混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

死者は何処へいったか?

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毒矢の譬

〜〜〜〜

  先に 「 盆にちなんで 」の記事、および そのコメントにおいて、
 <死後の世界> や <霊魂> や <輪廻転生> について 述べましたが、
 何の反響もありませんでした。
     http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/51364802.html

  私としては、スピリチュアルと言われる風潮に対し かなり挑戦的だと思ったのですが、
  少し 拍子抜けです。 それ故に さらに もう一押しすることにします。

   以下は、昔から <毒矢の譬> と言われているものです。 
  釈迦が 形而上的な問いに対して 答えることを拒絶した (これを 釈尊の無記とか
  捨置記syachikiとか と言います) ことを 表すものです。


   ちょっと長い文ですが、どうか 辛抱に じっくりと読んでみて下さい。
                                    〜〜〜〜〜

           *  *  *  *  *  *  *


 一頃 世尊は、サーヴァッティの郊外ジェータヴァナのナータビンディカの園におられた。
そのとき、尊者マールンキャプッタは 人影のないところへ行って 静思していたが、
その心に 次のような考えが起こった。

「 これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち
世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるとか
魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、
人は死後存在しないとか…、 これらの様々な考え方を 世尊は 私に説かれなかった。

世尊が 私に説かれなかったということは、私にとって嬉しいことではないし、私にとって
容認できることでもない。だから 私は世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう。
 もし 世尊が 私のために、これらのことを説かれないようなら、私は修学を放棄して
世俗の生活に帰るとしよう。 」

 そこで 尊者マールンキャプッタは、夕方 静思の座から立上って、世尊の所へやってきた。
やって来て、世尊に挨拶し片隅に座った。片隅に座った尊者マールンキャプッタは世尊に言った。

「 師よ、私が人影のない所へ行って静思しておりましたら、心に次のような考えが起きました。
すわなち、これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限だとか、世界は無限だとか、
魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、
人は死後存在しないとか…、 

これらの様々な考え方を 世尊は 私に説かれなかった。世尊が 私に説かれなかった
ということは、私にとって嬉しいことではないし、私にとって容認できることでもない。だから 私は世尊の所へ参って、この意味を尋ねてみよう……。

もし 世尊が 私のために、これらのことを説かれないようなら、私は 修学を放棄して
世俗の生活に帰るとしよう、と……。」


世尊は答えます。
「 マールンキャプッタよ、私は おまえにそのようなことを教えてやるから、私のもとに
きて修行せよ、と言ったことがあるか。 」

「 師よ、そのようなことはありません。 」

「 マールンキャプッタよ、私は そのようなことを教えてやると言ったこともないのに、
愚かにも、おまえは 私がそのように説くことを要求し、そのように説くことをしない私を
拒もうとしている。

 マールンキヤプッタよ、もし人が‘ 世界は無限であるか 有限であるか などについて、
世尊が 自分に説明してくれない間は、自分は佛教の修行に入らないであろう’ と固執すると、
如来が それらの問題に解決を与えないとすれば、その人は 佛教の修行にも入らず、輪廻を
脱することもなく、生死の苦悩を繰り返すであろう。

それは あたかも毒矢に射られた人があって、その人の友達や親族の人々は 心配して、
外科医を呼んで来ているのに、彼は ‘自分に 次の問題が解決されるまでは、このを毒矢を
抜いてはならない。−すなわち この矢を射た人は 王族か、バラモン族か、庶民族か、奴隷族
かが判明しない間は 矢を抜かせない。矢を射た人の姓名を知るまでは…、その人は 背の高
い人か、低い人か、中程度の人かを知るまでは…、その人の皮膚の色は 黒いか、黄色か、
金色かを知るまでは…、その人は 村の人か、町の人か、城市の人かが判明するまでは、この矢
を抜いてはならない。 
また 自分を射た弓は 普通の弓か強弓かを知るまでは…、その弓の弦は 蔓草製か・筋製か、
麻糸製か、ゴム糸製かを知るまでは、矢を抜いてはならない。その矢幹は葦製か、竹製かを
知るまでは…、矢羽は 鷲の羽か、鷺の羽か、鷹の羽か、孔雀の羽かを知るまでは…、
その矢幹は 何の筋で巻いてあるのか、牛のか、水牛のか、鹿のか、猿のかを知るまでは…、
矢簇(やじり)は 普通のものか、尖ったものか、鈎(かぎ)形のものか、子牛の歯の形のものか
などを知るまでは、矢を抜いてはならない’ と頑張っているとすれば、そのうちに、
その人は 毒のために死んでしまうであろう。

ちょうど そのように、マールンキヤプッタよ、もし 人が 世界は無限であるか有限であるか
などの問題について、世尊が 解決を与えてくれない間は 自分は 佛教の修行には 絶対に
入らない と固執するとすれば、 如来は そのような問題を解説しないであろうから、
この人は 救われることなく死んでしまうであろう。



