混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 3.

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  * 「 如来平等法身 」については、<仏教用語>欄 「如来」に 別途載せます。

 ―――――――「 何以故 本覚義者 対始覚義説 以始覚者即同本覚 」―――――――
 (何を以っての故に。本覚の義は、始覚の義に対して説く。始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり。)

  海東疏は「{何以故}の下は、義を釈す。是koれ、始覚に対して、本覚の義を釈す。」と。
  義記は「{何以故}とは、その立名ryuumeiを責む。二の責の意あり。
 一に云く。上の開章の中に、直taだ覚の義と云う。何故ぞ、今 結っして本覚と名づくや? 
 二に云く。この中に既に、本覚と称す。何故ぞ 上の文に直taだ 覚というや? 」と。

  
   「 何以故 」
・・・・・‘ どうしてか?’という問いである。 どうして、「本覚」という名が、説かれねばならないのか? というのであります。
  
  この問いを、義記は さらに詳しくして、2つの問いとして提起しています。
そして、この問いの答えが、まづ 「 対始覚義説 」 である。
・・・・・「釈して云く。始(覚)に対するを以っての故に、之koreを説きて本(覚)と為す。初の意に答えるなり。」と。
次に、また答えて、 「 以始覚者即同本覚 」 と。
・・・・・「{以始即同本}とは、心源に至るの時、始覚即ち本覚に同じて、二相無きを以っての故に、この故に 上の文は、ただその覚と云う。後の意を答えるなり。」と。

 義記は、更に続けて「良makotoに、本覚 染に随いて始覚を生ずるを以って、還りて、この始覚を待ちて、方masaに本覚と名づく。故に、本覚は始に対して説くと云うなり。 然るに、この始覚は是れ本覚の所成なり。還りて、心源に契kanaいて融じて同一体なるを、方masaに始覚と名づく。故に{以始覚即同本}と云うなり。」と。

  
  始覚とは、後に詳しく出てきますが、教法を聞思修また聞信称して 私自身の問題がだんだん明らかになり、究竟覚に至る その過程にある覚を言います。
 
 >>> 我々は、日常のさまざまな事に遇って〜〜 これを‘ 縁に遇う’と言います。善縁・悪縁に遇うの
   です。〜〜、その多種多様な声の中に、ようやく「君は、それでよいか?」という促しの言葉を聞くこと
   ができる耳ができ始めます。それをふつう「菩提心を発okoす」と言います。 
 
    今までの生活を深く反省し、‘このままではイケナイ!’と発奮し、教えを聞き・ものを考え・さらに
   教えに随った行をし始めます。そこに積極的な聞法が巻き起こるのです。
 
    しかし、そうした努力精進で向上の一途を辿って行く間に、教えと自分の現実がそぐわない事に気付き
   始めます。繰り返し繰り返し教法に体当たりして、その矛盾の打破を試みますが、どうにもなりません。
 
   そうして、教えが 「君は、まごころがあるか?」と問いかけていることに気付き始めるのです。

    こうした行きつ戻りつの果てに、教法の世界(真実の世界)が 我が前に高く聳え立つ壁の遥かかなた
   にあるように思われます。
    ついに、そこに「如来ましますか?」という釈尊の問いに直面することになるのです。

   ここに信心が生まれ、本当の自己確立がなされ、聞信称と真の仏道・大乗菩薩道が展開し始めることにな
   るのです。 
 
   こうした一連の気付きのことを、論では、始覚と言います。

 〜〜 この始覚について、留意すべきことは、こうした気付き(始覚)は、他の誰がするわけでもなく 私以外にする者はないのですが、義記が「この始覚は、本覚の所成なり」と言っていることです。すなわち、私が成ずるのではなく、本覚が成ずるのです。気付くのは私だが、それは気付かされて気付くのであります。私が、勝手に気付こうと思ったとて、気付けるものではないのです。

  
   
   「 本覚義者 対始覚義説、以始覚者即同本覚 」
  (本覚の義は始覚の義に対して説き、始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり)

  本覚は、この心生滅門で説かれるのですが、「心体離念」と言い、「如来の平等法身」と言う。
およそ私が、手をつけられないもの、手の届かない世界のもののように思われます。すなわち、一法界・大総相・法門体たる心性不生不滅の心真如門の話のように思われます。 
 どうして、このような高い世界のことを、心生滅門で説かれるのでしょうか?

