混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

死者は何処へいったか?

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断章(1)

死とは、
この世での 百年にも満たない短い間に 会った人々 や 得たものを、
自分自身とともに すべて 失うことである。

いかなる関係も この時 絶たれる。
死の後まで 持っていけるものは 何もない。

  この世の人々との関係が、永遠に絶たれるということは、
  時に、“ 旅の恥は かき捨て ”という発想にもなる。
  この世の 社会的秩序・人間関係は 仮そめのものとして、
  大切にせず、むしろ 疎かにする・・・・。 倫理規範の崩壊である。


死は、私においての この世の終わりであり、
また、私という存在の終わりでもある。
私においては、自己 および世界というものは、もはや 無いのである。

私が 消滅しても、 この世はあるか?
家族や社会や国家や 大海・山河はあるか? 太陽や月や 星々は あるか?
私においては、 それらは もはや無い。

しかし、他者や他の生き物にとっては、 まだ あるのである。



人間関係とは、そもそも 何か?

私は、もはや 若い時に 帰れないように、
他者の 幼い時や若い時と 関係を持つことは できない。
すでに 死んだ他者とも 関係はもてない。

すなわち、ある人との関係というのは、
もちろん その過去の積み上げということもあるが、
今の関係しか 存在していないのである。

若い時の関係は、今は もう無い。
未来のある時における関係は、 有るか無いか 保障の限りではない。
有るのは、互いに初老となり 色々経験を積んだ 今の関係しかない。

長年 慣れ親しんだ 濃淡の関係というのも、
高々百年の間の関係でしかない。



弥陀は、 何故 
このような 短命の我々・仮そめの存在でしかない我々を 大悲されるのか?

それを放っておいても、 
忽ち その存在と共に 苦悩も 無に帰してしまうのに。

大宇宙より見れば、 極微の地球上の そのまた極微の我々・
そして その中の一人の苦悩を、 何故 救おうとされるのであろうか?

私の運命が どうなろうと、
大宇宙にとっては、 何ら痛痒も 感じないはずであるのに・・・ 。


                                 合掌

灌仏会

昨日4月8日は 灌仏会(カンブツエ)の日でした。
この日、釈尊が誕生されたとされており、
仏教徒にとっては たいへん大事な日です。

もし、2500年前 釈尊が インドで 誕生されなかったら、
そして、シルクロードを経て、中国に さらに この東海の島国に、
彼の教えが 伝えられなかったら、
日本人の精神生活は、どんなに貧しいものとなっていたでしょうか!

   ※ 釈迦誕生の故事再現 都城で「灌仏会」 2010年04月08日 asahi.com
     釈迦の誕生日 甘茶かけ祝う  2010年4月9日 読売新聞
   ※ 韓国、釈迦誕生日を祝う提灯の飾り付け  April 3, 2009 National Geographic News
       国民4800万人のうち約1/3が仏教徒である韓国では、釈迦の誕生日は祝日
        因みに、イエスキリストの誕生日(12月25日)も祝日。

      


しかし、私は、複雑な思いをもって この日を迎えました。
わが国では、これは 昔から 旧暦の4月8日に祝われてきたものですが、
 ( 寺院によっては 伝統を重んじて 今日でも 5月8日を灌仏会とする所もあります )
今日では わずかに 篤信のお寺においてなされているのみで、
この仏教行事は、 一般の我々には ほとんど 無縁なものとなっています。


   一般に関係のある仏教行事は、今日の日本において、
   葬式・法事という 私的なものに限られている現状は、
    ( 一昔前までは、教団の宗祖にまつわるものが 年中行事として、
      村中総出で為されていました。 )
   キリスト教徒でもないのに、クリスマスを祝い、或は
   教会で結婚式を挙げるという 恐るべき軽薄さとともに、
   今日の日本人の精神生活の貧しさを象徴しています。

