あそこでは言えないこと〜心理学 言いたい放題〜

しばらく多忙で開店休業状態です。主に心理学について書いてます。投票もやってますのでよろしければご覧下さい。

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更新が止まってからもここを訪れる人がちらほらといらっしゃるのですが、
ここの情報もずいぶん古くなってきましたし、サイトを閉鎖しようかと考えもしました。

しかし、いわゆる「うつ病」について、
現状の問題点を簡潔に分かりやすく整理してくださっている論文を知りましたので、
サイトを閉鎖せずにその論文を紹介しておこうと考えました。

こちらの論文です。リンク先はpdfファイルです。
「うつ病臨床における「えせ契約」(Bogus contract)について」(井原, 2010)
精神神經學雜誌, 112巻(11号), 1084-1090.

「現状」と申しましても、論文は2010年のもので既に新しくはないですが、
「うつ病」の「現状」理解には役立つのではないかと思われました。

論文のタイトルにある「えせ契約」とは、簡単に言えば、
言いたくても言えない(あるいは言わない)ことがある医師と、
「うつ病」は治せると思い込んだ(あるいは思い込まされた)患者の間の
歪な関係のことと言えるでしょうか。
言いたくても言えないとは、

医師は何について言いたくても言えない、言わないのか。
そして、患者に限らない多くの人はなぜ、
「うつ病」は治せると思い込んで、思い込まされているのか。
その歪な構造をもたらす要因である、診断の問題、原因の考え方と治療法の問題、
医師の立場、製薬会社の立場などについて、
医師である著者が忌憚のない見解を述べていらっしゃるように思われました。

研究が進展している一方で、
社会問題としての「うつ病」の問題はその進展以上の速度で
混乱を増しているように思われます。
その現状の理解の助けになるのではないでしょうか。

それほど長くない論文ですが、それでも論文ですし、全部は読めないという方は、
6ページ目の「精神科医からのメッセージ」だけでもとりあえず
ご覧になってはいかがでしょうか。
これは専門知識がなくても読める言葉で書かれています。

興味をもたれた方は、この論文と同じ号の他の特集も興味深いのではないでしょうか。
一覧のページをリンクしておきます。
上記の問題について、他の論文も読むことができます。
精神神経学雑誌第112巻第11号|公益社団法人日本精神神経学会
私がいつか書こうと思っていたことを簡潔に書かれた先生がいらっしゃったので,
ご紹介で済ませることにしました(^^;

ダイヤモンド・オンライン
クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界――「うつ」にまつわる誤解 その(10)
(こちらを見られない場合は,このページの下のリンクをご利用下さい)
私がここ何年も感じてきた,薬の働き方や役割についての,
医師と,患者やクライアントとの認識のギャップや,
それをさらに広げる,うつ病の定義の拡大と曖昧さが,
簡潔に説明されていると思いました。

私が特に念を押したいのは,
3ページ目の後半に書かれている点です。
一部を引用しましょう。

「アンバランス」を薬物療法によって整える作業は、厳密に言えば「うつ」という
状態に対しての対症療法なのであって、「うつ」をひき起こした何らかの根源に対する
根治療法とは言えないわけです。
 その次元に向けてアプローチを行なって根本的解決を目指す精神療法と、症状を
軽減して療養しやすくすることで治癒力の発現を助ける薬物療法とを、それぞれの
目的と限界を把握したうえで、病態や状態に合わせて上手に活用することが治療として
大切なスタンスだろうと思います。
 ですから、「クスリさえ飲んでいれば良い」という考え方も「クスリには意味が
ない」という意見も、いずれも偏った認識なのであり、そのような極論に振り回されて
しまうことは危険なことだと言えるでしょう。
治療における薬の使用意図の誤解と,
一部のいいかげんな医師や犯罪者などによる行為から,
薬物治療に対して過剰な嫌悪感が多くの人々に生じているように思われます。
しかし,その嫌悪感を支持する意見(
は,この泉谷先生がご説明されているように,
極論ではないかと考えます。

