人物歴史訪問記

歴史上の人物は、各人の心の中で思い思いで生きています。

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2006年02月

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龍馬の躍動7

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それにしても、若き龍馬には不満であった。
一藩の下級武士であるから、内情はよく解らなかったが、むざむざ黒船を獲り逃がすとは、何たる失態との想いが、沸々と湧いていた。
若き青年の偽らざる愛国の情であった。
まだまだ、勤皇、尊王、攘夷という政治的スローガンは無い時ではあったが、素直な感情として、そう想ったのである。
唯、龍馬には、他の青年達と違う捉え方があったのも事実である。
任を解かれた龍馬は、又、千葉道場の修行に汗を流す日々に戻って行った。
その年の暮れ、龍馬は、信州・松本藩の至宝と云われた佐久間象山に、砲術を学びたいと入門している。
やはり、夏に遠望した黒船の大砲が、相当気に掛かっていた様だ。
象山は学究肌で、天才の名を欲しいままにした大学者であった為、龍馬との肌合いは相当違っていた。
象山先生が講義する内容は、ちんぷんかんぷん。
龍馬には、全く理解出来なかった。
龍馬、理解出来ているや?」
「さっぱり解らんっちゃ。」
「解らんのに、学んでも仕方無かろうに。」
「先生、解らんから、学ぶんですきに。」
「でも、学んでも解らんのじゃろう。」
「解らんっちゃ。」
「では、始末に負えないじゃないか。」
「いや、そんな事無いがやっち。先生に接していると、頭やち、少しずつ変わって来るきに。」
「はは、これは、面白い事を云う輩じゃ。」
龍馬が象山塾で学んだのは、こんなものであったが、この経験は、その後に、多大な影響を与えている。
当代一と云われた頭脳にも、物怖じせず近づけた龍馬は、その後、大立者と、次々、交友の輪を広げて行く事になる。
黒船が来た時、笹舟の様な小船に乗って、大艦に近づいたものの、乗艦を拒否され、捕まって牢に閉じ込められている、吉田松陰がいた。
又、幕臣で後に頭角を現す勝海舟の妹が、この象山に嫁ぐ事になる。
龍馬が大金をはたいて、象山塾に通っている事は、忽ち、土佐藩・下屋敷の長屋で話題になった。
龍馬、おんし、そんな勤勉じゃったがや。」
「いんや、さっぱり解らんちや。この教本を見ていると、頭がずきずきして来るちや。」
「ほな、何で、入門するがや。」
「何でじゃろう。わしやち、よう解らんがじゃ。」
「おんしも、変わった人間じゃのう。」
それでも、藩庁の方では内々に
―その心掛け、朱勝である。以後も、励むべし。―
との御達しを受けていた。
翌けて、安政元年(1854年)二月、藩の長屋住まいの悪童連が、そんな龍馬を引っ張り出して、吉原へ繰り出した。
「俺達は、お江戸へ来て、未だ、吉原は知らんがじゃ。金が掛かるきにのう。龍馬は金があるきに、俺達を連れて行きいや。」
「ほうじゃのう、ほな、そうするっちゃ。」
土佐の下級若者武士連は、その夜、初めての吉原を体験したのだった。

