混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 4.

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( 体用合説 )
此体用薫習分別 復有二種 云何為二
一者 未相応 謂凡夫二乗初発意菩薩等
以意・意識薫習 依信力故 而能修行
未得無分別心 與体相応故 
未得自在業修行 與用相応故
二者 已相応 謂法身菩薩 得無分別心
與諸仏智用相応 唯依法力 自然修行
薫習真如 滅無明故


( 染浄尽不尽 )
復次 染法 従無始已来 薫習不断
乃至 得仏後 則有断
浄法薫習 則無有断 尽於未来 此義云何
以真如法 常薫習故 妄心則滅 法身顕現
起用薫習故 無有断。

ーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この体と用yuuとの薫習を分別すれば、また 二種あり。云何ikanが、二と為na。
一つには、未相応なり。 謂iwaく、凡夫・二乗・初発意hatuboti菩薩等は、意と意識と薫習するを以って、信力に依るが故に、しかも、能yoく 修行するも、未だ 無分別心は 体と相応するを得ざるが故に、未だ 自在業の修行は 用と相応することを得ざるが故なり。
二つには、已i相応なり。 謂く、法身の菩薩は、無分別心を得て、諸仏の智と用yuとに相応し、唯taだ 法力に依るのみにして、自然zinen修行し 真如に薫習して 無明を滅するが故なり。

また次に、染法は、無始より以来 薫習して断ぜず。乃至naisi 仏を得たる後 則ち断あり。
浄法薫習は、則ち 断あること無し。未来を尽くす。この義 云何ん。 真如の法は 常に薫習するを以っての故なり。妄心にして 則ち滅すれば、法身顕現し 用薫習を起すが故に、断あること無し。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
( 体用合説 )
  
  海東疏は、「 合して、体用を釈す。」
  義記は、「 人に約して、合して釈す。」
   と言う。
  
 義記は、
  「 釈の中に、また 二あり。 先に 未相応を明かして、中に 三あり。
  初に 位に約して人を挙げ、 次に 行の劣を弁じ、 後に 未相応を明かす。
  行の中に、凡小の意識薫と菩薩の五意薫とは、並びに 未だ真如に契わざるが故に、{ 依信修行 }と云う
  なり。 未相応の中に、二あり。 初に、{ 未得無分別心與体相応 }と言うは、正体智 無きが故に、未だ
  法身と相応せざるを明かす。 後に、証真の後得智 無きを以っての故に、未だ 応化身の用と相応せざる
  なり。」と。

  また、
  「 第二に、已相応の中に、また 三あり。 先に 人位を顕す。謂く、地上の菩薩なり。
  次に 正しく相応を弁ず。{ 得無分別心 }とは、謂く、如理智 体と相応す。{ 與仏智用相応 }とは、
  謂く、如量智あるを以っての故に 然ることを得るなり。
  後に その行の勝ぐるを明かす。初地以上は、真如の法を証して 修行す。 前位の ただ信力あるが如き
  には非らず。故に{ 依法力 }と云うなり。 { 自然修行 }とは、八地已去 無功用の行なり。
  真に薫じて 妄を滅し、行 成ずることを顕すなり。
  浄法薫を明かし竟んぬ。 上来、初は 別して明かし、次は 合釈す。」と。

( 染浄尽不尽 )

 義記は、
  「 中に於いて、二あり。 初に 染法 真に違し、始なく終あることを明かし、後に 浄法 理に順ずるに
  始ありて終なきことを明かす。 浄法の中に、二あり。 初に 正しく顕し、後に 釈成す。
  釈成の中に、真に薫じ 妄を滅して 浄用 尽くること無きを以っての故なり。文処に見るべし。
  上来は、生滅門の中の 能く義を顕すの法を釈し竟んぬ。」と。

