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心理学の研究結果のお話です。 幸運を呼ぶ○○を買わせようという話でもなければ, 自己啓発セミナーへの勧誘のための話でもありません。 お金をかけない方法のヒントです。だから安心してお読み下さい(^^) 今回取り上げるのはこの論文です。(pdfファイルです。) Otake, K., Shimai, S., Tanaka-Matsumi, J., Otsui, K., & Fredrickson, B. L. (2006). Happy people become happier through kindness: A counting kindnesses intervention. Journal of Happiness Studies, 7, 361-375. 幸福感と親切さの関係について研究した論文です。 これを読むと,お金をかけず幸福になるヒントが見つかります。 難しい理論のところはおいといて,結果を中心に説明すると,次のようなお話です。 注:要約ではありません。内容の正確さも保証しません。 細かいことはどうでもいい,幸福になる方法だけ知りたいという方は, 緑色のところだけ(特にSTUDY 2を)読むとよいでしょう。 まず,STUDY 1について。
心理テスト(主観的幸福感尺度)の得点によって,参加者の大学生(9割が女性)を, 幸福感が高いグループと低いグループに分類しました。 その2つのグループについて, 最近3週間の幸福な経験と不幸な経験(主に人間関係,恋愛)について いろいろ比較しました。 その結果,まず(TABLE 1), 幸福感が高いグループは,低いグループに比べて, 最近3週間に経験した幸福な出来事の数が多かったのですが, 不幸な出来事の数は幸福感が低いグループと同程度でした。 また, 幸福感が高いグループは,低いグループに比べて, 最近3週間に経験した幸福な出来事の幸福感は強かったのですが, 不幸な出来事の幸福感(不幸感)は幸福感が低いグループと同程度でした。 つまり, 幸福感が高い人たちは,幸福感が低い人たちよりも 幸福な出来事を多く経験しており,しかもそれをより強く幸福に感じていたが, 不幸な経験の数やその不幸感の強さについては差がなかった, という結果になりました。 この結果から, 幸福感の高さは,それまでの不幸な出来事よりも, 幸福な出来事の数とその幸福感の強さで決まる, という可能性が考えられます。 これを法則Aとしておきます。 また,同じ学生たちに,親切さについてアンケート調査をした結果(TABLE 2),
幸福感が高いグループは,低いグループよりも, 他者に親切にしたいと思っており, 他者に親切にしているとも思っており, 実際に,毎日,他者に親切なことをしている, という傾向が明らかになりました。 この結果から, 幸福感が高いと,そうでない場合よりも,他者に親切にしたいと思い, 実際に親切に接する,という可能性が考えられます。 これを法則Bとしておきます。 次に,STUDY 2について。こちらが幸福になる方法の直接的なヒントです。
STUDY 2では,'他者に親切にすると幸福感が高まる, という可能性が検証されました。 検証のために,2つのグループ(女性の大学生のみ)が設定されました。 片方のグループは,親切なことをする回数の目標を決めて, 毎日,1週間の実験期間中, 実際に親切なことをした回数を数えるように指示されました。 これは,他者に親切にすることを意識させるための操作でした。 そして,実験の1週間が終わったら,アンケートに, 目標を達成できた程度と,親切なことをしたことで感謝された程度を回答しました。 こちらを親切グループとします。 もう一方のグループは,特に指示がない, いつもどおりに過ごすグループでした。 こちらを普通グループとでもしておきましょう。 この両方のグループが,実験期間の1ヶ月前と,1ヶ月後の2回, 主観的幸福感尺度に回答しました。 その結果を見てみると(Figure 1), 親切グループは,実験期間の1ヶ月前よりも, 実験期間の1ヶ月後のほうが幸福感が高くなっていました。 一方,普通グループは,幸福感に変化がありませんでした。 また,親切グループは,実験期間の1ヶ月後に, 普通グループよりも幸福感が高くなっていました。 つまり,このSTUDY 2の結果は, 他者に親切にすることを心がけると,そうしないよりも, 幸福を感じられる,という可能性を示しています。 これを法則Cとしておきます。 さらに細かく見ていくと(TABLE 3),