 マールンキャプッタよ、世界は永遠である という考え方があって 始めて人は修行生活が
可能である、ということはない。 また 世界は永遠ではない という考え方があって始めて
人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、世界は永遠である という考え方があろうと、世界は永遠ではない
という考え方があろうと、 まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実に それらを征服することを 私は教えるのである。

マールンキャプッタよ、世界は有限である という考え方があって 始めて人は修行生活が
可能である、ということはない。また 世界は無限である という考え方があって 始めて
人は修行生活が可能である、ということもない。 マールンキャプッタよ、世界は有限である
という考え方があろうと、世界は無限である という考え方があろうと、まさに、生老病死は
あり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することを私は教えるのである。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在する という考え方があって 始めて人は修行生活
が可能である、ということはない。また 人間は死後存在しない という考え方があって始めて
人は修行生活が可能である、ということもない。 
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在する という考え方があろうと、人間は死後存在し
ない という考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実に それらを征服することを 私は教えるのである…。


マールンキャプッタよ、ゆえに、私が説かないことは 説かないと了解せよ。私が説くことは
説くと了解せよ。 」

以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
                         『マジマ・ニカーヤ』63抄訳

 (http://www33.ocn.ne.jp/~snmstomita/englobehankoya/kuu/soultogod.html を参照しました)



≪≪≪
  いかがでしょうか? 仏教は このように <死後の世界>とか <前世>とか <霊魂>
 とか <輪廻転生>とか <地獄や極楽(天国)>とか <創造神>とか・・・、
 そうしたことに 答えを与えることを 拒絶するのです。

  また、<科学>を推進している人間の動機に対する 深い拒絶を、これは意味します。

  そうしたことに答えるよりも、 そうしたことに関心を持っていること自体が 実は
 人間我らの 深い 問題であり 迷いであると言うのです。 合掌





                

〜〜〜〜〜
  〜〜〜〜〜

卑しい思いに 支配された言動である。

此岸の 小心翼々たる このさまよ、 哀れ!


あぁ 私は 余りに多くの望みを持っている。

その多くは 些細なものなのだが ・・・。


そして その一つ一つは 断念することもできはするが、

こうした望み それ自体を 断念することは、命を奪われると同じことに 感ずるのだ。


やがて来る 死というものは、しかし そういうものなのであるが、 

奇妙なことに、 私は いつまでも こうした望みを持ち続けられるつもりでいる。


一つの幻想世界に 呼吸しているのである。


生の一回性は、 かくして その希有性を取り戻すべくもなく、

曖昧のうちに 消失する。 わが命を 無意味なものとする。


今の瞬間を、永遠の今 と為し得ない わがテイタラク。

多くの些細な望みが 茨の林の如く 繁った場所に、 迷い込んでいるのである。



この者、哀れ! この者は 自らの本当の願いを知らない。

自らに願いがあることが 分らないままに、ただ 訳もなく 事々に苦悩している。


自らの存在が 完結したものではなく、様々な遺漏あることを 日々 感じ、

それに堪えているのではあるが、こうした自己全体に目覚めることは ついぞ無いのである。



奇妙なる存在である! まことに 私は 奇妙なる者である。

信念なくして 信念を語り、 時を把握することなくして 時を使い、


生きることなくして 生きようとする。

この此岸のさまを、 顛倒(てんどう)といい 虚偽という。



「 およそ 事を断じて 行わんとする。

  一切を捨ててかからずして できることではない。」(先師)


この世の事ですら そうである。

まして この世(此岸)のすべてを 抜こうとする時、


やがて壊滅する この身心を愛惜し、

わずかでも これを保とうとして、様々に 慮ることの 不釣合いさ! 



あぁ 多くの欲望よ! その生々しさよ!

貪欲(とんよく)と言い 瞋恚(しんに)と言い さらに愚痴と、これを言う。


このもののうちに、のめり込んでいるのだ。

正義の御旗を立てようにも、


忽ち これを呑込み 焼き尽くして 跡を止めない。 

なむあみだぶつ  哀れむべし、このわが身よ!


如来大悲ましますことを 知らざる この者よ!