もちろん,治療方法を選択する権利が患者・クライアントにはありますし,
自らの考えによって薬物治療を避けるのも選択肢の1つです。
また,違法行為,犯罪(虚偽の診断による薬の処方)は問題であり,
取り締まる必要があることは当然ですが,
薬物治療に対する極論は,誤解を根拠にしていることが多いと思われ,
精神科医を訴えるための根拠としては不十分と思われます。
極論を根拠にして薬物治療を避けたり,精神科医を訴えるたりするのは,
患者・クライアント自身にとって,むしろ,
有効な選択肢を自ら減らすことにつながるのではないかと懸念します。
また,精神科医やカウンセラは,理解してもらえないと投げ出さず,根気強く,
極論に対抗していかなければならないのではないかと思います。

ただし,私はうつ病をはじめとする精神疾患・障害の診断基準を
全面的に支持するものでもありません
精神疾患・障害の概念や診断基準,治療法は,依然として,
ようやく黎明期を脱出し始めたくらいの水準ではないかと,個人的には考えています。
新たな「うつ病」と命名される病態が増加していることも,
その表れと考えられます。
少なくとも,科学技術の進歩によって明確になった部分と,
近代の思弁的な概念を引きずったままでいる部分が混在しており,
しかも,それが治療者の個人差としても表れているのではないかと推測しています。
旧態依然とした治療者と,新しい根拠や理論に基づく治療者がおり,
しかもいずれにも利点と問題点があるようです。

そのとおりならば,患者・クライアントは,
治療者も万能ではないことを承知の上で治療を求めるという姿勢が必要ということになるでしょうし,
緩解(寛解)(Yahoo!辞書)という概念を受け入れる覚悟も必要と思われます。
一方,治療者は,謙虚な姿勢で治療にのぞむことが必要とされるのではないでしょうか。
そして,このことは,他の診療科でも当たり前のことではないでしょうか。
治療者は神様ではありません。
精神疾患や障害以外にも,完全には治らない病気もありますよね。

完治するためではなく,より良い,もしくは,せめてよりましな状態を手に入れるためには,
精神科医やカウンセラが役立てることもあります。
その点を無視して,極論にとらわれ,精神医療排斥のような態度をとるのは,
苦しんでいる人たちにとって利益にならないのではないでしょうか。


ただ,どのような治療を受けることが自分にとって望ましいかという,
専門知識があっても迷いが生じることもあるであろう難しい判断を,
患者・クライアントに判断するように求めることは,あまり現実的ではないとも思います。
患者・クライアントが努力できることは,できるだけ正確に症状を伝えることであり,
そして治療者は,患者・クライアントがそうしやすい環境・状況を作るように
心がけることが必要ではないかとも思います。
このことは,治療者にとっては大学・大学院で学ぶ基本原則程度のことだと思いますが,
実際にどのくらい実行できているのでしょうか?


前回から長い間放置してしまっていたテーマですが
今回は,精神疾患や障害の診断における問題は何かということについて,
見聞きしたことや考えたことを,自分の頭の整理のために,少しだけ書いておきます。

その話題に参考になるので,ミカ先生の記事にトラックバックさせていただきました。

この記事をはじめとするミカ先生の記事からは,学習障害(LD),
ひいては他の精神疾患・障害にまつわる診断の問題のいくつかが見えてくるように思われます。
ミカ先生の記事によると,LDの診断基準はありますが,その基準の客観性が不十分なために,
アメリカでは過剰に「障害児」が生み出るという問題が生じていたようです。(現在は状況が変わったようです。

このようなことになった理由を考えてみました。
私はLDの歴史を調べたことはありませんが,いくつかの文献から,次のように推測しました。
LDに限らず疾患・障害全般において,「疾患」「障害」の定義は,心身が原因で生活に支障がある,
という事例が積み重ねられ,それらの共通点がまとめられるのだと思われます。
そして対処(治療に限らない)方針を考え指標とするために,疾患・障害を特定するための診断基準を,
やはり事例の共通点をまとめることで作るのだと思います。
例:DSM(参考 Wikipedia)

診断基準を作るための疾患・障害の定義は,できる限り厳密である必要がありますが,
診断基準には簡便に使用できることも必要と思われます。
診断は対処のための症状の分類であって,対処方針さえ立てられればよく,
また,多くの場合,診断にコストをかけることは誰にもあまり望まれないのではないでしょうか。
命にかかわる事態でない限り,脳や心を検査するために,頭を開くことにはなりません。
MRIだって簡単には使用されるものではありません。
そのため,診断基準は必ずしも科学的厳密さを追及したものとはならないのだと思います。
頭を開く代わりに,比較的容易に観察できる行動や問診,
そして身体反応や生理的指標などによって判断することになりますが,
これらは脳の状態の間接的指標でしかありません。(そして,心の直接的指標はありません。

