感動したことば
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〜〜〜〜〜 二河白道の譬喩 ニガ/ビャクドウ 以下は、昭和6年 先師37歳の時の 善導大師『観経疏』の中の「二河白道」の譬についての講義の抜粋です 〜〜〜〜〜 「 無人空迥(クウコウ)の沢 」 から 何処から来たのか それを知らない。 何処へ行くのか それを知らない。 習慣のまにまに、 他人の言うにまかせ、 何も考えず ただ煩悩の命ずるままに、 存在をつづける。 大した悪事を働いたこともなければ、 法律を犯したこともない。 時には 善人だとさへ ほめられる。 ただ 毎日が 無意味に過ぎてゆく。 こうした生活なら、何年何十年続いても 何も生れない。 酔生夢死。 眼の覚サめない生活が ここにある。 ・・・・ 出発しない者に 障害はない。 実行しない者に 難関はない。 自覚しない者に 罪悪は見えない。 いつまで 人を裁いて 自己を知らないのか! 酔生夢死。 人生50年を 空費するのか。 因習 と 世論 と 習慣 と 惰性 に押されて、 いつまで 無道義で暮すのか。 その眼を 内に転ぜよ。 その裁きを 汝自身にむけよ。 汝は、そこに 何を発見するか? ・・・・ 無人の荒野に 一人立つ。 それは 覚めた者の、 寂しい悲しい 現実であらねばならない。 たった一人であった ――― 無限の荒野に 独(ヒト)り歩む。 この痛ましい自覚こそ、善導大師の魂の叫びであった。 釈尊は 人の生きていく相を、 「 独生 独死 独去 独来 」 と言われた。 つきつめて 大地の約束を考える時、 ‘ 私は たった独りだ ’――― それが 真実の事実である。 その眼が 外に向っている限り、 人間は、 安価なる楽天家であり、 大言壮語 ―― 痛快なる英雄である。 そこに奮闘の生活がある。 富と名誉と地位と文明と女と、その他 眼もまばゆいばかりの光彩と、 騒々しいジャズの音響とが、 我らの心を引き付ける。 しかし、過去の聖者たちは、そうした 賑やかな 人生の表通りの裏に チラチラと見ゆる 無限の暗黒を、見ぬわけにはいかなかった。 すなわち、一度(ヒトタビ) 人の心の眼が 人間の 内的運命 の上に 注がれた時、 今まで 我らの力であった 客観の一切に 満足しきれないものが、魂のうちに動いて来る。 釈尊の出家求道も、 聖親鸞の9歳の出家入山も、 それであった。 ペルシャに クセルクセス という英雄があった。 他国遠征から帰って、勝ち誇る自分の軍隊を 丘の上から見下ろしていたが、 さめざめと泣きはじめた。 従者たちは クセルクセスの心事がわからない。 その故を 問うた。 彼曰く、 「 見よ、 戦勝の旗は 風に翻り、 剣戟は 旭(アサヒ)に映じて 百万の軍勢、 堂々として 天地を呑むの壮観であるが、 しかし、この百万の勇士の影が、 50年の後に 果して 地上に いくばく残るであろう。 人を斃し 城を抜き、 屍山血河、 勝利の酒に酔うている自分も また、 果して 何ものを地上に残すであろうか? ああ! おもえば 無意味なる戯れに過ぎないではないか。 」 英雄の心事 ――― 自己破産の矛盾 この悲痛こそ、まさに 人生の真相ではないか。 生老病死の事実を抱きしめて 真実生活を願求(ガング)する者、 満たされざる願いを抱いて 悩む者は、 父あり母あり 妻子眷属にとりまかれていても、 ‘ 私は 独りだ ’ との 世界を覗かぬわけには いかない。 聖者という聖者に、 この寂しい目覚めがあった。 彼らが やがて 永遠不朽の大道に立って、 衷心から 人生勝利の 歓喜の歌 を歌ったとしても、 彼らは まず、 大地の真相に覚めて、 心から 痛み悲しみ、 しかして 真剣に 道を求めた人たちであった。 苦難に遭遇する。 孤独を感ずる。 力とたのむ 親しい者が死ぬ。 孤独を感ずる。 死を考える。 孤独を感ずる。 人の冷淡さを知る。 孤独を感ずる。 人生の真相に当面する。 孤独を感ずる。 冬枯れのような 寂しさ。 吹雪の中に 一人立ったような 寂しさ。 大森林の中に 迷い入ったような 寂しさ。 真実の力は、 この孤独から 生れる。 全人類を 抱擁するような 大愛も、 この孤独から 生れる。 ・・・・ 以上 <<<<<
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正由称名易故 相続即生 |
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