用薫習者 即是衆生外縁之力
如是外縁有無量義 略説二種 云何為二
一者差別縁 二者平等縁
 差別縁者 此人依於諸仏菩薩等
従初発意始求道時 乃至得仏 於中若見若念
或為眷属父母諸親 或為給使 或為知友 或為怨家
或起四摂 乃至一切所作 無量行縁 以起大悲薫習之力
能令衆生増長善根 若見若聞 得利益故
此縁有二種 云何為二 
一者近縁 速得度故 二者遠縁 久遠得度故
是近遠二縁分別 復有二種 云何為二
一者増長行縁 二者受道縁
 平等縁者 一切諸仏菩薩 皆願度脱一切衆生
自然薫習 恒常不捨 以同体智力故 随応見聞 而現作業
所謂 衆生依於三昧 乃得平等見諸仏故

ーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー浄法薫習4. 用薫習ーーーーーーーーーーー
用薫習yuu-とは、即ち これ衆生の外縁geenの力なり。かくの如き 外縁に無量の義あり。略して説けば、
二種あり。云何ikanが 二と為す。一には、差別縁、 二には、平等縁なり。

差別縁とは、この人 諸仏・菩薩等において、初発意hatubotiに始めて道を求める時より、乃至 仏を得るまで、
中において、もしは見 もしは念ずるに依りて、 或は 眷属kenzoku・父母・諸親と為り、或は 給使と為り、
或は 知友と為り、或は 怨家onkeと為り、或は 四摂si/syouを起こし、乃至 一切の所作と無量の行縁とをもって、大悲薫習の力を起すを以って、能yoく 衆生をして善根を増長し、もしは見 もしは聞きて 利益riyakuを得しむるが故なり。  この縁に、二種あり。 云何が 二と為す。 
一には 近縁gonen、速かに度することを得るが故に。 二には 遠縁onen、久遠kuonに度することを得るが故に。 
この近遠二縁を分別せば、また二種あり。云何が二と為す。一には 増長行縁、 二には 受道縁。

平等縁とは、一切諸仏・菩薩は、みな 一切の衆生を度脱せんと願じて、自然に薫習して 恒常に捨せず。
同体の智力を以っての故に、見聞すべきに随いて、しかも作業sagouを現ず。
いわゆる、衆生は 三昧に依りて、乃sunawaち 平等に諸仏を見ることを得るが故なり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  この用薫習とは、我らが真実の生き方を探求し、まさに自らの生活のなかに真実を実現していく過程で、
それを実現すべく 我らに外から働きかける力( 外縁の力 )のことであります。
すなわち、私が 自らの上に真実を実現するのに、自分の力だけでは それは不可能であって、外から助けてくれるものが無くてはならないのであります。
 この外縁に、差別縁と平等縁の二種類があります。

 義記は、
  「 用薫の中について、二あり。 
  初に 事ziを指して 総じて標し、 後に { 如是外縁 }の下は、縁に約して 別して顕す。 
  別して顕す中に、三あり。 謂iwaく、標と列と釈なり。
  列の中に、{ 差別縁 }と言うは、凡小の事識薫習のために、しかも縁と作naる。 
  謂く、形を現ずること 不同なるが故に 云iうなり。亦maた 差別の機のために、縁となるべきが故になり。
  謂く、三賢以上 乃至諸仏の 能yoくこの縁と作naるなり。
  { 平等縁 }とは、諸菩薩の業識薫習のために、しかも縁と作る。
  謂く、唯taだ仏身を現ずること平等無二の故に 云うなり。亦maた 平等心の機のために、縁となるべきが
  故なり。 謂く、初地以上 乃至諸仏は、要kanaraず同体の智力に依yoりて、能yoくこの縁と作naるなり。」と。

( 差別縁 )