   しかし、この現状を 我々は 少しも危機感を懐くどころか、
   かえって、クリスマスを祝わず、教会で結婚式を挙げないのは、
   ふつうの人ではなく 変人だと見做されて 嫌われ、
   少なくとも、こうした男は 女性には もてないものとなっています。
   まして、お寺に行って 花祭を祝おう と その恋人を誘えば、
   100年の恋も 忽ち醒めてしまうでしょう。

   人口の半分は 女性であるわけですが、わが国の女性の 
   こうした 伝統的価値観への蔑視or無知 と 欧米の価値観への偏愛は、
   その配偶者となるべき男性は もちろん、その子供たちに、
   文化的アイデンティティの喪失という 深刻な結果を、今日 もたらしています。

   「 女性の権利を尊ぼう 」という声は、
   さまざまな形で 大きく 社会に響きわたっており、
   社会における女性の活躍も メザマシイものがありますが、
   当の女性たちの意識の このような状況に、
   私は 深い危惧の念をもってきました。
  
   自由・平等という 普遍的(=欧米的)価値観は 得たけれど、
   我々の精神生活を支えている 文化的なアイデンティティは 喪失したでは、
   目もあてられませんが、 普遍的価値観に幻惑されて、
   このことの 社会生活上の深刻さは、一般には あまり自覚されてはいないようです。



   また、昨日4月8日は 新暦(グレゴリオ暦)です。 
   しかし、昔は 灌仏会は 旧暦の4月8日に催された行事でした。
   これは、インドの太陽太陰暦で行われていた 半月にもわたるこの行事を、 
   同じ時期の中国暦(旧暦)に当てて 簡略化し、4月8日と決められたようです。
   今日でも、中国人の仏教徒たちは まったく旧暦で 灌仏会を祝います。

   ところが、この灌仏会を わが国では、明治以来「 花祭 」と言うようになりました。
   これは、4月8日という日が、新暦(グレゴリオ暦)では 旧暦のそれと異なり、
   丁度 桜の花の満開になるころにあたり、
   このことから、灌仏会を 花祭と言うようになったのです。
     ( これは 数字のごろ合わせだけで、 実際は 釈尊の誕生日の 大幅な変更に
       なりますが、明治の人たちは 平気で こうした乱暴をやりおおせました )
   今の灌仏会の 痛々しく寂れた状況を見る時、
   我々日本人は、この時から すでに 西欧の暦(=時間概念)のために、
   生活の根本を 壊され始めていたことを 思わずにはおれません。
 

    ※ 「 和魂洋才 」の「 和魂 」を、明治の若い指導者たちは、
      国学の思想によって、もっぱら 天皇に収斂させて、これを理解していましたが、
      このことは、その後の日本国の運命を誤って 国を廃墟となし、
      我々の腰骨を折って 未だに 立つことさえできない後遺症を残しただけでなく、
      上のように、豊かな伝統的精神(和魂)にも、致命的な損害を与えたのでした。

      「 和魂 」とは、 国or天皇を愛する心などでは 全くなく、
          ( 「 愛する 」という語は、西欧の翻訳語です )
      軽侮すべき中国の暦を廃して、列強の 輝かしいグレゴリオ暦を採用するような、
      新しがり屋、猿真似、虎の威を借りる狐、道理よりも利害で動く商人根性、
      弱い者より強い者につくヤクザ根性(諂いと傲慢)などではなかったはずなのです。

      維新の若者たちは、欧米文明を 心底 恐怖し、また その力に幻惑されて、
      このことが 十分に分っていませんでした。
      今日 我々は、かの維新を こうした 根源的な批判に晒すことなく、
      甘い郷愁だけをもって 見てはなりません。 
      
      
                              合掌      

                 

涅槃会

〜〜〜〜  涅槃会 (ねはんえ)
  〜〜〜〜
 釈迦が亡くなったのは、
 中国に仏教が伝わって以来、陰暦2月15日ということになっています。 仏教徒は、
 古来、この日を「 涅槃会 」と言って、その遺徳追慕と報恩のために法要をしてきました。

