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かって琵琶湖の100倍の面積を有した内陸塩水湖のアラル海。世界で4番目に大きな大きな湖でも人間の手でいとも簡単に砂漠にされてしまう証拠の衛星写真、この写真で白い部分はすべて砂漠で、かっては湖だった部分である。
ダム計画はアラル海を保存しようと試みる
太陽がアラル海に高く昇り地元の漁師アレックはボートを操舵して内海に出て網を水から引き上げる。きらめく水面が眩しい。網の中はコイ、チョウザメとヒラメでいっぱいだった。ちょうど2年前、彼はこの漁獲は夢にさえ見ることがができなかった
「すべてはダムのおかげだよ」彼は魚を船底のタンクに放り込みながら笑顔を見せる。アラル海のダムは6800万ドル(80億円)計画の一部だ。そして世界銀行からローンによって融資されカザフ政府によって始められている。それは世界の最悪の人工環境災害のうちの1つを逆にして、多くの人が決して元には戻らないと予測した海を元に戻そうとする野心的な仕事でもある。
「アラル海は自分では決して死ななかった、アラル海は殺されたのだ」と、アラルスク地域の知事であるナザルバジン・ムサバエフが言う。
『優雅に死んだ』
ムサバエフ氏はソ連政府が1960年代後期にどのようにウズベクの首都タシケントで本会議を開いたかについて覚えている。そしてその間、潅漑担当副大臣とソ連の水資源について地域の綿の生産を促進する政府計画について話した。二つの主な中央アジアの川、アムダリヤ川とシルダリヤ川はカザフスタンとウズベキスタンで綿の栽培を潅漑するために流れが変えられたと彼が言う。「しかし何がアラル海に起こったか」と観衆の誰かが叫んだ。「アラル海はゆっくり時間をかけて優雅に死んでいかなければならなかっただけだ」と副大臣が答えた。
災難
しかしアラル海lの終わりは決して優雅で上品でもなかった。ソ連による川の流れの変更によって起こった地域の激変は次のようになる。水源の極端な飢えが引き起こした海の変形は全体が縮んだので多くの漁師は彼らの船を北へ持って行かざるを得なくなった。そして砂漠が拡大していった。さらに気候を激変させ生態系を破壊して全ての種を根絶してしまった。その結果は数千人の地域住民は生きるために逃げ出さざるを得なかった。
毎年、残った漁師はさらに水のある地域へ移動しなければならず、そして毎年残った魚は益々減るばかりなのだ。縮んでいる海の砂漠化と上昇するばかりの塩濃度は砂漠の塩嵐をもたらした。貧血症とガンのような病気は地域に広まった。1990年代までに世界で4番目に最も大きな内陸の水の海は4分の1にその体積が縮んでしまった。今日、かつて繁栄した有名な釣りの名所のドゥズハンブルの村は灰色の砂漠の中央で埋もれたままになっている。錆びて骨格だけが残った船の残骸は地域を象徴するものに変わった。そこはかつてアラル海lで最も水深があった場所だった。
彼らの次の光景はラクダは灰色の砂の上で草を食べている。砂漠の草は黄色く枯れていて見た目にもおいしそうではない。
将来の望み
ドゥハンブルの漁師のジャルカスバイはここの生活が非常に異なった日を覚えている。「全ての私の幼児期Iは父と私の兄弟と釣りをしに行っていた、しかし、私の息子は海なしで育ち海を知らない」とジャルカスバイが言う。「しかし現在、私は私の孫には漁師になる機会があることを強く望んでいる」。ジャルカスバイが私を連れていった彼の仕事場までは車で砂漠を渡った6時間のドライブをしたところにあった。しかし今は遠くても彼には漁師の仕事は合っていて将来の望みに託している。
