混沌の時代のなかで、真実の光を求めて

現代に生きる私の上に 仏法は何ができるかを 試そうと思い立ちました。//全ての原発を 即刻停止して、 別の生き方をしましょう。

大乗起信論 4.

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依無明薫習 所起識者 非凡夫能知 亦非二乗智慧所覚
謂依菩薩 従初正信 発心観察 若証法身 得少分知
乃至菩薩究竟地 不能知尽 唯仏窮了
何以故 是心従本以来 自性清浄 而有無明
為無明所染 有其染心 雖有染心 而常恒不変 
是故此義 唯仏能知
所謂 心性常無念故 名為不変
以不達一法界故 心不相応 忽然念起 名為無明 

ーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー生滅因縁5.ーーーーーーーーーーーーーーーー
無明の薫習kunzyuuに依yoりて 起さるる識は、凡夫のよく知る所に非aらず。また二乗の智慧の覚する所にも
非aらず。謂iwaく、菩薩に依るも、初めの正信syousinより発心して観察kanzatuし、もし法身を証すれ 少分
syoubunに知ることを得るのみ。乃至naisi、菩薩究竟kukyou地にも知り尽くすこと能ataわず。 唯だ仏のみ 窮了guuryouせり。 
何を以っての故に。この心は本より以来konokata、自性清浄zisyou/syouzyouなるに しかも無明あり。無明の為tameに染zenせられて、その染心あり。 染心ありと雖iedoも、しかも常恒zyougou不変なればなり。 
是故に この義は、唯だ仏のみ能yoく知るなり。
いわゆる、心性sinsyouは、常に無念なるが故に、名づけて不変と為し、 一法界に達せざるを以っての故に、心に相応せずして、忽然kotunenとして念の起こるを、名づけて無明と為せばなり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  義記は、上の文を
  「 第二に、重ねて所依の因縁の体相を顕す。中に於いて、二あり。初めに、略して縁起の甚深を明かし、
  後に、{ 所謂心性 }の下は、広く縁起差別の義を顕す。」と節に分けています。

「 依無明薫習所起識者 〜 」

   海東疏は、「 上に説く所の{依阿梨耶識 説有無明 不覚而起}を牒すなり。」とし、
   義記は、「 上に説く所の{依根本無明 起彼静心 成業等識}を牒するなり。」としています。

  ここでは、まづ「 縁起の甚深を歎ずる 」のであります。
   
   「 中において、初めに 凡小(凡夫と二乗)は分に非らず。 次に 菩薩は分に知る。 後に 唯だ仏のみ
   窮了す。 かの二乗は、ただ四住(四住地の煩悩)を覚して 無明(無明住地)を了せざるが故に、この
   無明所起の識は、その境に非らざるを以っての故なり。
   {菩薩従初正信}等とは、十信の初に はじめて{発心}する時、即ち本識の自性縁起因果の体を観じて、
   正信を成ずることを得るなり。(乃至) 三賢位の中に、意に言う、比観するが故に、{観察}と云う。
   地上に これを証して 未だ窮めざるが故に、{少分}と云う。 それただ住相を覚して、生相を覚せざる
   を以っての故に。 如来は、四相倶に了するが故に 源を窮めることを得るなり。」と。

    **  住相・生相、四相 : 「大乗起信論3.」の正宗分(46)(47)〜を参照。
  
  「 真心を因となし、無始無明の薫習力を縁として、業転現の識を起して、阿梨耶識的存在ariyasiki-と
  なるのであるが、この根本無明に依って起こる所の根本識の縁起は、凡夫の知るところに非らず、声聞
  syoumon・縁覚engakuの二乗の智慧も、また証する所に非aらず。 二乗は 四住地の煩悩を覚すれども、
  第五の無明住地を覚知することはできない。
   しからば、菩薩は如何?  
   初正信の菩薩(十信満位の菩薩)は、初めて発心する時、阿梨耶識は因縁和合して成じ、自体無きもの
  であること、 また真如を因とし、無明を縁として、三細六粗等の結果を生ずることを観じ、正信を起し
  たる者であり、  
   初発心より三賢位に至って比量観察(経験的知によって思量観察すること)して、<相似覚>を得、
   さらに法身の菩薩、すなわち法身の法界遍満する理を証って地上の法身となり、<随分覚>を得る時、
  各々分に随って少分に根本縁起の理を知り、
   菩薩の最上位・究竟地い至るも、なお尽くすことはできない。
   仏位に至って始めて無明の根本縁起の生相すなわち心の初起を覚するのである。
  
   縁起の理法の、如何に甚深であるかを知るべきである。思うに、唯心縁起論は、仏教の基本教理であって、
  釈尊の成道もまたこの縁起の理法に他ならなかった。
  この縁起の理法に深く徹すること、すなわち成仏の過程であることを考うべきである。」
  と先師は言っています。
    