親切グループの中でも,特に幸福感がたくさん上がった人たちは, そうではない人たちに比べて, 実際に親切な行動をより多く実行しており(1日平均3回以上), 他者への感謝経験も多く感じていました。 ただし,目標を達成できた程度には,そのような差がありませんでした。 このことは, 他者に親切にしようという目標が高かった人ほど, 他者からよく感謝され,幸福感はたくさん上がった,ということや, 他者に親切にすることは,幸福な経験につながる, という可能性を示しています。 これを法則Dとしておきます。 STUDY 1,2の法則A〜Dをまとめると, 次のような幸福感の法則が浮かび上がります。 幸福感は,不幸な経験よりも,むしろ, 幸福な経験の数とその幸福感の強さで決まり,(法則A) そして,幸福に感じている人ほど 他者に親切にしようとする傾向がある。(法則B) しかも,他者に親切にすることは,幸福な経験となり, 幸福感を高めることにつながる。(法則C,法則D) しかも,法則C,法則Dは,法則Aにつながります。 つまり,幸福感と親切さは, 他者に親切にする⇔幸福感が高まる,という, お互いに高めあう,循環的関係にあったということです。 だから,毎日の生活にあまり幸福感を感じていないという人は, 自分が不幸なのに他人に親切になんかできない,なんて言わずに, 周囲の人に親切にすることを心がけるとよいかもしれません(^^) これは,情けは人の為ならず,ということわざが, ただの古いことわざではなく,実際に正しいことを証明した研究と言えるでしょう。 (実際に,という点が重要です。ガリレイのピサの斜塔での実験のお話などと同じ。) STUDY 1までなら,たいていの研究者にできる研究ですが, STUDY 2は簡単には検討できません。 研究者の(それと実験参加者の)労力には頭が下がります。 他者(実験者)の指示によって,親切にさせられた,と言えるにもかかわらず, 幸福感は高まったことも興味深いです。 自発的な親切ではなく,たとえば,誰かにさせられた社会奉仕活動でも, 幸福感が高まるかもしれませんね。 もちろん,この研究1つだけでは,他者に親切にすると幸福になれることが証明された, と言い切るには,不十分です。 しかし,他人に親切にすると自分も幸せになれる,という認識を広めれば, それだけでも少しは良い社会にならないでしょうか。 「そういう親切は偽善だ」,という意見もあるかもしれません。 しかし,私の考えとしては, 相手が喜ぶことをするならば,その動機は何でも良いと思います。 (だから最終的には困らせることになる,詐欺などの犯罪は論外です。) 評価されるべきは動機よりも行動だと思いますし, 自分のためにでも他者に親切な行動をする人は, 清い心を持った何もしない人よりも好ましいと思います。 お節介,余計なお世話,と評価される行動も増えるかもしれませんが, 住みやすい社会の代償と思えば,安いものではないでしょうか? 最近(といってもここ10年以上)の心理学には,ポジティブ心理学という領域があります。 今回紹介した論文もその領域のものです。 長い間,どちらかといえば,心の病的な側面,負の側面に関心の大半を向けていた心理学に対して, それだけでよいのかと疑問に思うことから始まった領域です。 余談ですが, 私のブログの傾向をkizasi.jpのMyBoo ベータ版で分析してみたところ, 悲しい気持ち がブログからにじみ出ています。 話題に関しては 健康 について多く書かれているみたいです。 「悲しい気持ち」 判定ワード悲しい、 禁止、 原因、 障害、 病気、 社会、 教育... その他の感情 「感謝の気持ち」 「怒ってる感」 「健康」 判定ワード病気、 健康だ、 診断、 治癒、 疾患、 治る、 検査...という結果になったため, 今回のような記事も入れておこうと考えたのでした(^^; 下↓の「私のおすすめ」の本は,
今回紹介した論文の著者のお一人である,島井先生が編著者をされた本です。 この本では,最近のポジティブ心理学研究が幅広く紹介されています。 専門書なので少し難しいかもしれません。 今回紹介した研究にもほんの少しだけ触れられていますが, そのほかにも,財産の量は幸福感とは関係がない,などの, 興味深い研究結果が紹介されています。 心理学を専門的に学ぶ人ではなくても, 幸福とは何か(それと,健康とは何か)ということを考える材料になる本ではないでしょうか。 |
社会心理学