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龍馬の躍動5

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千葉道場で案内を乞うと、うら若き女性が出て来た。
「土佐藩の坂本龍馬と申す者ですが、千葉先生に御目通り願いたいがじゃ。ここに、郷元より、日根野先生の紹介状がありますきに。」
「それは、御苦労様。直ぐ案内致します故、暫し、お待ち下さりませ。」
道場主・定吉の娘、佐那子は奥へとって返しながら、思った。
―何て薄汚れたお方なんでしょう。鬢は乱れ、顔は浅黒く、細目で、焦点が合わない様な顔でこちらを見て、おまけに、臭気すら漂わせていらっしゃる。―
龍馬の初印象は、散々であった。
然しながら、この頃には珍しく、背は既に五尺七寸(約175cm)もあり、大男に部類していた。
龍馬は旅装も解かず、直行して来ていたので、無辺ない成りである。
やがて、足だらいが用意された。
たらいの水が、薄墨を撒いた様な有様に変わった。
袴の埃をパンパン叩きながら、案内に従い、奥へ通った。
案内人は、顔をしかめつつ、袖で鼻と口を押さえていた。
障子を開けながら、「どうぞ、こちらへ。」
にゅっと部屋へ入ろうとした龍馬の頭に、鴨居が待ち受けていた。
ゴツン!
この瞬間、待ち受けていた千葉定吉は、平然としていたが、脇に控えていた佐那子は、堪えきれず、口を袖で隠しながら、笑いを噛み殺して、立ち去って行った。
定吉の前に平伏した龍馬は、
「土佐藩江戸下屋敷、吟味役付き畠山左衛門が家来、坂本龍馬直柔と申しまする。ここに、日根野よりの介状がありまするきに。」
受け取った紹介状を一読し、
「相解った。入門を許そう。それで、何時から通うかな。」
「今直ぐにでも…」
そこへ、佐那子が茶を運んで来た。
「これは、我が娘、佐那子と申す者。少しは、剣術を嗜んでおる。」
「佐那子と申しまする。以後、お見知り置きを…」
「はあ、宜しく頼むっちゃ。」
「ところで、お頭の方は大丈夫で御座いますか?」
「いやあ、ここん処、背が伸びてかなわんちゃ。江戸への下向の途中でも、あちこちの旅籠でぶつけているきに、もう慣れっこになっちゅう。」
「佐那子、この坂本殿は、今日にでも、入門したいと云っておる。初手合わせをやってやれ。」
道場で、門弟一同に引き合わされた後、佐那子との立会いが始まった。
両者互角で稽古を終えたが、龍馬は、乙女姉さんより強い女性がいるとは、世の中、やっぱり、広いもんじゃ。と感じていた。
それからの龍馬は、土佐藩下屋敷と千葉道場の往復で、日々を重ねて行く事となる。
佐那子は、はっきりした物云いをする娘で、龍馬に対し、汗臭いから、ちょくちょく身体を拭いなされとか、髷が乱れているから、直しなされとか、着物が、着崩れていますよとか、その都度、直言して来た。
―かなわんなぁ。佐那さんは、まるで乙女姉みたいじゃっち。わしは、綺麗好きの方じゃと思っちゅうに―

龍馬の躍動4

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光秀に水魚の交わりとして仕えた重臣に、斎藤内蔵之助利三がいる。
後の、徳川三代将軍家光の乳母として権勢を振るった、春日局(お福)の実父である。
その利三の縁戚が、長曾我部家に嫁していた。
当然、明智家とは入魂である。
山崎の戦いで明智家が滅びると、家中は各地に落ち延びた。
光秀の娘婿・左馬助光春は、近江坂本城で血縁者を自刃させ、自ら城に火を放って、生涯の幕を引いたが、その折、僅かばかりの者を落ち延びさせた。
土佐の長曾我部家を頼った人々もいた筈だ。
龍馬が、父の八平から、家紋の桔梗紋の謂れや、こんな話を聞かされて、自分の先祖は明智であると、生涯信じ込んだのも無理は無い。
土佐に桔梗の家紋は少なかった。
坂本家が郷士株を取得し、本家才谷屋から分家して、士分になってから、龍馬で四代目である。
だから、龍馬の家は、元々町人では無く、武士の家柄であったのだ。
そう云う事を聞かされ、段々自信を得て行った龍馬は、悪童共を相手にせず、日根野道場の帰り道、桂浜に腰を下ろしては、浦戸の沖・太平洋を飽かず眺めていた。
厚い瞼の瞳を細め、少し縮れた頭髪を潮風に靡かせながら、何を想っているのやら、もそっとした少年一人が俯瞰して目に浮かぶ。
嘉永六年(1853年)正月、乙女が家長である権平に、
「兄上様、龍馬も本年、十八になりますろう。何時までも、部屋住みではないですろう。行く末を考えれば、剣術道場でも開かさねばならんがじゃ。どうじゃろう、この辺で、江戸遊学させるちゅうのは…」
「江戸遊学ちゅうても、お城の御許しが必要じゃち。」
「その御許しを、願い出て貰えんですやろか。」
龍馬、おまんの気持ちは、どうがじゃ。」
突然の話に驚いたが、直ぐ嬉しさが込み上げて、
「嫌も何も無いきに。今直ぐでも、飛んで行きたいっちゃ!」
「仕方無いのう。江戸とは、わしも行った事が無いっちゅうに。まあ、御許しが出るか出無いか解らんが、願い出てみる事にするきに。」
「兄上様、有難う存じまする。これ、龍馬も早よう頭を下げっちゃ。」
その日の龍馬は、日根野道場でも、生き生き、活つ活つ、笑みさえ溢しながら、稽古に打ち込んだ。
三月になると、藩庁より、正式には遊学は叶わないが、上士のお供と云う名目で、且つ、自費で行くと云うのなら、拒みはしないと云う御達しが出た。
十七日、龍馬は、日根野道場より千葉定吉道場への紹介状を懐に、権平から四十両を貰って、勇躍、土佐を出立した。
見送る兄嫁の千野と、姪の春猪は、涙を溜めていたが、乙女は微笑んでさえいた。
道場の仲間も、羨ましそうに見送りに出ていた。
将に春盛り、桜の花弁が舞い散る中、龍馬の後姿は、春霞に消えて行った。
他国へ足を踏み入れるのは、初めてである。
流石の、のんびりした性格と好奇心旺盛な龍馬も、大坂も京も素通りして、一心に江戸を目指した。
四月初旬、お江戸に着いた龍馬は、土佐藩下屋敷に申し出、到着を報告した。
その足で、早速、千葉道場に向かった。

