人物歴史訪問記

歴史上の人物は、各人の心の中で思い思いで生きています。

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官兵衛動く 完

<晩年>
秀吉は、伴天連禁止・追放令を出し、
切支丹の官兵衛を取り巻く環境もいや増して厳しくなって来た。
慶長元年(1596年)には、年賀の伺候の為、上坂した折、旧知の細川藤孝と数日遊んだ。
藤孝も隠居して幽斎と号していたが、生臭い処は無く、すっかり枯れていた。

「平安故実の紐解きは、御進みで御座るか。」

「暇に任せて、愉しませて貰っておりまする。」

「それにしても去年は、関白秀次殿がああ云う形で…」

「酷い事で御座ったな。」

「秀頼様が御誕生遊ばさねば、あのような悲惨な事に成らなかったものを…」

「然り。 世と云うのは無常なもので御座るよ。」

「そうじゃ、宗易殿が亡くなられて、もう五年も経ちまするな。」

「そう、早いもので御座るよ…」

「わしも早く隠居しておいて、命拾いをしたわぃ。」

「太閤殿は、ああ云う御方じゃ、出る杭は叩き潰す。」

「重々、心得ておりまする。 
お互い、切支丹にも縁を持つ身で御座るからな。」

秀吉は、諸将に再度朝鮮出兵を命じていた。
その最中、慶長三年(1598年)葉月
稀代の異雄・秀吉が伏見城で亡くなった。
五奉行、五大老を始めとして、各将の思惑が蠢きだした。
豊臣恩顧の中でも、加藤清正・福島正則らと、石田三成らとは、仲違いが激しかった。
この結束力の無さが、豊臣家を滅ぼす事に成る。
五大老の一、前田利家が死んだのも痛手であった。

ここで、慶長五年(1600年)長月
天下分け目と云われる、関ヶ原の戦さが始まったのである。
官兵衛が嫡男・長政も、福島らと共に、東軍・家康に参陣していた。
この状況を見て取った官兵衛は、遠く豊前中津城にいたが、
どう云う思惑を持ったのか、急遽、残兵を掻き集め、
偶々領国に残っていた加藤清正と共に、九州平定に乗り出した。
戦さ上手の官兵衛
九州の主だった諸将が、関ヶ原に出張していたとはいえ、次々、易々と周囲を平定していった。
よもや関ヶ原が、一日で片が着くとは思っても居なかった。

『何たる事、我が事終れりか…』

三成の戦さ下手め、と思ったかどうかは定かでは無いが、
関ヶ原が長引けば九州一円を平らげて、その威を高く売付よう、
若しくは天下に覇をと、思慮したかも知れぬ。
されど、一日で東軍の壊滅的勝利と聞き及ぶや、即座に兵を中津城に収めた。
嫡男・長政は、関ヶ原の武功を称えられ、家康より筑前一国五十万石を拝領した。
これより如水は、茶会を開いたり招かれたり、
歌を詠んでの生活に没入した。

慶長八年(1603年)睦月
上坂して高台院(秀吉室)に祝詞を述べた。

「高台院様、御機嫌麗しく重畳の至りで御座りまする。」

如水殿も御健壮そうで、何よりじゃ。」

「殿下がお亡くなりになって、早や五年に成りまするか。 
それがしも、そろそろ旅立たねば成りませぬ。」

「何を御云いじゃ。 これからの行く末、世の移り変わりをじっくり見届けるのも、
一興では有りませぬか。 
身をいとい、長生きして下され。」

「身に余る御言葉、感じ入りまして御座りまする。」

「豊臣の天下は、如水殿の御力なくしては無かった事。 
その崩れ行く様を見届けるのも、また、義かと…」

「高台院様の御心お静かな事、安堵仕りました。」

この一年後、官兵衛は息を引き取った。


>身の丈の 才知を駆使し まっとうす

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豊城です。お久しぶりです。「官兵衛動く」興味深く読ませていただきました。特に今回の晩年のところは、関ヶ原の役における如水の動きを興味深く読ませていただきました。ただし私は関ヶ原の役における如水の動きを見て見ますと、如水は天下を狙って動いたと思いますが、その点、どのようにお考えでしょうか、御教示ください。今度は「海軍兵学校」だそうですね。種々の時代を研究されているのですね。また興味深く読ませていただきます。

2005/10/5(水) 午後 8:15 [ - ]


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