その結果として,診断者によって診断結果が異なる,という問題が起きやすくなるのだと思われました。
ただし,研究者や専門家もそのままでよいと考えているわけではないことは,
以前(2007年8月21日)に書いたことがあります
少なくとも診断基準が,まったくの主観に頼っている,という見解には賛成しかねますし,
曖昧さを解消するべきという主張もあり,努力もされていると思われますが(例:EBM(参考 Wikipedia)),
今のところある程度の曖昧さを含むことは事実と考えます。
また,その曖昧さが,治療とは異なる意図での(けびちゃん氏がしばしば主張されるような),
恣意的な診断基準の運用を行いやすくしているということはあるかもしれません。
DSMを見る限りでは,個別の条件についての判断の正確さは,
診断者と対象者とその周辺の人々(家族や教員など)の努力に頼るしかないからです。
いずれかの人が努力を怠って(もしくは他の意図で),根拠のない見立てを報告すれば,
無根拠な診断が下されるという危うさを含んでいます。

なお,少々話がそれますが,精神科関係だけでなく内科などにも,
自己報告や間接指標に頼ることがあるという点で同じ問題はあると思います。
それにもかかわらず,けびちゃん氏が,精神科だけを攻撃対象とする理由が理解できません。
精神科の問題が他の診療科に比べて取り上げられにくいからでしょうか。
もし,そのような事情があるとしても,しかし,けびちゃん氏の記述がそういう論旨だけであるようには見えません。
けびちゃん氏の論旨は,日本の過去の戦争犯罪を取り上げて現代の日本人の多くが悪人であるとする主張や,
企業の1つの違法行為を取り上げてその企業活動の全体が悪意を持って運営されているとする主張に
似ていると思われます。
一部の問題を全体的な問題として一般化しすぎているのではないか,ということです。
また,問題の原因を医師や製薬会社の内面にばかり帰属する傾向も見受けられます。
自然科学的アプローチではない,社会学的アプローチ(?),
もしくは政治的主張とはそういうものなのかとも思いますが,
精神医学に対する誤解を,別の誤解をもってとらえるような偏った主張が多く含まれるように見受けられ,
その点は問題だと思われました。
また,専門知識の不足による誤解もときどきあるように見えます。
もしかすると,治療者側を敵視するあまり,患者側の見解に偏ってはいないでしょうか。
たとえば,けびちゃん氏はADHDの問題をしばしば取り上げられますが,
このページ下のおすすめの本のような方々の取り組みはまったく無視されているように思われます。


話を戻しましょう。
脳や心の問題を適切に診断するには,どうしたらよいのでしょうか。
客観性が低い,だから客観性を高めるべき,という意見はあります。
しかし,どのようにしたら客観性を高められるでしょうか。

生理学的な数値指標や器質的な特徴でもって診断できるようにしたらよいのだとは思います。
それらについてのデータも積み重ねられていますが,しかし,
そこから特徴を見極め,原因を特定し,診断基準を決定するには,まだ研究が十分ではないようです。
障害の要因として生理・神経学的要因が見出されているといっても,
すべての研究事例において見出されているわけではないようであり,
結果が一貫していないことがあるように見えます。

そしてその背景にも,診断基準の不十分さがあるように思われます。
症状を厳密に定義し,それによって対象を分類しなければ,
異なるサンプルが混合しているために一貫しない結果が生じてしまうでしょう。
したがって,症状の定義,分類を客観的基準(行動指標を主とし統計学によって分析されたもの)に従って
より厳密に行う必要があると思われます。

ただ,DSMやICDはそれを目指して作成されているものと思われます。
実質的な問題は,診断マニュアルよりも実際の診断にあるのかもしれません。
そもそも,日本の場合,DSMはここ数年でようやく普及してきたようです。
それ以前は,診断者が個別の知識と経験で診断しており,今もそうしている人が少なくないということでしょうか。