  義記は「問う。 もし、始覚 本(覚)と異kotoなれば、則ち 始(覚)を成ぜず。もし、始(覚) 本(覚)に同ぜば、即ち 始覚の異なり無し。如何ぞ、始に対して本と名づくと言うや。
  答う。 今は生滅門のなかに在りて、随染の義に約して、本覚に形えて始覚を説きて、しかも実には始覚 心源に至るの時は、染縁すでに尽きて、始本 殊kotoならず。平等の絶言 即ち真如門の摂なり。この故に、本覚の名は、生滅門の中にありて真如門に非らず。」と。

  私においては、覚とは、始覚である。決して本覚ではあり得ない。しかし、心体離念・如来平等法身(=本覚)と切り離された覚というものはあり得ない。切り離されれば妄念妄想でしかないからです。
また、逆に覚とは本覚以外に無いのならば、私の仏道修行は意味を成さない。
すなわち、ここで本覚を説くのは、私の仏道(始覚)を成立させるために説かれるのであります。

所言覚義者 謂心体離念。 
離念相者 等虚空界 無所不遍 法界一相。
即是如来平等法身。 
依此法身 説名本覚。 何以故。
本覚義者 対始覚義説、以始覚者即同本覚。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
言う所の覚の義とは、心体の離念なるを謂iう。離念の相は、虚空kokuu界に等しくして、遍せざる所無ければ、法界hokkai一相なり。即ち是koれ 如来の平等法身hossinなり。この法身に依りて、説いて本覚と名づく。何を以moっての故に。本覚の義は、始覚の義に対して説き、始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  「この識(阿梨耶識ariya/siki)に二種の義あり。能く一切法を摂し、一切法を生ず。云何んが二と為す。
一つには覚の義、二つには不覚の義なり。」という句を受けて、ここから、まづ 覚の義を詳述するのです。

   海東疏は「{所言}以下は、第三に別して解す。先づ覚の義を釈し、後に不覚の義を解す。覚の中に、二あり。先に略、後に広なり。略の中に、また二あり。先に本(覚)、後に始(覚)なり。本覚の中に、また二句あり。先づ本覚の体を明かし、後に本覚の義を釈す。」と、これより以下の論に述べる事を、概観しています。

  先に、阿梨耶識とは、信心のことではないか?と言った。もし、この見立てが、当っていれば、これから論が展開することは、「信心とは何か?」ということの解明でもある、ということになるでしょう。
 そして、信心とは、‘ 何かを信ずる ’ことではない。何か信ずる対象があって、それを信ずるのではない、
‘ ものごとが明らかになることだ ’ということが、これから論じられていくでしょう。
実際、この論の名は、大乗起「信」論というのであった。


 「 心体離念 」 ( 心体 念を離る )

・・・・・・海東疏は、「{心体離念}と言うは、妄念を離れるなり。不覚なきを顕すなり。」と。義記は、海東疏と同文。
 
 「 等虚空界 無所不遍 法界一相 」 ( 虚空界に等しくして 遍せざるところ無ければ 法界一相なり )

・・・・・・海東疏は、「{等虚空界}とは、唯だ、闇なきのみに非らず、慧光明ありて 遍く法界hokkaiを照らして、平等無二なり。下の文に云うが如し。<大智慧光明の義あるが故に。遍照henzyou法界の義あるが故に。>と。」と。
   義記は、「唯だ、不覚の闇なきのみに非らず、乃ち 大智慧光明の義等あるが故なり。 虚空kokuuに二義あり。以って本覚に况tatoえる。 一に 周遍の義。謂iwaく 横に三際に遍し、竪tateに凡聖に通ず。故に{無所不遍}と云うなり。 二に 無差別の義。謂く 在纏zaiten出障の性 恒に無二なるが故に、法界一相と云うなり。」と。
   (  三際・・・三世と同じ。過去・未来・現在。在纏・・・煩悩に纏matowaりつかれている境遇。迷いの生存←→出障、出纏。 ) 

「 如来平等法身 依此法身 説名本覚 」 ( 如来の平等法身なり。この法身の依りて、説いて本覚と名づく )

・・・・・・「覚の義を明かさんと欲するに出纏の相 顕るなり。故に{即是如来平等法身」と云うなり。すでに是れ 法身の覚なり。理として新成に非らざるが故に、{依此法身 名本覚}と云う。」と。