 今日の日本では、<時>を 陰暦では計らないので、古来からの「 涅槃会 」は、
 生活から遊離して、それが いつなのか よく分らなくなりました。
  ( キリスト生誕やバレンタインデーは はやっても、釈尊の 生誕会も成道会も涅槃会も
    いっこうに はやらない 世俗的キリスト教化した現代日本です。
    果ては、最近の日本人は死んだら 天国に行くのがはやっていて、浄土に還る人は
    めっきり少なくなって、浄土は シャッター通りorゴーストタウンになっているとか・・・。  )
   
 しかし、いつ 釈尊が亡くなったか、その正確な 年と日時が分らなくては、或は 世間に
 はやらないから、涅槃会は 無意味なものだ というというものでもないでしょう。

 ところで、今日の西欧産の暦で 2月15日というと、丁度 一週間後です。
 そこで、この涅槃会に因んで、釈尊のことについて 少し考えてみることにします。

 ^^^^^^^^^^                        〜〜〜〜〜


今まで 慣れ親しんでいたモノに、思いもしなかったようなことが起ったとき、 そのものを、
‘ そんなはずではなかった ’ と 蹴飛ばすのか? 
‘ もう、付き合いきれない ’と ・・・ 。
私たちが 生きているということは、 ただ 楽しかったらよいのでしょうか?
私は 楽しい、 私には 苦しみがない 
――― それだけで 満足できるでしょうか?
  哀れ、 私の日常は まさに このようなことで 始終しています。
この凡夫性の 帰結として、
この世の 極楽のような 華やかな宮殿の中、 
多くの人たちが希望する 幸福の条件の 全部揃(ソロ)った中に立って、
‘ 人生は 苦悩だ ’ と叫ばれた
  というふうに、 釈尊を 徹底して 私は理解できないのです。


釈迦は、王族として生まれ、 宗教の専門の家に 生まれたのではなかった。 
聖なるバラモンの伝統の中に その出自をもたない人であった。
そして 世俗のただ中で、その世俗のままでは 人生が完結しないことを見出した人であった。
バラモンの宗教的伝統の中で、その伝統が完結できないことを問題とした人ではない。
‘ 初めにヴェーダの伝統ありき ’ではなく、‘ 初めに世俗的現実ありき ’という人だった。

そして これを、世俗の生活をしつつ 問題とするのではなく、その生活を捨てて 出家によって 
解決しようとしたのは、彼が 沙門の伝統をもつインド文化圏の中に 生まれたが故であろう。
人間の問題を、世俗の中でではなく、その外で解決しよう(できる)という思考法である。
ここには、インド文化の 他の文化にはない 底の抜けた大きさと柔軟さがある。


ともあれ、彼は 出家した。 
<真理>を見出すためではなく、<世俗生活そのものの苦悩の解決>のために出家したのだ。
( さもなければ、 彼の出家は 中国人が言ったように、苦を恐れて逃避し 自己一身のみ
  が救われるために、その社会的責任を放棄した 卑怯者と言われてもしかたがない )

それ故に、 彼は ウパニシャッドなどの伝統的世界に呑み込まれることなく、五比丘から 
堕落者だと誤解を受けようとも、山を下りて 菩提樹下の 悟りの座に 坐りえたのである。
もし、その出家の主要動機が <真理>を得ることであったならば、伝統的思惟の世界に
奥深く入り込んで、 彼は 決して 山を下りるということはなかったであろう。


世俗の富と権力を集めた 金殿玉楼のただ中に、それに満たされざる苦悩を見出したところに、
釈尊の釈尊たるところがある。
ここに、 他の諸宗教に対して 仏教の問題意識の独自性がある。
私たちが生きているということは、ただ楽しかったら いいのでしょうか?
という 素朴で しかも根源的な 人間の問いを、 王宮の若きシッダールタは 密やかに懐き、
やがて、それを 我々人類の前に 提示したのである。 
これが、いわゆる 「 仏教 」であったのだ。

そして、この問いは、
今日の 輝かしい 科学技術文明が立っている足元を、即ち 私の生活そのものを
覆(クツガエ)すほどの 広くて深い 根源的な問いなのではなかったでしょうか?


