|
今までに2回歌ったが、先月の出来事を絡めて…。これを書くことで、自分も混乱から抜け出せそうで…。
月初めに祖父が入院した。肺がん、肝臓がんが脊髄転移の状態。私たち家族はもちろん、本人も「もう家には戻ってこられないだろう」と覚悟しての入院だった。少しでも放射線治療の効果があれば…との期待を捨てられなかった。
そのころ私の所属している合唱団では、6月25日の土曜に演奏会を控えていた。メインプロは「Requiem」。言わずと知れた、モーツァルトの遺作である。来年、モーツァルト生誕250年を控えての選曲でもあったし、なにより、30人弱の合唱団が歌うということで、合唱の精度を上げるべく数年掛けて取り組んできた曲でもあった。私のアルトパートは5名。一人欠けても全体のバランスに影響する。だが、祖父の万が一の状況を指揮者に伝え、最悪ステージにのれないかもしれないと了承を得た。
6月23日、祖父が昏睡状態に陥った。火曜日に見舞ったときは、暇をもてあましてか、ベットの昇降装置をいじくり回していた。仕事のことや親戚のこと、とりとめもない会話をしていた。「金をやる」といって財布を出そうとしたが、「いらん、家に帰ったときにもらう」といって断った。こんなに早く悪くなるなど、考えもしていなかった。
6月24日、仕事を昼で終え、病院に行った。もちろん、意識は戻らない。母が来ていて、「看護師の主任さんが、『おじいちゃんの好きだった服を持ってきてくださいね』って…」と泣いた。最期に着せるのだそうだ。その日はホールでリハがあり、開始前に指揮者に伝えた。「今日、明日、最悪の場合途中でステージから降りる」と。携帯は常にオンにしておいた。
6月25日、本番。集合は昼なので、午前中に病院へ。母と叔母がいた。体の中の病魔が蝕んでいる。体温は40度近い。「今日本番やから、終わるまで待っててね。お花いっぱい貰ってくるね」と意識のない祖父に語りかけた。返事は、ない。
GP。第1ステージのとき、携帯が鳴った(マナーモードだが)。慌てて袖に行き確認すると、どうでもいいメール。力が抜け、ステージに戻る気力が無かった。そのまま楽屋前で友人のソリストたちと待っていた。大阪から来たソリストの2人は、私のこの状況を知っていて、本番前にも関らず心配してくれた。
第2ステージはなんとかこなし、第3ステージ・Requiem。Kyrieまでは歌えなかった。GPで歌えない場合、うちの団は本番にのせない。だが、歌えなかった。指揮者は、何も言わなかった。
本番、客席に義妹がいた。聴きにきてくれた。そのことで「まだ大丈夫」ということがわかった。本番はなんとか歌えていた。というより、歌わなければだめだという思いが自分の中に出来上がった。それでも携帯は音だけ切って持っていた。
本番が終わり、夜中近くになって病室に駆けつけた。祖父は眠っていた。小康状態とのこと。祖父が入院して。初めて声を上げて、泣いた。
2日後の月曜日の朝、祖父は逝った。84歳。大往生かもしれないが、もっと生きていて欲しかった。寡黙な人で、酒とタバコの毎日だったが、色んなことを教えてくれた。ドイツに留学しろと小学生の私に言ってみたり、ピアノを弾いていたら「歌は歌わんのか?」と聞いてきたり、今になって考えれば、これまでの音楽生活を後押ししてくれたのは、祖父かもしれない。
七日法要でお坊さんが言っていた。「南無阿弥陀仏とは、亡くなった方のためだけに唱えるのではない。何よりも、今ここにいる自分自身が、故人の遺志や思いを受け継いで生きていくために唱えるのだ」と。
Requiem eternam dona eis Domine.(主よ、永遠の安息を与えたまえ) これもまた同じかもしれないと、思う。宗教は違うけれども。故人の安息を祈るだけでなく、それを受け継いでいく私達の「安息」をも願いながら。
今、茶の間に祖父のいつもいた場所は、そのままになっている。私は祖父の愛用していた灰皿とライターを頂いた。
|