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そうかな?と感じる記事を目にしました。 興味深いテーマなので,しばらく話の種にさせていただこうと思います。 種がいっぱいで,何から話そうか迷いましたし, それらは相互に関係している部分もあるので, そのような部分をうまく説明できるかどうか分かりませんが,とりあえずやってみましょう。 まずはタイトルのように,ステレオタイプと偏見について。 ステレオタイプとは,日常生活でも聞く機会があるのではないかと思います。 心理学(主に社会心理学)におけるステレオタイプとは,簡単に言うと, あるカテゴリに所属する人に共通すると思われている特徴のことです。 このカテゴリとは,職業,出身地,性別,年齢,体型,人種など, 人間を分類するものならば何でもよいです。 そして,たとえば,先生ならば真面目,大阪出身ならお笑いや阪神タイガースが好き, 女性だからおしゃべり,太っているから大雑把,日本人だから謙虚,などというように, ステレオタイプに基づいてある個人の特徴を判断することを, ステレオタイプ的認知と呼びます。 認知とは,どのようにとらえ,理解するか,というような意味ですね。 だからステレオタイプ的認知とは,ステレオタイプに基づくとらえ方, 理解の仕方というような意味になります。 さて,上に挙げたステレオタイプ的認知の例を読んだ瞬間に, 「私は○○だけど,あてはまらない」とか「自分の知っている○○はそうではない」, と思われた人がいるのではないでしょうか。 実際,不真面目な先生,お笑いや阪神が好きでない大阪の人, おしゃべりではない女性,几帳面な太った人,謙虚でない日本人に, 私はお会いしたことがあります。 ステレオタイプ的認知は,初対面の人など,対象の情報がないときに, 暫定の対処方針を立てるのに使用するならば,それなりに有用です。 実際の特徴に基づいたステレオタイプならば, 対象がその特徴を持っている可能性が高いため,効率よく対処することができるからです。 しかし,あくまでも相手の情報が手に入るまでの暫定的方針として,有用なだけです。 相手の情報が手に入ったあとも常にステレオタイプ的認知を行うのは, 最初に挙げた例のように,相手の個性の無視になる可能性があります。 次に,偏見について。 心理学における偏見の意味とは,一般に言われる意味とほぼ同じだと思われます。 簡単に言えば偏見とは,ある集団もしくはカテゴリの人に対して, 事実に基づかず,予断や先入観によって否定的に認知することです。 偏見は,心理学の研究結果を持ち出すまでもなく,差別の原因にもなっています。 ここまでお読みになればお気づきのことと思いますが, ステレオタイプ的認知と偏見は関連しています。 前述のステレオタイプの説明で, 「共通すると思われている」,と強調したように, ステレオタイプは事実だけに基づいて形成されるとは限りません。 たとえば最近,女性が男性に比べて特別におしゃべりなわけではない, という研究結果が発表されました。 おしゃべりも男女平等(今週のハイライト Science Magazine Japan) こちら↓が論文。Scienceのものは短いですね。 Mehl, M. R., Vazire, S., Ramírez-Esparza, N., Slatcher, R. B., & Pennebaker, J. W. (2007) Are women really more talkative than men? Science, 317, p.82 (統計学的分析以外については読むのに専門知識がそれほどいらない内容だと思います。) この結果だけでは,異論があることとは思います。 著者自身も,大学生についてしか調べていない点で結果の一般化には限界があるとしています。 (大学生といっても,年齢は17〜29歳の幅がありますが。) また,ICレコーダを装着した状態で,どれだけ普段どおりの行動が行えたのか, という疑問もあります。 (知らない人に12.5分間に30秒ずつという断片を聞かれるだけなので, 1日目はまだしも,特に2日目以降はたいして気にならなかったのではないかとも思いますが。) さらに言えば,ほとんどアメリカ人についてのデータなので, たとえば日本人でも同様の結果になるのかということは,これだけでは判断できません。 しかし,この研究結果をもって,少なくとも,女性というだけでおしゃべりと結論づけることは誤り, 誤ったステレオタイプ的認知に過ぎない,という可能性は示されたわけです。 