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龍馬の躍動3

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龍馬が、よく苛められたのも、この生い立ちに原因がありそうだ。
郷士は貧しい。
世が世であれば、長曾我部の家臣として代々暮らせたものを、今は山内家の陪臣の如く、名誉も身分も貶められている。
一領具足としての誇りを失なわぬ郷士達にしてみれば、金を遣って郷士株を買った坂本家を、中傷するのも、有り得る事だ。
しかも、豪商の出だから、金に困る事は無い。
悪童共の苛めの対象になっていたのかも知れない。
乙女は、そんな龍馬を心配もし、絶えず、励まし続けた。
家長の権平は、そんな様子を見て、
「乙女と龍馬は、男と女が入れ替わっちゅうがや。」
「兄上様、そんな事は無いがに。龍馬やち、今に立派になるっちゃ。」
常に、龍馬を庇う、乙女であった。
或る時、城下を流れる鏡川で龍馬が数人で泳いでいると、乙女が通り掛かった。
それを目敏く見つけた悪童が、
「あっ、龍馬んくの御仁王様じゃ。」
「これ、誰れが御仁王がじゃ。変な事云うと、懲らしめちゅう。」
と、本気で着物の裾をたくし上げ、水中に乗り込もうとした。
慌てた悪童連は、対岸へ一目算に泳ぎ、逃げ去って行った。
「乙女ねえも、やっぱり、女じゃったか。」
「当たり前ですろう。御仁王とは、酷すぎるやっち。」
「そうかのう。強い名前でいいですろうに。」
「ほんじゃ龍馬、おまんにその名前をやるっちゃ。」
「わしは、まだ、そこまで強くないっちゃ。」
「まあ、龍馬ったら…」
苦笑しながら、乙女は立ち去って行く。
その堂々たる後姿を見ながら、
―やっぱり、御仁王様じゃ―龍馬は呟いた。
その後も、私塾に入門したりしたが、長続きしない。
唯一の興味は、乙女姉さんの様に強く成りたいとの一心で、剣術を志す事になり、嘉永元年(1848年)、城下の日根野道場に入門した。
十三歳の時の事である。
この頃より、背丈がぐんぐん伸び始め、160cm位になり、同門の内でも抜きん出る体格になってきた。
こうなると、少しは自信も出てくる。
剣術にも、上達の加速度が増して行った。
悪童共の苛めも無くなり、多くの友達も、周りに集まる様になっていた。
そも、龍馬の坂本家は、本来、武士の出である。
どころか、相当名門の家柄だ、と云うのだ。
家紋の桔梗で直ぐ思い付くのは、戦国時代の武将・明智との関連だ。
思い起こして頂きたい。
明智光秀は、何故に信長を討ったのか。
その大きな要因の一つに、信長が意を翻して、四国征伐、つまり、長曾我部家を討つと云い出したからに他ならない。
光秀は、本来、主殺しをする様な人物では無い。
教養も冷静さも分別も併せ持った人格である。
さらば、何故、斯くなる挙に及んだのか。
明智家と長曾我部家との、深い交わりがあったのである。