「 何以故 〜 」

   海東疏は、
   「 次に、深の義を釈す。
   { 従本以来 自性清浄而有無明 (乃至)所染有其染心 }とは、浄にして、恒に染なることを明かす。
   { 雖有染心 而常恒不変 }とは、これ動にして、常に静なることを明かす。 この道理、甚深にして
   測り難きに依りて、夫人経(勝マン経)に言うが如し。< 自性清浄心は、了知すべきこと難し。かの心の
   煩悩のために染せられるも、また了知すべきこと難し。>と。云々」と。

   義記は、
   「 下は、深の所以を釈す。
   先に、責める意に云わく。縁起の妙理は、凡聖に貫通す。 何故ぞ、見は ただ果人にありと説くや。
   答えの中に、三あり。 初は、浄に即して、常tuneに染なり。 二に、{雖有染心}の下は、染に即して、
   常に浄なり。 三に、{是故}の下は、測hakaり難きが故に 唯taだ仏のみ知ることを結成す。
    
    前の中に二句あり。 初に、縁起の体 即ち因なり(自性清浄)。 次に、縁起を発okoすことの由、
   即ち縁なり(無明)。後に、縁起の相を顕す。不染に即して しかも染なり(無明所染の染心)。
    {雖有}の下は、縁起の甚深の義を釈す。 染に即して しかも不染なり。(ここで、海東疏の引用する
   勝マン経を教証として出しています)。楞伽経の中も、またこの説に同じ。故にかの経にいわく、
   < 如来蔵は、これ清浄の相なるも、客塵煩悩の垢に染せられて 不浄なり。>乃至広く説く。云々」と。

   ここでは、「 前述の縁起の理法の甚深にして 仏陀のみ能yoく知る所以の何故なるかを問い、これに
  答えて、縁起の体と縁とを挙げて、その甚深なる所以を示すのである」と先師。
  
   また、「{従本以来 自性清浄}とは、縁起の体 即ち因を示すものである。 衆生の心性は、本来自性
  清浄なるものである。 {而有無明}とは、縁起生死の起こる縁由である。その相として染心を生ずる。
  {為無明所染 有其染心}とは、生滅縁起の現実相である。しかしながら、それでは本来清浄なる心性、
  染せられたるか? {雖有染心 而常恒不変}心性変わることなく、常恒不変である。
   これ、縁起論の深義を尽くせり と云うべく、実に不可説の世界である。この故に、仏のみ能く知ると
  言うのである。すなわち{是故 此義唯仏能知}である。」と。


「 所謂 心性常無念 〜 」

   海東疏は、
   「 初(心性の因の体相を明かす)の{心性常無念故 名為不変}と言うは、
   上の{雖有染心 而常(恒)不変}の義を釈するなり。挙体動ずと雖も、しかも本来寂静なるが故に、
   {心性常無念}と言うなり。
     第二(無明の縁の体相を顕す)の中に{心不相応}と言うは、この無明は 最極微細にして、未だ 能所
   王数の差別 非らざることを明かす。故に{心不相応}と言う。ただ、これを本と為して、別の染法の能く
   これより細にして、その前saきに在るもの無し。この義を以っての故に、{忽然起}と説く。
   本業経に言うが如し。<四住地の前には、更saraに法の起こるもの無し。故に無始無明住地と名づく。>と。
   これ、その前きに別に始たるもの無く、ただこれを本と為すことを明かす。故に{無始}と言う。なお、これ、
   この論の{忽然}の義なり。これは、細粗相続の門に約して、説きて無前と為し、また{忽然起}と言う。
   時節に約して、以って忽然起と説くには非らず。云々」と。

   先師は、
  「 心性は常に無念である。 念とは、差別の妄念である。衆生の常識的経験的思念である。されば、
  念は 相対的差別的であり、主客対立し 能所(し手・され手)分別する。しかるに、心性は、時と所との如何
  に係わらず、常に念を離れている。念は 妄念であり 染心である。心性は 自性清浄である故に、心性は 
  常に無念である。されば{故名為不変}と云うことが出来る。
   
   しかれば、この常恒不変なる心性より、如何にして無明は生ずるのであるか? この困難なる問題に答え
  られたるもの 即ち {以不達一法界故 心不相応 忽然念起 名為無明}の文である。
  
  ‘ 衆生の流転は 如何にして生ずるか?’。  曰く‘ 一法界の理に達せざるがゆえである。’
  真如の独一絶対なる法なることを知らざることによって、衆生心は 真如と相応しないものである。即ち、
  一法界の理に達せざること、それ自体が無明である。
  
  ‘ 心性は 不生不滅なるがゆえに、無始無終である。しかるにこの無始無終なる心性、常恒不変なる心体
  に向って、無明は何時何処から如何にして薫習したのであるか?’ これは、何びとにも起こる問いである。
  これに対する解答が、すなわち有名なる{忽然念起 名為無明}なる一句である。」と。 