 義記に、
  「 初に、感用の因を明かす。 後に、{或為眷属}の下は、正しく用相を明かす。
  前の中に、{ 此人 }と言うは、機欲の人なり。 { 諸仏菩薩 }とは、外縁の体を出だす。
  { 従初発意 }の下は、能感の縁機 修行の時を明かすなり。{ 若見若念 }とは、正しく行者の心感用
  の器を明かすなり。 謂く、その身形を見、その功徳を念ずるなり。
  用相の中に、二あり。初に 正しく差別の用を明かし、二に { 以起大悲 }の下は、用の益を弁ず。
  前の中に、初の五句は、総を開し 別を成ず。 後の{ 乃至 }の下は、別を摂して 総を成ず。
   五句の中に、 一には、慈愛を以って 生を摂す。 二には、卑しきに居して 以って物を引く。
  三には、同類を以って 勧発す。 四には、これを恐れて 以って道に入る。 五には、直に 四法を以って
  摂して 修せしむ。  益の文は、知るべし。
   
   別解({此縁有二種 〜 })の中に、二あり。 先に 根の熟不熟に就いて、近遠の二縁を開し、 
  後に 前の近遠に就いて、また各 開して 二と為す。 各 標と釈とあり。
  後の中に、{ 増長行 }とは、謂く、方便行 即ち自分なり。{ 受道 }とは、謂く、前の方便に依りて、
  正観相応す。即ち 勝進なり。また、初は、即ち 四摂・利他の行。後は、即ち 三空・自利の行なるべきが故
  なり。」と。

( 平等縁 )

 義記は、
  「 平等縁の中に、二あり。 先に、能作縁を明かさば、中において{ 願度(脱衆)生 }とは、平等心なり。
  { 自然 }等とは、常に 用いて、機に応ず。{ 以同体智力 }とは、常用を釈成するなり。
  { 随応 }等とは、その用相を顕す。
  二に、機に対して、平等の義を顕すことを明かす。 謂く、十住已去の諸の菩薩等は、三昧力に依りて 
  悉く諸仏の身量は、平等にして 彼此分斉bunzaiの相あること無しと見るが故に、{ 平等見 }と云うなり。
  上来は、別して 体用yuuを明かし竟owaんぬ。」と。

 海東別記は、
  「 平等縁とは、諸の菩薩は 業識薫習のために、縁と作naるなり。能縁とは、法身の菩薩以上は 方masaに
  縁と作ることを得るは、要kanaraず 同体の智力に依yoるが故なり。
  { 依於三昧 乃得平等見諸仏 }とは、十解以上の菩薩等は みな業識もて仏の報身を見る。無量の
  相好sougouは、みな 辺なることなし。 分斉bunzaiの相を離るるが故に、{平等見}と言うなり。
  もし、散粗の心の中に在りては、かくの如くの不思議相を見ることを得るは、則ち この処kotowaりあること
  無し。故に、{ 依於三昧乃得見 }と言うなり。」と。
    

