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その話題に参考になるので,ミカ先生の記事にトラックバックさせていただきました。 この記事をはじめとするミカ先生の記事からは,学習障害(LD), ひいては他の精神疾患・障害にまつわる診断の問題のいくつかが見えてくるように思われます。 ミカ先生の記事によると,LDの診断基準はありますが,その基準の客観性が不十分なために, アメリカでは過剰に「障害児」が生み出るという問題が生じていたようです。(現在は状況が変わったようです。) このようなことになった理由を考えてみました。 私はLDの歴史を調べたことはありませんが,いくつかの文献から,次のように推測しました。 LDに限らず疾患・障害全般において,「疾患」「障害」の定義は,心身が原因で生活に支障がある, という事例が積み重ねられ,それらの共通点がまとめられるのだと思われます。 そして対処(治療に限らない)方針を考え指標とするために,疾患・障害を特定するための診断基準を, やはり事例の共通点をまとめることで作るのだと思います。 例:DSM(参考 Wikipedia) 診断基準を作るための疾患・障害の定義は,できる限り厳密である必要がありますが, 診断基準には簡便に使用できることも必要と思われます。 診断は対処のための症状の分類であって,対処方針さえ立てられればよく, また,多くの場合,診断にコストをかけることは誰にもあまり望まれないのではないでしょうか。 命にかかわる事態でない限り,脳や心を検査するために,頭を開くことにはなりません。 MRIだって簡単には使用されるものではありません。 そのため,診断基準は必ずしも科学的厳密さを追及したものとはならないのだと思います。 頭を開く代わりに,比較的容易に観察できる行動や問診, そして身体反応や生理的指標などによって判断することになりますが, これらは脳の状態の間接的指標でしかありません。(そして,心の直接的指標はありません。) その結果として,診断者によって診断結果が異なる,という問題が起きやすくなるのだと思われました。 ただし,研究者や専門家もそのままでよいと考えているわけではないことは, 以前(2007年8月21日)に書いたことがあります。 少なくとも診断基準が,まったくの主観に頼っている,という見解には賛成しかねますし, 曖昧さを解消するべきという主張もあり,努力もされていると思われますが(例:EBM(参考 Wikipedia)), 今のところある程度の曖昧さを含むことは事実と考えます。 また,その曖昧さが,治療とは異なる意図での(けびちゃん氏がしばしば主張されるような), 恣意的な診断基準の運用を行いやすくしているということはあるかもしれません。 DSMを見る限りでは,個別の条件についての判断の正確さは, 診断者と対象者とその周辺の人々(家族や教員など)の努力に頼るしかないからです。 いずれかの人が努力を怠って(もしくは他の意図で),根拠のない見立てを報告すれば, 無根拠な診断が下されるという危うさを含んでいます。 なお,少々話がそれますが,精神科関係だけでなく内科などにも, 自己報告や間接指標に頼ることがあるという点で同じ問題はあると思います。 それにもかかわらず,けびちゃん氏が,精神科だけを攻撃対象とする理由が理解できません。 精神科の問題が他の診療科に比べて取り上げられにくいからでしょうか。 もし,そのような事情があるとしても,しかし,けびちゃん氏の記述がそういう論旨だけであるようには見えません。 けびちゃん氏の論旨は,日本の過去の戦争犯罪を取り上げて現代の日本人の多くが悪人であるとする主張や, 企業の1つの違法行為を取り上げてその企業活動の全体が悪意を持って運営されているとする主張に 似ていると思われます。 一部の問題を全体的な問題として一般化しすぎているのではないか,ということです。 また,問題の原因を医師や製薬会社の内面にばかり帰属する傾向も見受けられます。 自然科学的アプローチではない,社会学的アプローチ(?), もしくは政治的主張とはそういうものなのかとも思いますが, 精神医学に対する誤解を,別の誤解をもってとらえるような偏った主張が多く含まれるように見受けられ, その点は問題だと思われました。 