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1960年3月私は移住船アルゼンチナ丸に乗り込んで日本を後にした。目指すのは日本と反対側の南米ブラジルである、日本は有名な「棄民政策」で多数の国民を海外に捨てていた、私の義兄もその政府宣伝に応募し南米行きが決定した、私たちは一時神戸に集められた、そこに移住者のための宿泊施設が用意されていた。 船に乗り込むとある有名人が乗っていた「丹下キヨ子」女優でタレントの走りだった、当時すでに40歳で二人の娘を連れてのブラジル行きだった、なぜ彼女がブラジル移住を決心したのか不明である、一時の気の迷いとしか考えられない、その後ブラジルで日系二世と一緒になり1女を設けたがその後帰国している。私はサンパウロで丹下の長女と知り合いになった、長女は丹下節子と名乗りサンパウロで日本食レストラを経営していた、どういう理由で尋ねたか忘れたが同船者であり奇遇だと思った、その後帰国してから新宿でこれまた次女と知り合いになった、偶然としても奇妙な取り合わせではないか、丹下と長女と次女どう考えてもおかしい、不思議な縁だった。丹下本人は1998年に心不全で亡くなっていた、享年78歳だった。 ブラジルは私がイメージしていたのとはまったく別の世界でそこは西洋文明の世界だった、白人が威張っていて黒人はへいこらしていた、そして日本人がいた。日本人は集まってもとにかく仲が悪い、喧嘩は日常茶飯事でこれを日系社会と呼ぶ、私は喧嘩に閉口して日系社会から距離を置いた、自分が見えなくなる恐れを感じたからである。その後来日していた妻と知り合い結婚した、妻は白人系ブラジル人で子供が二人いた、その子供も二人とも日本に呼び寄せ「親子の絆」を交わした。 その子供は長男はブラジルに帰国した、長女は日本でアメリカ兵と結婚現在はロサンジェルスに住んでいる。妻と結婚して私は日本女性との結婚は無理だったと気がついた、日本女性は不可解で私の中に入り込めないのである、あまりにも早く日本を離れて私は日本女性不信感に捕らわれていた、日本を離れたのも日本が嫌いでそれで何処でもいいから海外と考えてそれでブラジル行きが転がり込んできた。随分ひねくれた子供だったと思う、しかし性格は今更変えられない、これでやっていくしかないと思っている。
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雑記帳
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