最近建設された総延長13kmのダムはアラル海を2つの海に分けた。しかしダムは全ての問題を解決したわけではない。ウズベク側では南部海側は縮み続けている。しかし、それはもはやカザフスタンの問題ではないと彼は付け加えた。カザフスタンではダムは川の水を北に押し戻しアラル海まで供給させた、その結果海は砂漠に再び浸透した。カザフ当局は水の40%がすでに帰っきたと言う。漁師は彼らの船に戻っている、雲と雨は戻ってきた。
ダムからしばらく車で行くと一群の漁師キャンプが岸のそばでテントを張っている。ジャンンドス・クマノフは全ての冬をここで過ごした。海はあまりにも彼の故郷の村からまだ遠すぎる、しかし魚は急激に増加しているのでこの旅行を価値あるものにしている。「この2年で私の人生はより安楽になったよ」と彼が言う。「漁師が現在コンクリートでビルを建設している、車を買ったり大きい都市に彼らの子供たちを学校に通わせているのを見ることができる」。そしてそれはすべての借金を返せるかもしれない。
新しい1億2600万ドルの世界銀行ローンを使って政府は現在、彼らがアラルスクの港に水を呼び戻す計画で第2のダムを建設する予定だ。「海の港は消滅してしまった、しかしそれは我々の心から永遠に港が消え去ったわけではない」と干からびたアラルスク港の荒廃した光景を見ながら彼が言った。ダムは北アラル海の厳しい荒れた地方の町の40%のアラルスク地方の発展を助ける作用をも海岸線たらす。そしてアラルに沿って最も大きい港に海岸線が帰ってくる。
アラルlは港から離れていてまだ少なくとも40kmはある、しかし第2ステージでの計画では2010年までには海岸線を呼び戻すと政府が言う。これはアラルスクの誰でもが期待していることである。一団の学校の男子生徒がアラルスク港に捨てられた船を上がって行った。彼らの中のバウルザンと呼ばれている11才の少年は彼が祖父からアラルについて聞かされたが、実際に海をこれまで見たことがないと言う。「しかしそれは絶対に見られるさ」とバウルザンが言う。「海は必ずすぐに戻ってくるから、それは僕のおじいちゃんが言ったし僕はおじいちゃんを信じているから」。
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ぬうう、人間の破壊力は凄まじい。復活の兆しがあるのは、まだ救いがあるが・・・。しかし、人間は人間の好きな自然しか元には戻さないし、保護しない。絶滅した種が還ってくる訳でもない。一度失われた自然は、2度とは帰らない。
2007/4/11(水) 午前 7:23
日進月歩も色々で、昔習った地理は、全く通用しない程変わってきているのは、誰もが承知の所だが、政策による自然破壊が世界地図を塗り替えるのは悲しい事ですね。自然は力強いから、早い対策は功を奏すでしょう
2007/4/11(水) 午後 11:24 [ きさら ]
水豊ダムは、朝鮮半島が日本の統治下であった1937年に満州国と朝鮮の電力確保の為、建設が開始された。
建設されたのは鴨緑江下流の平安北道新義州府から80Km地点の日満国境であった。 湛水面積は日本の琵琶湖のほぼ半分に相当し、総工費は約5億円である。
なお、この金額は同時代に構想されていた「東京・下関間新幹線」に匹敵する巨額であり、その費用は当時朝鮮半島でも一大重化学企業であった朝鮮窒素肥料(朝鮮窒素)(現在の水俣病で有名なチッソ)が負担した。
太平洋戦争の泥沼化の中、1944年3月、水豊水力発電所(発電能力:60万kW)と共に竣工した。
7基の発電機は各々約10万kWの発電能力を持っていたが、当時世界最大級の能力であり、製造を受注した東芝は製造のために新工場を建設したという。
1945年8月9日、ソ連軍侵攻により、7基の発電機のうち5基の略奪にあう。略奪された発電機は、カザフスタン共和国、イリティッシュ川上流のダムで確認されている。
2012/6/16(土) 午後 9:13 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]