釈迦が出られたということは、

それが 時代も処も 遠いものであるけれども、


「 応現娑婆 度有縁( 娑婆に応現して 有縁を度したまう )」(善導:法事讃)

すなわち、すでに かの地で 私の問題を 問題とされていたのだ、ということなのである。



                               合掌

盆に因んで

〜〜〜〜
  〜〜〜〜〜

そそり立つ 我執。 

生の一回性に支えられて、この「我」を 無限に惜しむ。


しかし、私は 多くの者のうちの 一人に過ぎないのであり、

他者から見ると、有っても無くても よい存在である。


また、無数の因縁の結果 偶々 ここに 五陰が仮に和合したものであり、

やがて 変壊・散逸するものに過ぎない。


これに意義を見出そうとする 我々の種々なる営みは、

「我」を無限に惜しむサガの為せる 砂漠にシン気楼を追うようなものであろう。


これが生きている時は、その自他の肉体に 無限に愛着し、

死すれば、忽ち それは 穢わしい厭うべきものとして 日常から廃棄される。


この生と死の間の 我々の態度の変節を

理解可能なものにしようと、「(霊)魂 」というものが考えられた。


実に 奇妙なことである。


見聞覚知(五感)の日常世界のなかで 

この理解不可能なものに対して、


我らは、この感覚世界が それ自身で完結したものではないと考え、

想像を逞しくして、その外に 霊魂というような概念を作り 世界を完結させようとした。



我々は みな、世界と親和的になりたいし、

世界と和解しようという 切実な願いをもっている。


しかし、死にかぎらず 圧倒的な世界の諸事象は、

時に 我々の この切なる願いを 無残にも裏切る。


それらは 我々の理解と和解を 厳然として拒んでいる。

それゆえ、我々は 直に 世界のありのままの相に 触れることを避け、


例えば、習俗や科学の世界を 自己の安らげる場所として 作り出した。

この習俗などの現世的秩序のことを、「 世間 」と言う。



しかし、若き釈迦が 見破り また煩悶したのは、

この日常の 我々に理解可能な「 世間 」が、


実は、我々の 本当に安らげる場ではない という、

恐るべき事実であった。


世界と和解し 親和的になるために、父祖以来作り上げてきた この「 世間 」は、

これも それ自身では 完結していないということであった。


すなわち 従来の方法では、我々の切実な願いは ついに満たされることはない という

自らの 恐るべき悲惨さというものを、彼は 直視したのであった。



                                 合掌

大地

〜〜〜〜〜
    これは、昭和5年(1930)に 住岡夜晃(35歳)によって書かれたものです
      決して 上手な詩とは 言えませんが、意あるところを見てください
                                     〜〜〜〜

山の奥の淋しい里の
うねうね つづく山脈に
秋は 正装の乱舞に笑う

蒸留水のように 澄み切った空気
太陽の 鋭い 朝の光線
私は 軽く 山の道路を歩む

滝山川が 絶壁の下にはう
絶景 絶景、滝がかかる
近代的 新しい道路が、木koの間maに光る


滝山川水力電気、
すばらしい工事だ
あぁ、この堂々たる大堰堤entei

コンクリートのお城だ
スイッチ一つで 大鉄板が上がれば、
水は 水道を 静かに下kudaる

わずか 2ヶ所 光を見ただけで、
山又山の底のトンネルを
一里も二里も 下ってゆく


堰堤の上に立てば、
天然と人工の美がもつれて
近代的な絵画が動く

底の知れない 青い青い淵huchi、
それに メダカが 無数に躍る
三尺もある鯉がいさう

眼を上げる、川上の あの景色
舟が 一艘sou、
木を流す人の 鳶口tobiguchiの音


しかし、この絶景も
いつまでも 私を酔わしてはおかない
電気! 近代文明、

中国山脈の この真っ只中、
「 猿の声か、賤が妻木の斧onoの音か 」
昔の文句にありそうな この深谷、

ここに、たった この間aidaまで
三千人の工夫kouhuたちが
昼と夜と 連続で 働いていたのだ


朝鮮人の大群、
工事から工事に渡り歩く 荒くれ男
それらの間に巣食うイカサマ師

工費すべて 三百幾十万円
その金の下に 何が為されたか
里satoの人から聞く 哀話の数々

一万円の工事を 甲が請け負うと
九千円で 乙組の頭kasiraが 別けて請け負う
乙は 又、頭をはねて 丙に渡す


丙丁になると 儲けどころか 損がいく
可愛そうなは 鮮人だ
打たれ罵nonosiられて 奴隷の如く使われた鮮人だ

支払う金がないとの 一言葉で・・・
命をまとに働いた彼らは・・・
思った俺さえ 涙が下る

一日 わずか一円幾十銭、
それさえ貰moraえぬ鮮人の
涙が やがて何を生む


道義日本の語り草
無情悪鬼の横行は
彼らに無くて、我にあり

冷たき鞭muchiを ふるいつつ
今日一日の糧のため
逃げも得せで 今日もまた

働く金の 幾割は
飯場hanbaの親爺の 青い手に
搾り取られる 情けなさ


大地にあえぐ 大群の
心の闇を せめて 一時hitotokiでも
晴らすは 酒の香kaoriなり

暗い地下道に一日を
疲れて帰る 人の子に
食うこと以外に 何の楽しみぞ



岩石 ――― 墜落 ―――
即死!
重傷!

