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依無明薫習 所起識者 非凡夫能知 亦非二乗智慧所覚
謂依菩薩 従初正信 発心観察 若証法身 得少分知
乃至菩薩究竟地 不能知尽 唯仏窮了
何以故 是心従本以来 自性清浄 而有無明
為無明所染 有其染心 雖有染心 而常恒不変
是故此義 唯仏能知
所謂 心性常無念故 名為不変
以不達一法界故 心不相応 忽然念起 名為無明
ーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーー生滅因縁5.ーーーーーーーーーーーーーーーー
無明の薫習kunzyuuに依yoりて 起さるる識は、凡夫のよく知る所に非aらず。また二乗の智慧の覚する所にも
非aらず。謂iwaく、菩薩に依るも、初めの正信syousinより発心して観察kanzatuし、もし法身を証すれ 少分
syoubunに知ることを得るのみ。乃至naisi、菩薩究竟kukyou地にも知り尽くすこと能ataわず。 唯だ仏のみ 窮了guuryouせり。
何を以っての故に。この心は本より以来konokata、自性清浄zisyou/syouzyouなるに しかも無明あり。無明の為tameに染zenせられて、その染心あり。 染心ありと雖iedoも、しかも常恒zyougou不変なればなり。
是故に この義は、唯だ仏のみ能yoく知るなり。
いわゆる、心性sinsyouは、常に無念なるが故に、名づけて不変と為し、 一法界に達せざるを以っての故に、心に相応せずして、忽然kotunenとして念の起こるを、名づけて無明と為せばなり。
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義記は、上の文を
「 第二に、重ねて所依の因縁の体相を顕す。中に於いて、二あり。初めに、略して縁起の甚深を明かし、
後に、{ 所謂心性 }の下は、広く縁起差別の義を顕す。」と節に分けています。
「 依無明薫習所起識者 〜 」
海東疏は、「 上に説く所の{依阿梨耶識 説有無明 不覚而起}を牒すなり。」とし、
義記は、「 上に説く所の{依根本無明 起彼静心 成業等識}を牒するなり。」としています。
ここでは、まづ「 縁起の甚深を歎ずる 」のであります。
「 中において、初めに 凡小(凡夫と二乗)は分に非らず。 次に 菩薩は分に知る。 後に 唯だ仏のみ
窮了す。 かの二乗は、ただ四住(四住地の煩悩)を覚して 無明(無明住地)を了せざるが故に、この
無明所起の識は、その境に非らざるを以っての故なり。
{菩薩従初正信}等とは、十信の初に はじめて{発心}する時、即ち本識の自性縁起因果の体を観じて、
正信を成ずることを得るなり。(乃至) 三賢位の中に、意に言う、比観するが故に、{観察}と云う。
地上に これを証して 未だ窮めざるが故に、{少分}と云う。 それただ住相を覚して、生相を覚せざる
を以っての故に。 如来は、四相倶に了するが故に 源を窮めることを得るなり。」と。
** 住相・生相、四相 : 「大乗起信論3.」の正宗分(46)(47)〜を参照。
「 真心を因となし、無始無明の薫習力を縁として、業転現の識を起して、阿梨耶識的存在ariyasiki-と
なるのであるが、この根本無明に依って起こる所の根本識の縁起は、凡夫の知るところに非らず、声聞
syoumon・縁覚engakuの二乗の智慧も、また証する所に非aらず。 二乗は 四住地の煩悩を覚すれども、
第五の無明住地を覚知することはできない。
しからば、菩薩は如何?