また,専門知識の不足による誤解もときどきあるように見えます。 もしかすると,治療者側を敵視するあまり,患者側の見解に偏ってはいないでしょうか。 たとえば,けびちゃん氏はADHDの問題をしばしば取り上げられますが, このページ下のおすすめの本のような方々の取り組みはまったく無視されているように思われます。 話を戻しましょう。 脳や心の問題を適切に診断するには,どうしたらよいのでしょうか。 客観性が低い,だから客観性を高めるべき,という意見はあります。 しかし,どのようにしたら客観性を高められるでしょうか。 生理学的な数値指標や器質的な特徴でもって診断できるようにしたらよいのだとは思います。 それらについてのデータも積み重ねられていますが,しかし, そこから特徴を見極め,原因を特定し,診断基準を決定するには,まだ研究が十分ではないようです。 障害の要因として生理・神経学的要因が見出されているといっても, すべての研究事例において見出されているわけではないようであり, 結果が一貫していないことがあるように見えます。 そしてその背景にも,診断基準の不十分さがあるように思われます。 症状を厳密に定義し,それによって対象を分類しなければ, 異なるサンプルが混合しているために一貫しない結果が生じてしまうでしょう。 したがって,症状の定義,分類を客観的基準(行動指標を主とし統計学によって分析されたもの)に従って より厳密に行う必要があると思われます。 ただ,DSMやICDはそれを目指して作成されているものと思われます。 実質的な問題は,診断マニュアルよりも実際の診断にあるのかもしれません。 そもそも,日本の場合,DSMはここ数年でようやく普及してきたようです。 それ以前は,診断者が個別の知識と経験で診断しており,今もそうしている人が少なくないということでしょうか。 ミカ先生の記事にも見られるように,この分野の研究はアメリカだけでなく日本でも関心が高く, 多くのコストが費やされているようであり,現場の実態はともかく,研究の進捗は日進月歩のようです。 その勢いは,1年前の情報でも古くなってしまうことがあるほどです。 部分的な因果関係は少しずつ解明が進められているようです。 そして,部分的な因果関係から考えられる対処もあります。 問題は,その研究結果があまり現場に反映されていないことのように思われます。 ただし,直接的原因が特定されたとしても,その原因が脳にある場合は, それをそのまま診断基準にするのは,コストの問題から,困難であると思われます。 さらなる研究の積み重ねを待つしかないのでしょうか。 さて,ここまで,疾患・障害の定義と診断基準について問題点を考えてみたわけですが, 最後に,これらの問題を解決する一助になるのではないかと思われた思い付きを書いておきます。 診断基準の客観性が問題にされてきたわけですが, その客観性の問題点は,2つに分けられると考えられました。 1つは繰り返し述べてきた症状の診断の客観性であり, もう1つは,診断される方がおかれた環境の評価の客観性です。 ここで言う環境とは,教育・学校環境や,働いている人ならば労働環境, そして家庭環境のことであり,より具体的には,その中での行動や人間関係のことです。 ミカ先生もけびちゃん氏も,いずれの問題についても指摘されてはいますが, 後者については相対的に言及が少ない,もしくは前者と後者を明確には区別していないように思われます。 しかし,私は明確に分けて考えるべき問題ではないかと思いました。 たとえば,ミカ先生が指摘されていたように,現在の学習障害の診断は, 障害ではなく教育が不十分であるだけ,という可能性を十分に排除できないようです。 その原因は,症状の診断指標の適切さが不十分であることはもちろんですが,それだけではなく, 教育の適当さの評価が不十分であるためでもないかと思われました。 学習障害の診断には,「教育が適切に行われているにもかかわらず」という前提が含まれているはずですが, その前提の判断が,それこそ診断者(や教育者)の主観的な評価に頼っている点が, 障害ではない人が障害と診断されるという問題を起きやすくする一因ではないかと思われたのです。 学習障害に限らず,疾患・障害は,外的問題(だけ)ではなく,内的に問題がある,という前提があるはずです。 