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「“ 食うて 飲んで 死ねたらいいのだ。
わしは 随分と苦しんだ。 長い間 放浪の旅もした。
わしは 時に 道徳者らしくもなった。
けれど、生きているのみが、わしの与えられた唯一のものだ。
わしは 食って 酒を飲んで 死ねたら本望だ。”
何という卑怯だ。 それでは、あまりに惜しい人の生命(いのち)だ。」(若い先師)と。
「“ わしは 死にたい。 わしほど 不幸な者はない。
ついぞ、幸運が来たことがない。
する仕事も なす事業も、失敗続きだ。
とても わしには、何もできない。
いっそ 死んだがいい。 わしは 行き詰った。”
それでは あまりに惜しい生命(いのち)だ。」(同上)と。
享楽・放逸も 悲観・厭世も、本当の人生ではありません。
しかし、我らは みな この両極端を、幽霊のように さ迷って、
あたら 一生を過ごすことしかできません。
この間にあって、
「“ いいじゃ ありませんか。
悪いのは 私の自性だ。 悪いからこそ、そのままのお助けじゃ。
わづか この世ばかりの宿り、 わしは 先生! この世は あきらめました。
さらに こうしようとは思いません。 まぁ 朝寝もし、晩酌の一杯も飲み、
できるようにやるのが 上々じゃ。 この世に望みは ありませんわい。”
結構な信心だ。 それでは、信心者たちが あまりに惜しい人間の生命(いのち)よ。」(同上)と。
災害や事故で 命を失うのと、 他人の故意や過失で 命を失うのと、
どちらも 私の意図しない死です。
たとえ、老衰や病で 死ぬのさえ、私の望みではありません。
できれば 明日も生きていたい もっと生きていたいと願うのです。
かくして、私は 死を厭い 生を欲する。
理由も何も 無いのであります。 この理由を聞かされても、この厭い欲する現実は、少しも変りません。
何が原因であれ、死ぬ時は 私の意向に関らず 死ぬのです。
この事態は、私の力に限界があることを、私に知らしめています。
同じ 死ぬなら、喜んで恨みを残さずに 死にたいものです。
「 他人のために 犠牲になって 自分を殺すことは、
(乃至) 私の 第一義的欲の満足である。
故に、 私たちは 感謝がなくてはならぬ。」
と、若い先師は 言う。
「 私一人の存在が、いかに 他の人たちから感謝の涙を 注がれているだろうか?
私もあなたも 何だっていい、あなたが居ることが、人の感謝の種だったらいい。
妻一人にすら 感謝せられない人間、 夫一人に感謝されない人間、
友人にすら ありがたがられない人間 ――――― 何という 哀れさだろうか?! 」
と、若い先師は 言う。
合掌
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