 問曰 若如是義者 一切衆生 悉有真如 等皆薫習
云何 有信無信 無量前後差別 
皆応一時自知有真如法 勤修方便 等入涅槃
 答曰 真如法一 而有無量無辺無明
従本以来 自性差別 厚薄不同故 
過恒沙等上煩悩 依無明起差別 
我見愛染煩悩 依無明起差別
如是一切煩悩 依於無明所起 前後無量差別 唯如来能知故
 又諸仏法 有因有縁 因縁具足 乃得成弁
如木中火性 是火正因  若無人知 不仮方便 能自焼木
無有是処 衆生亦爾
雖有正因薫習之力 若不値遇諸仏菩薩善知識等
以之為縁 能自断煩悩入涅槃者 則無是処
若雖有外縁之力 而内浄法 未有薫習力者
亦不能究竟厭生死苦 楽求涅槃
若因縁具足者 所謂自有薫習之力 又為諸仏菩薩等慈悲
願護故 能起厭苦之心 信有涅槃 修習善根
以修善根成熟故 則値諸仏菩薩示教利喜
乃能進趣向涅槃道 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー浄法薫習 3. 自体相薫習ーーーーーーーー
 問うて曰く。もし、かくの如き義ならば、一切の衆生に 悉kotogotoく真如ありて、等しくみな薫習せんに、
云何ikanぞ、有信と無信と 無量に前後に差別するや?  みな、一時に 自ら真如の法ありと知りて、勤修
gonsyuし方便して、等しく涅槃に入るべきなり。
 答えて曰く。真如は、本moto 一なれども、しかも無量無辺の無明ありて、本より以来 自性zisyou差別し 厚薄も同じからざるが故に。  過恒沙等の上煩悩も 無明に依yoりて 起こりて差別し、 我見愛染煩悩も 無明に依りて 起こりて差別す。 かくの如く、一切の煩悩は 無明に依りて起されて、前後に無量に差別すること、唯だ 如来のみ能く知るが故なり。
 また、諸仏の法には、因あり 縁あれば、因縁具足せば 乃imaし成弁zyoubenすることを得。
木の中の火の性syouは、これ 火の正因syouinなるも、もし、人 知らずして 方便を仮kaらざれば、能yoく 自ら木を焼かんこと、この処kotowari有ること無し。衆生もまた爾sikaなり。
正因の薫習する力ありと雖iedomoも、 もし 諸仏・菩薩・善知識等に値遇し これを以って縁を為さずんば、能く、自ら煩悩を断じ 涅槃に入らんことは、則ちこの処kotowariあることなし。
もし、外縁geenの力ありと雖も、内の浄法にして 未だ薫習する力あらずんば、また究竟して生死の苦を厭い
涅槃を楽求すること能ataわず。
もし、因縁具足せば、所謂 自らには薫習の力あり。また、諸仏菩薩等の慈悲の為に 願護せられるが故に、能く厭苦の心を起こし、涅槃あることを信じて 善根を修習せん。善根を修すること成熟するを以っての故に、則ち諸仏菩薩の示教に値い 利喜し、乃ち能く進みて涅槃の道に趣向せん。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 真如薫習の中に 2つの薫習を分けるうち、 その一つの自体相薫習について、ここに誰もが抱く疑問がある。
それを、ここに論は出すのです。 
 すなわち、我らは みな 仏性を持っていて、その働きによって 誰もが成仏できるはずである( 一切衆生悉有真如 等皆薫習・・・皆応一時自有真如法勤修方便 等入涅槃 )が、 どうして 実際には、悪い事ばかり為す人も居れば、聖人も居るというふうに、この世は 善悪正邪が入り乱れているのであろうか? 私においても、どうして長年仏教の縁に遇いながらも、涅槃に安住するということに成らないのであろうか? という疑問であります。

 義記は、
  「 疑いを釈する中に 二あり。 先に 問い、 後に 答う。
  問いの中に、初に 現在の信心の有無に約し、 後に 未来の信心の前後に約す。
  内薫すでに、斉hitoし。何ぞ かくの如きを得るや?
  { 皆 応一時 }の下は、難を結成す。これ すなわち別を執して 通を疑うの難なり。

   答えの中に、二あり。  初の一句は、通体なり。内薫の無にあらざることを明かす。
  後は、染浄は 縁に頼yoることを明かして、前後を成ずることを顕す。 
  この文に、二あり。初に 染惑に約し、縁起に対して厚薄あり。後は 浄法に約し、縁に頼りて前後差異あり。
  
  ◎ 前の中に{ 而有無量 乃至 不同 }と言うは、謂iwaく、即ち根本無明住地 本来自性差別し 人に随い
  て厚薄あり。厚き者は、信ぜず。 薄き者は、信ずることあり。 前後も また爾siかなり。 かれ 内に薫じて、
  これを然sikaらしめるに非らず。
  { 過恒沙上煩悩 依無明起差別 }とは、これ 無明より起されて、諸の法門の事に迷うなかの無知にして、
  所知障の中の粗分の摂なり。{ 我見愛染煩悩 }とは、これ無明所起の四住煩悩にして、煩悩障の摂なり。
  { 如是 }の下は、並びて前の二種の煩悩を結す。みな根本無明に依りて起るところなり。
  この義に由yoるが故に、前後 二に非らず。 かくの如く、惑性-syouの差別は 無量なり。前後知りがたし。
  故に 唯だ仏のみ能く了したまえり。