  
  阿梨耶識、この真妄和合識の自性清浄の心体とその相を述べるのである。

 この識を、実在的方面より言えば、心体は 妄念を離れていると。これは、「生滅心中にあって一切の妄念を離れている真実体である。」(先師)
 そのようなもの(妄念を離れているもの)が存在しているということを聞いて、我々日頃 妄念の中で鬱屈している者にとっては、未だその正体は はっきり 分らなくとも、そこに 何か言いようのない感慨を覚えさせるものがあります。
 
  この離念の相ie.真実体の相は、「 虚空界に等しくして、遍せざるところ無ければ、法界一相なり 」と。
先に、心真如門において「一切諸法は、唯だ妄念に依りてのみ、差別あるも、もし 心念を離れるときは、則ち 一切の境界の相無し。」と言っているが、まさにこのことであろう。
   
   私は、まことに幾重にも幾重にも様々な妄念に覆われてあります。その全貌は、知るすべもありません。私が気づくのは、その表面の一部分のある側面のおぼろげな影でしか無いでしょう。
 しかるに、こうした妄念を離れた世界があると、今 論は言っているのです。 
 それは、個人的な劣等感や優越感を通奏低音として 右往左往している日々の生活を越え、また生活の資を得るために ウソ八百を繰り出して心を労しつつ過ごしている日々の有り様を離れ、たとえば 先日の衆院選を ああでも無いこうでも無いと賢者気取りで言い募り あるいは国の将来に無闇に不安を感ずるといったことが無く、また国家やグローバル企業の行動に恐怖と怒りを覚えて 人類の未来に絶望するといったことを越え、世界のさまざまなものの考え方や信仰体系の間にある 融和しがたいあまりの開きに暗澹たる思いに沈むということを 私が克服できる可能性を、これは指し示しているのでしょう。
 私を不安にさせるもの、私を恐れさせるもの、私を苦しめるもの、そのことが心にかかってしかたのないもの、私を苛立たせるもの、私を怒らせるもの、それを避けたいもの・無視したいもの・見ずに済ませたいもの、それを失いたくないもの ――――――― そうした差別の相のなかに、私はいるのですが・・・・。しかし「心念を離れるときは、一切の(そうした)境界の相なし」と。

 それは、< ただ闇なきのみに非らず。(大智)慧光明ありて、遍く法界を照らして、平等無二なり。>と、こういう世界が 「(如来の平等)法身の覚 」たる本覚である。
 
  過去は闇の中に沈んで、思い出したくないものが一杯詰まっています。心静かにわが身を振り返る時、まさにその人生が悔恨の人生でない人がいるでしょうか? 多くの断念と見果てぬ夢 そして怨み・・・・。現在の私はその果報であります。明日はこの境遇を踏まえてあります。いかに将来をバラ色に夢想しようと、それは白昼夢の幻でしょう。あたかも、恋に破れた者が、恋人の影を慕って、街をさ迷うようです。私の過去の展開したものが、現在であり、明日でしょう。お粗末この上ない過去を何とかせねば、現在も未来もどうにもなりません。
 現在の我がお粗末な凡夫の生き様を託kakoち、道なった聖人の境界を羨むのも、我がことながら 哀れで愚かしいことであります。
  
   「 遍せざるところ無し 」とは、<三際に遍く>、<凡聖に通ず>と。
 本覚とは、私のこうした現実(在纏zaiten)を離れたもの。出障のもの。過去現在未来、或は凡夫聖人の差別に 幾重にも覆われたわが現実のただなかで、しかも出障のもの。

 これは、わが過去を救うために 私が努力精進して、こういう境涯を作るのではない。本覚は、私の思い・念を離れたもの。私が覚kakuすものではないのです。 本覚は「 法身の覚 」なのである。

     ***< 過去を救う >
       我々は、個人においても、社会や国家においても、この変更不可能な過去のことに、なんと悩まされ
      ることでしょうか! 個人においては、それは身悶えして慟哭せざるをえぬものでしょう。また、国家
      においては、戦前 我が国がなした近隣アジア諸国に対する行為のために、後世の我らは今日も苦し
      んでいるのであります。さらに、過去 我武者羅な経済的豊かさの追求によって、修復不能の地球環
      境の破壊を今日も広げて 将来の世代に重い負債を残しつつあるのは、我国の巨額な公債発行残高も
      色褪せるほどの事態であります。ーーーーーこうした我々の過去の所業をいかに救うか? 
      これこそ、我等の本当の課題ではないでしょうか?
 

