折々の記、気の向くままに

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大陸育ち

TVの「徹子の部屋」を見ていて山田太一監督が満州から引き揚者だったことを知りました。
「大陸育ち」という言葉が出て私も大陸育ち、お年も同じ頃ですから同じ時代を生きてきた人だと 懐かしく当時を思い出しました。

私が満州に行ったのは昭和15年の夏でした。父が鞍山のs金属に転職し家族で赴任しました。
高槻の幼稚園を退園し誰も知らない土地でしたが、直ぐ社宅の子供さんたちと仲良くなりました.
社宅は平屋の一戸建ちで二重窓 水洗トイレに暖房設備も完備された立派なものでした。

鞍山は整然と区画された日本人だけの町と昔から住んでいる中国人の町に分かれていました。
道幅は広くアカシヤの並木が続き馬車や人力車でカイゾカイゾ(早く早く)などと言いながら通ったりしたのも懐かしい思い出です。小学校だけでも6校もあり、中学校 女学校とほとんどが日本人だけでした。冬は石炭を炊いて温水を流すスチーム暖房で暖かく、外は寒くてもスケートやそりで遊びました。

 ♪ 「どんなに風が吹く時もくじけるような私じゃないよー
  満州育ちの私たち!」♪♪ 
 
という歌をよく歌っていました。
16年に大宮在満国民学校に入学し12月8日 大東亞戦争が始まりました。
その頃、山手の高級住宅地に引越しました。ご近所は会社の迎賓館や所長さんや
工場長さんの家もあり、昭和製綱所の幹部住宅も沢山建っていました。
私の家は二階建ての広い家で垣根にはつるバラが咲き、塀に登って歩いたり、庭の大きな紅葉の木に登ったりしてよく遊びました。応接室には分厚い絨毯、応接セットも付いた社宅でした。防弾室という鉄の扉で開ける小部屋もあり、終戦後内乱の時に隠れたこともあります。

学校では簡単な満州語を学び ニイライ ウオチュイ ターライ プーライ タープーライと今でも覚えているのですからこの頃覚えると一生忘れない時期なのですね。大陸事情という科目では高脚踊りや満州のお祭りや風俗習慣などを学びました。
「五族協和」とか「八紘一宇」とか高邁な理想を掲げて日本が他国を侵略しているなどと思ったこともありませんでした。

会社も秋にはりんご狩りなど楽しい催しをして皆仲良く暮らしていました。
戦時中も内地よりは食料事情も良かったのではないでしょうか。
空襲も余り有りませんでした。東京から疎開してこられた方もいたのです。
Iさんは単身赴任でしたが20年の春 家族が来られました。
ご近所でしたのに、同じ学年でしたのに,うかつにもすっかり忘れていましたが、
一昨年鞍山教友会でお会いしたのです。ずーっと鞍山会のことを知りませんでしたが友人がインターネットから会のことを探し出してくれて会長の電話が分かり連絡がとれて一昨年初めて岡山での会合に参加したのです。
同級生が写真を持っていて名前も覚えていてくれて感激しました。
その時彼とも会いましたが、お父さんの名前は記憶にあるのにもうすっかり忘れ果てていました。
「貴方の兄さんによく遊んでもらいました」と言っていました
昨年は青森の下北半島での会合に行ってきました。
今年は東京です。幹事は愛波さんです
昨年「おじいさんが孫に語り残す戦争の話」を出版されました。
20年に来られたせいか 転校生だったせいか分かりませんが、私の記憶とは大分違う学校の様子が書かれていました。時代が変わると受け止め方も違うのでしょうか







   
  

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父は徴兵されて満州へ派遣されましたが遺品の中に満州から持ち帰った写真がありました。高足踊り(高脚踊り)の写真もあり、たくさん人が竹馬をつけているのにびっくりしました。

YouTubeをみると満州だけでなく今でも各地でおどられているようですね

2014/7/1(火) 午前 9:01 teidaisei

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