新羅の入寇新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)は、古代朝鮮半島に栄えた王国、新羅の流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。本項では新羅滅亡以後の賊徒侵攻についても概説する。
概要新羅の賊が発生した理由としては、『三国史記』新羅本紀の記述から、745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していたことが指摘されている[2]。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった[2]。このときに、九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた[2]。
しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は太宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した[2]。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人131人を武蔵国に送還した[2]。
また当時新羅は新羅下代から後三国時代につながる混乱期であって、慶州を中心とする王権は地方まで十分に及ばず、民衆は重なる政治混乱にも苦しんでいた。唐とは友好関係であったが、それ以外の周辺国である日本や渤海などとは断交していた。一方日本は、渤海とは友好的であったが新羅との仲は険悪であった。
日本では、白村江以来、唐・新羅の合従連衡による日本侵略を恐れていたため、新羅の行動はきわめて挑発的にみなされた。ただし、これらの海寇は全面戦争に波及せず、唐は中立を守ったものの、日本側は大きな自制を強いられていた。
前史三国史によると、新羅建国時から日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。多くの場合日本側が勝利を収め、新羅側は食料・金銭・一部領土等を日本に割譲した。なお新羅建国の王族の昔氏が倭人とされる。また、新羅の重鎮には倭人も登用されていたと考えられ、三国史記には新羅への数千人規模の倭人渡来の記述が見受けられる。
広開土王碑によれば、「百殘新羅舊
是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉とあり、上代の時期に一時期とはいえ日本の属国になっていたことが伺える。
日本では4世紀後期ごろからは東晋など南朝への交易がみられるようになり、その後南朝へは5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の天皇(王)が知られる。宋書の中で倭の王(天皇)について「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」(日本・朝鮮半島南部)の支配者として「安東大将軍」と称しされている。
大化の新羅の賊兵庫県朝来市の赤淵神社[3]に伝承する『神社略記』によると、大化元年(645年)に表米宿禰命(ひょうまいすくね)が丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した。沈没しかけた船を、大海龍王が、アワビの大群を用いて救ったと伝わる。赤淵神社は日下部氏が奉祭する。
遣新羅使と新羅による日本への朝貢「遣新羅使」を参照
672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇。在位は673年〜686年)は、親新羅政策を採った。また、次代の持統天皇(在位690年〜697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を後継し、同様に親新羅政策をとったが、新羅に対しては対等の関係を認めず、新羅が日本へ朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件を呑んで日本への朝貢関係を採った[5]。
帰化人日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣された[5]。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に[6]、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に[7]土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅に帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。
「東国#開発」を参照
持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し[8]、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や[9]、下毛野国に居住させる[10]。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される[11]、天平5年(733年)[12]。
「王城国」改称問題両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。なお、当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる[13]。
阿倍継麻呂と疫病翌736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅へ渡ったが、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった[13]。
だが、随員の雪連宅満は新羅到着前に既に病没していること、『三国史記』でも遣新羅使の新羅到着前後から聖徳王を含めた新羅側要人急死の記事が現れていることから、遣新羅使出発段階で既に感染者がおり、その往復によって日羅両国に感染が拡大した可能性も指摘されている[15]が、雪連宅満の死因が天然痘と推測できるものはなく、当時「持ち込まれた」とされたことからも、それが天然痘であるかの判断はともかく、使者の帰国前までは同様の症状の疾病は国内に流行していなかったことが推測されるのみである。
金泰廉による日本への朝貢752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した[13]。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている[13]。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属した形となった。
朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている[13]。金泰廉は実際の王子ではないとする研究[16]が一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していた説には確証は無い[17]。
長安での席次争い翌753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された[18]唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる[13]。この際唐は日本側の新羅が倭の従属国であった事実を受け入れ新羅を下位においた。この年の遣新羅大使は、新羅で景徳王に謁することが出来なかった[13][19]。
藤原仲麻呂の新羅征討計画天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる[20][21]。
朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来から新羅を属国と見なして来た日本(『隋書』倭国伝は、新羅が倭国を敬仰して、使いを通じていたと記している。)は激しい反感を持ち、その様子は、藤原仲麻呂(恵美押勝)が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張である、「新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている」に伺える。
御調朝貢8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり[18]、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった[18]。
また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は、「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願うことは、日本における中華思想にかなっていたため、帰化を許可した[18]。
遣新羅使停止しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった[22]。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ[23][24]。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。有名な新羅商人に張宝高がいる。
弘仁の新羅の賊翌12月7日未明[26]、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した[25]。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した[25]。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた[25]。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。
弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民9人を打ち殺し101人を捕虜にした[27][28]。この日は、基肄団の校尉貞弓らの去る日であった。
また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅へ帰国した、と大宰府から報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した[29]。
事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した[28]。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した[28]。弩師とは、大弓の射撃を教える教官である[28]。
弘仁新羅の乱以上の経緯から新羅からの帰化人対策に詳しくなった藤原衛は、のちに新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(845年)、新羅人の来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言した。朝議の結果、以後は帰化を申請してきた場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返すこととされた。これは『貞観格』にも収められ、以後の新羅人対策の基本方針になった。
山春永らの対馬侵攻計画貞観8年(866年)には、肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している[28]。
貞観の入寇貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦二艘に乗り筑前國那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある。
「貞観地震」も参照
日本三代実録の記録 |
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浜松市における弘仁新羅の乱
弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
帰化人には口分田と当面の生活費が与えられたが、かれらはおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。
新羅からの帰化人対策に詳しくなった藤原衛は、のちに新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(845年)、新羅人の来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言した。
朝議の結果、以後は帰化を申請してきた場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返すこととされた。これは『貞観格』にも収められ、以後の新羅人対策の基本方針になった。
2018/12/30(日) 午後 4:23 [ 安全は大切ですね ]