 

「 此識有二種義  能摂一切法生一切法  (この識に二種の義あり、よく一切法を摂し、一切法を生ず)
 
 云何為二  一者覚義 二者不覚義   (云何んが 二と為す、1つには覚の義 2つには不覚の義なり。)」


ーーーーーーー 海東疏は、この「顕示正義」の章の序文に、
 「 一心の法に依るに、二種の門あり。 云何ikanんが二と為す、一には心真如門 二には心生滅門なり。
  是の二種の門は、皆 各onoono一切法を総摂す。 この義 云何ん。この二門は相離れざるを以って
の故なり。」
とあるのを想起して、
 「上には、二門 各一切を摂すと説き、 今ここには、一識に含みて二義あることを明かす。
故に、この一識 能く一切を摂して、二義(覚と不覚)各onoono一切を摂すとは言わず。 この二義は 唯だ生滅門の内に在りて説くを以っての故なり。かくの如きの二義、各一切法を摂すること能わざるが故に。
又、上の二門は、ただ摂の義を説く。真如門には 能生nousyouの義なきを以っての故なり。
今 この識に於いては、亦た生の義を説く。生滅門の中に、能生の義あるが故なり。
この義 云何ikaん。不覚の義は、本覚に薫kunずるに由るが故に 諸moromoroの染法を生じ、又、本覚は 不覚に薫ずるに由るが故に 諸の浄法を生ず。 この二義 通じて一切を生ずるに依るが故に、識に二義有りて、一切の法を生ずと言う。この文は、即ち下の{有四種薫習}以下の文を起こすなり。
当知。一心の義は寛なり、総じて二門を摂す。この識は狭なり、生滅門に在り。この識の二義、すでに一門に在るが故なり。」と。

 すなわち、「 二門 」と「 二義 」、「 一心 」と「 一識 」の違いである。 
  起信論の 真実に対する極めて鋭い感覚に、海東疏および義記は注意しているのである。
  これは、「真実」とか「正義」とかと言えば なんだか解ったように思って、その「摂の義」と「生の義」、の違いなど少しも考えず、それらを言い募る我々〜〜したがってその存在意識の曖昧さと浅薄さ〜〜に対する 冷厳な勧誡でもあるでしょう。
  真実清浄(本覚)と無明妄念(不覚)とのダイナミックな葛藤と交渉が わが人生である(阿梨耶識)、ということを、今日 社会の主流の思想(欧米の哲学概念で事が済むという驚くべき楽観主義!)は、全く無視して顧みないのである。
    ***我らは、真実とか正義とかに自己を同一化し、それらを振り回すのは、極めて不健康なことであ
    ります。国家主義・ナショナリズム・共産主義・民主主義・自由主義経済・科学主義・人道主義・エコロジー
    etc、皆 欧米産の思想ではないか!これらが、過去 何を為してきたであろうか?
    我らは、早く夢(催眠術)から覚め、冷静にバランスをもって判断すべき時期ではないだろうか? 

  義記は、ここで 非常に印象的で鋭い図式的な説を展開しています。
          
          不変の義   ーーーーーーーー  無体即空の義    ーーーーー真如門
 真如―――┤              無明 ―――┤
          随縁の義   ーーーーーーーー  有用成事の義    ーーーーー生滅門

  「真如に、二義あり。一には不変の義、二には随縁の義。無明に亦二義あり。一には無体即空の義、二には有用成事の義なり。この真妄のなか、初の義に依るが故に、真如門を成ず。後の義に依るが故に、この生滅門を成ずるなり。」と。

  さらに生滅門を次のように図式化している。
                                     
                                              翻体妄染・顕自徳   
                                 違他順自――――┤
                                |             内薫無明・起浄用
                       真如――――┤
                                │             隠自真体
                                 違自順他――――┤                                                  
                                              顕現妄法
           生滅門――――┤
                                              能反対詮示・性功徳                    
                                 違自順他――――┤     
                                |             能知名義・成浄用
                       無明――――┤  
                                |             覆真理
                                 違他順自――――┤
                                              成妄心