  

復次 言意識者 即此相続識
依諸凡夫取著転深 計我我所 
種々妄執 随事攀縁 分別六塵
名為意識 亦名為分離識 又復説名分別事識
此識 依見愛煩悩 増長義故

ーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー生滅因縁4.ーーーーーーーーーーーーーーーー
復た次に、意識と言うは、即ちこれ相続識なり。  諸々の凡夫、取著syuzyaku 転utaた深くして、我と我所とを計し、種々に妄執して、事ziに随いて攀縁hannennし、六塵を分別するに依りて、
名づけて意識と為す。亦た名づけて分離識と為す。又復た説いて分別事識と名づく。
この識は、見愛煩悩に依りて、増長する義なるが故なり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 海東疏は、
  「 意識は、即ちこれ、先の相続識なり。ただし、法執分別 相応して、後を生ずる義門に就いて、則ち
  説いて意と為す。 その能起の見愛煩悩 前に従いて生ずる義門に約して、説いて意識と名づくるが故に、
  { 言意識者 即此相続識 (乃至)分別六塵 名為意識 }と言う。
  この論は、その一意識の義に就tuくが故に、別して眼等の五識を出さず。故に、意識 六塵を分別すと説く。
  { 亦名分離識 }とは、六根に依yoりて、別に六塵を取る。末那(mana/第七・マナ識)の別根に依らざるが
  故に、分離と名づくるが如きには非らず。
  また、能く 去来内外の種々の事相を分別するが故に、{ 復説名分別事識 }。
  { 依見愛煩悩増長義故 }とは、これ分別事識の義を釈す。 見修の煩悩に増長せらるるに依るを以っての
  故に、能く種々の事を分別するなり。云々」と。

 義記は、
  「{ 即此相続識 }等と言うは、この生起の識は、粗細殊なりと雖も、同じくこれ一識にして、さらに別体無き
  ことを明かすが故に、即ち 前の第五識(相続識)を指すなり。
  ただし、前は 細分の法執の分別相応依止の義門に就いて、則ち説きて{意}と為す。
  この中には、その能起の見愛粗惑相応の 前より起こるの門に約して、説いて名づけて{意識}と為す。
  謂く、意の識なるが故に、意識と名づくなり。」と。

  先師は、
   「 意識とは、意の識ということで、意の作用の粗大なるもの、すなわち五感によって働く識をいう。しかして、
   意識は、前の相続識を依止として起す妄心の作用である。(乃至)相続識を依止として、外界を縁ずる識の
   作用である。されば、意識とは、意に対して説かれたるものであり、意識と意とを比較すれば、その細なる
   ものを意と名づけ、その粗大なる作用を意識と名づける。 眼耳鼻舌身意の六識を総称して、意識という
   のである。」と。

   我々は、ふつう‘意識’という言葉を日常生活でよく使いますが、その意識は、<意の識>であり、このような
  深い背景を持ったものなのです。
  また、‘あの人は意識がある’と、様々な局面で言いますが、その意識は、多くの問題をもった意識なのです。
  それは、どのような問題を持っているのでしょうか? それが次に語られています。 

 
 
 さらに、この文の{ 依諸凡夫 }以下を義記は、
  「 初めに、人に約して粗を弁じ、 二に、{計我}以下は、その惑体を出し、三に、{随事}の下は、執所縁を明
  かし、 四に、{名為}の下は、その名を制立す、 五に、{此識}の下は、識の起こる所依を明かす。」
  と分け、
  「{ 依諸凡夫 }とは、聖人に意識を簡非す。前の智識および相続識は、通じて 二乗および地前等の菩薩
  の起すところに在るを以っての故に。故に今、凡に約してその体を顕すなり。
  { 取著転深 }とは、対治無きを以っての故に、妄境を追著し、転utaた極めて粗現す。故に深と云うなり。
  
  惑体の中に、ただ心外に境を計して、塵と為るのみに非らず、亦た復た身に於いて 我を計し、塵に於いて 
  所(我所)を計す。あるいは、即蘊を執し、あるいは離蘊を執する等、種々に妄計す。これ、計我の相を顕す。

  所依縁とは、謂く、ただ倒境の事を攀じて正理を了せず。故に{随事}等と云うなり。

  { 名意識 }とは、この論は、一意識の義に就くが故に、別に五識を出さず。ただ意識 六塵を分別すと説く。
  { 亦名分離 }とは、六根に依りて 別に六塵を取るが故に、分離と云うなり。 
  又、能く去来内外の種々の事相を分別するが故に、また説きて{ 分別事識 }と為すなり。

  下に識の起所依を明かすとは、見は 謂く 見一処住地、即ち見道の惑なり。愛は 謂く 欲色有の三愛、即ち
  修道の惑なり。この見修の二惑は、本識に薫じてこの分別事識を変生せしめるを以っての故に{増長}と云う
  なり。」と釈しています。