ミカ先生の記事にも見られるように,この分野の研究はアメリカだけでなく日本でも関心が高く,
多くのコストが費やされているようであり,現場の実態はともかく,研究の進捗は日進月歩のようです。
その勢いは,1年前の情報でも古くなってしまうことがあるほどです。
部分的な因果関係は少しずつ解明が進められているようです。
そして,部分的な因果関係から考えられる対処もあります。
問題は,その研究結果があまり現場に反映されていないことのように思われます。

ただし,直接的原因が特定されたとしても,その原因が脳にある場合は,
それをそのまま診断基準にするのは,コストの問題から,困難であると思われます。
さらなる研究の積み重ねを待つしかないのでしょうか。


さて,ここまで,疾患・障害の定義と診断基準について問題点を考えてみたわけですが,
最後に,これらの問題を解決する一助になるのではないかと思われた思い付きを書いておきます。

診断基準の客観性が問題にされてきたわけですが,
その客観性の問題点は,2つに分けられると考えられました。
1つは繰り返し述べてきた症状の診断の客観性であり,
もう1つは,診断される方がおかれた環境の評価の客観性です。
ここで言う環境とは,教育・学校環境や,働いている人ならば労働環境,
そして家庭環境のことであり,より具体的には,その中での行動や人間関係のことです。
ミカ先生もけびちゃん氏も,いずれの問題についても指摘されてはいますが,
後者については相対的に言及が少ない,もしくは前者と後者を明確には区別していないように思われます。
しかし,私は明確に分けて考えるべき問題ではないかと思いました。

たとえば,ミカ先生が指摘されていたように,現在の学習障害の診断は
障害ではなく教育が不十分であるだけ,という可能性を十分に排除できないようです。
その原因は,症状の診断指標の適切さが不十分であることはもちろんですが,それだけではなく,
教育の適当さの評価が不十分であるためでもないかと思われました。
学習障害の診断には,「教育が適切に行われているにもかかわらず」という前提が含まれているはずですが,
その前提の判断が,それこそ診断者(や教育者)の主観的な評価に頼っている点が,
障害ではない人が障害と診断されるという問題を起きやすくする一因ではないかと思われたのです。
学習障害に限らず,疾患・障害は,外的問題(だけ)ではなく,内的に問題がある,という前提があるはずです。
しかし,いずれの診断も,症状の厳密な診断は追及していても,外的な問題の厳密な評価はほとんど追及せず,
家族や教員などの口頭報告に頼っているのではないでしょうか。

そこで私の思い付きなのですが,環境の評価も客観的に行うことが必要ではないかと思いました。
環境アセスメントとの導入いうことです。
測定されるのは,教育環境ならば教育の適切さや教師の態度,
労働環境ならば上司や同僚の指示の適切さや仕事の質と量,
そして家庭環境ならば家族の接し方(虐待の有無など)ということになります。
それらについて,問題行動や思考を引き起こす要因がないかどうかも,
客観的に行う必要があるのではないかと考えました。

この提案を実践するには数々の困難が容易に推測されますが,もし実践することができれば,
疾患や障害ではない方を疾患や障害と誤診するリスクは減らせるのではないかと思われますが,
いかがでしょうか。
また,もし疾患や障害だった場合には,環境アセスメントの結果を治療に役立てることができると思われます。
それだけでなく,不適切な環境の発見率と適正化の向上,
そのことによる疾患・障害の減少にもつながるのではないでしょうか。
この提案に,一考の価値はないでしょうか。それとも,既にどこかで試みられているでしょうか。
(なお,いたずらに増やされ続けている臨床心理士を活かすことにもなるのではないかと思われます…。)

念のためのネタバレ注意

作品を見る前に内容を知りたくない人はご覧にならないほうがよいかと思われます。
ただ,私自身が作品を見る前に内容を知りたくないと思っているので,
極力,内容には触れないように書いています。


映画の原作となる森博嗣氏の著作については「スカイ・クロラ」に限らず,
すべてがFになる」を読んで以来のファンで,
文庫を中心にほとんどの作品を読みました。
そして押井守監督の作品については,「攻殻機動隊」シリーズのファンです。
だから,Yahoo!知恵袋でも書いたように,「スカイ・クロラ」の映画化はとても興味深いことでした