これを無視して,結果が参考にならないと考えるにしてもその根拠を証明せずに, 女性というだけでおしゃべりとみなすことは, 事実に基づかない,ステレオタイプ的認知による偏見ということになります。 (もし,レコーダの影響が大きく,それによっておしゃべりの量が制限されていたとしても, 他人に聞かれているときはおしゃべりの量が男性と同様になる,ということですから, 女性はいつでもおしゃべりなわけではない,という可能性くらいは言えるでしょう。) 精神病・精神障害者について,「女性はおしゃべり」と考えるのと同じような ステレオタイプ的認知による偏見が指摘されています。 参考) 「心神喪失者医療観察法案」をめぐって(京都弁護士会) 精神病者の犯罪率概略(汎用適応技術研究) メディアと障害(ゆき.えにしネット) とりあえず,精神病・精神障害者だからといって, それだけで凶悪犯罪を起こす凶暴性の高さをもっていると考えるのは ステレオタイプ的認知による偏見ということになるかと思われます。 しかし,私がここで述べたかったのは,この偏見のことではありません。 トラックバック先(発達障害への「理解」と「差別」)の中ほどの,次の記述についてです。 「・科学的根拠なしに、その子の一生を左右するような差別的なレッテルを貼ること。」 「・根拠もないのに「先天的」「脳の機能障害」「一生治らない」などとその子に告げること」 「一見「支援」に見えるような手法で、実は子どもたちの未来を奪っている精神科医がいます。」 まず,この記述のうちの,「科学的根拠なしに」という点, そして「根拠もないのに(中略)『脳の機能障害』」という点, これらについて疑問があります。 端的に言えば,科学的根拠は示されているのではないか, 科学的根拠は示されているのにそれをないと言い(事実に基づいていない), そして,それを理由に,発達障害の診断を下す精神科医を「子どもたちの未来を奪っている」と 批判するのは偏見ではないか,という疑問です。 しかし,具体的な疑問の内容については,この記事が既に長くなっていて(ここで4千字くらい) 説明するにはスペースが足りなさそうですし, 話を長くして分かりにくさを増すこともできるだけ避けたいので,次回にします。 今回は,もう1つ別の点について疑問を呈しておきます。 それは,このトラックバック先の記事内容というよりはむしろ, その記事が含まれるブログ全体についてのことです。 たとえば「精神科医の犯罪を問う」というタイトル, 「犯罪的な精神科医の実態を暴きましょう」という一言メッセージ, 書庫の「精神科医による犯罪」,「精神科の治療と凶悪犯罪」, 「精神科の治療による自殺」というタイトル,それらの書庫に含まれる記事, そしてトラックバック先の記事内容でいえば 「精神科医や製薬会社だけが喜ぶような支援ではなく」という記述, これらが,精神科医(や製薬会社)をステレオタイプ的認知する偏見を 助長しているのではないかという疑問です。 「精神科医や製薬会社だけが喜ぶような支援ではなく」という記述の前には 先に挙げたように「実は子どもたちの未来を奪っている精神科医がいます」という記述があり, この点では精神科医全員のことを言っているのではなく,一部の精神科医の行為として, 批判しているように読めます。 しかし,記事数が多いので一つひとつについての言及は行いませんが, 全体に,特定の精神科医への批判と,精神科医全員を悪者と見なす批判が混在しているようです。 精神科医個人の犯罪と,精神医療全体の問題が同列に扱われている点も, ステレオタイプ的認知を助長するように懸念されました。 それが影響してなのか,影響しなくてもそういう意見だったのかは分かりませんが, 同記事のコメントには精神科医全体を非難するような内容が見られます。 これらの記述は,ステレオタイプ的認知による偏見が含まれているのではないかと思われます。 念のために申しますが,犯罪行為をしたり, 医学的基準を無視した診断や薬物使用した医師を擁護する気持ちは全くありません。 しかし,それらの批判の中に, 誤解ではないかと思われる記述が含まれていること(この点については後日), そして一部の精神科医の問題を記述する一方で, 精神科医全員に問題があるかのように読めるステレオタイプ的記述もなされている点には 疑問を感じました。 (そのつもりでは書いていなかったとしても,そう読めるのならば問題には違いありません。) この先生は良い先生,という記述も見られますし(例),改善について触れられてもいますが(例), 全員が全ての記事に目を通すわけではありません。 それはつまり,ステレオタイプ的記述だけを読んで, それだけを真実と認識してしまう人もいる可能性があるということです。 偏見を広めないための配慮がもっと必要ではないか,と思うのでした。 上に挙げた特徴の他にも,ステレオタイプ的認知による偏見の特徴が見られます。