初正信の菩薩(十信満位の菩薩)は、初めて発心する時、阿梨耶識は因縁和合して成じ、自体無きもの
であること、 また真如を因とし、無明を縁として、三細六粗等の結果を生ずることを観じ、正信を起し
たる者であり、
初発心より三賢位に至って比量観察(経験的知によって思量観察すること)して、<相似覚>を得、
さらに法身の菩薩、すなわち法身の法界遍満する理を証って地上の法身となり、<随分覚>を得る時、
各々分に随って少分に根本縁起の理を知り、
菩薩の最上位・究竟地い至るも、なお尽くすことはできない。
仏位に至って始めて無明の根本縁起の生相すなわち心の初起を覚するのである。
縁起の理法の、如何に甚深であるかを知るべきである。思うに、唯心縁起論は、仏教の基本教理であって、
釈尊の成道もまたこの縁起の理法に他ならなかった。
この縁起の理法に深く徹すること、すなわち成仏の過程であることを考うべきである。」
と先師は言っています。
「 何以故 〜 」
海東疏は、
「 次に、深の義を釈す。
{ 従本以来 自性清浄而有無明 (乃至)所染有其染心 }とは、浄にして、恒に染なることを明かす。
{ 雖有染心 而常恒不変 }とは、これ動にして、常に静なることを明かす。 この道理、甚深にして
測り難きに依りて、夫人経(勝マン経)に言うが如し。< 自性清浄心は、了知すべきこと難し。かの心の
煩悩のために染せられるも、また了知すべきこと難し。>と。云々」と。
義記は、
「 下は、深の所以を釈す。
先に、責める意に云わく。縁起の妙理は、凡聖に貫通す。 何故ぞ、見は ただ果人にありと説くや。
答えの中に、三あり。 初は、浄に即して、常tuneに染なり。 二に、{雖有染心}の下は、染に即して、
常に浄なり。 三に、{是故}の下は、測hakaり難きが故に 唯taだ仏のみ知ることを結成す。
前の中に二句あり。 初に、縁起の体 即ち因なり(自性清浄)。 次に、縁起を発okoすことの由、
即ち縁なり(無明)。後に、縁起の相を顕す。不染に即して しかも染なり(無明所染の染心)。
{雖有}の下は、縁起の甚深の義を釈す。 染に即して しかも不染なり。(ここで、海東疏の引用する
勝マン経を教証として出しています)。楞伽経の中も、またこの説に同じ。故にかの経にいわく、
< 如来蔵は、これ清浄の相なるも、客塵煩悩の垢に染せられて 不浄なり。>乃至広く説く。云々」と。
ここでは、「 前述の縁起の理法の甚深にして 仏陀のみ能yoく知る所以の何故なるかを問い、これに
答えて、縁起の体と縁とを挙げて、その甚深なる所以を示すのである」と先師。
また、「{従本以来 自性清浄}とは、縁起の体 即ち因を示すものである。 衆生の心性は、本来自性
清浄なるものである。 {而有無明}とは、縁起生死の起こる縁由である。その相として染心を生ずる。
{為無明所染 有其染心}とは、生滅縁起の現実相である。しかしながら、それでは本来清浄なる心性、
染せられたるか? {雖有染心 而常恒不変}心性変わることなく、常恒不変である。
これ、縁起論の深義を尽くせり と云うべく、実に不可説の世界である。この故に、仏のみ能く知ると
言うのである。すなわち{是故 此義唯仏能知}である。」と。
「 所謂 心性常無念 〜 」
海東疏は、
「 初(心性の因の体相を明かす)の{心性常無念故 名為不変}と言うは、
上の{雖有染心 而常(恒)不変}の義を釈するなり。挙体動ずと雖も、しかも本来寂静なるが故に、
{心性常無念}と言うなり。
第二(無明の縁の体相を顕す)の中に{心不相応}と言うは、この無明は 最極微細にして、未だ 能所
王数の差別 非らざることを明かす。故に{心不相応}と言う。ただ、これを本と為して、別の染法の能く
これより細にして、その前saきに在るもの無し。この義を以っての故に、{忽然起}と説く。
本業経に言うが如し。<四住地の前には、更saraに法の起こるもの無し。故に無始無明住地と名づく。>と。
これ、その前きに別に始たるもの無く、ただこれを本と為すことを明かす。故に{無始}と言う。なお、これ、
この論の{忽然}の義なり。これは、細粗相続の門に約して、説きて無前と為し、また{忽然起}と言う。
時節に約して、以って忽然起と説くには非らず。云々」と。
先師は、
「 心性は常に無念である。 念とは、差別の妄念である。衆生の常識的経験的思念である。されば、
念は 相対的差別的であり、主客対立し 能所(し手・され手)分別する。しかるに、心性は、時と所との如何
に係わらず、常に念を離れている。念は 妄念であり 染心である。心性は 自性清浄である故に、心性は
常に無念である。されば{故名為不変}と云うことが出来る。
しかれば、この常恒不変なる心性より、如何にして無明は生ずるのであるか? この困難なる問題に答え
られたるもの 即ち {以不達一法界故 心不相応 忽然念起 名為無明}の文である。
‘ 衆生の流転は 如何にして生ずるか?’。 曰く‘ 一法界の理に達せざるがゆえである。’
真如の独一絶対なる法なることを知らざることによって、衆生心は 真如と相応しないものである。即ち、
一法界の理に達せざること、それ自体が無明である。
‘ 心性は 不生不滅なるがゆえに、無始無終である。しかるにこの無始無終なる心性、常恒不変なる心体
に向って、無明は何時何処から如何にして薫習したのであるか?’ これは、何びとにも起こる問いである。
これに対する解答が、すなわち有名なる{忽然念起 名為無明}なる一句である。」と。
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