ラルバ・ムジカーレ 活動日誌

アマチュア古楽アンサンブルのゆるい奮闘記。

音楽と美の迷宮

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大原御幸は、能の中でも極めて動きの少ない演目で、舞の類は一切無い。亡霊や神仏・魔物といった派手なキャラクターも現れない。語り謡いで淡々とストーリーが進行する。そんなこんなで、能の知識も古典の理解もほとんど持たない私には、時おり頭の中にうっすら白い霧が生じたりもするが、それでも音楽劇としては十分楽しいものだった。

能の開演前には舞台裏から「お調べ」が聴こえてくる。西洋音楽で言うところの序曲にあたるのだろうが、チューニングの要素も含んでいるので古い組曲のプレリュードの意味合いに近いかも知れない。囃子方(オケ)、続いて地謡(合唱)が舞台入りする手順は西洋の仕様と一緒。その後作り物(セット)が設けられ、登場人物(歌い手)の出を待つ。

大原御幸では、バチで打つ太鼓は登場しないが、大鼓方・小鼓方のふたりが、ソロの謡でも合唱の地謡でも音楽を支え、さながら通奏低音の役割を果たす。アダージョ部分では「ヨォ〜ホォ〜 "カッ" by大鼓」「お〜〜ぅ "ぽん" by小鼓」と情景を作り、アレグロ部分ではふたつの鼓が並走して曲を煽る。笛方はもちろんオブリガート、これが幅広い表情を見せる。また、オペラやオラトリオ同様、シテ(主演者)の謡い(アリア)が聴き所となる。

残念だったのは、肝心な言葉が半分も理解できなかった私の哀れな耳。あらかじめ話の概略が分かっていたので何とか単語から状況を判断できたが、今回のように語りが全ての作品を鑑賞するには不十分過ぎ。狂言に比べて言い回しが難しい上、面を付けた演者の声を聞き取るのに不慣れだ。だいたい主演者が面を付けているのだから、聞こえなきゃ話にならない。

耳が慣れてだんだん聞き取れるようになって来た頃には舞台もすっかり終盤。主人公建礼門院がまだ幼い我が子安徳天皇を船縁に連れて行き、「波の下には極楽があるから」と入水させた経緯を回想するシーン。それを語る建礼門院の動きと言えば、座ったまま聞き手である後白河法皇の側に少しばかり体を回す程度で、ただただ謡い続けるだけだが、これがたぶん物語のクライマックス。観客が、その時の建礼門院の気持ちを想って胸を痛めるであろう部分だ。

翌日は、哀れな耳が聞き逃したテキストを確認すべく謡本を入手しに本屋へ。公演は観世流だったにも関わらず自由価格本の宝生流を購入。何故って、2,310円と750円の差は大きいでしょう、内容も私にとっては大同小異だし……とはいえ、古学愛好家としては楽譜を選ぶのと同程度の慎重さがあるべきだったかもと、ちょっと反省もする。

えーと、このあたり(写真参照)だ。「安徳天皇の御手を取り船ばたに臨む、いづくへ行くぞと勅諚ありしに、此國と申すに逆臣多く、かくあさましき所なり、極楽世界と申して、めでたき所のあの波乃下にさむらうなれば、御幸なし奉らんと、泣く/\奏し給へば、さては心得たりと、東に向わせ給ひ、天照大神に御暇申させ給ひてまた・・・」結果亡くなってしまった安徳天皇の立場を考え、あらためて文面を読んでみると何とも理不尽な話ではある。

まぁ、西洋の音楽劇も、テキストだけ抜き出してみれば、多くの場合これより遥かに理不尽だったり馬鹿げていたりするものではあるが。


※引用 : 大原御幸 宝生流謡本 内七巻ノ三/宝生九郎 わんや書店

ガレ風のランプ

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合宿先のペンション・オーナーは何でもコレクター。
目を引いたのは、いくつかのガレ風のランプ。
もちろん美術館でオリジナルをじっくり眺めるのも良いが、
実用品として使われている様子に趣を感じる。

混雑必至の展覧会に行くときは、「夜間・平日・雪・初日」が良い。
話題のフェルメール展も、初日狙いで比較的ゆったりと見る事が出来た。

さて、フェルメールをはじめ、オランダのバロック美術を支えたのは
教会や王侯貴族ではなく裕福な市民たち。
だから、この時期のオランダ絵画にはしばしば彼らの日常の風景が描かれる。
そして、その中にはよく楽器が登場する。