龍馬の躍動2

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弘化3年(1846年)、初夏の昼下がり、高知城下の商家の大店と見まがう庭先に、この家の末弟の少年が、ベソをかいて帰って来た。
3歳年上の姉、乙女が、目ざとく、それを見つけると、
龍馬、おまん、また苛められて、泣いちゅうか。」
「何も泣いちゅらん。」
慌てて、龍馬は、右手の袖で目を拭いた。
この時、龍馬は、十歳である。
「そうか、泣いちょらんか。では、早よう、井戸で顔を洗って、木刀を持ってきいや。剣術の稽古をするきに。」
根が繊細で優しく臆病だった、この少年の幼少期の指南役は、望むと望まぬとに係わらず、乙女であった。
龍馬達の母・は、龍馬を生んだ後、肥立ちが悪く、病臥に伏していたが、この年、亡くなっていたのだ。
幸い、乙女は、母性本能を善く発揮し、龍馬に愛情を注ぎ込んで、育てていたのだ。
坂本家の三女である乙女は、典型的な土佐の八金で、名前に似合わず、大女で、坂本の御仁王様と呼ばれて、敬愛とも畏怖とも付かぬ目で見られていた。
だから、弱々しい龍馬が、歯がゆくて仕方が無かった。
龍馬、思い切り、打ち込んできいや。」
「えい!やあ!」
襷掛けで、着物の裾が乱れるのも構わず、小一時も、稽古は続いた。
この様子を縁側で見ていた次姉のお栄
「まあ、乙女の八金ったら。はしたないっちゃ、ねえ、春猪。」
言葉とは裏腹に、微笑みながら、傍らにちょこんと座った姪に語りかけた。
この頃、坂本家の当主は、二十以上も歳の離れた、長兄の権平が継ぎ、父の八平は既に隠居していた。
長姉の千鶴は、既に高松家に嫁し、次姉のお栄、三姉の乙女、兄嫁の千野、姪の春猪(はるい)との七人家族であった。
龍馬と姪の春猪は、数歳しか離れていない。
この頃になっても、よく寝小便をしていた龍馬は、
「叔父ちゃん、また、よばったれしちゅう。」と、よくからかわれた。
「春猪は、よばったれしないんがじゃ。」
「しないっちゃ。」
「ふーん。子供じゃのに、なぜじゃっち。」
子供は、寝小便するものと思い込んでいる龍馬は、本当に不思議だった。
龍馬の家は、数代前までは、城下有数の大店(才谷屋)で、郷士株を買い取り、分家して、坂本家と云う武士身分になっていた。
ご多聞にもれず、江戸時代の土佐藩も複雑で、遠州・掛川より転封してきた、山内家の家臣が上士で、土着の長曾我部家の残党が下士の郷士と云う、身分構成になっていた。
上士と下士の差は絶対で、道で行き交う場合、郷士は農民と同様、地べたに土下座をしなければならなかった。
殿様に御目通りは元より、下駄を履く事も叶わなかった。
自然、郷士の暮し向きは貧しかったが、龍馬の坂本家は、元豪商の出、金に困る事は無かった様だ。
この上士と下士の間に、特別優秀・功績のあった郷士が取り立てられて、白札と云う制度が設けられていたが、それとて、決して上士には成れなかった。
白札は、御庭で御目通りも叶ったし、下駄を履く事も許されたが、それ以上ではなかった。
因みに、後に土佐勤王党を結成した武市半平太瑞山は、この白札に属していた。

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