 「この<随縁真如>と<成事無明>に、亦た各二義あり。一には違自順他の義、二には違他順自の義なり。 <無明>の中の初の違自順他に、亦た二義あり。一に 能く反対して性功徳を詮示す。二に 能く名義を知りて浄用を成ず。 違他順自に亦た二義あり。一には 真理を覆う。二には 妄心を成ず。 <真如>の中の違他順自に、亦た二義あり。一には 妄染に翻対して自徳を顕す。二には 内に無明に薫じて浄用を起こす。 違自順他に、亦た二義あり。一には 自の真体を隠すの義。二には 妄法を顕現するの義なり。
 この上の真妄の各四義の中、無明の中の{反対詮示の義}と及び真如の中の{翻対顕徳の義}に由りて、この二義に従いて『本覚』あることを得。 又、無明の中の{能知名の義}と及び真如の中の{内薫の義}に由りて、この二義に従いて『始覚』あることを得。 又、無明の中の{覆真の義}と及び真如の中の{隠体の義}に由りて、この二義に従いて『根本不覚』あることを得。 又、無明の中の{成妄の義}と及び真如の中の{現妄の義}に由りて、この二義に従いて『枝末不覚』あることを得。云々」と。

 つづいて義記は、2つの問答を起こしています。その第2問答に、
「 問。この中の本覚と、上の真如門とは、何の別あるや。
  答。真如門は、体の絶相に約して説く。本覚は、性の功徳に約して説く。謂く、大智慧光明の義等を本覚と名づけるが故に。本とは、是れ性の義。覚とは、是れ智慧の義なり。これ皆な妄染を翻して顕すことを為するを以っての故に、生滅門の中にありて摂す。真如門の中には、翻染等の義無きを以っての故に、これと同じからず。この故に、体相二大を倶に本覚と名づく。並びに生滅門の中に在り。故に三大を具することを得るなり。」と。              ** 三大・・・「立義分」に出ています。体・相・用の三大。

 「 能摂一切法 生一切法 」( よく 一切の法を摂し、一切の法を生ず )
 ・・・・・・義記は、海東疏の先の文を 参考にしつつ、
 「{能摂一切法}というは、上の二門の中に、{皆各総摂}という。この中に{各}と云わざるは、この二義は 二門より狭きを以っての故に、ただ一識に 二義を含むに由るが故に、一切を摂す。二義 各々一切を摂すと言わざることを明かす。
又、上の文の中に、ただ{摂}と云いて、{生}と云わざるは、真如門に 能生の義なきを以っての故なり。この識の中の不覚 本覚に薫ずるを以っての故に、諸の染法を生じて、生死に流転す。本覚 不覚に薫ずるをもっての故に、諸の浄法を生ず。反流出纏して、始覚を成ず。この二義に依りて、一切の染浄の法を生ず。故に、能生 と云うなり。云々」と。

  これは、単に言葉の解釈をしているのではないのでしょう。私が、これを間違い易いから、敢えて‘ 間違うなよ ’と言われているのでしょう。
 
  前に少し述べたのですが、真如・生滅の二門は、おのおの「摂」という。一切法、ありとあらゆるものを、そのうちに含み摂している。すなわち、何か、それから漏れるもの・除外されるものはない、その外に存在するものはない、ということである。私は、いつも何やかやの例外を作りたがるが・・・。これが、二門の立場。 驚くべきことである。

阿梨耶識ariyasikiは、覚と不覚の義をもつ。覚だけで一切法を摂するのではない。また不覚だけで一切を摂するのではない。両々相まって、一切を摂するのである。
例えば、この世は、善い所と一意的には言えない、悪い所ともまた言えない・・・。また、私は、自分を善人の立場に置いているが、それを自己としているかぎり、現実のわが悪業のために自己破綻を免れない。その破綻を承認しまいとして、あらゆる誤魔化しを重ねるのです。善人としては、誤魔化し無しに生きていけないのです。
 また、覚と不覚で一切のものが生起するのであって、覚だけでものが生起するのでもなく、不覚だけで生起するのでもない。
例えば、戦前、天皇の聖旨で為されたことは、一切が よいもので間違いがないものとされたが、そこに起きている事は 悪きものからも起こっているのであった。(私は、天皇の聖旨が覚だと言っているのではありません。ただ戦前の仏教者も多く、こう信じていたのである。)
 
  

( つづき ――――――不生不滅與生滅和合 非一非異 名為阿梨耶識――――― )

「 非一非異 」
 
  ・・・「 不生滅心 挙体動ずるが故に、心(不生滅心)と生滅と異に非らず。
      而sikaも恒に不生滅の性を失せざるが故に、生滅と心(不生滅心)と一に非らず。
      又もし、是れ一ならば、生滅の識相 滅尽するの時、心神の体も亦た 随いて滅して断辺に堕すべし。
      もし、是れ異ならば、無明の風に依りて 薫動するの時、静心の体 隋縁すべからず。
      即ち常辺に堕す。     この二辺を離るるが故に、非一非異なり。」(海東疏)

   前回は、「 非異 」について考えた。今回は、「 非一 」について
  
   生滅と不生滅が 「非一」とは、どういうことか?
  