しかし,いずれの診断も,症状の厳密な診断は追及していても,外的な問題の厳密な評価はほとんど追及せず, 家族や教員などの口頭報告に頼っているのではないでしょうか。 そこで私の思い付きなのですが,環境の評価も客観的に行うことが必要ではないかと思いました。 環境アセスメントとの導入いうことです。 測定されるのは,教育環境ならば教育の適切さや教師の態度, 労働環境ならば上司や同僚の指示の適切さや仕事の質と量, そして家庭環境ならば家族の接し方(虐待の有無など)ということになります。 それらについて,問題行動や思考を引き起こす要因がないかどうかも, 客観的に行う必要があるのではないかと考えました。 この提案を実践するには数々の困難が容易に推測されますが,もし実践することができれば,
疾患や障害ではない方を疾患や障害と誤診するリスクは減らせるのではないかと思われますが, いかがでしょうか。 また,もし疾患や障害だった場合には,環境アセスメントの結果を治療に役立てることができると思われます。 それだけでなく,不適切な環境の発見率と適正化の向上, そのことによる疾患・障害の減少にもつながるのではないでしょうか。 この提案に,一考の価値はないでしょうか。それとも,既にどこかで試みられているでしょうか。 (なお,いたずらに増やされ続けている臨床心理士を活かすことにもなるのではないかと思われます…。) |
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この特徴ある書き方からすると、貴方は北川セーイチローさんですか?
2008/9/12(金) 午後 11:01 [ ロテ ]
ロテさん,こんにちは。
冗談なのか,本当のご質問なのか分かりかねますが…。
ここは好き勝手なことを言うために開設しているので,私が何者かはお答えしないことにしております。悪しからずご了承下さいm(__)m
それはそれとして,似ているという北川セーイチロー氏の文章を見てみたいですね。
他人の空似だとしたら,文章を書く方針のようなものが似ているのかもしれません。
2008/9/12(金) 午後 11:41
コメントとトラックバックをありがとうございます。
心理テストは、統計処理されており、あくまでもアバウトですね。
その数値を絶対であるかのように思ってしまうと、
査定のデータの解釈に問題が生じてしまうと感じます。
アセスメントのクラスを受講したとき、
ウエクスラー知能テストのレポートが教材でした。
このレポートに、受講者(ベテラン教師たち)が疑問をもったのです。
データの羅列で、しかも、解釈に間違いがあったのです。
ウエクスラー学力テストに欠陥があることを指摘する
アセスメントのレポートを提出しました。
2008/9/13(土) 午前 9:17
その後、スペシャル教育担当の定年退職した教育セラピストから
話を伺いました。その時に、サイコロジストの「査定がおかしい」
得意と不得意が逆のこともある、と説明がありました。
そのことを聞いても驚きませんでした。
ウエクスラー学力テストに欠陥・盲点があることを指摘する
アセスメントのレポートを提出していましたので。
驚いたのは、大学です。教育省も驚いたようです。
教育省は、私のアセスメントのレポートを保持しています。
上記、教育セラピストに書いた手紙も教育省に送付。
捜査官は、このセラピストにもコンタクトしたようです。
検査のデータを解釈するときに、問題があるのです。
データの解釈ができないサイコロジストが多いことが、
アメリカのスペシャル教育を受ける子供たちが増える
原因になっています。
2008/9/13(土) 午前 9:30
環境のアセスメントを行うとしても,分析と解釈に客観性を欠くという問題を解消しない限り,疾患・障害のアセスメントと同じことが起きてしまうことになりますね。
しかし,昔よりは統計検定の水準は高くなっていると思いますので(研究でも教育でも),希望がないとは思っていません。
現行のアセスメントの問題点の指摘は,おそらく権威にたてつくようなことになるので,困難は多いと思います。でも,日本にも,富山大の村上先生のような方がほかにも何人かいらっしゃるようなので,是正しようという運動の火も簡単には消えないと思っています。
私も権威におもねらないように気をつけていこうと思います。
2008/9/14(日) 午後 0:06