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所言不覚義者 謂不如実知真如法一故
不覚心起 而有其念 念無自相 不離本覚
猶如迷人 依方故迷 若離於方 則無有迷
衆生亦爾 依覚故迷 若離覚性 則無不覚
以有不覚妄想心故 能知名義 為説真覚
若離不覚之心 則無真覚自相可説
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(よみかた)ーーーーーー根本不覚ーーーーーー
言う所の不覚の義とは、如実に真如の法の一なるを知らざるが故に、不覚の心起こりて、その念有るも、念に自相無ければ、本覚を離れざるを謂iう。猶し、迷人の方houに依yoるが故に迷うも、もし方を離るるるときは、則ち迷有ること無きが如く、衆生もまた爾sikaり。覚に依るが故に迷うも、もし覚性を離るるときは、則ち不覚なし。不覚妄想心あるを以っての故に、能yoく名義myougiを知りて、為tameに真覚と説くも、もし不覚の心を離るるときは、則ち真覚の自相の説くべきもの無ければなり。
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ここから、阿梨耶識ariyasikiに、「覚」と「不覚」の2種の意義がある中、
「 不覚 」の義を論じていくのであります。日々の現実における私の迷いのありようを
開示していくのです。
「 これより、不覚を説いて、阿梨耶識の如何なるものであるかを示めさんとするのである。
覚は、識の有する向上還滅genmetuの性徳syoutokuを云う。不覚とは、向下kouge流転せん
とする素質である。我らの現実のありのままなる阿梨耶識のこの暗黒面を開くことによって、
この識の如何なるかを、明瞭にすることが出来るであろう。」
と先師は言っています。
海東疏は、
「 次に、不覚を釈す。中に於いて、三あり。
先ず、<根本不覚>を明かし、 次に、<枝末不覚>を顕し、 第三に、総じて本末の不覚
を結す。」と言っています。
この、根本不覚・枝末不覚の名称は、元暁(gangyou海東疏の著者)の命名で、
義記もこの名の下に、この章を 海東疏にしたがって段落分けをし、また別の観点から、
「 又、初に、不覚の体を明かし、次に、不覚の相を明かし、後に、相を結して体に同ず。」
と言っています。
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上の標記の文は、< 根本不覚 >の全文に当ります。
海東疏は、
「 初の中に、また二あり。先には、不覚は 本覚に依りて立つことを明かし、後には、
本覚も また不覚に待することを顕す。 初の中に、三あり。謂く、法と喩と合なり。」
と。
義記は、
「 前の中に、二あり。初に、覚に依りて 迷を成じ、 後には、迷に依りて 覚を顕す。
また則ち疑を釈するなり。 かの妄は真に依りて、起こりて別体無きを以っての故に、
還りて能く真を返顕す。即ちこれ内薫の功能なり。
この義に由りての故に、経中に説きて言わく。< 凡oyoそ、諸moromoroの心あるものは、
悉く仏性あり。>と。 諸の妄念は、必ず真に依yoるを以って、真力に由yoるが故に
この妄念をして返流henruせざること無からしむるが故なり。」と。
◇ 「 不如実知真如法一 」 ( 如実に真如の法の一なるを知らず )
・・・「 根本不覚の義を釈す。 正しき方(方角)に迷うが如きなり。」(義記)
「 不覚心起而有其念 」 ( 不覚の心起こりて、その念あるも、 )
・・・「 業などの相念、即ち 邪方なり。」(義記)
「 業相の動念なり。これ邪方の如し。」(海東疏)
「 念無自相不離本覚 」 (念に自相無ければ、本覚を離れず。)
・・・「 邪に別体なく、正しき方を離れざるを明かす。即ち、不覚は覚を離れざる
ことを明かす)(義記)
「 正東を離れて、別の邪西無きが如くなるが故に」(海東疏)
「 本覚の平等法身・真如の理体に、如実に相応せず、法界一相の理を知らざるもの、
即ち不覚である。
義記には、< 不了如理一味 >(如理一味を了せず)。これ根本不覚である。
しかして、一度、不覚無明の心が起こる時は、これより諸々の妄念 すなわち後出の
一切の枝末不覚が生ずるのである。{その念}とは、枝末不覚を指すのである。
今、この枝末不覚に対して、根本不覚を示すのは、 およそ一切の不覚は、その根本に
おいて、真如平等の理を了satoらず、法界一相を知らざるが故に起こすを示すのである。」
と先師。
さらに、また曰く。
「 かかる不覚は、本覚に対する無知の相であるが故に、あるべからざる相ではあっても、
それ自体、実体のあるものではない。すなわち、本覚の実体を離れて、独立の存在では
ないが故に、論には< 念に自相なければ、本覚を離れず。>と云われるのである。