  先師は、
  「 この意識は、凡夫の起す識である。凡夫は、執着深くして< 我我所 >即ち個人的自我に対する我執と
  わが所有に対する固執愛着とによって、種々に妄執し事zi 即ち外境の六塵(色声香味触法)に対して我所
  の心を起し、わが所有と妄計し、念々 妄念は外境に随って妄動するを< 随事攀縁 >と言うのである。
   六塵の妄境を追着して、妄執顛倒の念 止む時なく、六塵の境に対して、愛憎好悪苦楽等の念によって分別
  を起し、種々なる活動を為すを意識というのである。」
  「 注.凡夫は、この意識のみによって、一生を費やす哀れなものである。」
  「 意識は、ふつう六識に分かつも、六識は 体一にして前五識(眼耳鼻舌身の五)も意識に統一せられる。
  故にただ一意識として五識を立てないのである。しかし、これを分離識と名づける場合は、意識は眼耳鼻舌身
  意の六識が、各別に色声香味触法の六境(六塵)に働きかけるのであるから、分離識と名づけるのである。」
  
  さらに、「 此識依見愛煩悩 増長義故 」を義記によって、勝マン経をベースに釈しています。
  「{見}とは、理に迷う惑 即ち見惑である。見惑は、見道所断の惑である。即ち邪師邪教邪思惟によって
  起こる分別起の煩悩である。粗にして断じ易いから、見惑すなわち見道所断の惑と言われる。
   {愛}とは、<欲愛住地>で、欲界に属する一切の思惑の総称である。思惑のうち愛惑 最も重きが故に、
  以って総名となす。 <色愛住地>は、色界の一切の思惑。愛を挙げて総名となすこと前の如し。
  <有愛住地>は、無色界の一切の思惑。愛を挙げて総名とすること、前の如し。
  以上の三愛は、煩悩であって欲・色・無色の三界に対する貪愛を言い、五感を通して働く情意の煩悩である。
  事に迷う修所断の煩悩、即ち宿世からの慣習による倶生起の煩悩で、細にして断じがたし。」と。
     
  

      当知 世間一切境界 皆依衆生無明妄心 而得住持
       ( 当に知るべし。世間の一切の境界は、みな衆生の無明妄心に依りて、住持することを得。)
      
      是故 一切法 如鏡中像無体可得 唯心虚妄
       ( この故に、一切の法は、鏡中の像の 体の得べきもの無きが如く、唯心にして虚妄なり。)
      
      以心生則種々法生 心滅則種々法滅故
       ( 心 生ずれば、種々の法 生じ、心 滅すれば、種々の法 滅するを以っての故なり。)
  ー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  
  海東疏は、
   「{ 当知 }以下は、次に 有に非らず(非有)して、しかも無ならざる(非無の)義を明かす。
   初に、{ 当知 世間一切境界 〜 唯心虚妄 }と言うは、これ 非有を明かす。
   次に、{ 以心生則種々法生 }と言うより以下は、その非無を顕す。無明の力に依りて不覚の心 動じ、
   乃至naisi 能yoく一切の境等を現ずるが故に、{心生則種々法生}と言うなり。
   もし、無明の心 滅すれば、境界kyougai 随いて滅し、諸moromoroの分別の識 みな滅尽することを得。
   故に、{心滅則種々法滅}と言う。刹那setunaに約して、以moって生滅を明かすには非aらず。」と。

  義記は、
   「{ 無明 }とは、根本無明なり。{ 妄心 }とは、業識gossiki等なり。
   世間の一切の諸境は、これに依りて成ずるを以って、謂iwaく即ち 現識等なり。もし、無明 未だ尽きざる
   已還igenは、この識 住持の境界 息yaまず。故に{ 住持等 }と云iうなり。
   喩えの中に、{ 無体可得 }と言うは、この境界は 心を離れての外に、体の得べき無きことを示すなり。
   又また、すなわちこの心の故に、復maた体無し。 鏡の外に 影無く、鏡の内に 復た体無きが如きが故
   なり。」と。


  「 世間一切の境界は、みな 悉kotogotoく衆生の根本無明と これより生ずる業・転・現等の諸々の妄心
  によって存在し持続するものである。 されば、
  一切は、あたかも鏡のなかの像の実体無きが如く、唯心虚妄 にして、一切境界には実体がないのである。
  されば、妄心生ずれば、即 種々の法 生じ、妄心滅すれば、種々の差別なる法も亦た、滅すると言うの
  である。 されば、心外の諸法は、唯心の所作たる虚妄の幻影に過ぎぬ。」と先師は言っています。