簡単に言うと,批判する(偏見の)対象は抽象的に記述し, その一方,自分の仲間は具体的に記述する,という特徴です。 長くなりましたので,それについてはまた別の機会とします。(忘れなければ…) 次の更新は,早くても今月下旬でしょうか。 …読みたいという方がいらっしゃるのかという疑問はありますが(^^; |
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この質問に対して行った回答の補足です。 太字は,文字数制限のために回答時には削った部分です。 (1300字以上,オーバーしたので…(--;) 強調したいという意図があるわけではないので,誤解のないようにお願いいたします。 以下,削る前の回答内容です。 「認知的一貫性(理論)」は,確かに社会心理学の(古典的な)理論です。 私は放送を見ていないので, おっしゃるような「詳しく、説得力」がある説明をできるかどうか分かりませんが, 分かる範囲で説明してみます。 認知的一貫性理論は態度についての理論です。 態度とは日常でも使用する言葉ですが, 社会心理学では,あらゆるもの(人でも物でも情報だけでも)に対しての 向き合い方という意味合いで態度(attitude)と言っています。 具体的には,あらゆるものに対する ・感情(好き‐嫌い,快‐不快など,直感的) ・認知(良い‐悪い,賛成‐反対など,感情より評価的・論理的) ・行動(接近‐回避など,実際に表れる側面。例:購買行動や投票行動など) という3成分で構成されるもののことです。 たとえば,あるアイドルについて,そのアイドルを好きな人は(感情的成分), そのアイドルを良い人と考えやすく(認知的成分), そして,そのアイドルについての(好意的な)情報をテレビやネットなどで積極的に集めたり, コンサートやイベントに行ったりしやすい(行動的成分)と考えられます。 そして,これらの態度の成分は,方向性が一致しやすいと考えられています。 +を肯定的な方向,−を否定的な方向性とすると, つまり,あるものについて好きな(+)人は,それを良く考え(+),それに近づこうとし(+), 反対に嫌いな人(−)は,それを悪く考え(−),それから離れようとしやすい(−)ということです。 また,この成分のどれかを変化(+→−,−→+)させると, 他の成分も同様に変化しやすいということでもあります。 このように成分の整合性を求める心理を説明する理論の1つが,認知的一貫性理論です。 簡単に言えば,人間にはそもそも,自分の態度の一貫性を求める傾向があり, 認知要素(態度の成分)が相互に矛盾しないように態度を決定する,というものです。 さて,番組で具体的にどのような実験を行ったのかがよく分からないのですが, NHKのサイトと,いくつかの検索結果から推測したところによると, 次のような手続きでよろしいのでしょうか。 ・主婦を集める。全員,普段どおりにゴミを分別してほしい,という趣旨説明をされている。 ・主婦は,ゴミの分別に慣れた主婦と,苦手な主婦の2種類。 ・普段どおりという前言を翻し,分別せずにひとまとめにして捨ててほしい,と番組からのお願い。 ・その結果,分別に慣れた主婦はお願いを実行しつつも強い抵抗感を報告。 ・分別が苦手な主婦は,実行後,やましさ・罪悪感といったものを報告。 これが間違っていたら説明も誤っている可能性が出てくるので, その場合はどなたかご指摘いただけると幸いです。 慣れた,苦手というのはどのような基準で区別したのか(自己報告?), ひとまとめにして捨てさせる,というのは,普段の自宅での生活でさせたのか, それとも番組で用意したゴミを指定されたゴミ捨て場に捨てるというようなことか, また,抵抗感や罪悪感はどのような形で報告されたのか, などの点が分からなかったので,その点も気になるのですが, とりあえず分からなくても説明はできそうなので説明します。 この実験で見られたような心理は, 認知的一貫性理論によって次のような解釈が考えられます。 普段どおりにゴミを分別してほしい,という趣旨説明は, 自分の普段のゴミの分別についての態度を明瞭に意識させるための操作と思われます。 この操作によって,ゴミの分別に慣れた主婦は, 次のような普段の態度を思い出すことが期待されます。 