蓋kedaし、この一句ほど明瞭に不覚を表現したものは無いと思う。注意すべきである。」
と。
次に、喩えをあげて、法喩合説する文について、
「 方角に迷うということは、方角があるからである。もし、方角が無いならば、方角を
間違えるということは無い。
そのように、覚があるが故に、不覚の無明の迷いがあるのである。もし、覚性を離れれば
不覚無明はあり得ない。 この< 覚性を離れれば、則ち不覚なし。>との説は、一面、
覚の何たるかを示すものである。即ち、我らは、与えられたる証悟の世界に煩悩の廃滅
でなく、智による 煩悩の揚棄であることを説かんとする その予言であるかの感を
あたえる。」
と。
◇ 「 以有不覚妄想心故 能知名義 為説真覚 」
( 不覚妄想心あるを以っての故に、名義を知り、為に真覚と説く )
・・・「 無明所起(無明に起こされたる)妄想分別なり。この妄想に由りて、能く
名義を知る。
故に言説ありて、真覚と説く。これ真覚の名、妄想に対するを明かすなり。」
(海東疏)
「 若離不覚之心 則無真覚自相可説 」
( もし不覚の心を離れれば、則ち真覚の自相の説くべきもの無し。)
・・・「 所説の真覚は、必ず不覚を待つことを明かす。もし、相待せざれば、
則ち自相なし。他に対して有るなり。また自相に非らず。自相、すでに無し。
何ぞ他相あらん。 これ 諸法の無所得の義を顕す。下の文に言うが如し。
< 当知、一切の染法・浄法は みな悉く相待す。自相の説くべきもの無し >
と。」(海東疏)
義記は、
「 初に、妄に起浄の功あることを明かし、 後に、真に妄に待する義あることを明かす。
良makotoに以omonmiれば、真に依るの妄は、方masaに、能yoく真を顕し、 妄に随う
の真は、還りて妄を待ちて顕るが故なり。」と。
不覚妄想心(ie.私)あるが故に、今のように この論釈を読んで、本覚真如の名義を
知ることができ、また論主や元暁・法蔵らは、よく本覚を説き得るのである。
「 根本不覚は、真理に対する無知にあるが、その根本不覚より顕れる一切の不覚は、
しかしながら本覚の顕現に 還って利用せられ、無明不覚の実体無きことを明らかに
せられるのである。」(先師)と。
*** 我らこの地上の者は、何故このように 互いに 融和しがたく違和感を懐idaかざるを
得ないさまざまな思想・信念を持っているのでしょうか?
一つが 本当の世界観なり人生観ならば、 他方は とてもそれを真の世界観とか本当の人間の
生きる道とは言いがたいのであります。自分の懐くものでないそれは、何かが欠けていたり
間違っていたりするという感じを どうしても拭nuguうことが出来ません。
わが信念・わが思想・わが考え・わが判断・・・etc.が正しく、他の人の信念・思想・判断は
本当で無いという思いに、どうしても捕われます。
たとえ、自分が正しいと思っている思想・宗教が 実際のところ 本当にそうであっても、
もし 私がそれを真実のものだと言った途端or思った瞬間に、それは真実のもので無くなって
いるのです。むしろ、かえって本当は 真実でない信念や宗教の人の方が、私より真実なもの
となるということも、ごくありふれたことでありです。
どうして、こんなことになるのでしょうか?
―― そもそも、宗教なり思想なりは、本来自分が作り出すものでも、自分が開発するもの
でもないのでしょう。我々は、何か思い違いをしています。私が真実や正しさの基準ではない。
私は、無明不覚の者であります(不如実知真如法一)。 不覚妄想心ある者、それがどうして
真実が知れるか?
そこに、教え すなわち名義を知る(聞く)ということが成立する。 不覚妄想心が、名義
(教え、今は覚)を知ることを成立させている。不覚の者(真実や正しさのわからない者)の
為に教えがある。
真実や正義を知っている人が、思想や宗教を持っているのではない。それらを持っていると
いうことは、真実も正義も知らない故であるのでしょう。知らないものの為に、それらは名義
としてあるのですから。
しかし、この者は、説かれる教えを聞いても、それによって迷う。その意味を取り損ねる
(依覚故迷)。それを わが教えとするということは、それが 真実のものとするということ
でしょう。それ以外に 私は、教えというものに対することが出来ません。
こちらは西(これが本当の世界)だと、思うのでしょう。したがって 別の思想・信念・宗教は、
本当ではない、何か間違ったものを持っているように思われるのでしょう。
しかし、本当は違う。
こちらが西だと思うことを離れるならば、迷いも無くなる(若離於方 則有迷)。
もし、‘これが覚性だ’ということを離れれば、そこに不覚ということは無くなる。もし、
不覚の心を離れれば、そこには、‘これが真実だ’というものを言うことも無くなる。
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