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* 「 如来平等法身 」については、<仏教用語>欄 「如来」に 別途載せます。
―――――――「 何以故 本覚義者 対始覚義説 以始覚者即同本覚 」―――――――
(何を以っての故に。本覚の義は、始覚の義に対して説く。始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり。)
海東疏は「{何以故}の下は、義を釈す。是koれ、始覚に対して、本覚の義を釈す。」と。
義記は「{何以故}とは、その立名ryuumeiを責む。二の責の意あり。
一に云く。上の開章の中に、直taだ覚の義と云う。何故ぞ、今 結っして本覚と名づくや?
二に云く。この中に既に、本覚と称す。何故ぞ 上の文に直taだ 覚というや? 」と。
「 何以故 」
・・・・・‘ どうしてか?’という問いである。 どうして、「本覚」という名が、説かれねばならないのか? というのであります。
この問いを、義記は さらに詳しくして、2つの問いとして提起しています。
そして、この問いの答えが、まづ 「 対始覚義説 」 である。
・・・・・「釈して云く。始(覚)に対するを以っての故に、之koreを説きて本(覚)と為す。初の意に答えるなり。」と。
次に、また答えて、 「 以始覚者即同本覚 」 と。
・・・・・「{以始即同本}とは、心源に至るの時、始覚即ち本覚に同じて、二相無きを以っての故に、この故に 上の文は、ただその覚と云う。後の意を答えるなり。」と。
義記は、更に続けて「良makotoに、本覚 染に随いて始覚を生ずるを以って、還りて、この始覚を待ちて、方masaに本覚と名づく。故に、本覚は始に対して説くと云うなり。 然るに、この始覚は是れ本覚の所成なり。還りて、心源に契kanaいて融じて同一体なるを、方masaに始覚と名づく。故に{以始覚即同本}と云うなり。」と。
始覚とは、後に詳しく出てきますが、教法を聞思修また聞信称して 私自身の問題がだんだん明らかになり、究竟覚に至る その過程にある覚を言います。
>>> 我々は、日常のさまざまな事に遇って〜〜 これを‘ 縁に遇う’と言います。善縁・悪縁に遇うの
です。〜〜、その多種多様な声の中に、ようやく「君は、それでよいか?」という促しの言葉を聞くこと
ができる耳ができ始めます。それをふつう「菩提心を発okoす」と言います。
今までの生活を深く反省し、‘このままではイケナイ!’と発奮し、教えを聞き・ものを考え・さらに
教えに随った行をし始めます。そこに積極的な聞法が巻き起こるのです。
しかし、そうした努力精進で向上の一途を辿って行く間に、教えと自分の現実がそぐわない事に気付き
始めます。繰り返し繰り返し教法に体当たりして、その矛盾の打破を試みますが、どうにもなりません。
そうして、教えが 「君は、まごころがあるか?」と問いかけていることに気付き始めるのです。
こうした行きつ戻りつの果てに、教法の世界(真実の世界)が 我が前に高く聳え立つ壁の遥かかなた
にあるように思われます。
ついに、そこに「如来ましますか?」という釈尊の問いに直面することになるのです。
ここに信心が生まれ、本当の自己確立がなされ、聞信称と真の仏道・大乗菩薩道が展開し始めることにな
るのです。
こうした一連の気付きのことを、論では、始覚と言います。
〜〜 この始覚について、留意すべきことは、こうした気付き(始覚)は、他の誰がするわけでもなく 私以外にする者はないのですが、義記が「この始覚は、本覚の所成なり」と言っていることです。すなわち、私が成ずるのではなく、本覚が成ずるのです。気付くのは私だが、それは気付かされて気付くのであります。私が、勝手に気付こうと思ったとて、気付けるものではないのです。
「 本覚義者 対始覚義説、以始覚者即同本覚 」
(本覚の義は始覚の義に対して説き、始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり)
本覚は、この心生滅門で説かれるのですが、「心体離念」と言い、「如来の平等法身」と言う。
およそ私が、手をつけられないもの、手の届かない世界のもののように思われます。すなわち、一法界・大総相・法門体たる心性不生不滅の心真如門の話のように思われます。
どうして、このような高い世界のことを、心生滅門で説かれるのでしょうか?
義記は「問う。 もし、始覚 本(覚)と異kotoなれば、則ち 始(覚)を成ぜず。もし、始(覚) 本(覚)に同ぜば、即ち 始覚の異なり無し。如何ぞ、始に対して本と名づくと言うや。
答う。 今は生滅門のなかに在りて、随染の義に約して、本覚に形えて始覚を説きて、しかも実には始覚 心源に至るの時は、染縁すでに尽きて、始本 殊kotoならず。平等の絶言 即ち真如門の摂なり。この故に、本覚の名は、生滅門の中にありて真如門に非らず。」と。
私においては、覚とは、始覚である。決して本覚ではあり得ない。しかし、心体離念・如来平等法身(=本覚)と切り離された覚というものはあり得ない。切り離されれば妄念妄想でしかないからです。
また、逆に覚とは本覚以外に無いのならば、私の仏道修行は意味を成さない。
すなわち、ここで本覚を説くのは、私の仏道(始覚)を成立させるために説かれるのであります。
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