  生滅とは、日頃の私である。今日の私であります。
  これが、不生不滅 ie.無量の性功徳を具足している如来蔵と一である、すなわちイコールである とは、とうてい言えないことであります。
     
    しかし、それが何であれ 宗教にかぶれた人によくあることですが、完全無欠の神か理法と一体化して、
   あたかも あっぱれこの世の問題はすべて解決し、宇宙の真理を自分は知っているのだと思って、世を睥睨
   している人を時々見かけます。こういう人には、何を言っても通じません。この人は、他人の意見を聞きませ
   ん。自分の「生滅」であることを極端に恐れ、それを無いものにして、ようやく自己を保っているからです。
   しかし、これは、それが何宗であれ その宗教家気取りの人だけのことでしょうか?

  我々は、何から何まで相対・有限・差別の存在であります。
もう そのことは、日々様々な事に触れて経験し また思い知るわけですが、どういうわけか このことを一向に肝に銘ずることができません。いつも 自分は正しく善人になっています orなろうとしています。何かその破綻に気付いても、それをもう 様々に取り繕って、自分が善人賢者であることは揺らぎません。ウンザリするほどの自己肯定・自己正当化です。 すなわち、自身を そのある通り(相対有限差別の存在)に見ない・見えないのが、私です。「 生滅 」であることが、わからないのです。 
  したがって、「 不生滅 」との分限が、定まりません。自分をor自分の思想なり行為を、絶対・無限・平等のものと思いたがります。自分を神の立場に置きたがるのです。

  ここにおいて、論の「 非一 」の教えは、極めて重要なものとなります。
これは、「生滅」・私と 「不生滅」・如来蔵の分限、すなわちその違いを明瞭にせよ!ということでしょう。
“ 汝は、あくまでも相対・有限・差別の者、不生滅ならぬ身である。思い違いをしてはならない。”と。 

 
  しかし、また海東疏は、「不生滅の性を失せざるが故に、・・・非一なり」と言っています。
上に、私が言ったこととニュアンスが違います。これはどういうことか? 

 上に掲げた海東疏の文を、もう一度静かに読んでみましょう。
「心と生滅と異に非らず。しかも恒に 不生滅の性を失せざるが故に・・・非一なり」となっています。
不生滅心が挙体動ずるが故に、私の上に付いて離れず、妄動にのたうち回る私自身となって救い摂ろうとするのである(非異)。
しかし、この働きの主語は あくまで不生不滅心・如来蔵である。私の方から、この不生滅心を自己の支えと為そうとするのではない。私が それに手をかけようとするや、ブクブクと生滅の波濤に沈んでしまうのである。私は、海そのものである不生滅心ではない。不生滅心は私となるが、しかしそれがために不生滅の清浄真実の性を失わない。私ie.波濤たる生滅(心)に引きずり込まれて、その性を失うことはない。あくまで主体的に私(生滅)に関わって来るのである。

 したがって、私からは、「不生滅の性を失せざるが故に、生滅と心と非一なり」と言わざるを得ないのである。

 
 
 「 名為阿梨耶識 」(名づけて阿梨耶識ariya/sikiと為すなり)
 
  「和合」には、二面がある。すなわち、「非一」と「非異」である。その両面を持ったものとして、論は、今 「阿梨耶識」というものを出したのであります。
 
 義記は十巻の楞伽経の「 阿梨耶識を如来蔵と名づく。しかも無明七識と共に倶なり。大海の波の常に断絶せざるが如し。」という文を引いて、不生滅と生滅との不異(非異)の教証としている。
また、「 如来蔵は、阿梨耶識の中に在らず。この故に、七識は 生あり滅あり。如来蔵は、不生不滅なり。」という文を引いて、不一(非一)の教証としている。
 