で、今回展覧会場をひと回りして気付いたのだが、
絵の中に出てくる楽器は、チェンバロ、ヴァージナル、リュート、
そしてヴィオラ・ダ・ガンバ・・・いずれも通低楽器ばかり。
トランペットやヴァイオリンが登場するイタリア絵画と対照的である。
(まぁ、イタリア絵画では弾き手も人間でなかったりするが・・・)

ここに描かれた部屋でどんな音楽が聴こえていたのだろう。
えーと、オランダ・バロックの作曲家と言えば、
スウェーリンクとかヤコブ・ファン・エイクあたりか。なかなか渋い路線だ。

能に学ぶ姿勢と呼吸

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少し前の話になるが、能の稽古を一日だけ体験するイベントに参加する。
右も左も分からない素人なので、檜舞台を踏めただけでも嬉しい体験だった。

このイベントへの参加動機は日本美術がらみの興味からだったのだが、
舞台芸術である能楽における仕舞の姿勢と謡の呼吸が、
ヴァイオリン演奏にも役立ちそうだという収穫も得られたので、
その辺を、当日の稽古と後日得た情報なども交えて書いてみたい。

能の仕舞の基本姿勢は、おおむね以下のような手順で作れる。
 1) 足を揃えて立ち、軽く会釈をするように体を前傾させる。
 2) 膝を軽く曲げ、背骨をを強く反らせて顔が正面を向くようにする。
 3) 手は下げた状態で軽く握り、数字の 0 を作るように肘を左右に軽く張る。
実際にやってみると、思いのほか出っ尻ハト胸状態となり、
ヴァイオリンで習ったお尻を締めて立つ姿勢とはだいぶ様子が違うようだ。

ただ、ここで気になったポイントがひとつ。
姿勢を作る時に、「頭を天井から吊るされているような」意識を持つ事。
このフレーズは、ヴァイオリンのレッスンで言われたか、
バレエや舞踊に詳しい者から聞いたか、禅関連の書籍で読んだか、
雑誌の健康特集に載っていたか…、少なくとも一度ならず聞いた覚えがある。
体の重心を低く落として「頭を天から吊るされたような」姿勢を保てば、
脊椎が伸びアゴが後ろに引かれ、胸が広がり肩の力が抜ける。
器楽演奏とは立ち方のバランスの違いこそあれ、
身体の脱力状態を作るアプローチは芸事の基本であるらしい。

そして謡の呼吸は、予想していたとおり深い腹式呼吸。
いわゆる「丹田呼吸法」と呼ばれているものを用いた発声はかなり鋭い。
面を付けた状態で声を出すハンデを克服しなくてはならないからだろうか。
まぁ、ヴァイオリンを弾きながら謡う事もそうそう無いとは思うが、
しっかりした発声が出来る状態で弓を持つと、確かに楽器が良く響く。

脱力姿勢と腹式呼吸についてヴァイオリンのレッスンで指導を受けたのは、
ある程度楽器に馴染んでからの事だったと記憶しているが、
能楽では、体験講座の冒頭からそれに言及されるのが、妙に興味深く思えた。

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上は、国立博物館に展示されていた南北朝時代の千手観音菩薩坐像。
まぁ、ここまで沢山の手があっても困る事のほうが多いだろうけど、
ヴァイオリンでややこしい重音を弾くときなど、
あと一本指があれば…などと思った経験のある方も少なくないと思う。
そんな特別な身体的特徴を備えた人も世の中には存在はするようだが、
私を含めほとんどの人の場合、ヴァイオリンという楽器は、
5本ずつ指の付いた2本の腕で弾かれる。

確かに、左指がもう一本あれば厄介な重音を無理なく押さえたり、
シフトチェンジの頻度を減らす事も出来るだろう。
右腕がもう一本あれば、弓を2本持って複雑な運弓も自在に操れる。
何かと便利じゃないかとも思うのだが、どうだろうか。

実際、器楽を演奏する行為そのものは、全くもって運動神経の賜物だ。
しかし、器楽演奏の練習はフィジカルトレーニングではあるが、
それは筋力を鍛えるためではなく、体と脳を結びつける事が主な目的なので、
神経伝達の訓練と言った意味合いが強いと思う。

千手観音の手は、それぞれに異なる道具を持っている事もあり、
一本ずつ独立して動かす事が出来る事を意味している。
この辺の事情は、ムカデの脚とはだいぶ違うんじゃないだろうか。
1,000本の手を自由に操るには、2本の手を動かす500倍の脳も必要になる。

指や腕が余計にあっても命令系統が働かなければ意味が無い。
むしろ、命令系統さえ充実していれば、
2本の腕でも3本分あるいはそれ以上に働かせる事が出来るのではないか。
そんなこんなで、やっぱり地道な練習だけが千手観音への道なのだと思う。

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