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記事UPの遅れた原因は、まだ今日15日に公演があったから。ネタバレを防ぐため…。
本当は書きたくて仕方がなかったが、自分の気持ちを落ち着けるために冷静になる必要があった。
それほどオイラは悲しかったし怒りを覚えていた。一人のヘンデリアンとして、オペラファンとして…。
今回、「オペラ」、「ヘンデル」、「セルセ」を観たとは、オイラの頭の中に一切ない。
その意味を少しずつ書いてみたい。
1、音楽
歌い手は与えられた条件下の中、好演していたと思いたい。中にはヴィブラートが多すぎて、緊張のための震えにしか聴こえない歌い手もいたが。ソプラノカストラート⇒テナー、アルトカストラート⇒テナーに置き換えたせいで、他の歌い手との2重唱の際に和音が組みあがらなかった。これは歌い手のせいではないが。
明らかにおかしいのはオケ。まずレチタのチェンバロ、装飾を一切省いた弾き方。どう考えてもチェンバロを、通奏低音を勉強した人の弾き方ではない。ピアノか?
ヴァイオリン1stのピッチがポジションによって著しく違う。
レチタでは指揮者がザッツを出さないので、歌い手とズレまくる。
全方向からお客がステージを囲む4面舞台なので、歌い手が動くたびに声の響きのポジションが変わる。それによって指揮者が歌い手の呼吸を読み取れなくなり、激しくずれる。
最も許せないことは、後でまとめて記述したい。
2、演出
深読みを逸脱した読み替えの演出。これがよくない。喜劇を強調したいのだろうが、ドタバタとした動きと劇中劇風の読み替えだけで、歌詞の意味や和音の意味を無視した演出。「セルセ」はオペラセリア分類の喜劇ではあるが、決して難解なあらすじではない。この演出によってより一層難解な筋書きになったのは確か。パンフのあらすじ(『今回の演出に準拠しています』と、わざわざ但し書きがついている)を読まなければ、全く何が起きているか理解できない。
ドタバタとした動きによって、音が出る(足音、ガラス瓶の砕ける音など)。音楽への阻害だ。
字幕は極力見ないようにしていたが、気付いてしまった!歌っている歌詞と違う日本語が出ている。字幕のズレではなく、明らかにこの演出に都合を合わせた字幕(パンフによると、字幕も演出家によるもの)。彼はイタリア語を知らないのだろうか?それともイタリア語を解さないお客ばかりだと思ったのか?はたまた…???
3、最も許せないこと
それは、アリア、レチタのカット。怒りを禁じえない。
まず、ダ・カーポアリアのA−B−A´だが、Aのみ歌ってB−A´はカットが多い。
次にアリアの丸ごとカット。アマストレ役のアリアに至っては、2曲カット。
これによって、「物語の流れ」がそもそもの筋とそれてしまい、演出がやりやすいという利点があるのだろうが、愚考としか言いようがない。そこには「ヘンデル」も「セルセ」もないからだ。
そして、無理やりなカットによって、カットされた前後の調性感が狂う。音楽が切れる。
考えていただきたい。
大方のあらすじに関係ないからと曲を削るのは、
演出上都合悪いからと曲を削るのは、
時間制約があったからと曲を削るのは、
是か非か?
たとえば、
ロッシーニの「セヴィリャの理髪師」。女中ベルタのアリア、筋に関係ないからと削るだろうか?
斬新な演出家ピーター・セラーズがザルツブルグで、ヘンデルのオラトリオ「テオドーラ」を、オラトリオにもかかわらず現代オペラ風に演出したときも、曲を削っただろうか?
ワーグナーの「指輪」。長いからと削るだろうか?
すべて「否」である。
現代演出を悪いとは思わない。それはそれで楽しめる。
だが、音楽あっての演出を忘れていただきたくない。
多様化した考え方が蔓延する現代社会で、現代風に取り組むオペラ演出は必要である。
が、そういう演出は、オペラ後進国に必要だろうか?まずオーソドックスな演出をもってその内容に理解を深め、次に読み替えという現代演出が必要とされるのではないだろうか?
「Ombra mai fu」が一人歩きしている「セルセ」の内容を熟知している人が、全4公演のお客様の中に何人いただろうか?
早く帰って、バイエルンのセルセを聴こう…。
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