 さらに、前者に対して「唯だ、真のみ生ぜず。単に、妄のみ成ぜず。真妄和合してまさに所為あり。これ、本末鎔融際限不分の故に、不異という。」と釈し、
 後者を「もし、如来蔵 随縁して、生滅となる時、自の不生滅を失せば、則ち生滅あることを得ず。この故に、不生滅によりて生滅あることを得る。これ則ち、不異の故に 不一なり。」と釈している。

これを、先師は「 現実の生滅は、決して妄のみでなく真のみでなく、真を求むれば如来蔵としての不生不滅の心であり、妄を求むれば阿梨耶識としての生滅心である。(乃至) 
千変万化の生滅現象と不生不滅の実在とは、決して一つではあり得ない。 しかし生滅現象の外に超絶的な真心を尋ねることは出来ない。 生滅心を除いては、直接に不生不滅の実在の相をも認識することは出来ない。 また不生滅の実在への信仰なくしては、生滅の相の認識もまた不可能である。」と。

ーーーーー 阿梨耶識とは何か? 
 現実の私の心だと言えば、これ(私の心)は全くの妄心。これが非一非異の真妄和合心だとは思えません。
<真妄和合して、まさに所為あり(為すところあり)>ということにはなりません。<不生不滅の実在への信仰なくしては、生滅の相の認識も亦不可能である>と。
 
 すなわち、阿梨耶識とは、「 信心 」のことではないでしょうか? 
しかし、ふつうに言われる信心は、< 認識 >とは 逆な言葉です。‘ そのものが、はっきり分らないから、信ずるしかない ’と言うように・・・。 キリスト教では、< 不条理なるが故に、我信ず >と・・・。
 ところが、「不生滅によりて生滅あることを得る」と義記は言う。
「生滅あることを得る」とは、私にとって「ある」のであろう。「ある」ということを、私が明瞭に分らなければ、この言葉は 単に御託宣の言葉となり、すぐに忘れて他の事に紛れてしまうことになろうし、またこの言葉に分けもわからず振り回されてしまうことにもなるでしょう。
 仏教で言う「 信心 」とは、<不生滅の実在への信仰なくしては、生滅の相の認識もまた不可能である>と言うように、もの(不生滅と生滅と)がはっきり分ることです。認識を欠いた信心は、妄念の信ie.盲信である。

 「 如来は限りなく衆生の迷妄を全否定する。その全否定を通して、如来の全てを全肯定し、我および人生の真実内容となる。 」(夜晃)
 これを信心と言い、阿梨耶識と言うのであろう。 


  

 (つづき――――不生不滅與生滅和合 非一非異 名阿梨耶識―――― )

   「 不相捨離 」(相捨離ai/syariせず)を、「 和合 」という、と海東疏・義記は釈しています。

  そして、先の「水波の喩え」をイメージしながら、
 「 不生滅心 挙体動ずるが故に、心は 生滅の相を離れず。生滅の相 神解に非らざることなきが故に、生滅は 心相を離れず。かくの如く、相離れざるが故に 與和合という。」と。
  (義記では、神解―→<真>、 相離れざるが故に與和合―→<離れざるを名づけて和合と為す>とする。)
 
  ここで、注目すべきは、「挙体」という言葉である。単に「動ずる」でなく「挙体動ずる」である。
不生滅心 ie.如来蔵、挙体(自己の全体を挙げて)動じて、生滅(私および私の世界)となり、それを‘出来損ないだ’と捨離しない。
   
    ***ここで、「生滅となる」ということは、
   不生滅心は、私および私の世界の創造主であるという意味ではありません。私は被造物ではないのです。
   また、不生滅心から流出して、私および私の世界が出来たのではありません。
   仏教は、このように、物を実体化するという原始的心象は、その象徴的使用以上には受け入れないのです。
    では、この「 なる 」というのは、どういう意味でしょうか? 
   恐らく、これがこの、いわゆる「 如来蔵縁起論 」と言われる起信論の縁起観を理解するポイントではない
   でしょうか?