失われた生命inochiは
何によって 償われるのか
何によって 慰められるのか

街の華美なる洋館の
昼のような装飾電灯 (* シャンデリアとルビあり)
その裏に 赤い血の犠牲がある


如何なる 時でも 処でも
通う誠に 変わりなし
まことは 久遠の故郷hurusatoよ

今も 神代の手振りある
この里人satobitoの まごころは
鮮人にも 通じたろう

異郷に 淋しく流れ歩く
人の情に 敏感な
鮮人たちを 思う時


野菜一束くれてやりゃ
涙流して 礼を言う
尊くも 人の心の底に 火が燃える

鮮人とは 悪魔のように恐れられ
馬鹿者扱いに 卑しめられ
奴隷のごとく 虐siitaげられる

危険な工事や
辛い仕事には
みんな 彼らが使われる


素直sunaoに働いた その上に
お給金は くれたりくれなんだり
ある日は 食わずに青ざめる

みなを働かした その金を
一人でもって逃げた男、
彼らの中に そんな奴でもあったか

弱きを虐げる無道義の
この暗黒の文明よ
一夜のうちに 灰になれ


今なお続く 道路工事の現場にゆけば
巨岩が 今にも落ちそうな
その真下で働く人たちに 黙礼する

「 地獄です 地獄です
  ドサンと落ちたら それまでだ 」
土方dokataの一人は 私に言うた

きれいな景色も 水の音も
暗い私を 救わない



                       ( 『住岡夜晃全集』第五巻 )

粉骨砕身(26)

〜〜〜〜〜〜
   〜〜〜〜〜〜

 如来大悲の恩徳は  身を粉にしても報ずべし

     師主知識の恩徳も  骨をくだきても謝すべし  

                                    ( 「恩徳讃(おんどくさん)」親鸞 )

                         ** 師主知識: よき師・よき友


 するすると 年月が過ぎて行く。
 時の流れに 身を任せて、 
 自己を喪失していることに 全く気付かない。

 やがて 魂が失uせれば、 この肉体は 廃棄物となり、
 家(族)から捨てられ、 社会から鼻つまみモノとなって、
 今日では 焼却場に送られる。

 この地上の人間社会では、魂あっての この身体である。
 しかるに、この魂たるや 如何なるものであろうか?
 ―――― 雑穢(ぞうえ)なるもの

 私が無垢であって、わが魂の相を こう見るのではない。
 み仏さま、 いかなる防塁も それを防ぎ止めることができない 無垢ならざる私が 雑穢なのであります。
 弊悪heiaku卑怯に囚われて 暗黒の煩悩海に 漂没hyou/motuしている 当の者であります。

 この絶対の(相対ではない!)光景の中に、 わが身を見よ!
 己が身に対する 特別の愛着
 ―――― これを 石・瓦・礫tubuteの如くに為し得ない感情と臆断。



  「 大いなる生命の道に 遠ざかっていることに悲泣した者だけが、

    やがて 一切の時代と処と人とを超えて、

    恵まれた真実に対する よろこびを 天地とも等しく感ずるのであります。」(先師)




 南無阿弥陀仏(大法)は、 仏教の理論でも 宗義でもない。
 そうした観念性の 世界観や人生観や この地上に裸で生き得ない我らを包む皮衣たる習俗・習慣やを超え、
 また 私個人の我執(自己愛着・自己関心) と 真実に対する疑謗gibou を超えて、



  「 身命sinmyouすら捨ててかかる人、

    大法は この人を求め、 この人を生もうとしているのではないか?


    一切を捨てて 一切を得よ。

    小我を打ち砕いて 如来の中に捨てよ。


    囚われた者の世界は 小さい。

    如来の中に捨てた者は そこに大きな社会を発見する。


    如来の中に生きる者は 同時に大きな社会に生きる。

    社会の中に自分を捨てよ。


    無限の生死海syouji-を 開いた眼で見返せば、生きる天地が そこにある。

    一切群生gunjyouの上に 如来はおどる。


    荒波が押寄せても そこを動くな。

    火炎が取巻いても そこを逃げるな。


    荒波に崩れぬものは 打ち砕かれよ。

    火炎で燃ゆるものは 燃やし尽せ。


    如来の身は 金剛にして 壊れることはない。

    一切が砕かれた時、如来より はえぬいたものだけが残る。」(先師)




  「 金のためにさえ 命を捨てる人があるではないか。

    浮雲のような権勢名利myouriに 命を捧げる人もあるではないか。


    三度の食事が与えられる間、

    不平を言って 良いものか!


    < 粉骨砕身hunkotu/saisin > の四文字が 生活態度になった時、

    一切の問題は 解決する。」(同上)




                                          合掌


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