ゴミの分別に慣れた主婦は,(苦手な主婦に比べると,) ゴミの分別が嫌いではなく(感情的成分+),ゴミの分別に賛成で(認知的成分+), 実際に分別を行っている(行動的成分+),というのがゴミの分別についての普段の態度です。 だから,ゴミの分別に慣れた主婦にとって,ゴミを分別しないという行動(−)を依頼され, 実行することは,行動的成分を(半ば強制的に)変える(+→−)ことであり, 他の自分が持っていた感情的成分(+)や認知的成分(+)とは一貫しないことになります。 そのことが不快感となり,抵抗感として報告されたと考えられます。 次に,ゴミの分別が苦手な主婦ですが,そのゴミの分別に対する態度は, 番組では次のように想定されていると推測しました。 ゴミの分別が苦手な主婦は,(慣れた主婦に比べると,) ゴミの分別が好きではなく(感情的成分−),ゴミの分別には賛成で(認知的成分+), あまり正しくゴミを分別していない(行動的成分−), という態度を持っている,と想定されていたのではないかと考えます。 こう考えるのは,「ゴミの分別を全くしない主婦」や「ゴミの分別に反対の主婦」という表現ではなく, 「苦手な主婦」と表現されていたからです。 “分別はしたほうがいいと思うけど行動は不十分”というニュアンスをこめて, 「苦手」という表現にしたのだと考えました。 さて,このような主婦は,認知的一貫性理論から考えると, 認知的成分(+)と他の成分(−)が一貫していないため, 既に,ゴミの分別についてある程度の不快感を感じている可能性が考えられます。 そのようにいつも不快に感じているのは,強いストレスとなって耐えられないため, 不快になるたびに何らかの方法で,これでよいと自分を納得させてきていたと思われます (たとえば,ゴミの分別は完全に実行しなくてもよい(−),と認知的成分を変化させるなど)。 しかし,その変化させた認知的成分と矛盾する,ゴミを分別しなければならないという情報 (ゴミ捨て場の表示やテレビCMなど)は毎日のように目にするものであり, ゴミを分別しなくてもよい,と完全に認知的成分を−に変化させることは,なかなか困難です。 このために,ゴミの分別が苦手な主婦の認知的成分はやや+寄りと想定されます。 そのような主婦が,ゴミを分別しないという行動(−)を依頼され, 実行することは,感情的成分(−)とは一貫していても, それなりでも+である認知的成分とは一貫せず, また,行動的成分も,分別に慣れた主婦に比べれば−というだけで, 分別を全くしないというほど強い−というわけではないため, やはり認知的成分(+)と一貫しないということになります。 それらによる不快感から,罪悪感のようなものが報告されることになったと推測します。 このことから,番組の主張したかったことは次のようなことかと推測します。 ゴミの分別が苦手な主婦は,苦手と思い込まずにもっと分別をしてみることで, 少なくとも認知的成分(+)と行動的成分(+)は一貫するようになるし, 認知的成分を−にしようとしなくてよくなるので,かえって気持ちが楽になる。 また,そうすることは,認知的一貫性理論から,感情的成分も+になることが期待される。 だから,どんどん分別してみましょう…。 以上,ガッテンしていただけましたでしょうか(^^; ただし,認知的一貫性理論は,既に古典的で, 現在では,少なくとも古典的な理論だけでは説明不十分であって, 一定の条件つきでしか説明できない理論であるため, 補足説明や,反論も多数存在しています。 なお,放送内容については,正確にお知りになりたければ, 再放送が火曜深夜(日付を越えて水曜になってから)と,水曜早朝にあるようですので, そちらをご覧になられるのがよいと思われます。 ためしてガッテン:放送予告:再放送 それから,ゴミの分別が苦手な主婦が,分別を十分にしていないことについて
自分で自分を納得させる過程や,実際に分別することでかえって楽になることについては, 認知的一貫性理論の一種である,認知的均衡理論((ハイダーの)バランス理論)や 認知的不協和理論というもので説明される可能性があり, 今回の説明もこの理論による説明が含まれているのですが, さらに長くなるのでその説明は割愛します。 それらの説明は検索すれば,いくつも出てきますが,参考までに,一例を貼っておきます。 バランス理論 ハイダー (或阿呆の社会心理学講座) 認知的不協和理論 フェスティンガー 理論編 (或阿呆の社会心理学講座) |
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