  「 唯心虚妄 」を、義記は「 外の伏疑を釈す 」と標しています。
 
 外とは、外道ie.仏教以外のものの考え方をする人。伏疑とは、どうにも拭うことのできない疑であります。
 
 どういう疑か?
 「 すでに 体無くば、何を以って宛然ennennとして顕現するや?」と。
 ‘ 外に私が見、感じる世界の事物に実体がなく、それは幻影に過ぎないものならば、 なぜ、このように
 私にそれらは、実際に有るものとして、私の前に現れるのであるか?’というのであります。
  これは、我らにとって、実に切実な問いであります。
 いかに、この問いが、仏教から見て当てはずれな問いであろうとも、我らは、こう問わざるを得ないのです。
 なぜなら、我らの日々の生活は、外に実在があることを自明の前提に営んでいるからであり、日々の心労や
 不安や恐れあるいは愛憎などの葛藤は、外の世界の実在を当然として起すからであります。
  これは、科学・技術の前提であるばかりでなく、我らの日常生活の前提でもあるからであります。
  政治や経済や教育や・・・・、すべてそうであります。 
 かって維新を起し、欧米列強の抗して明治国家体制を造ったのも、台湾・朝鮮・中国等に侵攻したのも、
 米国らと真正面から戦争をし、そして我国の多くの都市に空襲を受け、その地獄の火炎の中で戦いに敗北し
 明治国家体制が崩壊したのも、それらが夢幻であったとは、とても信じがたいことであります。 
 まして、今日の田舎の過疎化と高齢化が、現実ではないとは!?

 
 この疑に答えて、義記は、
 「 これ、並びにこれ、真心の上に虚妄顕現す。いづれの処にか、体の得べきもの有らんや。」と。

 どういうことか?
 義記は、さらに疑を出す。「 何を以ってか、心の上に顕現すると知ることを得るや?」と。
 答えて、
 「{ 心 生ずれば、種々の法 生ずる }等を以っての故に知るなり。
 この中に、無明の力を以moって 不覚の心 動じ 乃至 能く一切境を現ずる等の故に、{心生則種々法生}と
 言うなり。 これ、すなわち、心 薫に随いて動ず。故に{生}と云iうなり。 
 もし、無明 滅すれば、境界 随いて滅し、諸識の分別 みな滅して余無きが故に、{心滅則種々法滅}と言う。
 これ、すなわち、心源に還浄するが故に、{滅}と云iうなり。 すでに、心 不覚に随いて、妄りに諸境 現ず。
 すなわち験siる。諸境は唯心にして、体 無きなり。」と。

  
  この義記の答えを、どのように受取るか? 
 荒唐無稽と一蹴するか、それとも大変なことが語られていると感ずるか?
 国家の歴史から、現在の我らの生活や国際問題・経済問題さらに環境問題に至るまで、総じて文明において、
 ここに 我らの運命が、かかっているのではないでしょうか?
  
   

是故 三界虚偽唯心所作
離心則無六塵境界 此義云何
以一切法皆従心起 妄念而生 
一切分別即分別自心 心不見心 無相可得
当知、世間一切境界 皆依衆生無明妄心 而得住持
是故 一切法 如鏡中像 無体可得 唯心虚妄
以心生則種々法生 心滅則種々法滅故

ーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーー生滅因縁 3ーーーーーーーーーーーーーーーー
この故に、三界は虚偽kogiにして 唯心yuisinの所作なるのみ。
心を離れれば、則ち六塵zinの境界無ければなり。この義、云何ikaん。
一切の法はみな心より起こり、妄念よりして生ずるを以って、
一切の分別は、即ち自心を分別するなり。心、心を見ずんば、相として得べきもの無ければなり。
当に知るべし。世間の一切の境界kyougaiは、みな衆生の無明妄心に依yoりて、住持することを得るなり。
この故に、一切の法は、鏡中の像の体として得べきもの無きが如く、唯心にして虚妄komouなり。
心にして生ずれば、則ち種々の法生じ、心にして滅すれば、種々の法滅するを以っての故なり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 義記は、
「 第三に、{ 依心(意・意識転故)}を結す。 中に、二あり。 先に、正しく結して心に属す。
  後に、{ 此義云何 }の下は、疑を釈して広く弁ず。
  初の中に、先に順じて、三界を結す。 後に、返じて六塵を結す。

  前の中に、{ 是故 }と言うは、これ、前の一心 無明に随いて 動じて五種の識となるが
  故に、三界唯心転と説くなり。 この心は、薫に随いて 似を現ずるを、虚という。
  その虚体を隠して 詐りて実状を現ずるを偽と云う。 
  虚偽の状は、種々ありと雖も、その因縁を窮むるに、唯心の作なり。
  十地経の中も、この説に同じ。  かの現識を離れて、則ち塵境無し。 反じて六塵は
  唯だ これ一心なるを験akasiす。故に { 離心則無等 }と云うなり。」 と。


 ここに、三界とは何か? 
 我々の世界のことであります。私が認識し活動し生活する この世のことであります。
 科学の対象となるのも、これであります。我々が この世で、世界と為しうる全てを、三界
 と言います。