  ◎ 下に、<浄法 縁に約するが故に、前後あり>とは、独り 内因のみに 外縁を仮kaらずんば、所責の如く
  なるべし。然るに、今 外に 用薫を仮り、及び内の正因 方masaに成弁することを得るが故に、前後を致す。
  一時なるべからず。この故に、上に 二薫習を開す。一とは云わざるなり。」と。


 海東疏は、
  「{ 又諸仏 }以下は、縁の参差を明かす。 法と喩と合とあり。文相見るべし。」と。
 
 義記は、
  「 中において、法と喩と合となり。法のなかに、ただ因縁具して 得を成ずることを明かし、略して、不具の
  失なし。 喩の中は、偏hitoえに不具の失を明かし、略して具縁の得なし。 合の中に、並べて二義を明かす。
  法と喩は、知るべし。」と。


  合( 衆生亦爾 〜 )について、義記は、
  「{衆生}を、前の{木}に合す。{正因}を、{火性}に合す。{若不遇諸仏菩薩}等は、{若人知}等に
  合す。{能自断}の下は、{能自焼無有是処}に合す。これ欠縁の失を顕すなり。
   {若雖有}の下は、欠因不成(因を欠けば成ぜず)を明かす。謂く、無明厚重の流は、本覚 内に薫ずと雖も
  しかも、未だ力ましまさざるが故に、この故に 善友・外縁の力に遇うと雖も、また そをして道を得しむる
  こと能わず。 これ即ち、因縁互いに欠くの失を明かす。
   {若因縁具}の下は、性用相応の得を明かす。 中に於いて、二あり。 初に 具縁を弁じ、
  後に{能起}の下は、重益を明かす。益の中に 二あり。 先に 自分を明かし、 {修善根}の下は 勝進を
  明かすなり。その義を示し、その行を教え、義利を得、行成じて喜ぶが故なり。」と。 

妄心薫習義 有二種 云何為二
一者 分別事識薫習、依諸凡夫二乗人等 厭生死苦
随力所能 以漸趣向無上道故
二者 意薫習、謂諸菩薩発心勇猛 速趣涅槃故

真如薫習義 有二種 云何為二
一者 自体相薫習、 二者 用薫習、
自体相薫習者 従無始世来 具無漏法 
備有不思議業 作境界之性
依此二義 恒常薫習 以有力故 能令衆生厭生死苦楽求涅槃
自信己身有真如法 発心修行 

ーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー浄法薫習 2.ーーーーーーーーーーーーーーー
妄心薫習の義に、二種あり。云何ikanが 二と為naす。
一には、分別事識薫習なり。諸moromoroの凡夫と二乗人らに依yoりて、生死の苦を厭い、
力の能ataう所に随いて、漸youyaく無上道に趣向するを以moっての故に。
二には、意薫習なり。謂iwaく、諸の菩薩 発心hossin勇猛にして 速sumiyaかに涅槃に趣omomuくが故に。

真如薫習の義に、二種あり。云何が 二と為す。
一には、自体相薫習、 二には、用薫習yuu-なり。
自体相薫習とは、無始世よりこのかた 無漏の法を具すと、
備tubuさに不思議業ありて、境界kyougaiの性syouとなるとなり。
この二義に依りて、恒常に薫習して 力あるを以っての故に、能yoく 衆生をして生死の苦を厭い 涅槃を楽求gyouguせしめ、自mizukaら己身に真如の法ありと信じ、発心hossin修行せしむ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