毎度書いているように,ず〜〜〜っと忙しい日々が続いていて,
「ナ・バ・テア」以降の著作を読む余裕がなかったのですが,
これだけはどうしても映画館で観たい,と思いましたので,
電車移動中にがんばって(文庫ではないので片手では読みにくい)原作を読み,
スカイ・クロラ The Sky Crawlers」を観てきました。

映画の感想の前に,原作の感想について少しだけ。
「スカイ・クロラ」を読んでからずいぶんたっていたので,
それから読み直すことにしたのですが,読んでみると,
最初に読んだときとは印象がかなり違う…(^^;
初めて読んだときは,今よりも心に余裕がない状態のときに急いで読んだように思います。
今回は,ゆったりくつろいで読めなかった点は同じですが,
それでも最初よりは物語に没入することができました。
感想は,一言で言うと,自由に生き,死ぬことの清々しさとその実践の難しさが感じられた,
といったところでしょうか。
(時間がたつとまた変わるかもしれませんが。)

「スカイ・クロラ」だけなら,ハードボイルドといえばハードボイルドだと思うのですが,
「ナ・バ・テア」以降は,明らかにそれが主ではないように思われました。
「スカイ・クロラ」を気に入った方は読まなくてもよいのではないかとも思いますし,
反対に,「スカイ・クロラ」を読んで釈然としなかった人は「ナ・バ・テア」以降も
読むほうがよいのではないかとも思いました。
全体としては,文章には詩的美しさがあり(たぶん),ミステリィ的要素や,SF的要素もあります。
空戦は大規模戦闘が少ないので,戦争というより武術の達人たちの対決を見るようで,ドキドキします。
全体に親切ではありませんが,面白いです。

飛行機の専門用語が分からないと空戦の描写にはついていけないと思われますので,
エルロン,ラダー(はしごではない),エレベータ(箱型の昇降機ではない),
ストール(肩掛けではない),ヨー,ピッチくらいは調べてから読むとよいかもしれません。
インメルマン・ターン,ロール,キャブレター,トルクなども,
Wikipediaなどで説明を見ることができます(例:エルロン)

さて,映画の感想です。
一言で言うと,良かったけど釈然としない点もありました(^^;

原作の良さ(特に台詞)はたくさん盛り込まれていたように思います。
それに,空戦の描写は期待どおりというか,期待以上というか,とにかく格好良かったです。
「スロットルを切って、エレベータを思いっ切り引く。歯を食いしばって加速度に堪えて、
数を三つ数えてから、エンジンを吹き上げる。機体は上を向いた状態で一度失速し、
バク転したかのように翻る。」(原作「スカイ・クロラ」より)
原作で描かれていた,このようなアクロバティックな空戦が見事に「再現」されていました。
絵的な格好良さだけでなく,動き,音もとても格好良く,映画館で見てよかったと思いました。
絵や音楽は,これまでの押井監督作品好きを裏切らない出来だったのではないでしょうか。

表現方法(演出?)は,これまでの押井監督作品とは異なっていたのではないでしょうか。
モノローグの多い原作をどのように表現するのかと疑問に思っていたのですが,
これまでの押井監督作品とは異なり,語ることによる表現はされていませんでした。
この点は,むしろ押井監督作品になじんでいない方に
親しみやすい表現だったのではないかと思いました。
ただ,表現が繊細すぎるのではないか,
原作を読んでいない方に心情がどのように伝わるだろうか,と疑問に感じました。
原作を読んでいない方の感想をうかがいたいところです。

私が釈然としなかったのは,ストーリー(脚本)です。
原作を読めば分かるように,原作をそのまま映画化することは極めて困難です。
予告などでも,原作とは異なる点が主たるテーマになっていることが見て取れました。
そのことは分かっていたのですが,それでもなお,
ストーリー,特に結末への展開には納得がいきませんでした…。
原作に忠実な表現が多かったために,原作を思い浮かべながら観てしまったからかもしれません。
この点も,原作を読んでいない方の感想をうかがいたいところです。

最後に,お勧めかどうかと言えば,お勧めであるとは思います。
力作であり,見ごたえはあると思います。
絵も音楽もきれいです。
ただ,好き嫌いは好みの問題だと思います。(ありとあらゆる作品についてそう思いますが。)
分かりやすいラブ・ストーリーに食傷している方には特にお勧めかもしれません。
同じ「プロペラ機」と「ラブ・ストーリー」でも,
映画「パール・ハーバー」とはまったく異なるのではないでしょうか。
(私は「パール・ハーバー」を観ていませんが。)