 「 一切の諸法の認識は、不覚の妄心によって 現じたる虚偽の相であるが故に、
  {三界虚偽}といわれる所以yuenであり、 虚偽の三界は、ただ心の所作である。
  しかして、{三界唯心所作}なることは、仏法一般の通説である。
  八十華厳経十地品には、< 三界所有 唯是一心 >とあり、・・・・すべて、三界は
  一心の所作にして 心外に法無きを説くものである。 しかれども、この仏教の説は、
  西洋哲学説の唯心論または観念論の説と直ちに同ずべきではない。 仏教のかかる説は、
  ただ単なる哲学説ではなくて、あくまで自証における価値判断ie.実践的悟証の問題である。 
  [ 迷妄なる心識に依って認識せられる世界が、そのまま客観に実在するものにあらず。 ]
  との絶対否定の智を成就せんとするものであり、したがって 虚偽の否定は やがて仏陀の
  真智を成就せんとするものである。されば{ 離心 則無六塵境界 ]と言い得るのである。」

  と先師は言っています。

   ** 六塵とは、五感と意識の対象として、外に私が見出すもののこと。


 「 此義云何 〜 」
  
 海東疏は、
「 広く釈す。中に於いて 二あり。 先は、諸法は 無ならずして、これ有に非らざることを
  明かす。 後には、諸法は 有ならずして、すべて無に非らざることを顕す。

  初の中に、{ 以一切法皆従心起妄念而生 }とは、これ諸法は 無ならずして、顕現すること
  を明かすなり。
  { 一切分別即分別自心 心不見心 無相可得 }とは、これ 諸法は 有に非らざるの義を
  明かす。 十巻経に言うが如し。
  < 身の資生 住持すること、夢のなかに生ずるが如し。 まさに二種の心あるべし。
   しかるに 心に二相なし。刀は 自ら割かず、指も自ら指さざるが如く、心の如きも、
   自ら見ず。その事また如是 > と。  
  解して云わく。もし夢の中の所見の諸事の如きは、かくの如きの所見、これ実有ならば、則ち
  能見・所見の二相あり。 しかも その夢のなかには、実に二法なし。 三界の諸心は、皆 
  この夢の如し。
  心を離れての外に、分別すべきこと無し。故に、{一切分別即分別自心}と言う。
  しかも、自心に就いて、自ら見ることあたわず。刀指等の如くなるが故に、{心不見心}と言う。
  すでに、他の見るべき無く、また自ら見ること能わず。所見 無なるが故に、能見も無なり。
  能所の二相は、 二相 みな所得無し。故に{無相可得}と言うなり。」 と。


 義記は、
  「 疑を釈する中に、三あり。初に問、次に答、後に{ 当知 }の下は結なり。
   問の意に云く。 現に塵境あり。いかんぞ、唯心なるや。
   答えて云く。 一切法は みな これこの心なり。薫に随いて 起されて、さらに異体無き
   を以っての故に、唯心と説く。

   疑いて云く。  何を以って この心 諸法と作naるや。
   釈して云く。  妄念の薫に由るが故に、諸法を生起す。故に{妄念而生}と云うなり。
   又亦、疑いて云うべし。 法 すでに唯心ならば、我 何ぞ見ずして、わが所見 ただ これ
   心と異なる。
   釈して云く。 異心とは、これ汝が妄念分別より作す。故に{妄念生}と云うなり。

 
 *** ここに、仏教の世界観が、露わに何憚ることなく、表明されています。
 
  今日の科学的世界観の虚妄性を述べているのですが、今日の仏教者の多くは、これを単なる
 大学の研究室か 寺の塀の中だけでのみ通用する説で、世に向って唱導するものとは思って
 いないかのようです。
  一方で、仏教は 世界的宗教であり、深い思索を積み重ねたもので、今後の世界に無くては
 ならないものと自負しつつも、
 「 三界は虚偽にして、唯心の所作なるのみ。心を離れれば、六塵の境界なし。」 と大胆に、
 科学に向って言うのを躊躇しています。
  もし、仏教が 人類に何か役に立つものがあると言うならば、まづ大乗仏教のこのテーゼを、
 世に堂々と押し立て、喰うか喰われるかの論争をすべきでしょう。
 どちらにも甘い顔をして、それが‘ 仏教の和の精神である’などと言うのは、狐が仏教者に
 化けているのでしょう。


  海東疏は、我らの世界は、夢の如し。実際に存在するもの(実有)ではない。我々の思考
 (分別)は、自らの心を思考しているのである、と十巻経を引きつつ言っています。
 その根拠として ‘ もし 夢の中のものが 実有のものなら、見るものと見られるものが 
 あるはずである。 しかし 夢の中には 見るもの・見られるものの2つがない。 丁度
 刀は 他の物は切れるが 自らを切ることはできないように、心は 自らを見ることはない。 ’ 

