|
〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜
仏(如来)は、観念ではないのであった。
それは、単に 心の問題ではないのであった。
「 いくら 生死の苦海を 出ようとしても、
生死流転の きづなは 断ち難く、 灰色な心を 如何とも することができない。 」(先師)
その 「 肉食妻帯の 煩悩の泥中 」 に、
何から何まで お粗末な 「 久遠の凡夫 」として、
如来の 御はたらきに 目覚めること以外に、
私の救いは ないのであります。
この生存への 「 疑いを除き、 証(さとり)を得しむる 真理 」 は、
この宇宙の どこにも見出せるものではないのであります。
自己を誤魔化して 苦と労とに 背を向け、
時を過ごすこと 幾十年、否 幾百億年。
この 「 難度海を 済度する大船 」は、
区々たる わが心の 思想や信仰ではないのであります。
この 煩悩の放縦、 この 我執(自己中心)の堅固さ
――― これが 繰り広げる 汚濁の現実の泥田が、 白蓮華たる如来を 生んだのである。
** 決して 如来(絶対者)が 泥田たる私を生んだのではない。
仏教は、絶対者(如来)は、我々の如何なる捕捉にもかからない 絶対(如)から来たったものとする。
セム族由来の宗教は、 この絶対者と絶対とを 同一視しており、
ここに、かの諸宗教における 真実というものの人間的作意(人為性)という根深い問題がある。
真実とか 愛とか 聖なるものとか 仏とか というものに、
私は 不真面目である。
そうしたものを 尊ぼうとも、その前に 頭を下げようとも、
かって 一度も 思ったことがない。
「 信ずるということも 愛するということも、
それが 聖の世界に通ずるには、あまりに 汚れています。
あまりに不純であります。」(同上)
そもそも 私に、よろこびが あるだろうか?
感謝の一片の念も あるだろうか?
そうした自分を 懺悔(さんげ)する気が あるだろうか?
「 感謝、懺悔、よろこび ―――― そんなものを まず出して、仏を呼び寄せようとするのは、
(乃至) それは、無駄な道草であり、知らずして陥る自力であります。
我と聖との間に よろこびを入れても、感謝を入れても、 駄目なのです。」(同上)
仏の前とや? 否!
その 聖なる殿堂は 堅く扉が閉まっているではないか!
私は 不用意に この扉を開けようとしていたのではないか?
それを 求道と言い、聞法と言い、念仏精進と言っても、
‘ 自力ではない 他力なんだ ’ と概念の遊戯を、
目を吊り上げて 大真面目にやっていたに過ぎないのではないのか?
膨大な時を すべて罪悪で埋めて、
道草をしていたのではないか?
その聖なる殿堂の扉を 「 わが手によって 開こう 」 として・・・。
「 扉とは、聖なる如来の 作りましますものではなくて、
衆生心の疑惑こそ、久遠に 我と彼とを隔離する扉であった。
その扉を開く力こそ、法蔵菩薩の本願力であった。」(同上)
合掌
|