私はDVDが出たら買ってしまうと思います。
とりあえず,もう一度観たいです。きっと,感想が少し変わると思います。
あと,DVDのおまけにも期待しているので…。
心理学の研究結果のお話です。
幸運を呼ぶ○○を買わせようという話でもなければ,
自己啓発セミナーへの勧誘のための話でもありません。
お金をかけない方法のヒントです。だから安心してお読み下さい(^^)


幸福感と親切さの関係について研究した論文です。
これを読むと,お金をかけず幸福になるヒントが見つかります。

難しい理論のところはおいといて,結果を中心に説明すると,次のようなお話です。
注:要約ではありません。内容の正確さも保証しません。
細かいことはどうでもいい,幸福になる方法だけ知りたいという方は,
緑色のところだけ(特にSTUDY 2を)読むとよいでしょう。

まず,STUDY 1について。
心理テスト(主観的幸福感尺度)の得点によって,参加者の大学生(9割が女性)を,
幸福感が高いグループ低いグループに分類しました。
その2つのグループについて,
最近3週間の幸福な経験と不幸な経験(主に人間関係,恋愛)について
いろいろ比較しました。
その結果,まず(TABLE 1),
幸福感が高いグループは,低いグループに比べて,
最近3週間に経験した幸福な出来事の数が多かったのですが,
不幸な出来事の数は幸福感が低いグループと同程度でした。
また,
幸福感が高いグループは,低いグループに比べて,
最近3週間に経験した幸福な出来事の幸福感は強かったのですが,
不幸な出来事の幸福感(不幸感)は幸福感が低いグループと同程度でした。

つまり,
幸福感が高い人たちは,幸福感が低い人たちよりも
幸福な出来事を多く経験しており,しかもそれをより強く幸福に感じていたが,
不幸な経験の数やその不幸感の強さについては差がなかった
という結果になりました。

この結果から,
幸福感の高さは,それまでの不幸な出来事よりも,
幸福な出来事の数とその幸福感の強さで決まる
という可能性が考えられます。
これを法則Aとしておきます。

また,同じ学生たちに,親切さについてアンケート調査をした結果(TABLE 2),
幸福感が高いグループは,低いグループよりも,
他者に親切にしたいと思っており
他者に親切にしているとも思っており
実際に,毎日,他者に親切なことをしている
という傾向が明らかになりました。

この結果から,
幸福感が高いと,そうでない場合よりも,他者に親切にしたいと思い,
実際に親切に接する,という可能性が考えられます。
これを法則Bとしておきます。

次に,STUDY 2について。こちらが幸福になる方法の直接的なヒントです。
STUDY 2では,'他者に親切にすると幸福感が高まる
という可能性が検証されました。

検証のために,2つのグループ(女性の大学生のみ)が設定されました。
片方のグループは,親切なことをする回数の目標を決めて,
毎日,1週間の実験期間中,
実際に親切なことをした回数を数えるように指示されました。
これは,他者に親切にすることを意識させるための操作でした。
そして,実験の1週間が終わったら,アンケートに,
目標を達成できた程度と,親切なことをしたことで感謝された程度を回答しました。
こちらを親切グループとします。

もう一方のグループは,特に指示がない,
いつもどおりに過ごすグループでした。
こちらを普通グループとでもしておきましょう。

この両方のグループが,実験期間の1ヶ月前と,1ヶ月後の2回,
主観的幸福感尺度に回答しました。
その結果を見てみると(Figure 1),
親切グループは,実験期間の1ヶ月前よりも,
実験期間の1ヶ月後のほうが幸福感が高くなっていました。
一方,普通グループは,幸福感に変化がありませんでした。
また,親切グループは,実験期間の1ヶ月後に,
普通グループよりも幸福感が高くなっていました。

つまり,このSTUDY 2の結果は,
他者に親切にすることを心がけると,そうしないよりも,
幸福を感じられる,という可能性を示しています。
これを法則Cとしておきます。