  義記は、日常感覚として、‘世界のなかに自分がいる’or‘自分の外に世界がある’という
 当然の発想から疑問を出して、問答を施しています。
  <塵境> とは、外にある世界のこと。眼で見 耳で聞き 鼻で嗅ぎ 舌で味わい、肌で寒暑
 や痛痒や物の硬軟を感ずる そうした物がある世界のこと。五感の対象の事物の世界です。

 ‘ 現にそれは、疑いようもなく有るではないか? どうして 唯taだ心が作ったものと
 言うのか?’という問に、にべもなく、
 ‘ すべてのものは、みな心である。その心が、無明妄念に薫じられて、それらはこのように
 起こっているのだ。 心以外のものが そこに有るのではない。’と答えています。
 
  まことに、仏教者は、ここまで言えねば、ウソである。似非仏教者である。 今日の仏教者、
 自他共に大いに恥ずべきものがあります。

  この義記の言のポイントは、「 無明妄念 」でしょう。 これをしっかりと捉えられるか
 どうかに、この大乗仏教のテーゼ 「 三界虚偽 唯心所作 」 の理解は懸かっているので
 はないでしょうか? 
 これをボンヤリとしか思えないところに、今日の我らの課題があるでしょう。 
 これは、西欧流の認識論や世界認識とは、土俵を異にするのである。
   
 ** 今日 多くの深刻な問題が 欧米の思想概念で捉えられて、その解決が弄masaguられて
 いるが、もし日本国の独立とか、伝統文化を大切にすると言うならば、どうして欧米の枠組み
 でしか問題を捉えず、又 それらの概念だけで問題解決ができるという前提に立つのか?!
 それは自己矛盾ではないのでしょうか?


 義記は、さらに問を発しています。 
 ‘ あらゆる物が心であるならば、私は どうして その心を見ないのか? 見えるのは、
 唯taだ心ではなく、事物であろう。’ と。 まことに こういわざるを得ないのが、我ら
 でしょう。 これを偽って、仏教者然とするのは、これもまた狐が化けた仏教者でしょう。
 しかし、この問を破らねば、大乗仏教になりません。
 釈して云う。“ 心ではなく事物があるのだと見るのは、君の妄念分別がそう見せているのだ ”
 と。 だから論は、「 一切の法は、みな心より起こり、妄念より生ずる 」と言っているのだ と。

 「{ 分別自心 }とは、すでに境は、ただ現識にして、外の実法なし。是故に、分別は
 自身を分別す。すなわち、無塵唯識の義を顕すなり。
 { 心不見心 }とは、すでに塵無相なれば、識 自ら縁ぜず。是故に塵無ければ、識 生ぜざる
 なり。云々」と。


  先師は、
 「 塵境ありとの認識は、本来 一切の法があるのでは無くして、真心 無明によって起動し 
 迷妄の五意が作用を起して、諸法ありと誤認したものであって、 客観世界とは 妄念の現じ
 たもの、所謂iwayuru現識に過ぎまい。
 されば、心所造の現象を 外界の実在と認識し、これに対して分別事識して愛憎を感じるも、
 畢竟 < 一切の分別は、即ち 自心を分別するなり >に過ぎまい。 かく迷妄なる自心を 
 自ら分別するに過ぎないのに、客観の実在ありとし これを認識しておると考えること自体が
 迷妄である。虚偽の世界は、それ自体、妄念の投影に過ぎない。」と言っています。
 

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 此意復有五種名 云何為五
一者 名為業識 謂無明力 不覚心動故
二者 名為転識 依於動心 能見相故
三者 名為現識 所謂能現一切境界
 猶如明鏡現於色像 現識亦爾 随其五塵対至 
 即現無有前後 以一切時任運而起 常在前故
四者 名為智識 謂分別染浄法故
五者 名為相続識 以念相応不断故
 住持過去無量世等善悪之業 令不失故
 能成熟現在未来苦楽等報 無差違故
 能令現在以経之事 忽然而念 未来之事 不覚妄慮

ーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー生滅因縁 2ーーーーーーーーーーーーーーー
(この意に また五種の名あり。云何ikaんが五と為naす)
一には、名づけて業識gossikiと為す。謂iwaく、無明の力にて、不覚の心 動ずるが故なり。
二には、名づけて転識tenzikiと為す。動心に依yoりて能見相あるが故なり。
三には、名づけて現識gensikiと為す。謂iう所は、能yoく一切の境界を現ずるが故なり。
 猶naoし明鏡の色像を現ずるが如く、現識もまた而sikaり。随いて五塵に対至すれば、即ち現じて前後有ること無し
 一切時に任運ninunにして起って、常に前に在るを以moっての故なり。
四には、名づけて智識と為す。謂く、染浄の法を分別するが故なり。
五には、名づけて相続識と為す。念 相応して断ぜざるを以っての故なり。
 過去の無量世等の善悪の業を住持して、失わざらしむるが故なり。
 能yoく現在・未来の苦楽等の報を成熟して差違すること無きが故なり。
 能く現在以経ikyouの事をして 忽然kotunenとして念じ、未来の事をして 不覚に妄慮せしむればなり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これは、いわゆる五意の広釈です。私の迷いの有り様を明らかにされるのであります。
先の不覚の相である三細・六粗を、主体的に私の上に見ていくのであります。