( 妄心薫習 )  衆生・我ら ―――――> 仏・菩提

  ★ ( 分別事識薫習 )

  義記は、
   「 釈のなかに、{ 分別事識薫習 }は、即ち これ、上の意識なり。この識は、諸塵は ただ これ識なりと
   知らざるを以っての故に、心外に 実に境界ありと執す。 凡夫・二乗は、発心して解脱を趣向することあり
   と雖iedoも、しかも なお 生死の厭うべく、涅槃の欣negaうべきことありと計して、唯心の道理を了せず。
   すなわち また この作意力に由るが故に、久しくして後に 還りて菩提を得るが故に、{分別事識薫習 
   乃至 漸向無上道故}と云うなり。

  ★ ( 意薫習 )

   { 意薫習 }とは、もし、本に就いて言わば、名づけて業識と為す。 通じてこれを論ずれば、即ち 前の五種
   の意なり。 諸の菩薩は、一切の法は 唯だ これ識量なりと知るを以って、かの事識の外計分別を捨て、
   既に唯心を了す。理に趣きて速疾なり。 前の漸悟に異なるが故に、{乃至速疾趣涅槃}と云うなり。」と。

  ここで、義記は、問いを出して 自ら答える。
   「 問う。この中にの妄心は、すでに 並びに真如に薫習して、反流hanruの行を起す。 意薫は、すでに
   梨耶に属す。いかんぞ、能く 各onoono自ら発心修行せん。
   答う。 前の凡夫・二乗は、梨耶を覚らず。ただ、分別事識の資持力に依るが故に、発心修行す。本に達せ
   ざるを以っての故に、大菩提に向うに 疎にしてかつ遠し。故に{漸}と云うなり。
   この菩薩は、すでに梨耶の本識を了す。即ち、この識の資持力に依りて、方masaに発心修行することを得
   る。本を了するを以っての故に、大菩提に向うに、親にしてかつ近なり。故に{速}と云うなり。
   これは、所依相資に約して薫を弁ず。各 自ら発心する等に非らず。これ、下の証発心の中に説くが如し。」
   と。


( 真如薫習 )  真如・仏・菩提 ―――――> 衆生・我ら  

  義記は、
   「 真如薫習の中に 三あり。 初に 標数、 次に 列名、謂く 内薫と外薫gekunなり。 三に 弁相なり。
   中において 二あり。 先に 別釈、後に 合明なり。 前の中に 亦二あり。 先に 体相、後に 用大なり。
   前の中に 亦二あり。 初に 正しく顕し、後に 疑いを除く。 前に中に 先に 薫習を弁ず。
   
  ★ ( 自体相薫習 )
   
   { 従無始 乃至 不思業 }とは、不空本覚を{ 無漏法 }と名づく。 この法 冥に衆生に薫じて、
   物(衆生、我らのこと)の能yoく了するに非aらず。 故に、{ 不思業 }と云うなり。 この中の{業}とは、
   これ 冥薫myoukunの作用なり。 { 作境界性 }とは、ただ かの妄心に薫じて、そをして厭求enguせしめ、
   能観の智と成naるのみに非らず、また すなわち その観智の與tameに所観の境界と作naることを明かす。
   { 以此二法 }等とは、下に 薫の功能kunouを顕す。謂iwaく この心境の二法は、亦mataこの体相の二法
   なるべし。 冥myouに衆生に薫じて、力tikaraあるが故に、厭求engu等の行gyouを起さしむ。
   { 自信 }等とは、薫に依りて 修行を起すの相を明かすなり。」と。   

云何薫習 起浄法不断
所謂 以有真如法故 能薫習無明 
以薫習因縁力故 則令妄心厭生死苦 楽求涅槃
以此妄心有厭求因縁故 即薫習真如
自信己性 知心妄動無前境界 修遠離法
以如実知無前境界故 種々方便起随順行
不取不念 乃至 久遠薫習力故
無明則滅 以無明滅故 心無有起 以無起故 境界随滅
以因縁倶滅故 心相皆尽 名得涅槃成自然業

ーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー浄法薫習1.ーーーーーーーーーーーーーーーーー
云何が、薫習kunzyuu、浄法を起して 断ぜざるや。
いわゆる、真如の法あるを以moっての故に、能yoく無明に薫習し、
薫習の因縁力を以っての故に、則ち 妄心をして生死の苦を厭い、涅槃を楽求gyouguせしむ。
この妄心に 厭求enguの因縁あるを以っての故に、即ち真如に薫習すれば、
自ら己性kosyouを信じ、心 妄midaりに動ずるのみにして、前の境界無しと知りて、遠離onriの法を修し、
如実に前の境界無しと知るを以っての故に、種々なる方便をもて 随順行-gyouを起し、
取らず 念ぜず 乃至naisi 久遠kuonに薫習する力の故に。
無明すなわち滅す。無明 滅するが故に、心 起こること有ること無く、境界kyougaiは 随いて滅す。
因と縁と倶tomoに滅するが故に、心相 みな尽くるを、涅槃を得て自然業zinen/gouを成ずと名づく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 義記は、
  「 次に、浄薫を明かす。 中において、二あり。先に 問、 後に 答なり。
  答の中に、また二あり。 先に 略、 後に 広なり。 
   前の中に また二あり。 
  初に 正しく薫習を明かし、 後に{ 自信己性 }の下は、その功能を弁ず。 
   前の中に、二あり。
  先に、真如 内に無明に薫習して、浄業を成ぜしむることを明かし、 後に、即ちこの浄用 反って真如に薫じ
  て勢力を増す。 前は 即ち本薫、後は 即ち新薫なり。文の処にて見るべし。
   
   功能の中に、因果を二に分つ。  
  ◎ 因の中に{ 自信己性 }とは、十信位のなかの信なり。
  { 知心妄動 }の下は、三賢位のなかの修なり。{ 知心妄動無前境界 }とは、これ解なり。
  { 修遠離法 }とは、これ解に依りて、行を成ず。謂く尋伺zinsi等の観、唯識無塵yuisiki/muzin等の行なり。
  { 以如実知無境 }と言うは、これ 初地見道に 唯識の理を証す。前の比観に異なるが故に{如実知}と
  云うなり。 { 種々 }の下、{ 乃至 久遠薫習力 }とは、これ 十地修道の位の中に、広く万行を修して
  巧みに真如を顕すことを明かすなり。
  { 不取 }とは、所取無相なり。{ 不念 }とは、能念不生なり。{ 久遠 }とは、三祇に薫ずるが故なり。
  
     ** 十信・三賢・十地 : http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/7679546.html
     ** 尋伺zinsi     : http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/18602517.html
     ** 比観hikan     : 仏智ではなく、自らの智慧分別で、尋ね求め思い観察すること。
      所取 : 取られるもの、私が執着する事物(相)、 能念 : 念ずる主体、妄念を生ずる煩悩
      三祇 : 三阿僧祇劫-asougi/kou、長い長い時のこと

  ◎ 自下は、果を明かす。中において、二あり。 初に 滅惑、 後に 証理なり。
  前の中に{ 無明滅 }とは、根本無明の尽くるなり。{ 以無明滅心無起 }とは、妄心の尽くるなり。
  { 以無起境界滅 }とは、妄境滅するなり。 即ち、前の三種の染法を翻すなり。
  { 以因縁 }の下{ 乃至自然業 }とは、証法の徳を明かす。{因}は、謂く無明、{縁}は、謂く妄境なり。
  { 心相 }とは、謂く染心なり。これ、並びに尽るが故に、心体 転依tenneするを{ 得涅槃 }と名づく。
  不思議の業用gouyuuを起すを、{ 自然業zinen/gou }と名づくなり。」 と。 

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