 
  「非一非異」について
   
 海東疏は「不生滅心 体を挙げて動ずるが故に、心と生滅と異に非らず。而も 恒に不生滅の性を失せざるが故に、生滅と心と一に非らず。」と。
  (義記は、不生滅心挙体―→真心全体、不生滅性を失せざ―→不変の真性な、心と一に非らず―→不一)

   先師は、ここに「 業感goukan縁起論 」等の「四種縁起」(華厳宗の教理)を出して、論の理解を深めようとされている。しかし今は、「生滅心」の実際を赤裸々に表現する この業感縁起についてだけ、少し見ておきます。(華厳宗は、これを小乗の教とする)
  これは、“ 惑業苦wakugokkuの三道展転して因果相続するを業感縁起という ”と。
    惑とは、無明 or 痴。一切の迷妄を生む根本。心の病的状態のこと。
    業とは、惑によって起こる身業(行為)の悪。
    苦とは、惑業によって受ける果報。
 たとえば、私がある人に怒りを覚えたとする。これが惑(煩悩)。そして腹が立って抑えることができず、包丁をもってその人を殺ayaめた(業)。そして殺人者として告訴され、牢獄に繋がれた。やがて刑期を終えて出所するが、家族は離散し子供は許してくれず、犯罪者であったことを隠して他の町で生活する(こうしたことが苦)。日頃の鬱憤から(惑)、ちょとしたことで同僚と喧嘩をし(業)、仕事を解雇され、やがて金も尽きて食うにも困るようになる(苦)。自暴自棄になり(惑)、日雇い労務者となって、毎日昼から場末の酒屋に入り浸り(業)、町の子供達からはバカにされて石を投げられ(苦)、ある寒い冬の日に、道路脇の溝に仰向けに倒れて死んでいた。
  この間も、無数の惑業苦が折り重なって、いまざっと見てきたような結末に至る。
三道(惑・業・苦)互いに因となり縁となり果となって、このわが肉体を越えて、過去に生の始めなく、未来に死の終りなく、永遠に因果相続するのである。

  現実の「生滅の相」は、如是。惑業苦の業感縁起の場であります。‘不生不滅が動じて、こうなる’と言ったって、何のことやらチンプンカンプンであろう。哲学者ならここに深淵の理を説くかもしれないが、それは 何の役にも立たない暇人のお遊びであろう。我らは、この業感の世界に痛焼の生を送らざるを得ない存在です。
“ 何故このようなことになるのか?!”と、血を吐いて問わねばならないような者であろう。    

  いま心生滅門において、論は、こういう問いに答えようとしているのである。“ 生滅心とはなにか?!”と。
  したがって、この論or釈が語るところを、哲学的興味をもって理解しようとすると、何を言っているのか
  さっぱりわからなくなるでしょう。 

 
 生滅心とは何か?! 
  「不生滅心 挙体動ずるが故に、心(不生滅心)は生滅の相を離れず。」と言い、
  また「不生滅心 挙体動ずるが故に、心(不生滅心)と生滅と異に非らず。」と言うのは、
  これは、救いの言葉なのであろう。
 
 いま、私の上にある運命は、自らどうにもしようのない、ただ嗚咽する他はないものでしょう。鉄壁の惑業苦のなかに挟まって・・・・。これを「生滅の相」「生滅(心)」と言う。
 
しかし、これはどうして起こってきたか?
ーーーーーー「無明の風に因って、動じて生滅となる」。無明とは、惑。 
惑業苦惑業苦・・・・・・・苦惑業苦・・・・・・・惑業苦惑・・・・・・・・と。これを「生滅(心)」「生滅の相」と言う。

 そして、 そこに「心は生滅の相を離れず」と語られるのであります。
ーーーーーー“ 私の現実・惑業苦を 不生滅心は離れず ”と。
   
 不生滅心とは、「如来蔵」のことであった。
すなわち、如来蔵は、私(の現実)について離れず、たとえ日本人が皆私を捨てようとも、いかなる私をも捨てず、「心と生滅と異にあらず」すなわち私自身となってこの現実を受取るのである。

 いかにして?
ーーーーーー「挙体動ずるが故に」と。
不生滅心・如来蔵は、自己の一部分を 私に振り向けて、私につき従い、私を最後まで捨てず、支えるというのではなく、その存在全体をもって それをなすのであります。

   ***再び、申します。この「如来蔵」の「如来」を「法」と取ると、「法蔵」となります。
  「法蔵」とは、「法蔵菩薩」のことでしょう。
    
    何故、この起信論の最後に「阿弥陀仏」が出てくるのか? その伏線がここにあるのではないでしょうか?
    また、海東疏の著者・元暁が、阿弥陀仏信仰の人として、統一新羅の朝鮮半島の津々浦々に念仏を広め
   て歩いた理由が、ここにあるのではないでしょうか? 

   *** 「法蔵」・・・・<仏教用語>欄を参照してください。

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