(1)業識 
  
  海東疏は、
   「{ 無明力 }と言うは、所依の縁を挙ぐ。{ 不覚心動 }とは、その業の義を釈す。起動の義は
   これ業の義なるが故なり。」と。
  義記は、
   「 初めの中に、{ 無明力 }と言うは、謂く、根本無明にして、即ち所依の縁なり。心は自ら起こらず、
   起こること 必ず縁に由ることを明かす。{ 不覚心動 }とは、正しく起相を明かして、業の義を釈成す。
   起動の義は、これ業の義なるが故なり。」と。

(2)転識

  海東疏は、
   「{ 依於動心能見相故 }とは、前の業識の動に依りて、転じて能見の相を成ず。然るに、転識に、二あり。
   もし、無明に動転せられて能見を成ずるに就いては、これ本識(阿梨耶識)にあり。
   その境界に動転せられて、能見を成ずるが如きは、これ七識を謂う。
   この中の転相は、初義に約するなり。」と。

   ** ここに、七識とは、眼・耳・鼻・舌・身・意識の六識と第七マナ識(思考の作用)のこと。
      義記は、これを「(分別)事識」と言っています。

(3)現識

  海東疏は、
   「{ 能現一切境界 }とは、前の転識の見に依りて、また能現の用を起す。 上の文に言うが如し。
   <能見に依るを以っての故に、境界妄りに現ず>と。当に知るべし。現識は、転識に依る。能見の用、即ち
   これ、能く現わるにはあらず。この故に、前に能見・能現と言う。(乃至)
   { 五塵 }とは、しばらく 粗顕を挙げて、以って色像に合す。実に論ずれば、通じて一切境を現すが故なり。
   { 以一切時任運而起常在前 }とは、また六七識の時ありて断滅するが如きに非らざるが故なり。
   この文証を以って、当に知るべし。この三は、みな本識の内に在る別用なり。」と。

(4)智識
  
  海東別記は、
   「 第四に、智識とは、これ第七識なり。上の六粗の中の初めの智相なり。愛と非愛との果を染浄の法
   と、名づく。かの法を分別して、我・我所を計するが故に{ 分別染浄法 }と言うなり。」と。
  義記は、
   「第四に智識とは、これ事識に内の細分別なり。 謂く、前の心所現の境を了せざるが故に、染浄微細の
  分別を起す。故に{ 智 }と云うなり。」と。

(5)相続識

  海東疏は、
   「 第五に、相続識とは、即ちこれ意識なり。上の六粗の中には、相続相と名づく。
   { 以念相応不断故 }とは、法執相応して長く相続することを得。これは、自体不断に約して以って、
   相続の義を釈するなり。  { 住持 }以下は、その功能に約して、相続の義を釈す。
   この識は、能く愛取の煩悩を起すが故に、能く 過去の無明所発の諸行を引持して、来果の有を堪任する
   ことを成ぜしむ。故に{ 住持(乃至)不失故 }と言う。
   又復、能く潤生ninzyouの煩悩を起して、能く業果を続生して絶えざらしむるが故に{ 成就無差違 }と言う。
   かくの如く、三世の因果流転して絶えざることは、功 意識にあり。この義を以っての故に、相続識と名づく。
   次に、{ 念以経事・慮未来事 }と言うは、この識用の粗顕の分別は、智識の微細の分別に同ぜざるを
   顕す。ここに知りぬ。この識は、ただ意識に在りて、上に説く相続心とは同ぜざることを。」と。

  義記は、海東疏の釈をほぼ用いているが、
   「{ 住持 }以下は、(乃至)この識は、潤業の煩悩を起し、能く過去の無明所発の諸行・善悪の業種を
   引持するを以って、成果の有を堪任することを成ぜしむ。もし惑の潤ずること無ければ、業種焦亡す。故に、
   { 住持(乃至)不失 }と云うなり。これ、則ち生を引きて熟せしむ。
   又復、能く潤生の煩悩を起し、能く已熟の業をして感報相応せしむるが故に、{ 成熟無差違 }と言うなり。
   (乃至) 次に{ 念巳経乃至妄慮 }と言うは、この識の用・粗分別の相は、智識の微細の分別に同ぜざる
   ことを顕すが故なり。
   二に、また、前の五意の功能を弁ず。 初の業果を住持するは、これ前の三細の功能にして、梨耶に属す。
   後のかの已未の境を念ずるは、これ後の二の功能にして事識の細分に属するなり。」と。

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