

火は 勢い すさまじく 広がっていきました。


多くの獣kemonoたちは 逃げて行くことに 死に物狂いになりました。

しかし 逃げようとすれば、 深い渓谷taniになっていて 容易に逃げることができませぬ。


猛火は 次第に 背後から迫ってきます。

多くの獣たちは、 泣き狂っても 救われません。


何とも致itaし方kataなく 困り抜いている時、

一匹の 大きな鹿sikaが 現れてきました。


彼は 向うの崖gake と こちらの山 とに 前の二足 と 後の二足 とで 渓谷の上に踏みまたがって 橋となり、

一同に向って 急seき立てました。


「 一時も早く みな わが背を渡って 逃げよ! 早く 早く! 」 と。

群がる獣たちは よろこんで、先を争って 鹿の背を渡って 逃nogaれました。


無残にも 鹿の背は、 皮は 破れ 肉は 千切れ、 血潮は だらだらと流れて 全身を染めています。

哀れに 力尽きて、 彼は 動くことができません。


その時、 最後の一匹の兎usagiが 逃げてきて 助けを求めました。

鹿は 「 早く渡って 逃げよ 」 と言いました。


兎が 渡ってしまった時、

彼は 力尽きて 渓間tanimaに落ちて、 哀れな死を 遂げてしまいました。




この大きな鹿とは 釈尊の前身であり、

兎というのは 須跋陀羅syubatudaraという長者choujyaの前身であります。


釈尊が 八十の老齢となり、涅槃の雲に隠れようとする時、

病重くして 談話さえ難しい。


その時、 最後に はせ参sanじて 道を求めたのは、 須跋陀羅でありました。

阿難ananは、 病が重いので 彼の申し出を断りました。


しかし、 釈尊は これを聞かれると、 

彼を呼んで 最後の説法をされた。


彼は 解脱することができた。

彼の前身は 山火事の時の 兎だ と言うのである。




                           ( 住岡夜晃全集 第五巻 )

 

無住処涅槃(4)

〜〜〜〜〜〜
   〜〜〜〜〜〜
       ョ
  般若に由るが故に 自愛の念を滅し、 大悲に由るが故に 他愛の念を生ず
  般若に由るが故に 凡夫の執を捨て、 大悲に由るが故に 二乗の執を捨つ
  般若に由るが故に 涅槃を捨てず、   大悲に由るが故に 生死を捨てず
  般若に由るが故に 仏法を成就し、   大悲に由るが故に 衆生を成就す

  二方便(般若と大悲)に由yoりて 無住処に住し、  退転有ること無く 速かに菩提を証す
  ・ ・ ・ ・
  この故に 仏は、一切衆生 皆 仏性有り と説きたまう。


                          ―――――― 仏性論 ――――――



                 (4)



「 如来の大慈悲は、利他の心であります。

光より 闇に来たって 苦悩に随順するは、 大慈悲のみ よくするのであります。


まことに 如来は、 涅槃におって 涅槃におらず、

生死に おって 生死に いたまわぬのであります。



我らは もとより 生死に悩む 凡夫であります。

罪濁の悪人であります。 衆生であります。


その我らが 救われるとは、 生死に いつつも、

如来の智慧と慈悲とに 生かされることであります。


如来の智慧と慈悲とに救われるとは、

よく 生死におって 生死を超えさせてもらうことであります。




まことに 我ら 久遠の迷は、 苦悩にたえかねて この苦悩より逃げ、

この苦を棄suてて 安楽を求めようとすることであります。


自分の責任や業苦を振り捨てて、

自分ひとりの平和を 得ようとすることであります。

  ・ ・ ・ ・ ・

すべての人は さまざまな苦しみに陥って 苦しんでいます。

そうして その苦しみの原因を、多くは 他人にぬりつけて、自分が背負いません。


苦しみも 自分が背負わないで、どうにかして 楽を受けようと もがきます。

そうすることが 決して楽しみを与えないで、ますます 苦しみを重ねさしてゆくのです。




私どもが 真に 苦を安yasuく渡りたいと思うなら、

信仰の人になるよりほか ありません。


信仰に入れば、 人間の苦悩が 解決がつくとは、

決して 人間苦がなくなるのではありません。


また、人間苦を 逃げたり 避けたりするのでもなく、 

人間苦を抱きしめていく所に、如来の智慧と慈悲とによって 超えさせていただくのであります。



よく生死の苦悩をこえようとすれば、くるしみに 随順せねばなりません。

よく生死に随順する者のみが、生死を超えるのであります。」 (先師)

無住処涅槃(3)

〜〜〜〜〜〜
   〜〜〜〜〜〜
       ョ
  般若に由るが故に 自愛の念を滅し、 大悲に由るが故に 他愛の念を生ず
  般若に由るが故に 凡夫の執を捨て、 大悲に由るが故に 二乗の執を捨つ
  般若に由るが故に 涅槃を捨てず、   大悲に由るが故に 生死を捨てず
  般若に由るが故に 仏法を成就し、   大悲に由るが故に 衆生を成就す

  二方便(般若と大悲)に由yoりて 無住処に住し、  退転有ること無く 速かに菩提を証す
  ・ ・ ・ ・
  この故に 仏は、 一切衆生 皆 仏性有り と説きたまう。


                          ―――――― 仏性論 ――――――



                      (3)



「 如来は 涅槃に住していられます。 お浄土にいられます。

  しかし 如来は、 浄土に ただ 覚りを楽しんでいるような 独覚とは違います。


  利他の大悲に 動かされて、

  生死の苦界に ご自身を顕現して、 一切衆生を救います。


  (乃至)

  如来の活躍は、ただ 一切衆生の悩む 生死の海においてであります。


  すでに 如来は 浄土に いて、 しかも 浄土に いたまわぬのであります。

  しかし 如来は、 決して 生死に 迷いたまわぬのであります。


  生死にいて しかも生死にいたまわぬのは、

  如来は 智慧の体得者にて ましますからであります。


  如来や菩薩が 生死に住せぬのは、智慧の力であります。 」(先師)






                     (つづく)

  


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