                                  合掌


                 * 文中の「 肌色の背景と薄緑色の枠 」内は、先師のことば です 

 
 

永遠の別れ

〜〜〜〜〜
             「時間について」の項、【 覆水 盆に返らず 】を書く前に

  〜〜〜〜〜〜


太陽の熱と光、 大海と大地、 山川渓谷、

及び 生きとし生けるもの の恩恵の下で、

私は、ようやく 生を繋(つな)いでいるものである。


道理に反し、それに背いて 事を行えば、

その結果は 自らの上に 受けねばならないものとして、 私はある。

しかして、私は 道理に冥(くら)く 法性に随順しようとしない 懈慢のものである。



あぁ、‘ 永遠の別れ ’ というものがあるのだ。

そこに 如何に 感傷しようとも、 

これは、 厳然たる 我らの事実であり 現実である。


たゆたう恩愛・愛惜 や 生の意味の喪失感や ・・・、 

そうしたものを スパッと切り捨てさせて、 これは 自らの運命に直面せしめる。

なむあみだぶつ


‘ 永遠の別れ ’ は、

私を 孤独のうちに 返らせ、

その、のっぴきならない 自らの現実に直面させる。



奇妙なことだ。

現今 栄華を極める 西欧文明だけでなく、

この地上の 種々の文明は みな、 愚かで 悲しい 人間業の所産である。


その どの一つの中においても、 

多くの悲喜があり 多くの迷いがあり 苦悩があった。

我らが 人間である故であり、 さらに 衆生なるが故である。



我々は、 大海に漂う一つの細胞であり、

やがて 暗夜の森にうごめく ネズミの如きものであった時を経て、

営々と 代を繰り返してきたのだが、 


この宇宙が壊滅するに至る はるか以前に、

我々は 自滅するか、 さもなければ、

終末の太陽に 呑み込まれて 焼き尽くされるという運命にあるのだ。


我々は、個人としては 勿論、 種としても、

やがて ‘ 永遠の別れ ’ というものを 刻印されているのである。


この世界を たとえ 物質世界と考えようとも、

この物質世界は 壊滅する運命にある。


すなわち この世界は、 我々を 何らかの形で支える 堅固なるものではなく、

我々は、この実在の世界を 永遠に失い、

この私自身というものからも 永遠に別れねばならないものとして、 今日あるのだ。



この、 太陽の熱と光も 大海と大地も 山川渓谷も、

及び 生きとし生けるものも、 私もまた、

結局 これらは 実在どころか、 夢幻であり ‘うたかた’のモノであったのだ。




  ( この世界の壊滅の時に、 実在中の実在たる 神によって、
    永遠の死 と 永遠の命 を選別されるというのは、
    いかにも、我らの生への執着に 妥協し、現実の前に それを正視しえず 
    腰砕けとなった、それを信ずる者に 都合の良い世界観と言わざるを得ない。 )



                                合掌

釈迦魂は

〜〜〜〜〜
  〜〜〜〜〜〜

「 釈迦魂は、


  過去にグチをもたず、

  未来に不安を抱かず、

  善による 福を求める心を 捨て、


  真理に対する 求道・合掌に 生き、
  
  ただ、大法が 踏みにじられる時には、

  生命を捨てても 戦っていきます。」 (先師)




これに 相違するのを、「 虚妄顛倒tendouの見 」 という。

善知識の説く 「 実相の法 」 を、 聞くべし。

なむあみだぶつ


                                     合掌                             

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