さらに細かく見ていくと(TABLE 3),
親切グループの中でも,特に幸福感がたくさん上がった人たちは,
そうではない人たちに比べて,
実際に親切な行動をより多く実行しており(1日平均3回以上),
他者への感謝経験も多く感じていました。
ただし,目標を達成できた程度には,そのような差がありませんでした。

このことは,
他者に親切にしようという目標が高かった人ほど,
他者からよく感謝され,幸福感はたくさん上がった,ということや,
他者に親切にすることは,幸福な経験につながる
という可能性を示しています。
これを法則Dとしておきます。

STUDY 1,2の法則A〜Dをまとめると,
次のような幸福感の法則が浮かび上がります。

幸福感は,不幸な経験よりも,むしろ,
幸福な経験の数とその幸福感の強さで決まり,法則A
そして,幸福に感じている人ほど
他者に親切にしようとする傾向がある。法則B
しかも,他者に親切にすることは,幸福な経験となり,
幸福感を高めることにつながる。法則C,法則D

しかも,法則C,法則Dは,法則Aにつながります。
つまり,幸福感と親切さは,
他者に親切にする⇔幸福感が高まる,という,
お互いに高めあう,循環的関係にあったということです。

だから,毎日の生活にあまり幸福感を感じていないという人は,
自分が不幸なのに他人に親切になんかできない,なんて言わずに,
周囲の人に親切にすることを心がけるとよいかもしれません(^^)

これは,情けは人の為ならず,ということわざが,
ただの古いことわざではなく,実際に正しいことを証明した研究と言えるでしょう。
(実際に,という点が重要です。ガリレイのピサの斜塔での実験のお話などと同じ。)
STUDY 1までなら,たいていの研究者にできる研究ですが,
STUDY 2は簡単には検討できません。
研究者の(それと実験参加者の)労力には頭が下がります。

他者(実験者)の指示によって,親切にさせられた,と言えるにもかかわらず,
幸福感は高まったことも興味深いです。
自発的な親切ではなく,たとえば,誰かにさせられた社会奉仕活動でも,
幸福感が高まるかもしれませんね。

もちろん,この研究1つだけでは,他者に親切にすると幸福になれることが証明された,
と言い切るには,不十分です。
しかし,他人に親切にすると自分も幸せになれる,という認識を広めれば,
それだけでも少しは良い社会にならないでしょうか。

「そういう親切は偽善だ」,という意見もあるかもしれません。
しかし,私の考えとしては,
相手が喜ぶことをするならば,その動機は何でも良いと思います。
(だから最終的には困らせることになる,詐欺などの犯罪は論外です。)
評価されるべきは動機よりも行動だと思いますし,
自分のためにでも他者に親切な行動をする人は,
清い心を持った何もしない人よりも好ましいと思います。

お節介,余計なお世話,と評価される行動も増えるかもしれませんが,
住みやすい社会の代償と思えば,安いものではないでしょうか?


最近(といってもここ10年以上)の心理学には,ポジティブ心理学という領域があります。
今回紹介した論文もその領域のものです。
長い間,どちらかといえば,心の病的な側面,負の側面に関心の大半を向けていた心理学に対して,
それだけでよいのかと疑問に思うことから始まった領域です。

余談ですが,
私のブログの傾向をkizasi.jpのMyBoo ベータ版で分析してみたところ,
悲しい気持ち  がブログからにじみ出ています。
話題に関しては  健康  について多く書かれているみたいです。
 
「悲しい気持ち」 
判定ワード悲しい、 禁止、 原因、 障害、 病気、 社会、 教育...

その他の感情
「感謝の気持ち」  「怒ってる感」 
「健康」 
判定ワード病気、 健康だ、 診断、 治癒、 疾患、 治る、 検査...
という結果になったため,
今回のような記事も入れておこうと考えたのでした(^^;


下↓の「私のおすすめ」の本は,
今回紹介した論文の著者のお一人である,島井先生が編著者をされた本です。
この本では,最近のポジティブ心理学研究が幅広く紹介されています。
専門書なので少し難しいかもしれません。
今回紹介した研究にもほんの少しだけ触れられていますが,
そのほかにも,財産の量は幸福感とは関係がない,などの,
興味深い研究結果が紹介されています。
心理学を専門的に学ぶ人ではなくても,
幸福とは何か(それと,健康とは何か)ということを考える材料になる本ではないでしょうか。

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