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それにしても、若き龍馬には不満であった。
一藩の下級武士であるから、内情はよく解らなかったが、むざむざ黒船を獲り逃がすとは、何たる失態との想いが、沸々と湧いていた。
若き青年の偽らざる愛国の情であった。
まだまだ、勤皇、尊王、攘夷という政治的スローガンは無い時ではあったが、素直な感情として、そう想ったのである。
唯、龍馬には、他の青年達と違う捉え方があったのも事実である。
任を解かれた龍馬は、又、千葉道場の修行に汗を流す日々に戻って行った。
その年の暮れ、龍馬は、信州・松本藩の至宝と云われた佐久間象山に、砲術を学びたいと入門している。
やはり、夏に遠望した黒船の大砲が、相当気に掛かっていた様だ。
象山は学究肌で、天才の名を欲しいままにした大学者であった為、龍馬との肌合いは相当違っていた。
象山先生が講義する内容は、ちんぷんかんぷん。
龍馬には、全く理解出来なかった。
「龍馬、理解出来ているや?」
「さっぱり解らんっちゃ。」
「解らんのに、学んでも仕方無かろうに。」
「先生、解らんから、学ぶんですきに。」
「でも、学んでも解らんのじゃろう。」
「解らんっちゃ。」
「では、始末に負えないじゃないか。」
「いや、そんな事無いがやっち。先生に接していると、頭やち、少しずつ変わって来るきに。」
「はは、これは、面白い事を云う輩じゃ。」
龍馬が象山塾で学んだのは、こんなものであったが、この経験は、その後に、多大な影響を与えている。
当代一と云われた頭脳にも、物怖じせず近づけた龍馬は、その後、大立者と、次々、交友の輪を広げて行く事になる。
黒船が来た時、笹舟の様な小船に乗って、大艦に近づいたものの、乗艦を拒否され、捕まって牢に閉じ込められている、吉田松陰がいた。
又、幕臣で後に頭角を現す勝海舟の妹が、この象山に嫁ぐ事になる。
龍馬が大金をはたいて、象山塾に通っている事は、忽ち、土佐藩・下屋敷の長屋で話題になった。
「龍馬、おんし、そんな勤勉じゃったがや。」
「いんや、さっぱり解らんちや。この教本を見ていると、頭がずきずきして来るちや。」
「ほな、何で、入門するがや。」
「何でじゃろう。わしやち、よう解らんがじゃ。」
「おんしも、変わった人間じゃのう。」
それでも、藩庁の方では内々に
―その心掛け、朱勝である。以後も、励むべし。―
との御達しを受けていた。
翌けて、安政元年(1854年)二月、藩の長屋住まいの悪童連が、そんな龍馬を引っ張り出して、吉原へ繰り出した。
「俺達は、お江戸へ来て、未だ、吉原は知らんがじゃ。金が掛かるきにのう。龍馬は金があるきに、俺達を連れて行きいや。」
「ほうじゃのう、ほな、そうするっちゃ。」
土佐の下級若者武士連は、その夜、初めての吉原を体験したのだった。
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